東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

池上本門寺と周辺を歩く~その十:池上梅園から東之院、本門寺公園

2015-03-19 19:15:45 | 大田区
実相寺を過ぎると、その先にはもう本門寺の塔頭はない。しばらく行くと、第二京浜が近づいてきて、右手に立派な薬医門が保存されている所にくる。これが池上梅園というところ。


「当公園は池上本門寺の西にあり、高低差を生かした梅園や茶室などがある公園になっている。
戦前までは当地は日本画家の伊東深水の自宅兼アトリエ(月山山荘)[2]であったが、戦災で焼失。
戦後は、拡張され築地の料亭経営者の邸宅があったが、所有者の没後、庭園として残す事を条件に[2]、東京都に敷地を譲渡され、1978年に大田区に移管された。」(Wikipediaより)
という来歴の公園で、入場料100円と徴収していることもあって、中は静かで管理も行き届いている。もっとも、二月から三月にかけての梅の時期だけは特別で、以前は露店が出るほどの人出になっていた。近年どんな状況なのかは分からない。でも、今も変わらないのではないかと思う。


ちなみに、伊藤深水は女優朝丘雪路の父親である。
薬医門は敷地の端にあり、その反対側に入口がある。


その直ぐの所を曲がれば、第二京浜である。そして、都営地下鉄浅草線のガードが横切っている。ここに駅があれば、池上梅園は勿論だが、本門寺へ行くにも便利なのにと思うのだが、駅は大分離れたところが西馬込の終点になっている。そこから伸びた線路は、この辺りで折り返すようになっていて、西馬込車庫への出入りのための線路なので乗車することはできない。


そのガードのある道を逆方向に進むと、急坂を上っていくことになる。少し回り込むようにして登った所から南側へ折れるとこの辺りの地形がよく分かる角に出た。右手は台地上でフラットに道が延びていくが、左は坂が下っていくのが分かる。


この辺りはアップダウンが激しい。最初は池上の西側から回っているのだが、これで北側を回り込んできたところ。坂を下ると、右手は塀が続き本門寺の庭園が中に広がっている。そこから細い曲がった道を入って行く。安立院という寺があった。


「安立院
元応二年(一三二〇)以前の開創。本門寺二世 日朗聖人の直弟子 日澄聖人の開創。もとは本門寺裏門の前にあり上之坊と称した。日澄聖人は池上宗仲公が館を寄進して大坊本行寺を建立したとき、招かれて事実上の開山となり、上之坊を弟子の日恩聖人に譲った。後に荒廃したが、元治元年(一八六四)本門寺五十四世 日英聖人により再建された。隣接の自澄坊を江戸期に合併したと伝えられる。」(境内の掲示より)


扁額は山号で、慈性山という。


そして、隣接して東之院がある。南之院、西之院ときて、東之院もあるわけだ。
「東之院
弘安五年(一二八二)日蓮聖人の直弟子 日持聖人の庵室として開創。東之坊とよばれた。江戸末期に本門寺惣門の外、本成院の向いにあった玄理坊と合併。玄理坊は貞享年中(一六八四~一六八八)の創建で古くは辻之坊とよばれた。天保十二年(一八四一)雑司ヶ谷の感応寺が廃寺となったとき、その余材を貰い受けて現在地に再興された。再建に際し、徳川一橋家の奥女中などの加護、寄進を受けたので、一橋家の題目堂ともよばれた。」(境内の掲示より)


雑司ヶ谷の感応寺というのは、幻の巨大寺院とも言われる寺である。不受不施派が身池対論などを通して弾圧されていく中で、谷中にあった感応寺が1698年に天台宗へと改宗させられている。この寺が現在の天王寺である。それでも、この感応寺は日蓮聖人縁の日蓮宗にとっては重要な寺院であったこともあり、1833年に再興を願い出、その寸前まで行くが輪王寺宮によって阻止される。1835年に現在の目白に名跡を継いだ感応寺の建設が始まり、翌1836年には大伽藍ができたらしい。ところが、1841年に徳川家斉が死去すると廃寺にされてしまう。伽藍の木材は鎌倉妙本寺に送られたというのだが、ここにもその痕跡があるとは驚いた。


蓮華山東之院という。


境内には小さな祠が祀られていた。


本門寺の東側は広大な墓地にもなっているのだが、それだけではなく、一部は公園になっている。昭和十三年の銘のある東京市本門寺公園の銘板。


来歴を刻んだ西播も設置されているのだが、風化もあって非常に読みにくい。どうやら、昭和8年に本門寺が公園として整備したものが、昭和13年に東京市に寄附されたということらしい。


塔頭を回ってきた中には、北側の池の辺りにあったというものもあったが、この池がそうなのだろうか。今は、ここは大田区の管理する公園になっている。


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