東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(30)帝都復興計画

2012-12-16 21:52:42 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。前回から引き続いて、関東大震災の復興事業の中核にいた太田圓三という人に迫っていく。

「人柱。・・・・・・・・それはなんと重い言葉だろう。土木工事がまだ発達していなかった時代、架橋、築城、築堤にさいし生きている人を埋めて神に祈ったという故事から出ている。
工政会の倉橋藤次郎によると、「太田圓三君は夫人及び令息の不在中、小石川白山御殿町の自宅階下六畳の間に於て鋭利なる小刀を以て心臓部を一突きに貫いて自刃したと新聞は伝えた。家族によつて、然しそれは心臓狭窄症であつたと打消された。尚遺言はなかつたが、隅田川の工事だけは完成してから死にたいと始終口にしてゐたと発表された」とある。家族の動顛は極度に達していたとみえる。あまりにも突発的な事件で、世間にたいするためらいは想像を絶するものがある。復興局担当の隅田川六大橋をはじめ、区画整理や道路・橋梁の建設などもろもろの工事が進行中である。しかも難しい問題ばかりをかかえて、遅々としている。それを考えると、登茂子夫人の胸中には複雑なものがあったにちがいない。」

身近な人が自死を選ぶような経験があると、しみじみとそれが周囲に及ぼしていく悲しみというものが如何に重いのか、知ることになる。まして、働き盛りで、才能溢れる人物であっただけに、家族の悲しみがどれほど大きなものであったのか、それを思うと言葉がない。時代も今とは違っており、残された子供らのためにも世間体も重みがあっただろうし、なによりも本人が精神的に追い詰められていく中で、夫を救うことの出来なかった夫人には、悔いと苦しみが重くのしかかったのではないだろうか。

白山御殿町は、小石川植物園に隣接する町である。植物園が御薬園と呼ばれた徳川将軍家の薬草圓になる前に、五代将軍徳川綱吉の別邸であったことから、この町の名が付けられている。その名とは裏腹に、今は印刷関係の町工場の多いところでもある。植物園の裏手の高台まで町域が掛かっているのだが、太田家がどこにあったのかは分からない。
小石川植物園の一角に、東京大学総合研究博物館小石川分館が設けられている。


建物は、元々本郷キャンパスにあった医学部の建物が移築されている。明治初期の旧東京医学校本館であり、東京大学誕生以前からのもので、偽洋風建築という様式である。日本建築の工法で日本の大工が、西洋風に見える建物を造ったので、偽洋風建築と呼ばれる。昭和44年に移築されていたが、永らく公開されておらず、私も子供のころにあれは一体何なのだろうと思いながら、植物園の池でザリガニ釣りをしていたものだった。


親友の倉橋藤次郎は
「そしてさらに、なにもかもすべてが新しい経験である震災復輿事業にふれて、
「此種の大事業に於いては、四囲の事情すぺて充分の理解あり同情ある場合に於てすら、尚工事そのものに伴ふ幾多の困難がある。然るに帝都復興計画においては、震災直後よりして高位高官の人のうちにも随分訳の判らぬ事を教言、力説する者もあり、又政変相継いで方針が中々確立しない。政党は農村の御機嫌とりには一致するが、党勢の大局に影響のない此問題には一向力を入れやうとしない。力を入れないだけならばいゝが邪魔をしたり反対をするものも少なくない、其場合と雖も党幹部は之を止めやうとはしない。市民の方はどうかと云へば之亦積極的、建設的理想をもつ者は甚だ少なく、お互ひの努力と犠牲とによつて新帝都を建設しやうと云ふ自主的、自治的意気込に頗る欠如してゐる。之は昔の意気を尊んだ江戸ツ子気質が地に墜ちたのと、東京の主なる構成分子は地方人であつて、東京人であると共に夫々国をもつ者であり、必ずしも純真単一なる心を以て東京を愛着せる者でないからであらう。従つて自分に属する資産としての家、土地等を愛する事はあるにしても、果して田舎の人達が已れの村、已れの町、故郷の山川からさては一木一石にまで感ずる所の愛着心、郷土心を以て其市に対し、乃至少なくとも其住む町に対するものは、甚だ奇特なる少数人の外はないと云ふも遇言ではないのである。
即ち斯の如き市民が、復興事業に対する場合目前の利害得失に就ては頗る鋭敏なる判断を下すが、百年の大計とか義理人情などは余り頓着せず解せんとも努めない。偶々心ある人と雖も言ひ出して得にならず、町内から彼是憎まれ口を聞かれるがうるさいので、市の事、町の事と云へばなるべく触らぬやうにしてゐるのである。
かやうな状態の下に於て、今日日常市政の運用に於てすら中々面倒が多い。況んや復輿事業に於てをやである。」
この一節は太田圓三の追悼会に出席した人々のすべてに共通する悲憤であったとおもえる。」

関東大震災後の復興のあり方については、既に当時の生々しい話は忘れ去られて、都市計画の挫折事案として、また今日に至る東京の基盤が形成された時期として、想い起こされることが多いのだと思う。こういった話を読むと、当時の肌身に感じられていた復興事業の困難さというものについて、新たに考えさせられる。今の時代では、東日本大震災の復興が遅々として進まない現実を我々は目の当たりにしている。復興の先にある被災地の姿というビジョンもなく、本来そこに充てられるはずの資金は、名目だけが復興予算となって、他の用途に使われている。その状況が、かつてのこの震災復興期の状況にダブってくるようにも思える。
また、この中で出てくる、政党の農村のご機嫌取りが、しばらく前まで営々と続いてきたことも想い起こされたし、農村を見限ったときから、地方の荒廃が始まり、そこに襲いかかった未曾有の災害に対して、効果的な手が未だに打たれていないことなどからは、この当時と政治の果たすべき役割と現実の乖離など、何も変わっていないようにすら思えてしまう。
首都東京の復興という、やらないままに放置できない案件であったことに加えて、太田圓三氏を始めとする人々の力があったからこそ、復興事業は成ったと言える。であれば、今日の東日本大震災に対して、何が足りないのか、改めて考えてしまう。区画整理や道路の拡幅は、旧市街では大規模に行われている。その結果、ほとんどの人々の土地は削られ、道路に充てられることになった。その結果、近代的な都市の街造りと、防災上の配慮をされた街として、東京は再生されていくことになる。これも誰もが必要性を認めながらも、当事者であればどうにかして自分の土地だけは削られないように、ありとあらゆる抵抗をしていくことになるのだろう。もし同様の問題が今日あったとしても、こればかりはこの当時と変わらないどころか、さらに利己主義を剥き出しにした反応をしていくようになっているのではないかと思う。

これも震災復興時の事業で出来た東京の新風景であった御茶ノ水の聖橋。高架線で秋葉原の町を跨ぎ越えて行く総武線も、震災復興期に完成した路線である。


「内閣総理大臣の直属として発足した帝都復興院が廃止となり、内務省の一局としての復興局となったのは、大正十三年二月二十三日のことである。それは一月七日に成立した清浦奎吾内閣のもとでの明らかな格下げであった。人事もはげしく入れ替っている。後藤新平の去ったあとをうけて、復興局長官となった直木倫太郎は天才的土木技術家といわれた人だが、彼とても一年余で退き、顧問になった。復興院に拾ける帝都復興計画の原案作成から実施にいたるまでの経過を『帝都復興史』(全二巻、復興調査会編、昭和五年四月刊)によってみてゆくと、評議会、審議会での修正、議会での論戦、復興局新設など、わずかな時間のなかで、その動きは実にめまぐるしいかぎりである。そのさまざまな困難に立ちむかったのが太田圓三であった。彼は復興院から復興局へ、一貫して苦しい仕事をつづけている。もし彼が鉄道省にもどっていたら、あの悲しい結末を生まなかったであろうにという声もきかれたが、それは仮定でしかない。ただまっしぐらに進むだけだ。彼はまさに人柱になるつもりで新しい東京づくりに生命を賭けていた。」

東京の復興計画が、当初大規模な予算で「後藤の大風呂敷」と言われた巨大都市計画であったのに、予算は縮小に次ぐ縮小で、計画は竜頭蛇尾と化していったという話は、度々聞いてきた。バブル期の頃でも、東京という都市がまともな都市計画を実現することなく、膨張拡大を繰り返してきていて、さらに進行しようとしているという文脈の中でも、震災復興計画の話はよく出ていた。あの時、あれが実現していればと言うことなのだが、竜頭蛇尾といわれる中でも実現させたものがあって、それが今日の東京の骨格であることも事実である。そうであるからこそ、もっとあの時にという思いが募るのだろう。
そういった中で、現実に直面しながら可能な限り実現できる未来を具体化しようとする作業は、太田氏を始めとする人々によって為されてきたということなのだ。

「これらの追悼演説は、それぞれに真情がこもっている。ここでは直木倫太郎と倉橋藤次郎のふたりの話の一節を引いたにすぎないが、先輩、同僚、痴友はみな圓三の技術者として都市の将来をにらん定綿密さ、政治家肌の大胆さ、さらにその芸術的感性を語ってやまないのである。それはたんなる追悼の言葉ではない。日本の土木工学のあたらしい展開と都市の構想を、圓三をとおして語っているようにみえる。」

ここから感じ取れるのは、太田圓三という人が実に多くの人から敬愛されていたと言うことであり、震災後の帝都復興という重責に対して、真っ向から取り組み、成果を上げていたということでもある。さらには、その巨大な事業の巨大さ故からの様々な重圧に、圓三という人は押し潰されてしまったということなのだろうか。その重圧の凄まじさを、周囲の人も分かっていたということから、尚のこと、この人の夭折を惜しんでいるという面もある様に思える。

震災復興時に架け替えられた両国橋。両国橋は三連トラスの重厚な鉄橋であったが、震災復興時に現在の橋へと架け替えられている。それまで使われていた両国橋は、中央のトラス部分が亀島川の南高橋に転用されており、現在もその姿を見ることが出来る。


「それを具体的にしめすのは、圓三の唯一の著作『帝都復興事業に就て』(復興局土木部刊)である。はじめ大正十三年十月に刊行されたが、その初版にたいし、その後の事業進展の概況、新計画の確定など、あるいは工事現場の写真や図面をくわえて、翌十四年に改訂版を出した。これは十三年七月、土木学会での講演を基礎にしたというが、彼が復輿院に招かれてから短時日のうちにまとめ上げた計画書であり、政治的な官制の捷移、復輿予算の消極的な成立から技術的な問題にいたるまで、実地体験をとおしてすべてを網羅した東京構想の書である。」

今回、取り上げられている書籍は、前回から引き続いての「鷹の羽風~太田圓三君の思出」そして、この「帝都復興事業に就て」なのだが、どちらも未読のままこの稿を書いている。大正末に発刊されたもので、どちらも東京都立中央図書館に蔵書されているので、いずれ読んで来ようと思っている。今日の東京が一体どのような思想の元に構想され、実現されていったのかということを知ることの出来る貴重な資料と言えると思う。

隅田川の架かる橋の中でも、優美な姿を見せる清洲橋。


「世間では一般に後藤新平の震災復興計画として知られている。彼の東京市長時代の東京改造案が震災でくずれたあとの復興計画であった。四十億余円の予算は七億余にけずられている。さらに私利私欲にからんだ政治家の反対で、四億六八○○万になった。しかし復輿計画は太田圓三を中心とする人人の進言によって大きく動きはじめている。
圓三は東京・横浜の道路、橋梁、運河、公園、中央卸売市場(東京)、土地区画整理、バラック移転、地下埋設物其他街路工作物の整理、工事材料・機械器具類、防火地区、焼跡以外の都市計画(東京市郊外)、高速鉄道案、東京築港および京浜運河等々、二十三項目にわたって自分の専門上の所説をのべたのだが、おもしろいのはところどころに日本の現実にたいし率直な感想をもらしていることである。」

圓三の業績がどれほど大きなものであったのか、これだけでも分かる。震災以前の東京都心部、旧市街の地図を見ると、ほとんどのところで町割などが大幅に違っていて、今日の東京の町とは違う町を見ているようだと感じることが多い。当時の地図が現在のどこに当たるのかと言うことなど、単に現在の地図と見比べるだけでは判然としないところが多い。これが、昭和初期までいくと、この震災復興計画の出来上がった形になっており、町割から幹線道路に至るまで、今日見られる東京の町の姿がほぼ出来上がっている。道路、橋梁、運河、公園といったインフラの基本的な要素に、それまで日本橋にあって色々と問題を抱えていた卸売市場の築地への移転、土地区画整理は旧市街全域にわたる大規模な事業であったし、復興計画が策定されるまでの間、本建築が禁止されバラックのみが許された時期もあった。その後に本建築が許可されるようになって、今も都内各地に残る看板建築やマンサード屋根などの特徴的な復興期の建築が新しい東京の町を形成していった。圓三の構想の中には、それだけではなく、地下埋設物や郊外の都市計画、さらには高速鉄道案まで含まれている辺り、スケールの大きなものを感じる。東京築港に至っては、完成するのは昭和16年になってのことで、東京港というものが実はかなり新しいものであることに驚きを感じる。そして、そこにも太田圓三という人が思いを巡らせていたことに対して、その夭折が返す返すも惜しいものであったと、今日の目から見てもしみじみとそう思える。

相生橋から永代橋を望んだところ。太田圓三君碑が、当初この景色を眺めるように建てられていた事を思ってみると、感慨深い。太田圓三という人について知っていくと、よりこの景色の持つ意味合いを考えさせられる。


「それにくわえて、復興計画には、彼が日ごろから感じとっていた日本の文明についての考察がくみこまれる。
「大ざっぱな観察をしてみますと、一体に日本の文明は片輸であるように見受けられます。多大の金額を要する設備は一般に後れて居て、少額の金で間に合ふものはどんどん西洋から取入れております。是は全く国富が小であるからでもありませうが、吾々には非常に遺憾なこと存じます。殊に集団的に仕事をすべきもの或は公共的の仕事には、金が多くかゝるものですから、中々取揃つて居りません。仮令ば吾々自分の近い所から云つて見ますると、都市計画とか道路とか其他水道下水港湾等充分必要を認め乍ら中々取掛つて居りません。然るに自動車の如きは金持は自分の金で買へるものであるから、どしどし高い金で輸入されて此悪道路を尚更悪くして居ります。吹けば飛び相な家に住む主人はフロツクコート、モーニング、背広、紋付何や彼やと何十揃ひの衣物を持つて居ります。其細君は又御召や何かの柔かづくめで娘をも着かざらせて三越や芝居に参ります。
 此様な例を挙げますと際限がない程ある。基礎がしつかりして居ないのに、其上に進歩したものが走る。碌な住居もして居ないのに、無暗に着飾つて見ると云ふ様な不釣合な生活がざらにある。皆其元は纏つた金は集められぬけれど、個人個人なら勝手に出来る丈のことをして見られるからでありませう。一体東京の交通機関があれ程不備であり、高速鉄道の必要は万人認め乍ら、何日までも出来ぬと云ふことは如何な故でせうか。」
 これは外国の技術者を入れたことについての批判にたいする比喩的な弁明にみえるかもしれないが、彼は堅固な基礎工事をおこなわずして、なんの文明ぞやと訴えているのだ。日本には日本独特の気候風土と地形地質があり、固有の風俗習慣がある。アメリカ人をよんだのは外国崇拝ではない。アメリカはアメリカの、イギリスにはイギリスの、ドイツにはドイツの固有の技術がある。日本は自ら進むためには多大の失敗も重ねねばならない。犠牲を払うことも大いに必要であろう。外国のものを輸入するのはいいが、よくこれを消化したい。消化して自分のものとするように努力して、日本の技術を進歩させたいというのが太田圓三の考え方であった。」

この辺りの感覚というものが、つい最近まで、バブル期以前の日本には濃厚に残されていた様に思う。高度経済成長で社会資本の整備などは大幅に進行していったとは言え、どこか戦前以来のこういった感触が社会の中に残っていたように思う。インフラ整備が飽和した感覚を持つようになったのは、バブル期以降の変化と言えると思う。それにしても、その飽和感を持ち得た時期というのも実に短くて、今ではインフラの整備から維持に焦点が移りつつあって、その深刻さを増している。さらには、社会構造の変化などで巨額な投資をしたインフラが維持し得なくなって、鉄道などは廃止に追い込まれているところも多い。はたして、大正末からは大きく変化してきた現在の日本の社会を太田圓三が見たのなら、どういう感想を持つのだろうか。本質的には変わらないとも言えそうだし、違う課題を背負うようになっているとも言えるだろう。
この当時に、脆弱な地盤の隅田川河口付近に巨大な鉄橋を架けるには、アメリカの技術が最も進んでいたことから、一部の反対を退けて、彼はアメリカから技術者を招聘した。当時の日本の中には、明治以来のお雇い外国人にべらぼうな俸給を支払って海外の技術を学んできて、既に日本は一流国になったのだから、海外から技術者を呼ぶなど不必要だという風潮があったのだろう。だが、必要不必要を判断するには、世界の技術水準に通じて、それぞれを評価できなければ正しい判断には至らない。そういった知識、情報を持っていることこそが教養というものなのだと感じさせる。さらには、科学技術を通して社会の進歩を促していくことで、より良い未来が築けるものだという技術者らしい信念が感じられる。

「帝都復興事業はたしかに他に類例のない大事業であった。後藤新平は震災前のチャールズ・ビアード招聘につづき、震災後も彼に復興計画を托したことがあった。しかし予算はどんどん削られてしまう。太田圓三の描いた都市計画の夢も縮少をかさねている。あるいは高速鉄道網のような都市機能論も立案だけにおわってしまう。そのうえにたたみかけるようにやってきたのが、復興局にたいする批判であった。
 しかし彼は『帝都復興計画に就て』のなかで、おだやかな口調ながらも自分の信念をまげずに傲然と言い放っている。「此の度の震火災の如き、之を改造の機会に用ひなければ、滅亡に導かるべき大原因となるのではありますまいか。若し都市の興亡が、国家の興亡に直接関係する所甚だ大であるならば多少の犠牲を忍ぶ事は余儀ない次第と存じます。」」

関東大震災からは、既に九十年近い歳月が過ぎている。その後に東京は、第二次世界大戦による空襲を受け、再度完膚無きまでに破壊されている。だが、戦後には都市計画に基づいた大規模な施策は行われておらず、東京オリンピックにバブル期と、無計画で場当たりなことばかりが行われてきている。大正末に太田圓三という人が、巨視的な視野に立ったプランを立て実行してくれたお陰で、今の東京がある。改めて、その重みを噛みしめてみる。神田橋の太田圓三君碑には、大きな意味合いが込められている。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 文京区立千石緑地 | トップ | 北区王子、十条、赤羽を歩く »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

東京・遠く近き」カテゴリの最新記事