「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、山梨県立文学館館長を2013年まで務められていた。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、東京の超高層ビルについて、そして聖路加病院の再開発へと話が進む。
「再開発、アーバンデザインのかけごえのもとに、いたるところであらたな都市計画がすすめられてきた。いまなお進行中のところも多いが、それを考えると、東京はいったいどんなことになるのだろう。東京ぱかりでなく、千葉県も、埼玉県、神奈川県もおなじである。東京圏とよばれる一帯は、どうしようもないくらいに変貌しているのである。」
この連載は、冒頭にあるように1990年代に書かれたものだ。ほぼ20年が経過しているので、過去の話になっている部分もあれば、今なお進行している話もあったりする。長い時間の掛かる計画が、この頃に始まっていて、今その全貌が出来上がりつつある様な話も出て来て、それはそれで感慨深いものがある。
「変貌の大きな要因は高層ビル、超高層ピルの出現だった。昭和四十三年に霞ヶ関ビルが建ち、浜松町に世界貿易センターピルが、新宿西口に京王プラザホテルが出来たころまではものめずらしかったが、新宿のようにかたまってのっぽピルが建ちはじめると、その下を歩いているだけで圧迫感を感ずるようになった。
都庁の立ち去った丸の内はどうなるのだろう。その跡地から江戸時代の遺構・遺物が出てきて、しきりと掘りかえしているありさまを、私ほとなりのピルからのぞいたことがあったが、そこも再開発の波にさらされる様子である。三菱による明治・大正の開発、戦後の煉瓦街のとりこわしと再建というふうに考えると、わずか百年のうちに三度も衣がえすることになる。」
霞が関ビルが出来た時の騒ぎや、世界貿易センタービル、そして京王プラザホテル辺りまでの、物珍しい感じと高さの記録を更新していていくことに対する興奮というのは、私も覚えている。それでも、京王プラザホテルができても、周辺に次々と超高層ビルが建ち始めるまでは、浄水場跡地の広大な荒野のような趣があって、私はまだ子どもだったのであまり行きたいとも思わなかったことを思い出す。その後に、一気に超高層が建ち並ぶ様になり、あの辺りの雰囲気が一気に変わっていったものだった。それでも、目新しさが失われてくる時期になると、新宿の超高層ビルにはいささか怪しげな会社も入る様になっていき、それがまた何とも複雑な胡散臭さを醸し出していたモノだった。
都庁の移転で、新宿はほぼ今日の姿になっていったのだが、それが元々あった東京駅の南側エリアは元々大きな武家屋敷のあったところなので、その調査が行われていたことが上記の話である。それにしても、三菱村といわれた丸の内界隈、その開発を担って建ててきた一号館なども大事にすることなく取り壊しておいて、超高層ビル街にする中で町の特色も失うことに気付いたかのように再建して見せたというのも、何とも見ていて複雑な思いを抱く。
丸の内周辺で、再開発計画として容積率を二倍に引き上げて、超高層ビル街へと変貌させる計画が三十年計画で進められていると出ていたのだが、現在ではほぼそれが形になっているわけである。都庁跡の東京国際フォーラムにはじまり、丸ビルの新旧だけではなく、三菱ヶ原のビルのほとんどが超高層に建て替えられている。一見、昔のままの様に見えても、それは外壁だけでその実態は失われている。東京駅丸の内駅舎の保存復元も、この容積率のマジックで費用を生みだして行われた事業だ。
私は、現在の丸の内が以前と比べて魅力溢れる町になったとは思っていない。どこかで見た様な店をかき集めて、中途半端なショッピングゾーンを付け足して、どこにでもあるようなガラス張りの高層ビルを建てまくっただけではないのか、と思えてしまう。床面積を拡大して、より多くの企業を誘致して、そういう話ばかりで良かったのだろうか?
丸の内という土地は、日本の中では独特の雰囲気を持っていたし、そこに本社を構えると言うだけでもステータスだと言われてきたところだ。サラ金の会社が大手町に本社を置いた時には、批判があったことを覚えている。
こんな時代だからといって安直な拡大主義で、三井が日本橋を、そして丸の内は三菱、という時代錯誤の対抗意識と目先の利益でやり合ったことがそれぞれの町をより良くしていくのかと言えば、私は相当に疑問だと思っている。是非とも、私の懐疑を吹き飛ばすような本当に魅力のある都市計画を見せて欲しいものだ、と今も思っている。
「ところが、完成の暁にはどんな光景になるのだろう。そのイメージ図をみると、四角のひょろ長い物体がにょきにょき立ち並んでいる。それを美とみるか、醜とうけとるか、それはその人の感性によるとしかいいようがない。私たちの孫の代にはおそるべき“現実”が待ちかまえているような気もする。」
そして、そのイメージ図が現実になっているのが、現在だ。はたして、美と呼べる町が出来たのだろうか?
「築地明石町聖路加病院の再開発がきまったのは、昭和四十九年、消防法が改正されてからである。明治三十五年、旧外人居留地の一角にアメリカ人宣教医師トイスラーによって建てられたこの病院は、昭和七年に立教中学の跡地に移り、八年には国際病院として完成した。建物中央の尖塔に十字架のあるのが特色だった。築地界隈を歩いていて、どこからとなくそれを見上げることができた。
このあたりは戦災を蒙らなかった場所である。しかし、私の記憶するかぎり、戦後はなんとなく寂れていた。悪名高いカミソリ堤防が出来てからは、隅田川べりを歩いても川面は見えず、荒れたままの閑地だとおもっていた。この連載で明石町を書いたときも歩いてみたが、堤防の頭の上にコンクリートがのしかかってくるのであった。」
このブログでも、1980年代の明石町の様子を掲載している。あの頃の明石町は、たしかにちょっとうら寂しい雰囲気だった。老朽化した聖路加病院が、鬱蒼とした雰囲気を増していたことを覚えている。さらに言えば、築地の裏手辺りは場外の延長といった趣もあって、水産加工品の工場があったり、中小零細企業が数多くある町でもあった。
聖路加病院があったことで、明石町から築地に掛けてのエリアは空襲を受けていない。聖路加病院の教会の尖塔が東京を爆撃する時の目標になっていて、そこを通過して爆弾の投下を始めた、という話も聞いたことがある。そのタイミングで爆撃を始めると、銀座辺りから爆弾が落ちるようになるのだそうだ。
「聖路加ガーデンの良さを教えてくれたのは、編集長の喜多君だった。八丁堀生まれの彼としては、この再開発をことのほかよろこんでいるようにみえた。十字架のある病院には少年時代からの親しみがあって、いま、腰痛の治療にかようときなどは、郷里をたずねるような面持である。
ところが昨年は、おもわぬ大事件に遭遇した。あの忌々しいオウム真理教のサリン騒動である。東西線の茅場町駅で日比谷線に乗換え、築地に行こうとしていたところ、電車は日本橋で動かなくなった。やむを得ずタクシーで聖路加病院に行ったところ、院内は騒然としていて、医師は全員あつまれ、外来患者の診察はおくれるとの放送をきいた。いったい何がおこったのか、わからなかった。担架で被害者がぞくぞくと運ばれてきて、廊下は彼らで埋まってしまった。テレピの画面で怖るぺき殺人計画を知ったというのだが、もし十分でも早く家を出ていたらどうなっていたことか、と彼ほその朝の築地地区と病院の混乱ぶりをおもいおこすのである。」
オウム真理教による地下鉄サリン事件から、今年で20年が経過した。あの時のことは、私も生々しく覚えているが、大都会の地下鉄での事件であっただけに、こんな風に間一髪で難を逃れたという人も数多く存在していたことだろう。そして、この事件への対応で一躍知られることとなったのだが、この聖路加病院の新しい建物は普通の病院ではない。今も健在で、長寿で著名な名誉院長日野原氏の方針により、廊下やホールなどの施設が緊急時に大量の患者を受け入れて治療が行えるようにできている。過剰投資だという批判のある中、出来上がったばかりのこのタイミングで地下鉄サリン事件が起こり、多くの被害者を迅速に治療することができた。東京大空襲時に充分な医療ができなかったという、日野原氏の想いからこうした設備がされているのだが、今後東京での大震災などもいつかは起きることが予測されているわけで、こうした野戦病院のような緊急対応体制が取れることは非常に重要なことだといえるだろう。だが、この後に建設された病院で、同様の施設を備えたという話は残念ながら聞いたことがない。
「私は聖路加ガーデンの入口をはいって一階の商店・食堂をひとまわりしてから、エスカレーターで二階に上ってみた。そこには二つの建物の中間の大屋根広場があって、前方は隅田川に両している。そして水辺に近づくことができる。
「あっ、カミソリ堤防がない」
はじめて気づいたのはこのことであった。堤防のそばを歩いたときの不愉快な記憶は消えないが、この第三街区は二つの高層ビルをつくることによって、戦後の汚点を隠すかたちとなった。いま、隅田川の両岸では親水遊歩道なるものがつくられて、川べりにおりられるようになったが、カミソリ堤防はまだ多く残っている。ここではそれが完全に消えているのである。戦後復輿から東京オリンピックヘの時代、なにもかも突貫工事ばかりで、都市風景、都市景観などを考えるこころのゆとりがなかったといえるのだが、大きな空間、滔々たる水の流れをみて、喜多君のいう聖路加ガーデンの良さがすぐのみこめたのである。
エレベーターで四十七階に登ってみた。眼下に月島、右、ひだりに勝闘橋と佃大橋が小さくみえる。隅田川河口部の全体を判然と見下したのははじめてであった。深川や本所、そしてはるかに浦安、房総の山々。有明や東雲や辰巳の埋立地、それは埋立地という表現が不適なほどに、あたらしい堂々たる都市である。私の記憶にある埋立時のありさまは消えることがないとしても、一見して東京は変ったというおもいにかられてしまう。右へまわると、魚市場、浜離宮のさきに大きな建物が林立している。さらに右へ眼をむけると、東京という巨大な化物が延々とつながって新宿、池袋まで見渡せるのであった。
ささやかな展望室であった。入場料をとらず、さりげなく東京風景をみてせくれるのか好ましかった。」
私も、聖路加ガーデンの周辺には何度か行っている。隅田川の親水テラスにも出てみたこともある。それでも、激しく変わった超高層ビルの中には足を踏み入れずに帰ってしまった。こうして、聖路加の再開発が、ほかの町とは少々違う色合いで出来上がっていることを教えられると、今度はもう少し丁寧に中に入って見てこようかという気持になっている。親水テラスは気持ちが良くて、隅田川と東京湾が境目を曖昧にしながら混じり合うような広大な水面を眺めているだけでも飽きることがないと思っていた。正面には、佃島と石川島、そして月島も広がっている。今は一繋がりになって、その境界も判然としない大きな陸地なのだが。高層ビルの上に登れば、その向こうに広がるお台場の景色まで一望できることは分かる。こうして書いてみていても、ちょっと行って見たいような気持になってきた。
「さて、となりのビルに行こうとして、二十八階から「高層ブリッジ」というものを渡ってみた。レジデンス棟の三十二階、ホテルのロピーにつながるという渡り廊下である。「伸び緒みするブリッジ」だそうで、つぎの説明文があった。
「大きな地震で建物かゆれるときにも、安全に通行できる仕組みです。全体の骨組みは、片方を軸で、他方を車輸で、両側の建物につながれており、建物の揺れに合せて動くことが可能です。
床は骨組みの中のレールに載っており、自由に伸び縮みできるよう分割されています。バンタグラフでつなが0れているため、揺れは各階の床で均等に分散され、小さな動きとなります。」
こののっぽピルには設計施工者の優しさがこもっているようにみえる。地上の騒々しさにくわえて、ところせましとぱかりに林立するのっぽビルよりは、安らかな空間がある。水辺はなつかしく、郷愁をそそらずにはおかない。私はそんな想いをいだきながら、またエレベーターに乗った。
喜多君にそれを電話でつたえると、
「そうだ、そうだ。あそこは安らぎの高層ビルだ。」
とんな返事がかえってきた。」
それにしても、近藤氏も前半では丸の内の再開発に懐疑的な雰囲気であったのに、聖路加ガーデンは絶賛されているのが面白い。隅田川のカミソリ堤防という代物がどれほど、川に親しんできた人たちから嫌悪されているのかと言うことも、今回のことでより痛切に感じることができた。私の祖母の姉は、明治に日本橋横山町で生まれた。彼女が幼い内に秋葉原へと移っていったのだが、横山町時代の家の中の雰囲気であったのか、老境に入った晩年に書き残したものにも「大川の水でケツを洗ったような気分」なんていう言い回しが出て来て、隅田川に近い町で暮らすことと川への愛着というものが、想像する以上に大きなものであったことを感じたことがある。
そんなことと、何時起きるのか誰にも分からない時のための備えをしている病院であることを思うと、東京で行われているあまたの再開発とは違う毛色を持っていると言う話にも、そうかも知れないと私にも思えるものがある。いずれ、ゆっくりと見て回ってこようと思う。
「再開発、アーバンデザインのかけごえのもとに、いたるところであらたな都市計画がすすめられてきた。いまなお進行中のところも多いが、それを考えると、東京はいったいどんなことになるのだろう。東京ぱかりでなく、千葉県も、埼玉県、神奈川県もおなじである。東京圏とよばれる一帯は、どうしようもないくらいに変貌しているのである。」
この連載は、冒頭にあるように1990年代に書かれたものだ。ほぼ20年が経過しているので、過去の話になっている部分もあれば、今なお進行している話もあったりする。長い時間の掛かる計画が、この頃に始まっていて、今その全貌が出来上がりつつある様な話も出て来て、それはそれで感慨深いものがある。
「変貌の大きな要因は高層ビル、超高層ピルの出現だった。昭和四十三年に霞ヶ関ビルが建ち、浜松町に世界貿易センターピルが、新宿西口に京王プラザホテルが出来たころまではものめずらしかったが、新宿のようにかたまってのっぽピルが建ちはじめると、その下を歩いているだけで圧迫感を感ずるようになった。
都庁の立ち去った丸の内はどうなるのだろう。その跡地から江戸時代の遺構・遺物が出てきて、しきりと掘りかえしているありさまを、私ほとなりのピルからのぞいたことがあったが、そこも再開発の波にさらされる様子である。三菱による明治・大正の開発、戦後の煉瓦街のとりこわしと再建というふうに考えると、わずか百年のうちに三度も衣がえすることになる。」
霞が関ビルが出来た時の騒ぎや、世界貿易センタービル、そして京王プラザホテル辺りまでの、物珍しい感じと高さの記録を更新していていくことに対する興奮というのは、私も覚えている。それでも、京王プラザホテルができても、周辺に次々と超高層ビルが建ち始めるまでは、浄水場跡地の広大な荒野のような趣があって、私はまだ子どもだったのであまり行きたいとも思わなかったことを思い出す。その後に、一気に超高層が建ち並ぶ様になり、あの辺りの雰囲気が一気に変わっていったものだった。それでも、目新しさが失われてくる時期になると、新宿の超高層ビルにはいささか怪しげな会社も入る様になっていき、それがまた何とも複雑な胡散臭さを醸し出していたモノだった。
都庁の移転で、新宿はほぼ今日の姿になっていったのだが、それが元々あった東京駅の南側エリアは元々大きな武家屋敷のあったところなので、その調査が行われていたことが上記の話である。それにしても、三菱村といわれた丸の内界隈、その開発を担って建ててきた一号館なども大事にすることなく取り壊しておいて、超高層ビル街にする中で町の特色も失うことに気付いたかのように再建して見せたというのも、何とも見ていて複雑な思いを抱く。
丸の内周辺で、再開発計画として容積率を二倍に引き上げて、超高層ビル街へと変貌させる計画が三十年計画で進められていると出ていたのだが、現在ではほぼそれが形になっているわけである。都庁跡の東京国際フォーラムにはじまり、丸ビルの新旧だけではなく、三菱ヶ原のビルのほとんどが超高層に建て替えられている。一見、昔のままの様に見えても、それは外壁だけでその実態は失われている。東京駅丸の内駅舎の保存復元も、この容積率のマジックで費用を生みだして行われた事業だ。
私は、現在の丸の内が以前と比べて魅力溢れる町になったとは思っていない。どこかで見た様な店をかき集めて、中途半端なショッピングゾーンを付け足して、どこにでもあるようなガラス張りの高層ビルを建てまくっただけではないのか、と思えてしまう。床面積を拡大して、より多くの企業を誘致して、そういう話ばかりで良かったのだろうか?
丸の内という土地は、日本の中では独特の雰囲気を持っていたし、そこに本社を構えると言うだけでもステータスだと言われてきたところだ。サラ金の会社が大手町に本社を置いた時には、批判があったことを覚えている。
こんな時代だからといって安直な拡大主義で、三井が日本橋を、そして丸の内は三菱、という時代錯誤の対抗意識と目先の利益でやり合ったことがそれぞれの町をより良くしていくのかと言えば、私は相当に疑問だと思っている。是非とも、私の懐疑を吹き飛ばすような本当に魅力のある都市計画を見せて欲しいものだ、と今も思っている。
「ところが、完成の暁にはどんな光景になるのだろう。そのイメージ図をみると、四角のひょろ長い物体がにょきにょき立ち並んでいる。それを美とみるか、醜とうけとるか、それはその人の感性によるとしかいいようがない。私たちの孫の代にはおそるべき“現実”が待ちかまえているような気もする。」
そして、そのイメージ図が現実になっているのが、現在だ。はたして、美と呼べる町が出来たのだろうか?
「築地明石町聖路加病院の再開発がきまったのは、昭和四十九年、消防法が改正されてからである。明治三十五年、旧外人居留地の一角にアメリカ人宣教医師トイスラーによって建てられたこの病院は、昭和七年に立教中学の跡地に移り、八年には国際病院として完成した。建物中央の尖塔に十字架のあるのが特色だった。築地界隈を歩いていて、どこからとなくそれを見上げることができた。
このあたりは戦災を蒙らなかった場所である。しかし、私の記憶するかぎり、戦後はなんとなく寂れていた。悪名高いカミソリ堤防が出来てからは、隅田川べりを歩いても川面は見えず、荒れたままの閑地だとおもっていた。この連載で明石町を書いたときも歩いてみたが、堤防の頭の上にコンクリートがのしかかってくるのであった。」
このブログでも、1980年代の明石町の様子を掲載している。あの頃の明石町は、たしかにちょっとうら寂しい雰囲気だった。老朽化した聖路加病院が、鬱蒼とした雰囲気を増していたことを覚えている。さらに言えば、築地の裏手辺りは場外の延長といった趣もあって、水産加工品の工場があったり、中小零細企業が数多くある町でもあった。
聖路加病院があったことで、明石町から築地に掛けてのエリアは空襲を受けていない。聖路加病院の教会の尖塔が東京を爆撃する時の目標になっていて、そこを通過して爆弾の投下を始めた、という話も聞いたことがある。そのタイミングで爆撃を始めると、銀座辺りから爆弾が落ちるようになるのだそうだ。
「聖路加ガーデンの良さを教えてくれたのは、編集長の喜多君だった。八丁堀生まれの彼としては、この再開発をことのほかよろこんでいるようにみえた。十字架のある病院には少年時代からの親しみがあって、いま、腰痛の治療にかようときなどは、郷里をたずねるような面持である。
ところが昨年は、おもわぬ大事件に遭遇した。あの忌々しいオウム真理教のサリン騒動である。東西線の茅場町駅で日比谷線に乗換え、築地に行こうとしていたところ、電車は日本橋で動かなくなった。やむを得ずタクシーで聖路加病院に行ったところ、院内は騒然としていて、医師は全員あつまれ、外来患者の診察はおくれるとの放送をきいた。いったい何がおこったのか、わからなかった。担架で被害者がぞくぞくと運ばれてきて、廊下は彼らで埋まってしまった。テレピの画面で怖るぺき殺人計画を知ったというのだが、もし十分でも早く家を出ていたらどうなっていたことか、と彼ほその朝の築地地区と病院の混乱ぶりをおもいおこすのである。」
オウム真理教による地下鉄サリン事件から、今年で20年が経過した。あの時のことは、私も生々しく覚えているが、大都会の地下鉄での事件であっただけに、こんな風に間一髪で難を逃れたという人も数多く存在していたことだろう。そして、この事件への対応で一躍知られることとなったのだが、この聖路加病院の新しい建物は普通の病院ではない。今も健在で、長寿で著名な名誉院長日野原氏の方針により、廊下やホールなどの施設が緊急時に大量の患者を受け入れて治療が行えるようにできている。過剰投資だという批判のある中、出来上がったばかりのこのタイミングで地下鉄サリン事件が起こり、多くの被害者を迅速に治療することができた。東京大空襲時に充分な医療ができなかったという、日野原氏の想いからこうした設備がされているのだが、今後東京での大震災などもいつかは起きることが予測されているわけで、こうした野戦病院のような緊急対応体制が取れることは非常に重要なことだといえるだろう。だが、この後に建設された病院で、同様の施設を備えたという話は残念ながら聞いたことがない。
「私は聖路加ガーデンの入口をはいって一階の商店・食堂をひとまわりしてから、エスカレーターで二階に上ってみた。そこには二つの建物の中間の大屋根広場があって、前方は隅田川に両している。そして水辺に近づくことができる。
「あっ、カミソリ堤防がない」
はじめて気づいたのはこのことであった。堤防のそばを歩いたときの不愉快な記憶は消えないが、この第三街区は二つの高層ビルをつくることによって、戦後の汚点を隠すかたちとなった。いま、隅田川の両岸では親水遊歩道なるものがつくられて、川べりにおりられるようになったが、カミソリ堤防はまだ多く残っている。ここではそれが完全に消えているのである。戦後復輿から東京オリンピックヘの時代、なにもかも突貫工事ばかりで、都市風景、都市景観などを考えるこころのゆとりがなかったといえるのだが、大きな空間、滔々たる水の流れをみて、喜多君のいう聖路加ガーデンの良さがすぐのみこめたのである。
エレベーターで四十七階に登ってみた。眼下に月島、右、ひだりに勝闘橋と佃大橋が小さくみえる。隅田川河口部の全体を判然と見下したのははじめてであった。深川や本所、そしてはるかに浦安、房総の山々。有明や東雲や辰巳の埋立地、それは埋立地という表現が不適なほどに、あたらしい堂々たる都市である。私の記憶にある埋立時のありさまは消えることがないとしても、一見して東京は変ったというおもいにかられてしまう。右へまわると、魚市場、浜離宮のさきに大きな建物が林立している。さらに右へ眼をむけると、東京という巨大な化物が延々とつながって新宿、池袋まで見渡せるのであった。
ささやかな展望室であった。入場料をとらず、さりげなく東京風景をみてせくれるのか好ましかった。」
私も、聖路加ガーデンの周辺には何度か行っている。隅田川の親水テラスにも出てみたこともある。それでも、激しく変わった超高層ビルの中には足を踏み入れずに帰ってしまった。こうして、聖路加の再開発が、ほかの町とは少々違う色合いで出来上がっていることを教えられると、今度はもう少し丁寧に中に入って見てこようかという気持になっている。親水テラスは気持ちが良くて、隅田川と東京湾が境目を曖昧にしながら混じり合うような広大な水面を眺めているだけでも飽きることがないと思っていた。正面には、佃島と石川島、そして月島も広がっている。今は一繋がりになって、その境界も判然としない大きな陸地なのだが。高層ビルの上に登れば、その向こうに広がるお台場の景色まで一望できることは分かる。こうして書いてみていても、ちょっと行って見たいような気持になってきた。
「さて、となりのビルに行こうとして、二十八階から「高層ブリッジ」というものを渡ってみた。レジデンス棟の三十二階、ホテルのロピーにつながるという渡り廊下である。「伸び緒みするブリッジ」だそうで、つぎの説明文があった。
「大きな地震で建物かゆれるときにも、安全に通行できる仕組みです。全体の骨組みは、片方を軸で、他方を車輸で、両側の建物につながれており、建物の揺れに合せて動くことが可能です。
床は骨組みの中のレールに載っており、自由に伸び縮みできるよう分割されています。バンタグラフでつなが0れているため、揺れは各階の床で均等に分散され、小さな動きとなります。」
こののっぽピルには設計施工者の優しさがこもっているようにみえる。地上の騒々しさにくわえて、ところせましとぱかりに林立するのっぽビルよりは、安らかな空間がある。水辺はなつかしく、郷愁をそそらずにはおかない。私はそんな想いをいだきながら、またエレベーターに乗った。
喜多君にそれを電話でつたえると、
「そうだ、そうだ。あそこは安らぎの高層ビルだ。」
とんな返事がかえってきた。」
それにしても、近藤氏も前半では丸の内の再開発に懐疑的な雰囲気であったのに、聖路加ガーデンは絶賛されているのが面白い。隅田川のカミソリ堤防という代物がどれほど、川に親しんできた人たちから嫌悪されているのかと言うことも、今回のことでより痛切に感じることができた。私の祖母の姉は、明治に日本橋横山町で生まれた。彼女が幼い内に秋葉原へと移っていったのだが、横山町時代の家の中の雰囲気であったのか、老境に入った晩年に書き残したものにも「大川の水でケツを洗ったような気分」なんていう言い回しが出て来て、隅田川に近い町で暮らすことと川への愛着というものが、想像する以上に大きなものであったことを感じたことがある。
そんなことと、何時起きるのか誰にも分からない時のための備えをしている病院であることを思うと、東京で行われているあまたの再開発とは違う毛色を持っていると言う話にも、そうかも知れないと私にも思えるものがある。いずれ、ゆっくりと見て回ってこようと思う。
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