さて、再び池上の山裾の道に出ると、まだまだ幾つもの寺院が並んでいる。
「西之院
日蓮聖人滅御四十~五十年頃(一三二二~一三三二)の開創。日蓮聖人が池上宗仲公の館に逗留されていたとき、直弟子 日興聖人の庵室として創建されたと伝えられ、その弟子日法聖人を開山とする。もとは市野倉村の貴船神社(明治期に大田神社に合祀)そばの松や柏の鬱蒼とした山の中にあったが、いつの時代にか当地に移された。寛永年間(一六二四~一六四四)以後に日法聖人の庵室といわれる宝樹坊と合併し、西之院と号した。」(境内の掲示より)
西之院の本堂。
道路を挟んで向かい側には、真性寺がある。門前には帝釈天と刻まれた石柱が立つ。
広いお寺ではないが、縁のある石などが置かれている。
「真性寺
寛永二年(一六二五)に本門寺十六世日遠聖人によって麻布今井町に開創された。当寺に安置されている帝釈天像は、もと十三代将軍徳川家定の侍医佐竹文好の屋敷にあったもので、安政三年(一八五六)に当寺に遷され、幕末より大正期にかけての庚申日には麻布の帝釈天とよばれて縁日の市が立ち大いに賑わったという。
戦災で全焼したため、昭和二十七年(一九五二)現在地に移り再建された。」
この寺があったのは、現在の六本木の谷町のアークヒルズ前から少し上りかけた、六本木通りと飯倉片町へ行く道に挟まれた三角形の中であった。当寺隣接していた寺院は、今もそこで再興されているところもある。昭和27年にここで再建されたと言うことは、今の本門寺周辺の寺の中では最も新しい寺だろう。
その少し先には、実相寺がある。個々も山門は重厚で立派なもの。
「実相寺
天文十九年(一五五〇)江戸馬喰町に開創。明暦三年(一六五七)明暦の大火の後、浅草新寺町に替地を拝領して移転。寛保三年(一七三四)に呉服商「大丸」の店主の帰依を受け、大丸寺とよばれた。大正十二年(一九二三)池上の妙玄庵と合併して現在地に移り、堂宇を建立。妙玄庵は本門寺二十四世 日等聖人が隠棲した庵室で、享保十二年(一七二七)大坊坂のそばに創建され、妙玄坊、要玄坊ともよばれた。」
大丸寺というのも面白い。明治前期ころには日本橋の覇者は大伝馬町三丁目の大丸であったと長谷川時雨は書いていた。鉄道馬車の路線が前を通らなかったことが衰退の原因になったという。その初期大丸の江戸店の信心を受けていたというのが面白い。
ここに移転してきたのは、関東大震災で新寺町が焼失した事によるのだろう。
震災によって実相寺が、戦災によって新勝寺がここに移ってくることになったというのも、東京の歴史とリンクしているわけで、興味深い。
堂宇も立派なもの。
「天目松(枝垂れ赤松)
高さ 2.5m 葉巾 3m 幹周り 2.2m
樹齢推定八十年の古木。成長が遅く、この樹景に成るのは大変珍しい松です。産地は北海道南部、関東では中々見られない枝垂れ赤松です。」
扁額には浄行堂とある。
「西之院
日蓮聖人滅御四十~五十年頃(一三二二~一三三二)の開創。日蓮聖人が池上宗仲公の館に逗留されていたとき、直弟子 日興聖人の庵室として創建されたと伝えられ、その弟子日法聖人を開山とする。もとは市野倉村の貴船神社(明治期に大田神社に合祀)そばの松や柏の鬱蒼とした山の中にあったが、いつの時代にか当地に移された。寛永年間(一六二四~一六四四)以後に日法聖人の庵室といわれる宝樹坊と合併し、西之院と号した。」(境内の掲示より)
西之院の本堂。
道路を挟んで向かい側には、真性寺がある。門前には帝釈天と刻まれた石柱が立つ。
広いお寺ではないが、縁のある石などが置かれている。
「真性寺
寛永二年(一六二五)に本門寺十六世日遠聖人によって麻布今井町に開創された。当寺に安置されている帝釈天像は、もと十三代将軍徳川家定の侍医佐竹文好の屋敷にあったもので、安政三年(一八五六)に当寺に遷され、幕末より大正期にかけての庚申日には麻布の帝釈天とよばれて縁日の市が立ち大いに賑わったという。
戦災で全焼したため、昭和二十七年(一九五二)現在地に移り再建された。」
この寺があったのは、現在の六本木の谷町のアークヒルズ前から少し上りかけた、六本木通りと飯倉片町へ行く道に挟まれた三角形の中であった。当寺隣接していた寺院は、今もそこで再興されているところもある。昭和27年にここで再建されたと言うことは、今の本門寺周辺の寺の中では最も新しい寺だろう。
その少し先には、実相寺がある。個々も山門は重厚で立派なもの。
「実相寺
天文十九年(一五五〇)江戸馬喰町に開創。明暦三年(一六五七)明暦の大火の後、浅草新寺町に替地を拝領して移転。寛保三年(一七三四)に呉服商「大丸」の店主の帰依を受け、大丸寺とよばれた。大正十二年(一九二三)池上の妙玄庵と合併して現在地に移り、堂宇を建立。妙玄庵は本門寺二十四世 日等聖人が隠棲した庵室で、享保十二年(一七二七)大坊坂のそばに創建され、妙玄坊、要玄坊ともよばれた。」
大丸寺というのも面白い。明治前期ころには日本橋の覇者は大伝馬町三丁目の大丸であったと長谷川時雨は書いていた。鉄道馬車の路線が前を通らなかったことが衰退の原因になったという。その初期大丸の江戸店の信心を受けていたというのが面白い。
ここに移転してきたのは、関東大震災で新寺町が焼失した事によるのだろう。
震災によって実相寺が、戦災によって新勝寺がここに移ってくることになったというのも、東京の歴史とリンクしているわけで、興味深い。
堂宇も立派なもの。
「天目松(枝垂れ赤松)
高さ 2.5m 葉巾 3m 幹周り 2.2m
樹齢推定八十年の古木。成長が遅く、この樹景に成るのは大変珍しい松です。産地は北海道南部、関東では中々見られない枝垂れ赤松です。」
扁額には浄行堂とある。
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