東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

千代田区の銅板貼り建築~その三

2014-10-07 19:38:13 | 千代田区
さて、千代田区内の銅板貼り建築を見てきたが、千代田区内はこれで最後になる。未見のものがあるかもしれないが、私の知る限りでは以上というわけである。そして、こうして整理してみると、思っていた以上に数を減じてきていることに気付く。やはり千代田区という都心部であるだけに、ここまで残されてきたのに建て替えが始まってしまうというケースも多い。昭和の初期に建てられたものばかりだから、もう少しで百年が経過ということにもなるわけだが、そこまで残るものがどの程度あるのか、大分心細くなっている。

まず、柳原の通り沿い。つまり、神田川の南側を並行して走る道である。この道沿いがかつて柳原と呼ばれたところで、明治から大正に掛けて、古着の店の集まるところだった。柳原と言えば、古着の代名詞になるほど。洋服の普及時期に高価で入手困難だった事情もあって、古着の需要が高かったという背景もある。その名残で、今も洋服や繊維関係の店が営業している。ここは仕舞た屋ばかりになっているが、昔から変わらない一角。この並びだけをみていると、かつての街並みを忍ぶことができる。神田須田町二丁目。
追記(2014.10.8)海老原商店は健在だが、その並びの銅板貼り建築は取り壊されている。既にコインパーキングになっていた。


その少し西寄りにある岡昌裏地ボタン店。柳原の系譜を引き継いでいる店と言えそう。見事な銅板貼りの看板建築。


休日の姿。シャッターなどという野暮なものではなく、木製の雨戸が店先を固めている。


今では、こんな風に昔ながらの雨戸で閉める店は数少なくなっている。一番右に、応対用の覗き窓が開けられている。


そして、神田駅に近い方の神田須田町一丁目。角店の看板家築。この時には洋品店だったが、今は自販機が置かれている。


旧万世橋駅前、かつての交通博物館の真正面にあった柏山邸。これは取り壊されるという前に内部が公開され、見学会が催された時に撮影したもの。以前、このブログでも取り上げたことがある。2012年に姿を消している。
この家の特徴は、正に銅板貼りとマンサード屋根を兼ね備えているところ。そして、そのマンサード屋根が変則的で左右非対称の形になっているところがユニークであった。一見三階建てに見えるが、三階部分は屋根裏部屋である。建築時に嫁入りがあり、その道具が多かったので、変形した形で内部の容積を稼いだのだというお話を伺った。


万世橋駅は遙か昔に姿を消し、その後に出来た交通博物館も大宮へと移転していき、そしてこの家も姿を消していった。


靖国通りから多町へ入って行く道、その靖国通りに近い辺りの一角がこのように銅板貼りの建物が並んでいた。神田須田町一丁目。喫茶店などの店舗になっていて、一階は改装されていたが、これも昭和初期から変わらない建物であった。今ここも全て取り壊され、新しいビルが建とうとしている。


その少し南側、ミルクホールの暖簾がでていることで知られたサカエヤ。神田多町二丁目。この周辺はかつて青果市場があったところ。その名残で、今も青果商が多い。江戸以来の青果市場だったが、秋葉原へ移転し、それも今は大田市場に変わっている。


変わらず営業しているようで、建物も生き生きとしているように思える。(この日は休日だったけど)


さらに神田駅よりへ行った所の角。テントには青果塩栄と書かれている。神田のやっちゃばの名残。


その交差点のすぐ近くの建物。典型的な看板建築である。切妻屋根を持つ。昔の形態なら、一階にも軒を持っていて、それが道路に張り出す形になっていた。震災後には限られた土地を効率的に使うため、軒を廃して平面にした形態が作られた。それがこの形で、さらにその時期だけ流行した銅板を貼った形になっている。


これはさらに言ったところの豆腐店。店舗周りは改装され知恵宇rが、銅板を貼った壁面が残されている。神田多町二丁目。


近年撮影したものをまとめてみたのだが、この中でもじわじわと姿を消していっている。いつまでその姿を見ることが出来るのかという感じになってきている。

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