さて、再び先へと進んでいこうと思う。前に掲載した安養院の次からという感じになる。安養院の裏手、その先に進んで行くと広大な敷地の公園に出る。東京都立城北中央公園という公園で、とにかく広大。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/1f/0c99fb1a66651ced6d6431d710c10d7c.jpg)
戦時中に防空緑地に指定されたのが始まりというけど、おそらくその当時は周辺まで完全な農村地帯だったことだろう。石神井川のほとりでもある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/7f/616792ef43b7d13804f6c61bc293daa5.jpg)
石神井川は下流域まで河床の掘り下げと護岸工事が行われており、今は自然の姿は残していない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/1b/955e50207f82c68344cb0de955ee122a.jpg)
橋を渡った向こう側は上り坂で、川が低く、そこから上っていく形になっている。その登っていく左手の雑木林に石碑があった。茂呂遺跡とある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/8a/49fa9203c668ffda386a7300de33a5f0.jpg)
「茂呂遺跡
通称“オセド山”と呼ばれるこの独立丘陵は、以前から縄文時代早期の土器破片の散布地として知られていました。
昭和二十六年三月、ここを通りかかった一中学生が、この栗原新道の切り通し断面の関東ローム層(赤土)中より、黒曜石製の石器と礫群の露出を見つけました。
この発見がもとで、同年七月明治大学と武蔵野郷土館が共同で、関東ローム層中に残された旧石器文化(先土器文化・岩宿文化とも呼ばれています)の発掘調査を行いました。その結果「茂呂型ナイフ」と呼ばれる特徴的な石器の存在が明らかになり、日本の旧石器文化研究の端緒となった岩宿遺跡(群馬県)とならび考古学研究史上特筆される成果が得られました。
昭和四十四年、この丘陵の一部は都の史跡(考古)に指定され、さらに昭和六十年には板橋区登録記念物に認定されました。
平成七年二月 板橋区教育委員会」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/ad/11ca3fbe0c6b1fd8993c944ad7b3c217.jpg)
その山を登り切って下っていった先、左手に神社があった。交差点の名で、小茂根稲荷神社前とある。このまま真っ直ぐに行くと、環状七号線の方へ向かうようだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/4d/545362a9794a0218c2e257c8e4262fb1.jpg)
神輿倉も並んである。境内はややさっぱりした雰囲気だが、農村時代からある神社なのだろうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/03/b57ad1a080b97b5119c28f251087ce6c.jpg)
検索してみると、板橋区のwebサイト内にすぐ近くの都立大山高校生が調べたレポートが公開されている。なかなか興味深い。そして、こんな風に記録が残されていることに驚く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/97/bf720807ac8785f7b8596adfd1259b90.jpg)
正式には、茂呂稲荷神社というのが正しいという。遺跡の名にも残されている茂呂が古い地名ということのようだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/1c/25c6e955df57ef16a09a73e19d67af89.jpg)
社殿はコンクリート製のもの。その周囲にスダジイの古木が茂っているのが、独特の雰囲気を醸し出している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/99/03176b71657e15250e5e89c587314b73.jpg)
江戸時代からの歴史がある神社とのことだが、このスダジイもその頃からのものだろうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/ca/803fba8e0806aba71e2141f5480e45e3.jpg)
遺跡の案内にもあった栗原新道という、道筋の建設祈念碑。昭和四年十一月の銘がある。どうやら、この道は地元で資金を出し合って建設された道のようだ。だから、資金の提供者の名前と金額が裏には刻まれている。
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戦時中に防空緑地に指定されたのが始まりというけど、おそらくその当時は周辺まで完全な農村地帯だったことだろう。石神井川のほとりでもある。
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石神井川は下流域まで河床の掘り下げと護岸工事が行われており、今は自然の姿は残していない。
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橋を渡った向こう側は上り坂で、川が低く、そこから上っていく形になっている。その登っていく左手の雑木林に石碑があった。茂呂遺跡とある。
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「茂呂遺跡
通称“オセド山”と呼ばれるこの独立丘陵は、以前から縄文時代早期の土器破片の散布地として知られていました。
昭和二十六年三月、ここを通りかかった一中学生が、この栗原新道の切り通し断面の関東ローム層(赤土)中より、黒曜石製の石器と礫群の露出を見つけました。
この発見がもとで、同年七月明治大学と武蔵野郷土館が共同で、関東ローム層中に残された旧石器文化(先土器文化・岩宿文化とも呼ばれています)の発掘調査を行いました。その結果「茂呂型ナイフ」と呼ばれる特徴的な石器の存在が明らかになり、日本の旧石器文化研究の端緒となった岩宿遺跡(群馬県)とならび考古学研究史上特筆される成果が得られました。
昭和四十四年、この丘陵の一部は都の史跡(考古)に指定され、さらに昭和六十年には板橋区登録記念物に認定されました。
平成七年二月 板橋区教育委員会」
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その山を登り切って下っていった先、左手に神社があった。交差点の名で、小茂根稲荷神社前とある。このまま真っ直ぐに行くと、環状七号線の方へ向かうようだ。
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神輿倉も並んである。境内はややさっぱりした雰囲気だが、農村時代からある神社なのだろうか。
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検索してみると、板橋区のwebサイト内にすぐ近くの都立大山高校生が調べたレポートが公開されている。なかなか興味深い。そして、こんな風に記録が残されていることに驚く。
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正式には、茂呂稲荷神社というのが正しいという。遺跡の名にも残されている茂呂が古い地名ということのようだ。
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社殿はコンクリート製のもの。その周囲にスダジイの古木が茂っているのが、独特の雰囲気を醸し出している。
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江戸時代からの歴史がある神社とのことだが、このスダジイもその頃からのものだろうか。
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遺跡の案内にもあった栗原新道という、道筋の建設祈念碑。昭和四年十一月の銘がある。どうやら、この道は地元で資金を出し合って建設された道のようだ。だから、資金の提供者の名前と金額が裏には刻まれている。
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