東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

文京区豊島区の銅板貼り建築

2014-10-13 22:11:33 | 文京区
各区ごとに銅板貼り建築を撮影した画像を整理し直しているのだが、やはり文京区や豊島区は数が少ない。この銅板貼り建築の最大の特徴としては、建てられた時期が震災復興期の大正末から昭和初期に掛けての間に限られるという点だろう。看板建築という形態は、その後もモルタル仕上げであったり、タイル貼りであったりといったバリエーションで継続して戦後まで建てられているのだが、建物の外壁に銅の板を張り付けるということは極めて短い時期にしか行われていない。銅の価格の上下などもあっただろうし、戦時体制に入ればその事情に左右されたということもあるだろう。その結果、震災で被害の大きかった旧市街の商業地域を中心に数多く建てられ、その後の第二次大戦の戦災の被害をくぐり抜けたものが今も残されているということになる。震災の被害が比較的軽く済んだ文京区や、そのタイミングで都市化が進行していった豊島区などは、やはり建てられた数自体がそれ程多くはなかったのだろうと思われる。

豊島区雑司が谷一丁目。弦巻川を暗渠化した道沿いにあった二階家。三角炻の旧居を転用した料理屋の近くにあった。2011年12月の撮影。既に取り壊されて建て替えられている。現存せず。


文京区もそれ程多くは残されていない。小石川一丁目は、高層マンションと昭和初期の建築が混在するというカオスな状況になっている町だ。それでも商店街が生き残っているので、こうした雰囲気が今も残されている。


その少し先を入った所の印刷関係の町工場。小石川一丁目。


これは元々の壱岐坂の通りにある銅板貼りの看板建築。本郷二丁目。


少し離れるが、中山道国道17号線沿いの向丘一丁目の看板建築。


これもまた少し離れていくが、根津二丁目。不忍通りから谷中側へ入った所。


旧市街の都心部は、やはり人口密度が高いということもあって、マンサード屋根を取り入れて実質三階建てまでしていたところが多かったのだが、少し離れていくと銅板貼りではあってもマンサード屋根にはなっていない、二階家が多いことが分かる。こうしてまとめ直してみても、そういった傾向が読みとれるのが面白い。
雑司ヶ谷は、このところ建て替えがじわじわと進行しているようで、昭和初期に宅地化が進行していった頃の建物が僅かに残されていたのだが、姿を消しつつある。文京区も、先日このブログでも掲載した様に銅板貼りの店舗が姿を消した。恐らく、東京全体で見ても所有者の代替わりなどもあって、ここまで残ってきた建物が消えていくという状況になっているのだろうと思う。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿