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東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(67)柳橋・百歳の芸者さん

2014-09-05 21:05:57 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、隅田川界隈、柳橋の話である。

「隅田川の水はきれいになったといわれる。といっても昭和三十年代のどうしようもない汚濁と悪臭と比較した上での話である。
 あのころは絶望的な気持で川をみつめていた。魚は上ってこない。子供のころ、遠泳大会がひらかれたことがあったが、もうみられないだろう。船の人だって航行にとまどうほどだった。橋の上をあるいていて、おもわずハンカチで鼻をふさぐ。夏になって、まだ冷房装置のなかった電車が両国の鉄橋にさしかかると、車中のあちこちからバタン、バタンと窓をしめる音がきこえてきた。当時、私は市川市、江戸川区から都心部の勤め先にかよっていたが、同僚は隅田川を見むきもしない。門前仲町や両国におもしろい飲みやがあるよと言っても、私の誘いにはなかなか応じてくれなかった。東京人は西へ、西へとむかっていた。私もそのひとりだった。子供が重い喘息に罹かって、転地を考えなけれぱならなかったからである。」

 私は、隅田川に近い町で生活した経験がない。武蔵野台地の上の町で生まれ育ったので、アップダウンの坂道は当たり前だと思っていたが、川沿いの平らな広がりの中にある町を見ると、新鮮な感じがする。それでも、私の少年時代には、河川の汚染がまだ問題になっていたことは思い出される。隅田川に限らず、神田川などでも、汚染の酷い時代に建てられた川沿いのビルは、川の側を裏手にして窓も設けないようなものが多い。河川の浄化が進むようになると、川に向けた展望が有り難がられるようになっていく。
 東京人が西へ向かうというのは、明治の頃からの大きな流れであり、流行であったとも言える。江戸時代には、お上の定めた町場にしか住むことが出来なかった訳だが、維新になってその制約が無くなり、もっぱら富裕層が山の手へと移転していった。武家地が空き家になって、維新後の山の手は閑散とした土地になっていた。今の山の手とはかなり懸け離れた、都心部と言えるエリアの事だが。富裕層が西へ向かい、庶民が東へ向かったというのが、関東大震災以後は急激に周辺部へと移転していき、都市化を急激に推し進めることになっていった。
 戦後にも空襲で焼けた下町は、新しい町へと変わったと言えるのかもしれない。著者の近藤氏は清住町を離れて東へ向かってから、杉並へと移られている。

 近藤氏の故郷である清住町に近い、清洲橋。


 川が汚染された時代に料亭街としての命脈が絶たれて、今はマンションが林立する中洲近辺。


 料亭街であった痕跡は、地元の金比羅宮の玉垣に残されている位。


「咋年、『橋私のあの橋この橋』(学芸通信社)という本を購入したことがある。新日本技研の創立二十五周年を記念して出版されたもので、内容は橋梁設計技術者の随想集である。国内はもとより世界各国の橋について書かれている。そのなかに「柳橋」という一文があった。筆者は日本大学理工学部の若下藤紀氏である。冒頭に「柳橋一丁目一番地に住んで、三十年余り。わが人生の六十バーセントを遇したことになる」とあるところからは、かの有名な料亭・亀清の十階建てマンションとおもいあたったのである。そこは神田川が隅田川に合流する地点。神田川の南は中央区の東日本橋だ。「自室の窓からは、隅田川に架かる両国橋、首都高6号線、新大橋が、そして神田川には柳橋、浅草橋、左衛門橋、美倉橋と計七橋を眺めることができ、大いに気に入っている」と書いている。日本橋生まれの若下氏はここに居をかまえた理由として、勤務先の大学に近いこと、ロケーションの良さをあげている。土木工学の研究者としてこの柳橋、日本橋川の豊海橋、小名木川の万年橋などの河川の門の意味をしるし、隅田川の右岸左岸のシンボル的橋梁をとりだしている。そして、「毎日、朝目に輝く柳橋を見ながら、コーヒーを飲んで出勤する。建物を出て、目の前が柳橋。この橋を渡って徒歩で大学まで通っている。約二十三分の通勤である。早めに帰宅したときには、夕日にまぶしい柳橋を渡りながら、屋形舟の出入りを見ていると、一目の疲れも忘れる気がする。雨の降る日の柳橋も格別である。柳橋は私にとって、わが家の門そのものである。」
 と書く。若下氏はいわぱ隅田川蘇生後のあたらしい柳橋の住民である。亀清といえば高官紳商の出入りした料亭だが、その場所で都市景観を俯瞰しているあたりがいかにも現代的である。しかし、対岸の高速道路を走る車の響きは、どんなものなのだろう。」

 この柳橋界隈については、このブログでも再三取り上げてきたし、この「東京・遠く近き」でも触れてきたように思う。それは両国広小路のことであったり、そこで生まれ育った木村荘八から、その兄荘太のこと、彼らの書き残してくれたこの界隈の様子についてなど、関東大震災で失われた町についてであったように思う。そこで一転して、現代…といっても、既に三十年近い歳月が経過しているわけだが、今日に通じる華氏でここへ戻って来たというところが面白い。そして、柳橋随一の料亭としてその名を知られた亀清のマンションの話に変わってくるというのも、興味深い。御自身も故郷である大川端へ戻りたいと考えたこともあるという近藤氏だけに、高速道路の車の響きを敢えて指摘する気持ちに失われた故郷への思いを感じ取れるように思う。

 隅田川から見た柳橋。神田川河口である。


「柳橋とは神田川と隅田川と出合う両岸一帯の俗称だった。小林清親に薬研堀の出口を描く版画(明治十一年)があり、元柳橋と大川端の柳が写されている。明治十七年の実測五千分の一図では堀の一部と橋そのもの(元柳橋)もまだ存在していたことがわかる。薬研堀の埋立ては元禄十一年、米沢町の米蔵の火災と築地への移転からはじまったというから、かなり古い話である。堀の完全消滅は明治二十六年であった。したがって埋立ては二百年にわたって徐々に進行していた。私たちがみてきた戦後の河川埋立ては突貫工事で、あっという間におこなわれてしまったので、その場所にまつわる記憶に情緒はない。薬研堀の柳橋が神田川の柳橋になったとすると、江戸の生活者にはさまざまな感情がこめられていたにちがいない。しかし、成嶋柳北の『柳橋新誌』にはつぎのように記されている。
「橋、柳を以て名と為して一株の柳を植えず。旧地誌に云ふ、其れ柳原の末に在るを以て命く焉と。而して橋の東南に一橋有り、傍に老柳一樹有り。人呼んで故柳橋と為す。或ひと云く、其の橋柳有れば則ち往昔の柳橋にして、今の柳橋は則ち後に架して其の名を奪ふ者と。其の説地誌と齬す焉。按ずるに故柳橋の正称は難波橋と曰ふ。而して知る者少し矣。彼此錯考するに則ち地誌の説当れるに似たり。夫れ柳橋の地は乃ち神田川の咽喉也、而して両国橋と相ひ距る僅かに数十弓のみ。故に江都舟揖の利、斯の地を以て第一と為して、遊舫飛舸最も多しと為す央。」
 柳はないけど柳橋だ。その名は柳原河岸に由来するという柳北の説か正しいとおもわれる。幕末・明治初期にあってすでに地名の根源が不明になっているところはいかにも都会らしい。薬研堀は奥行のみじかい物資輸送路である。それにくらべて神田川は武蔵野台地から流れ出る堂々たる自然河川である。河口は交通の要衝だった。芝居を観にゆくときも、花見、納涼、賞雪の遊びにゆく者も、あるいは「五街の娼肆」にいりこむ連中にとっても、みなここを通遇する。それだけに多くの人の集まる場所であった。よく「元某々」の名につられて、そこが発祥の地であったかのような錯覚におちいることがある。たとえば深川の富賀岡八幡と砂町の元八まんとの関係である。これについてはまえに書いたことがあったので省略するが、永井荷風のような江戸精通者であっても『江戸名所図会』や明治の「風俗画報」の記載を信じこんで、偶然の発見によろこびをかくしきれなかった。人は他所の隆盛をみて、自分のところにひきつけようとする。小さな因縁をことさら大きくしようとする。そこに索強付会の作為が生まれるのだが、元柳橋は「老柳一樹」がわざわいしたものとみてよさそうである。」

 この薬研堀の口に架かる橋が元柳橋で、神田川最下流の橋が柳橋というのは私も面白いというのか、その由来を知りたいと思っていた。こういう事であったというのは、いわれてみれば納得のいく話だ。今でこそ柳原という地名はあまり使われなくなっているが、永らく神田川沿いの隅田川に合流する河口までの間の南側一帯は柳原と呼ばれてきた歴史がある。そこから柳橋が名付けられたというのは納得出来る。そして、元々は難波橋という名のあった橋が、元柳橋といわれるようになり、時間の経過と共に分からなくなっていくというのも、ありがちな話だ。その「作為」の有り様が時代を越えて変わらないようにも思えて、人間というもののおかしさも感じる。薬研堀は今では跡方もなく、隅田川との境界に掛けられていた元柳橋も忍ぶべくも無い。薬研堀不動院が今もあり、七味唐辛子の発祥の地として、その名を残すのみである。
 両国広小路というのは、江戸以来の繁華街であり、関東大震災まではその面影を残していたところでもある。その直ぐ傍らに柳橋という、東京でも随一の花柳界があったというのも、面白いものだとも思う。今となっては、花柳界というものが時代から取り残されたものになってしまったことは否めないのだが、何が変わったことでそうなっていったのかというのも、近現代史の中では省みるべきことなのかもしれない。
 そして、ここでも近藤氏としては珍しいと思うので揚げ足取りをさせて頂こう。神田川は元々は自然河川であったが、江戸川橋辺りから下流は完全な人口河川である元々は平河と呼ばれていて、南へ向けた流路を持っていたようだ。今も平河町にその名を残している。神田の山を切り崩し、お茶の水の谷を開削して、江戸時代の治水工事でも屈指の大工事を行って作り上げられたのが、神田川である。

浅草橋から見た柳橋、隅田川。


「江戸末期から東都随一の花街だったが、そこで生涯を遇してきた人がいる。鳶清小松朝じさんだ。明治二十七年、下谷箪笥町の生まれ、咋平成六年二月には満百歳の誕生日をむかえている。老芸者といっては失礼にあたるかもしれない。彼女はいまなお現役だというのである。
「あたしは百歳になりました、十一歳でこの世界にはいって、今日まで、ずっと芸者一筋でやってまいりました。ありがたいことに、『朝じを呼んどくれ』と、あたしをお座敷に呼んでくださるお客様がいらして、今月もあたしのカレンダーは、お座敷のご予約で埋まっています。」
 引退なんてとんでもない。化石のようだといわれることに不満らしい。三味線が弾けて、お座敷に上るのが生き甲斐だ。仕込みっ子、半玉からかぞえて九十年を柳橋で過したというから、まきに柳橋の生き辞引のような存在である。昨年、百歳を記念して彼女の回想は『女はきりきりしゃん』(ごま書房)という本にまとめられた。その語りくちは、読んでいて気持がいい。芸に生きた人だけにきりっとしているのである。大工の棟梁の娘だった朝じさんは、芸事が好きで芸者になった。長唄、清元から常磐津、端唄となんでもこなしている。はじめは小掌校三年のとき、吉原で芸を習っている。」

 この連載当時だと、まだ明治生まれ、しかも明治中期の人が数少ないとはいえ生きておられたわけである。そのことに、まず心を動かされてしまう。そこから既に三十年経過すると、明治生まれは勿論のこと、大正を知る人すら数少なくなっている。昭和一桁がじわじわと姿を消している時代になっているわけで、直接聞いておかなければならない取材などは、急がなければもう間に合わなくなることが多くなっていく。いつの時代でも、そういうことは積み重ねられてきているのだが、やはり自分で興味をもつ様になると、切実に感じる。
 吉原で芸事を習うというと、遊郭で?と思われるかもしれないが、習い事をするのは遊郭ではなく、茶屋である。かつては、吉原も茶屋を通して上がるという仕組みであったわけだが、これは芝居や相撲にも共通するシステムであった。芝居茶屋、相撲茶屋というのがいわばチケット販売なども行っていたのである。私の大叔母は、下谷二長町の市村座の茶屋で稽古事を習ったと聞いている。商家の娘だが、そういうものであったようだ。

「その長い経験から語られるのは、芸者哲学というべきものである。いい女、いい芸者はきりきりしゃんとしているものです。いい芸者はひと目でわかります。髪の毛がきちっと上かった人は、きりっと見える。後れ毛が一本も下がっていない。後れ毛は色っぽいなんておっしやいますが、芸者はきりっとしたところが値打ちですね。きりっとできない女は、どんな仕事も長つづきしないというのである。
 お客様を楽しませるには、まず自分が楽しむこと。お客様のやんちゃぶりに負けていては芸者はつとまりません。男でも芸でも、一途になれたら女は幸せです。打ち込めるものがあると、女はどんどん美しくなっていきます。どんないい男とつきあっても、自分かきりきりしゃんとしていなけれぱ不幸になるだけですね。
 朝じさんの言葉からは、柳橋の気風がつたわってくる。原敬、田中義一、浜口雄幸、犬養毅、加藤高明というような政治家の名が出てくる。田中角栄、福田越夫、大平正芳から中曽根康弘、宇野宗佑の名もあがってくる。ところが最近では芸者を呼んで遊ぶ人も少くなって「ずいぶん寂しくなりました」というのである。ここに柳橋の変遷があるのかもしれない。」

 かつては、花柳界といってもその場所ごとに気風や格付けが違っていたという。格付けが違うというのは分かるが、気風も随分と違ったというと、どんなものだったのかとも思う。良くいわれるのが、深川の辰巳芸者で、木場の旦那衆を贔屓筋に持ち、男勝りの気っ風の良さが売りだったという。神田にも講武所芸者というのがあって、お祭りになると旅籠町三丁目の旅三と染め抜いた金巾を着こなして、手古舞を舞ったというのも聞いたことがある。そういった色々な逸話の残る花柳界と比べても、柳橋は新橋と並んで、東京でも第一級の格を備えた花柳界であった。それだけに、錚々たる政治家や文化人が出入りしてきた歴史があり、歴代の宰相の名が並ぶのもここと新橋くらいなものだろうと思う。今となっては、この時代とも大きく変わって、いよいよ柳橋の花柳界が幻になろうかという時代になってしまっている。そこで生きた女性の回想を読んで、そんな町のことを振り返って見るのも一興だと思う。


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