東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

文京区湯島

2011-05-05 20:04:06 | 文京区
今回はは文京区湯島。順番としては神田明神裏辺りから入っていって、中を歩き回ってから湯島天神を通り抜けて女坂を下ったという感じ。町名は元々の湯島に旧町名が湯島新花町・湯島切通坂町・湯島両門町・湯島三組町・湯島梅園町・湯島天神町一丁目~三丁目・湯島同朋町・湯島切通町・妻恋町・龍岡町が合わさった。撮影日は1981年9月3日、1982年2月13日と16日。最初の撮影では35mmで撮影して、翌年はミノルタ・オートコードで6x6で撮影した。実は一カットだけ4x5で撮影しているのだが、ネガがあるものの記録が残していなくて撮影日などがよく分からない。1982年中の撮影であったはず。現在の画像は2010年10月29日31日と11月3日17日19日に撮影。

さて、この湯島、元々が武家地だったところが住宅地になっていて、しかも戦災で焼けているので,さほど面白みは少ない。当時はその辺りもよく知らずにいたのだが、医療機器の会社などが多いのは今も変わらない。湯島天神の門前には花街があり、料亭が軒を連ねていたというが、その名残がラブホテルが多いということだったのかもしれない。だが、湯島を歩いた最大の収穫は天神下にあった。天神下は震災と戦災の二つの東京を襲った大きな災厄を免れた数少ないエリアで、明治期に建てられた木造建築が建ち並ぶ一角であった。この頃は江戸から続いた町の雰囲気を色濃く残していたと言える。今はそれも失われつつあるのがとても残念なことだと思う。

三丁目7番。まずは蔵前橋通りの妻恋坂から入った辺り。微妙なアンジュレーションが坂の町湯島らしい。右手の家は今も健在である。


二丁目8番。そこから一旦逸れて、小平記念病院を回り込んで,更に行った辺りの一角。右手の家は今も健在。左側のコスモスは今は無い。


三丁目10番。その直ぐ近く。東京科研は医療機器の会社、今は違う場所のビルの中にあるようだ。今はマンション。奥の方の左側に湯島御魂社という神社がある。


三丁目7番。そして、元の通りに戻って来て進んだところ。鍛冶商という看板が珍しい。このビルは今でもあるが、営業はされていない。その後、神田紺屋町で鍛冶商という会社の看板を見たが、同じ会社なのだろうか。向かい側の御屋敷は今は駐車場になっている。小平記念病院の裏手に当たる通り。神田紺屋町の看板のカットも。


二丁目24番。前の写真の通りをそのまま行くと三組坂の途中に出るので坂上まで上がり、文京区立湯島小学校の横の道へ入って振り返ったところ。石井商店は駐車場になっている。こんなパン屋さん、どこの町内にもあったのだが...。


二丁目20番。その道を進んで行くとこんな感じ。板塀に柳。こんな雰囲気が湯島らしい。今は東京健保会館のビルが建っている。


二丁目26番。「みつかわ」はかつての料亭。今も健在でうどんすきを食べさせてくれる店。湯島の料亭の面影を残す貴重な店である。左側はマンションが建っていて、この写真の雰囲気とはかなり変わってしまっている。


二丁目32番。これは前の写真から二本先の通りだと思われる。今はマンションになっている。黒い板塀に庭木の茂り具合、これも湯島というイメージにぴったりだと思った。


四丁目11番。春日通りを越えて、湯島の一番奥へと入ったところ。無縁坂の上で左の塀は旧岩崎邸である。この辺りも武家地から住宅街へと変わった雰囲気が少し残っていた。右角は今はマンションが建っている。


四丁目4番。来た道を少し引き返して横に逸れた辺り。右手の植え込みの中は文京区立総合体育館である。この中に屋内プールがあり、私は小学生の頃に水泳教室に毎週土曜日の夕方から通っていた想い出がある。左手の家は今は建て直されている。


四丁目5番。春日通りへ出る途中の家。今はここも建て直されている。消火器の入れ物にある「切通坂町会」の切通坂は春日通りの坂の名からこの辺りの旧町名であった。


三丁目30番。再び春日通りを越えて湯島天神を抜けたところ。女坂の上からの眺め。春日通りの辺りにはマンションが建ち並んでいるが、その手前には昔ながらの木造の建物の町である。


三丁目31番と32番の間。女坂を下りきった景色。軒先に八つ手というのも今となっては懐かしいが、ごく普通の景色だった。この当時でも奇跡のような一角だったが、今はマンションに変わっている。


三丁目34番。前の道を出てきた辺り。電気屋さんは駐車場になっている。その隣の家は健在。


三丁目33番。更に右手に進んだところ。雑然としているが、生きている家だから面白い。


三丁目32番。女坂入り口の角。羽黒洞という美術品を商っている店である。個性的なご主人がこの当時は健在であられた。旧江戸市中では数少ない明治の木造建築である。火災で一部損傷したが復旧され、現存している。このカットのみ4x5で撮影している。撮影日時不祥の一枚。1982年であることは間違いない。


三丁目32番。羽黒洞前には犬がいた。1981年9月3日と1982年2月3日撮影の姿。


三丁目32番。羽黒洞の並びは見事なものだった。菓子屋と「魚志ん」という割烹の二軒の木造三階建てが並んでいた。とても綺麗な建物で、迫力があった。今は二軒とも既に無く、菓子屋は駐車場に「魚志ん」は新しいビルになって営業中。


三丁目32番。「魚志ん」横の路地を覗く。奥にも古い木造家屋がある。路地には子供の自転車。


三丁目32番。正面の道からの眺め。この当時でもこれほどの立派な木造三階建ての並びは珍しかったし、見事なものだった。


三丁目32番。反対側からの眺め。三王商会も今はマンションになっている。二階の窓に見えている少女はどんな大人になっているのだろうか。


三丁目25番と26番の間。千代田線の通っている通りから路地を入ったところ。今も景色はそう変わってはいないが、通りの角のタバコ屋さんは閉店していた。


湯島も台地の上はマンションやビルの建ち並ぶ町になっている。天神下の奇跡の一角も、今は残り香といった感じである。この辺りは、昭和二十八年に書かれた木村荘八の「東京今昔帖」という本の中でも都内に残る数少ない江戸の町の風情を残すところとして取り上げられていた。今となっては全てが昔話になってしまった。

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