東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

川越街道補完編(六)大谷口・西光寺

2015-11-03 18:49:27 | 板橋区
少し先を急ぎすぎてしまった。川越街道、上板橋宿から南の方へいった辺り、大谷口といった辺りを掲載するのを忘れて先に行きかけていたので、今回は少し戻って大谷口を見て頂こう。轡神社の前を通る古道は、そのまま国道254号線、現在の川越街道と交差して先へと延びていく。その辺りが今回の大谷口。昔から水道タンクが目印だったのだが、近年オリジナルは取り壊されてしまい、それを模した新しい塔が建てられている。


その辺りに分岐点があって、石柱が建てられている。


「豊島八十八ヶ所巡礼の道標
 この道標はm明治四十一年(一九〇八)一一月に、豊島八十八ヶ所の札所が開かれた際に建立されたものです。正面に「豊島八十八ヶ所第八十番新設弘法大師霊場 大谷口西光寺」、右面に「右大師道 二丁 大谷口西光寺 願主大野萬蔵 大野清吉」、左面に「左 あらい薬師道 明治四十一年十一月」と刻まれています。豊島八十八ヶ所は、行基・弘法大師(空海)に旧跡とされる四国八十八ヶ所巡礼をならい、現在の板橋区をはじめ、北・練馬・荒川・新宿・豊島・中野区に点在する88の真言宗寺院を札所として開かれた霊場巡礼で、その開創には日露戦争の戦没者を慰霊する目的があったといわれています。また、この場所は、西光寺の北を通過して大谷口・向原・茂呂から白子へ向かう川越街道の間道の「大谷道」と、川越街道から南下し中野区の新井薬師方面へと延びる「薬師道」が一旦合流して、再びそれぞれの方向へと分岐する地点にあたります。(大師道は西光寺までの大谷道の呼称)。この碑は道しるべとしても利用されてきました。
 平成十五年六月 板橋区教育委員会」」
豊島八十八ヶ所霊場巡礼というのは、あちこち歩いていると目にするのだが、こういった成り立ちのものであったことを初めて知った。


その分岐点を右に進んでいき、しばらく行ったところを左に入って回り込んで行くと、西光寺の山門。


区が旧字だけど左書きなのが面白い。


西光寺。


「西光寺
 御本尊聖観世音菩薩。宗派真言宗豊山派。宝樹山盛徳院と称する。古くからこの地にあった一観音堂に大野清右衛門が田畑を寄進し、堂宇を建設したことから始まるという。『新編武蔵風土記』では、開山を承応三年(一六五四)八月寂の宥音とするが、当寺所蔵の古文書では、開山を慶安四年(一六五一)六月寂の覚印とする。いずれにしても、当寺が一六四〇年代には開山されていたことは明らかである。明治三年住職広沢賢隆は、境内に一棟を建てて寺子屋を開設し、同九年に上板橋学校が開設されるまで近所の子供に教育をおこなった。昔話で有名な、しろかき地蔵(石造・高四七cm)は、現在では同寺境内に安置されている。同地蔵は、昭和六二年度の板橋区登録有形民俗文化財(信仰)に認定された。
 平成六年八月 板橋区教育委員会」


西光寺の扁額。大谷口の大野さんが寺を造り、そして明治になっても霊場の道しるべを建てていることが分かる。


板橋七福神というのもある。


これが代掻き地蔵。
信心深い百姓が田植え前の代掻きが終わらずに困っていたところ、一夜で綺麗に代掻きを済ませてくれたという、割とシンプルな昔話。


歴史を感じさせる。


古井戸。


境内には大野家関連の石碑が多い。


これも古そうな石仏。


西光寺を出て、大谷道の寺の裏手に当たる辺り、道端に庚申塔があった。


武州豊島郡上板橋大谷口村と刻まれている。


こちらは享保十六年の銘があり、大野仁兵衛講中九人とある。


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