東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(85)『明治少年懐古』

2015-08-15 15:35:54 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、山梨県立文学館館長を2013年まで務められていた。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、川上澄生について。

「川上澄生先生。なつかしい方。少年のこころを持ちつづけた美しい人。川上さんをおもいおこすたびに、私はこう言わずにはいられないのである。
『明治少年懐古』の「めんこ」の章はつぎのように書き出される。
「○汝はめんこを弄びしことありや△然り私少年の頃弄びしことあり○めんこに何種類ありや△二種類あり即ち紙めんこと鉛めんこなり紙めんこは円形のボール紙に表には軍人或は武者絵の木版画を貼り裏は浅黄色の紙を貼る赤黄緑紫なとの色刷の源義経或は陸軍大将海軍大将は八の字髭を生やして磨滅せる墨の線などなかなか宜しきものなりしなり大小色色の大さあり又厚さも色色ありしなり鉛めんこは鉛の円形の薄き板に武者絵など薄肉彫りの如く現はれ赤緑紫などの染料に彩られ径一寸位のものを中心に大小ありしなり」
 そしてその遊び方、勝負の勘どころを書いている。紙めんこは、私たちの子供のころもさかんだった。木版刷りはとうに消えていたが、丸めん、角めん、それに長方形の写真めんこまであった。しかし、鉛めんこなるものは全く知らなかった。実はその鉛めんこを、初対面のとき、川上澄生さんから見せていただいたのである。」

 川上澄生という人も、今の時代、少し忘れ去られている感のある人だ。私にとっても、親しみ深いというよりは、ずっと昔にウイスキーのCMでその作品が使われていたことで思い起こされるような存在。そして、独特なタッチの版画で、特徴的な世界を作り出している人だという以上の知識も何ももっていない。その意味では、やはりこの連載を追い掛けていくことで、改めて教えられているように感じる。
 「めんこ」は、私の少年時代の高度成長期でも、まだ近所の子供たちの間での遊びとして存在していた。ベーゴマはやらなかったけど、「めんこ」は一時、何かのお菓子の空き缶のようなものに一杯になるほど溜め込んでいた記憶がある。絵柄は、野球選手の写真やテレビマンガのキャラクターものが多かった様に思う。我が家の周辺でも、恐らくは私くらいの世代がそんな風に遊んだ最後の世代ではないかとも思う。私よりも下の世代は、近所の子供で集まって遊ぶことよりも、学校の同級生で集まることの方が普通になっていったのではないだろうか。様々な年齢層の子供が混在して、同じ町内の子供で固まって遊んでいたというのも、完全に過去のものになった。

「私の記憶のなかで鮮明なのは、武田泰淳、永井龍男両氏が『明治少年懐古』を愛蔵していたことである。福永武彦氏も川上本の熱愛者だった。ことに永井さんは『明治少年懐古』を長篇の重要な導入部として考えておられた。
 それは昭和四十一年秋のことだった。私は十月から社用でフランクフルトのブッフメッセに出かけていた。上司の鞄持ちのようなかたちで、ヨーロッパ各地をめぐったあとローマからニューヨークにわたり、のんびりと旅を愉しませてもらったが、帰ってから新聞を繰っていると、毎日新聞にはきわめて意欲的な企画が発表されている。十数氏の作家の名があげられていて、新聞小説に新風を注ぎこもうとするものであった。たまたま鎌倉の永井龍男さんのところへ遊びに行って、その新聞小説、東京の昔語などをうかがっていた。そこで川上さんの『明治少年懐古』のことを持ち出すと、永井さんはわが意を得たりとばかりに、実はそこから書き出そうとしているのだと言われたのである。将棋を指して一勝一敗、ちょっとお酒をごちそうになって雑談しているうちに、川上さんに板を彫ってもらおうという話になった。そんなことから『石版東京図絵』の出版を私が担当することになったのだが、おもえば『明治少年懐古』にまつわる、ありがたい縁であった。その第一章「振り出し」はつぎのように書き出されている。
「もうずいぶん長い間、『明治少年懐古』という本を私は机辺から離したことがない。気がふさいだり、仕事がうまく運ばないような時、必ずといってもよいほど、この本をひろげている。
 調べることがあって、参考書をあれこれ引き出し、仕事部屋が乱れてしまった後など、他の本にまぎれてどこかへ行ってしまうこともある。当座はそれなり忘れているが、ふと思い出して捜しにかかり、そのために半日つぶしてしまうようなこともあった。
 表紙のカバーは木版画で、背広にネクタイ縞ズボン、頭髪を二つに分けた背の低い先生が、屑籠兼用の踏台にのり、灯を入れた洋灯を天井につるそうとしている図が描かれ、『あかりをつけて』と、『夜学をはじめよう』という一行ずっの文字が、先生の左右に肉太に彫り出され、さらに左端に、『明治少年懐古』と、如何にも木板らしい題字が、大きく縦一杯に刷り込んである。
 先生がささげた洋灯のほやの、ほの黄色さのほかは、一面に朱をぼかしてあるので、昔の夜の感じが本の外にまでただよう。四六判百二十頁ばかりの薄い本である。」
 永井さんのこの本への愛着ぶりがにじみ出たような書き出しである。薄い本だけに、永井さんの言うとおり、すぐどこかへ紛れこんでしまう。私もそれをしぱしば経験した。しかし、かならず探し出して、座右におきたくなるのである。」

 この辺りの記述を読んでいると、編集者近藤氏の姿が垣間見える面白さと同時に、武田泰淳、永井龍男といった人達との編集者近藤氏の交流の有り様まで雰囲気が伝わってくる。今となっては、古き良き時代の作家と編集者の姿だなとも思える。そして、挙げられた両氏が共に川上本に深い愛着を持っていたという辺りから、川上氏の描いた世界が、両氏の世代にとっても忘れがたく愛着を覚えるものであったことが伝わってくる。私の微かに知る川上澄生という人のイメージは、正にここに描かれているようなものだ。
 版画で描き出される明治という時代の、それも自らの少年期の記憶というものが、同世代の人々にとっても同じように心に響く懐かしさを持っていたことが、この話でよく分かる。それは、明治期の洋灯という表現にあるランプの生活から、ガス灯にかわり、それが電気へと移り変わった早さであり、関東大震災と第二次大戦の空襲で完膚無きまでに古い時代の東京が姿を消していったことへの想いでもあるのだろう。今日の我々ですら、数十年の間に、社会の様相が大きく変貌することに晒されているが、こういったことが始まったのも、明治以降のことであるのも確かだ。

「川上澄生さんの謙虚で、はにかみをふくむこころの表出は、このようなかたちで吐露されたが、それは少年の眼にうつった東京の風物と無駄ではない。彼は靖国神社の祭礼や見世物に眼をみはり、浅草の花屋敷や十二階、植物園、百花園、飛鳥山、団子坂に、あるいは勧工場、活動写真館、公園に、また汽草、鉄道馬車、電車など、眼にうっるものすぺてに幼なごころを注ぎこんでいた。永井さんは『明治少年懐古』の著者を、画家であると同時に詩魂豊かな人と言ったが、少年のこころを、長い間持続してきたところに、川上芸術のすぱらしさがあり、人を惹きつける力がある。
 青山の住まいは長者丸だった。広い庭があって左隣りは麦畑、右隣りは牛乳屋、裏には水田をへだてて青山墓地があった。いわぱ青山台地の南側、奔町、霞町につづく谷の上にあったとわかる。長者丸とは昔からの俗称である。正確には青山南町五丁目だったというが、墓地を通りぬけると、麻布の三聯隊があり、鉄砲山とよばれる射的場があった。鉄砲山は子供の遊び場であった。東京の山の手といっても狐が住みついているような場所、「あの時分の青山はまだまだ田舎だった」とあり、川上さんの回想にはその静かな田園風景が描かれている。少年の感性にうったえるのは、ランプの光であり、汽笛の音、ラッパの音である。つぎの一節は、少年時代に感じとった詩情を大人になってもなおもちつづけていた彼の代表的な描写である。
「冬の夜更けに汽車の遠い汽笛の音を聴くと、雪が降つて居るな、と思ふのである。そして時に本当に雪が降つて居ることがある。
 又時々耳の中に喇叭の音が聴えて来ることがある。これは子供の時分にきいた青山墓地をへだてて聞えて来る三聯隊の喇叭の音なのである。雨の降つて居る時など何処かから本当は聴える筈のない野州姿川村の寓居にある僕の耳に三聯隊の螂夙の音が甦へるのである。かれこれ二昔も前のこと加奈陀のヴィクトリアといふ町に短人の居候をして居た時にも三聯隊の螂孤の音を聴いたことがあつた。
 喇叭は斯ふ云ふのである。『兵隊さんも軍曹さんも皆起きろ、起きないと大将さんに叱られるぞ』『床とつてしよんべんして寝え、床とつてしよんべんして寝え』」
 神田駿河台下で育った永井龍男さんは、九段坂の近衛聯隊のラッパの音を聞いている。それは台地から風にのって下りてくる響きである。川上本を読んで「兵隊屋敷」のラッパの音がよみがえってきたというが、明治の少年のそこはかとない郷愁がその音につつまれている。」

 麻布三連隊の痕跡は今も残されている。新国立美術館内に残る、三連隊兵舎の一部。


 これは南青山二丁目の玉窓寺。


 読んでいると、川上澄生の世界が、戦前の東京という括りではなく、それよりも溯る明治の東京である頃が次第に分かって来る。維新の後に空き家だらけになって取り壊されて畑になった山の手、そしてその直ぐ外側まで広がっていた武蔵野の郊外風景。それが青山まで続いていた時代の東京の姿であるところが、今となっては貴重な話であると言える。私の母親は、昭和の戦前の時代を麻布霞町で過ごしていたので、三連隊のラッパが聞こえてくる話は、よく聞かされたものだ。それが更に時代を溯ったところにも繋がっていくという辺りが、この面白さでもある。
 この時代まで溯っていけると、落語で出て来た狐のでる里である田舎びた麻布の姿まで行くのもあと僅かなのかもしれない。今の東京からは想像も付かない話だが、これにしたところでそう途方もない昔の話というわけではない。それにしても、かつての東京は町中に軍関係の施設の溢れる町でもあった。これは今となっては驚くほどに多かったことを、いま古い地図を見てもそう思う。
 最後の「大地から風にのって下りてくる」という下りが、いかにも下町っ子の近藤氏らしい。山の手の子はそれが当たり前であるが故に、台地とその坂下の構図をこんな風に文学的には捉えない様に思える。それにしても、兵隊屋敷というのが、いかにも明治の文明開化の時代を思わせる。そこから、明治、大正、昭和と転がっていく速度の速さには目が眩むほどにも思える。

 鉄砲山の跡。射的場とあるが、射撃演習を行う様に土塁で周囲を囲った細長い演習場であった。


「川上さんは自分の故郷を文明開化の日本だといい、それも明治中葉以後の横浜であり、東京の山の手だと語っていた。この故郷のなかに自分を見出して、おのれを語りつづけてきた。大正十年、字都宮中学へ赴任してからの英語教師としての自分をヘッポコ先生と名づけ、木版を彫りつづけても自分を画工とよびならわしてきた。自分を誇大に偉ぶってみせるところは微塵もなかった。その人となりについては、長谷川勝三郎氏をはじめ多くの教え子たちの語るところだが、生き方そのものが純粋で、潔癖で、明るさと憂愁にみちた詩情で色どられている。
 その長谷川氏が毎日新聞社印刷局長だったころ、一度お訪ねしたことがあった。『川上澄生全集』の相談をもちかけたのである。それは私の退社後、実現の運びとなったが、そこには川上澄生という人格人品にふれた人々のおもいかこもっている。」

 私自身、そして両親共に東京の生まれ育ちなのだが、そのルーツを辿っていくと、明治中期以降に東京に出て来た祖先が多い。そういった点から見ても、それ以前の文明開化期の香りの残る東京の姿は、また違った面白さがあるように感じる。明治中期以降になると、山の手の茶畑も次第に姿を消していき、近代的な大都会東京が出来上がっていく姿と言えるかもしれない。文明開化の東京は、江戸の雰囲気も色濃く残されているし、維新の影響も生々しい姿であったことも確かだ。そんな時代に育った川上氏の描く世界には、それだけでも興味を惹かれるものがある。深く知っているわけでもないと言いながらも、忘れることなどで着ないような独特のタッチの版画でもあり、やはり改めてじっくりと読みたいと想っている。

「川上澄生さんとは、東京で二度お目にかかったことがある。はじめは日本橋東急での個展、永井さんと同行した。もう一度は川上さんのほうから連絡があって、武井武雄氏の豆本頒布会に出席した。上野駅で川上さんを迎えて、虎ノ門のあるビルの会場へ出むいたのだが、はじめてお目にかかったときの、痛々しい足どりでほなかった。実に喜々としておられた。
 会場にはいると、川上さんはうしろの席に座って、けっして前のほうに行こうとはしなかった。そして、となりに座った私にこんなことをささやくのである。
「ここにいる人たちは、みんな親戚です。わたくしはその親戚の第一号です。親戚になりたくて、待っている人もいます。欠席すると、親戚ではなくなります」
 このひと言に、私は胸をつかれるおもいがした。」

 こんな話を読むと、編集者近藤氏のことがつくづく羨ましいと思える。良き時代の作家、挿画家、そして編集者。深い信頼関係結ばれており、一冊の本を作りだすことに重みのあった時代。一冊の本がある意味工芸品のように作られていた時代の良さと言えるだろう。この稿の中でもあった、少部数の特別版を製作する話などは、まさにその工芸品の良さが前面に出たものであると思う。中身がpdfで読めればいいのだからということではないのが、本の面白さなのだ。紙の手触り、印刷の具合、表装の質感などなど、多くの面を持っているのが本造りである。たしかに、データ化されて絶版で読めないという状況がなくなっていくことにも、大きな意味があるのは確かなのだが、本という物の面白さはデータ化できない要素として残っている。
 そして、ビジネスライクとは違った位相での、人としての存在を互いに感じている話であるところが、この話を輝かせているポイントになっていると思う。

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