東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(54)「いろは」の兄弟(つづき)

2013-11-22 00:51:26 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回も明治の傑物、いろは大王の息子、木村荘太と荘八の兄弟についての続き。兄である荘太を中心にした話になっている。

「木村艸太の名をはじめて知ったのは、学生時代、古本屋でみつけた『アランその人と風土』というA5判一八○ぺージほどの冊子によってだった。木挽町の綜合出版杜というところで企画された「ヒューマニズム叢書」の第二冊、昭和二十一年七月の刊行である。その本には「アランヘの讃嘆を頒つ君に」として松浪信三郎への献辞があり、巻末の続刊予告には木村艸太訳のシャルル・ペギー『われらの青春』が出ている。刊行されたかどうかわからないが、『我々の青年時代』という訳題であった。松浪先生はそのころ、フランス哲学を講じていて、サルトル『存在と無』の特別講義で学生の人気をあつめていた。私はそんなことから、木村艸太という人は松浪先生の友人、どこかの学校のフランス文学教師ぐらいにおもいこんでいた。あの『濹東綺譚』の挿絵画家木村荘八の実兄、谷崎潤一郎の『青春物語』に出てくる木村荘太とはどうしてもむすびつかなかったのである。」

 木村荘太がペンネームに荘の字を艸に変えてみたりというのは、北荻三郎著「いろはの人びと」の中でも触れられていたのを思い出す。荘太という人は、父親荘平の影に怯え、最終的にはその重圧に押し潰された。父の名前から取られた「荘」の字を外してみたりというのも、彼にとっては巨大な父親の影から逃れる為の作為だったのだろう。私は、荘太の小説は読んだのだが、彼の翻訳の業績というのは知っているだけなので、こんな風に具体性のある話は新鮮に感じられる。「いろはの人びと」の中でも、万巻の書を読んだ、教養という意味合いでは正に巨人と言えるような積み重ねを持っていたのが、荘太である。

「大正十二年の震災のあと、彼は千葉県遠山村の三里塚のちかくに下総農場をひらいて、鶏卵癖化場を経営していた。世田谷千歳村の三四郎や狭嶺の「土民生活」に共感をいだいていたのである。昭和九年の冬、三四郎の元秘書、望月百合子(当時、夫君古川時雄と新宿でフランス書房を経営)が訪ねてきて、帰りがけに石油ランプひとつしかない薄暗い駅まで送ってゆくと、彼女は、
「ああ、トルストイが死んだところのような駅だ』なあ。蘆花も、日本のトルストイなら、こんなところで、死にやあよかつたのに」
 と言う。これは農村生活記『農に生きる』『晴耕雨読集』につづく『林園賦』(昭和十年、建設社)に出てくる一節だが、そんな冗談がとびだしてもおかしくないほどの、さびしい開拓地であったらしい。」

 荘太は、武者小路実篤の「新しき村」運動に共鳴して、そこに参加する。宮崎で始まった新しい村に加わるのだが、結局そこでの様々な内紛などもある中で、ドロップアウトしていく。そこに至るまでには、彼が腹違いの妹に恋愛感情を抱いてしまい、そこに非常な罪悪感を感じて、父親の奔放さなども含めた自らの血脈を負い目に感じていくというストーリーがある。そして、荘太という人は、生涯そこから逃げ続けた様に思える。自らに向き合っていくというよりは、逃げて逃げて逃げ続けて、最後に逃げ切れなくなって、自ら死を選んでしまった。人間の弱さということについて考えるなら、荘太という人はテーマとしてこれ程好適な人はいないだろう。
 農場を開いて、晴耕雨読を気取りながら、文弱で農作業を満足にこなすことが出来なかったという話も、「いろはの人びと」の中では語られていた。秋田出身の妻に全てを委ねて、自らは結局書斎の人であったという。荘太が落ち着いた三里塚は、後に成田空港が造られた、正にその辺りである。昭和初期のあの辺りは、未開の荒野の広がるところで、非常に厳しい環境の貧しい土地であったらしい。実際、ほぼ竪穴式住居といった方が良さそうな家で暮らす人もいたという。その荒野を開墾して、農業をしていくのは並大抵のことではなかった。そして、そんな荘太夫妻を支えたのが、後に空港建設反対運動でその名を知られることになる、戸村一作であった。その当時には、後にそんな運命が待っているとは、誰も想像すらできなかった時代のことである。そこを走っていた鉄道は、習志野の鉄道連隊が附設した軽便鉄道であったという。駅まで友人を迎えに提灯を持っていったら、狐火だと思ったと言われたという話も読んだ覚えがある。その軽便鉄道の駅が、ロシアの田舎の寂れた小さな駅とイメージが重なるものであったというのが、上記の話である。

莊太が暮らした成田三里塚。今は空港が出来て、高速道路が通っている。かつての軽便鉄道が走る鄙びた寒村だったとは思えないほど。


それでも、雑木林の奥へ向かう道を覗き込んでみると、荘太が歩いて来そうにも思える。彼の墓は、墓石もなく木の杭が立っているだけだという。


「木村荘八にとって、この兄は文学ごころ、絵ごころを植えつけてくれた人であった。牛肉店の帳場格子のなかで、兄の書棚から持ち出したモーバッサンやゴーリキーの英訳本を、辞書をひきひき読んだというが、家業見習いという重圧は彼に「日夜いい知れない憂悶」をいだかせていた。絵かきになりたいという希望をくんで、「いろは」総監督の長兄に談判してくれたのは、荘太であった。」

 とはいえ、その時期には父荘平は既に亡く、当主は二代目になっていた。その二代目は、話の分からないというタイプではなかったようだ。二代目も凄まじいことになるのだが、荘太が荘八のために一肌脱いだことは間違いない。荘八が、兄のことを一体どう見ていたのかというのは、非常に興味深いところだ。だが、荘八は数多くの文章を残していて、父荘平のことも書いているのに、兄荘太のことはほとんど書いていない。書いてあっても、あっさりと表面的なところに触れているだけ。敢えて触れないというところに、荘八の気持があるのだろうと思う。

「文学好きの荘太のほうもそれなりに家業の重圧に苦しんでいる。明治三十九年四月、父荘平が顎癌で亡くなってみると、「いろは」の縁者たちは大混乱におとしこまれている。将来の生活の保証、財産分与はどうなるのか。結局のところ、十歳年上の兄が全資産を相続して二代目荘平を襲名、荘太は両国の「いろは」から芝浦の家(料理の芝浦館、旅館の芝濱館、双方込めると間口は一町ほどあったという)にかよって、兄の下で綜合家政の仕事をつとめることになる。嫂は吉原の花魁上がりだった。「前身の遊里にも身を好んでわれから沈めたらしく、派手で、打算を顧みずに、意地張りの強いのを誇りにするような、旧江戸好みの跡をとどめる明治に生まれた姉御型、娼婦型の女」と荘太の回想にあるが、全「いろは」を掌握した兄夫婦はめちゃめちゃに金を使うために、相続したようなものだったというのである。」

 この夫婦の放蕩振りは凄まじいものであった様だ。荘平が一代で築いたものを、見事に使い切った。そのお陰で、いろは牛肉店は今日ではその痕跡がどこにも残されていない。店が経営的に統合されていたこともあると思うのだが、切り売りされたり、店を閉じたりということで、いろは牛肉店は呆気なく明治という時代と共に消え去ってしまう。
 芝浦の家というのも、現在の新橋駅と田町駅の間の海側で、当時は埋め立てが進んでいなかったので、シティリゾートとでもいうべき一角になっていたという。荘平の時代に、当時波打ち際に築堤を築いて走っていた鉄道の線路の際から温泉が湧いているのが見付かり、それを活かした温泉旅館や割烹が作られていった。後の芝浦の花街の始まりでもあった。ここも埋め立てが進行していったことで、景観が失われていき、リゾート風の温泉旅館は廃れていくことになる。

今の芝浦。線路に近いこのブロックが最初に埋め立てられていた。その中に芝浦館、芝濱館があった。その直ぐ先は海だった。


この近辺に芝浦館、芝濱館があったらしい。


これは、旧協働会館。かつての芝浦見番の建物。


「現世の亨楽と呪いと死の影はこの兄弟につきまとっているようにみえる。山城の茶道風流の血筋と化物のような事業家と江戸・東京の女たちの気風かかさなって、「いろは」各店の子供たちにはそれぞれの個性が生みつけられている。文学・芸術の趣向にかんしては、荘八の言葉によると、父方の「風流」の血は木村曙からはじまるというが、この荘太にあっても根づよいものがあったようだ。その文学的閲歴の端緒は、たまたま兄によってあたえられたというのである。
 明治四十年の秋になって、兄は、「文藝倶楽部」主筆の石橋思案を招いた。硯友社の仲問で、この人なら姉の曙を知っている。それを縁にして一日をすごしてみようという、荘太のためにはかったものであろう。「思案外史は名高い、美事な、驚くばかり大きな頭の顔に、鼻眼鏡をしてやって。きた。そして海岸の室で、私たちに昔を語った。それから芸者が侍べって、ひとくさり」と荘太の自伝に出てくる。これが機縁となって、芝・紅葉館での紅葉祭(十月三十日、紅葉の命日)に招待されたというのである。「いろは」の兄弟は思案の案内で「あれが鏡花、あれが風葉」と教えられたのだが、なかでも荘太の注意をひいたのは、巌谷小波門下の新進作家生田葵山だった。美しい芸者たちにとりまかれている。そのなかの
ひとりに、荘太の小学校時代の同窓の女性がいた。「私にはこの作家の倶向の新らしさのほかにも、近しさの感じられる興味が二重に働らいた」と書いている。」

 こんな風に、二代目荘平はなかなか物わかりが良かったようだ。初代の荘平については、幅広い分野で活躍した実績については書かれてきているが、その人柄などはあまり生々しい話は聞こえてこない。人となりというのが、今ひとつ分からないのが残念だ。そして、木村家には曙という伝説があった。曙は、荘平の長女で栄子という名であった。荘平の上京前に神戸で生まれ、東京女子師範学校附属高等女学校に通い、フランス留学に誘われるが、荘平が許さなかった。失意の中で、彼女は婿を取らされ、そして離婚をし、明治22年に小説『婦女乃鑑』を書く。だが、その翌年に僅か18歳で病気のために生涯を終えてしまう。このことは荘平にとっても大きな痛手であったという。我が国における女流作家の草分けの一人でもある。
 芝・紅葉館という名が出てくるが、これは現在の東京タワーのあるところにあった割烹旅館である。明治時代には有名で繁昌していた。そして、ここの経営を一時、長谷川時雨の母が請け負っていたという。ただ、その心労が大きかったので、手を引いたという。明治の江戸以来の東京ということを思うと、長谷川時雨という人も抜きには出来ない人だが、木村家の人たちとは同じ日本橋と言えどもあまり交流はなかったようだ。やはり、日本橋の中心部で生まれ育った、代々の由緒正しい日本橋っ子の時雨と、際物的な知名度の高かったいろは大王の息子達の間には微妙な緊張感があったのだろうと思う。
 これを契機に、荘太は次第に文壇の人々と交流を持つようになっていく。

「浅草瓦町に住む小山内薫、新片町に住む島崎藤村のところへ出入りするようになったのはそれからである。「私には、小山内氏は八つ年上、藤村氏は十七の年上だったから、前のは兄ぐらいに見え、あとのは私になかったおじぐらいに思われた。で、そのころ私は心を優けて、それから私が愛顧を受け得た、こういうふたりのひとを愛慕し、敬重した」と書いている。薫からは外国文学を中心とする芸術上の知識を、藤村からは人生上の実践という点で教えをうけて、龍土会にも出席した。外国語学校に行きたくても家業「いろは」の事情から望みをかなえられなかった彼にとって、二人の先輩作家への師事は大学で学ぶよりも大きなものがあったとおもわれる。瓦町も新片町(柳橋のうち)も、彼の住む吉川町とは神田川をはさんで眼と鼻のさきであった。」

 小山内薫という人は、以前この「東京・遠き近く」でも取り上げられていたが、九段の生まれ育ちで、山の手の人である。そして、下町の魅力に虜になった人でもある。それだけに、江戸以来の東京の下町の空気を身につけた荘太を好ましく思ったところもあっただろう。藤村については、後年藤村の没後に自らの妹との関係に悩んだことなどを重ねて、批評的なことを書いているのも面白い。藤村の人柄と荘太という人の対比が、ユニークな気がする。そして、それを藤村の没後に書く辺りが、いかにも荘太らしいと思う。

彼らの生活の舞台となった神田川の最下流部。奥に見えるのが柳橋。右手が旧日本橋区。


「小山内薫のあとを継いで、明治四十三年九月、当時の東大生たちが第二次「新思潮」をおこしたのは、谷崎潤一郎の『青春物語』にくわしい。荘太がそこにくわわったのは、同人のひとり千代田小学校の同級生後藤末雄から、小山内薫との橋渡しをたのまれたことが発端である。そのころ薫は瓦町を去っていたが、後藤といっしょに仕事先の稲毛の旅館に訪ねると、よろこんで承諾してくれた。彼の書くものは、当時ことごとく発禁の憂き目をみていたので、「新思潮」の継承者があらわれたことに、かえって勇気づけられたといえるかもしれない。小山内薫は第二次「新思潮」に作品やエッセイを寄せ、妹八千代の夫、岡田三郎助には創刊号から五号まで、表紙意匠をたのんでいる。この雑誌に島崎藤村が北村透谷の故家(京橋槍屋町)、斎藤緑雨最後の家(本所御蔵橋)の写真解説を出したのも、荘太の縁であった。荘太は兄の写真道楽を利用し、藤村の指定でその現場を録りに行っている。そこは藤村にとって想い出の深い故人の家であった。
 雑誌発行の資金は谷崎潤一郎が小学校時代の友人笹沼源之助に援助をたのんでいる。「いろは」の若旦那も援助を惜しまなかったが、その功績をあげると、まず第一に芝浦の芝濱館に編輯所をおいたことであろう。谷崎、後藤をはじめ大貫晶川、和辻哲郎、小泉鉄らはみなそこを根城にしていた。
「創刊号が出る前に、私は或る日『刺青』の原稿を懐にして木村を訪ねたことがあつた。木村の居間は芝浦の海に面した芝濱館の階下にあつた。夕方、まだ電灯のつかない時刻に、木村は薄暗くなりかけたその部屋の柱に寡れて、二十枚ばかりのその原稿を手で支へながら一と息に読んだ。読んでゐる間彼は一語も発しなかつたが、読み終るや否や『こんな面白いものを読んだことがない』と、興奮しきつた口調で云ひ、『君、握手しよう』と、いきなり私の手を握つた。」
 と谷崎は書いている。第二次「新思潮」の一員としての荘太の熱っぽい性情はこんな場面にもあらわれるが、谷崎によれば「暇に任せて外国の文学書を漁り、欧洲文壇の趨勢に通じてゐたことは我々の中の随一であつただらう」というのである。荘太の回想では、谷崎潤一郎という人物は、ひと目みただけで「ただものではない様子を見せていた」とある。」

 この第二次「新思潮」に参加したことは、荘太にとっても大きなターニングポイントであっただろうと思う。なによりも、このことによって谷崎潤一郎という巨人と出会うことになる。そして、荘太自身も創作意欲を持っていたはずなのに、そこに邁進していくというわけではない印象を受ける。折角のいいチャンスを得たところで、自分も世の中に漕ぎ出していこうという野望とか、そういったエネルギーを荘太からはあまり感じない。むしろ、谷崎という巨人の前で萎縮していくように見えてしまう。荘太の処女作「新生」は読んでみたが、正直に言えばあまり面白いとは思えなかった。やや観念先行というのか、頭の中と現実がシンクロしていないような、空回りするような感触を感じた。とはいえ、当時の最先端の情報を知悉していたといわれるような、当然のことだが原書を読みこなすだけの教養を持っていたことを忘れてはならない。荘太は、ただの裕福な家の甘ったれた青年というわけではないのだ。
 そして、谷崎という巨人に出会ってしまったことで、荘太は自分の創作に自信を持てなくなっていったのではないかという気がする。元々、精神的に自分が一番だと信じて押しのけていけるような強さ、無神経さとは無縁の性格である。そこで、谷崎を目の前にしてしまったのは、荘太にとっては幸運だったとは言えないのではなかろうか。とはいえ、文壇の人たちとの交流があって、その結果として第二次「新思潮」に関わるようになっていったことを思うと、いずれ天才的な才能を持った人物に出会うことになるのは必然であって、そこで挫けていく荘太はそうなるのが定めであったのかもしれない。
 そして、その姿を黙って見つめていたのが、弟の荘八であったのだろう。荘八は文学に道を選ばず、画家を志す。そして、岸田劉生という天才と出会う。ここに、二人の兄弟の運命を感じるのだ。荘八と劉生は永らく、本当に親しく四六時中一緒に遊び回る程に仲良く付き合っていくのだが、荘八は劉生と袂を分かつことを決意する。それは、自らも画家として立つために天才劉生の影から出ていかなければならないことを自覚したからだろう。

「荘太にとってのあたらしい文学仲間は、明治四十二、三年の文学情況のなかで生まれている。ことに外国文学との接点から創作を考えようとしていた青年たちの集まりとしてに特徴づけられる。と同時に第二次「新思潮」の雰囲気は、蠣殻町生まれの谷崎潤一郎、両国吉川町生まれの木村荘太、おなじく薬研堀生まれの後藤末雄の三人の生粋の日本橋っ児によってかたちづくられている。東京の下町の話がはじまると、和辻哲郎や大貫晶川は田舎者扱いだったと潤一郎は書いたが、三人の作品には下町の色彩が投影されていたのだった。」

 木村荘太は、両国吉川町の生まれではない。神田橋にあったいろは牛肉店が荘太の生まれたところだが、神田の大火で焼失してしまい、彼の母親は両国広小路の第八いろはへと移ったのだった。そこで生まれたのは、弟の荘八である。育ったのは両国吉川町と言えるのだが、吃水の日本橋っ児というのは、残念ながらちょっと違う。そして、代々の江戸っ子であった谷崎とは、その意味からも引け目を感じていたことだろう。弟の荘八は、後に歌舞伎の舞台の時代考証など、江戸からの下町文化の第一人者のようになっていくのだが、自分では父親は京都から来ているから、自分は江戸っ子という訳ではないと書いている。
 この辺り、谷崎は排他的なセンスを持っていなかったから、荘太と下町の仲間として感じていたのだろう。長谷川時雨は、やはり日本橋でも、その中心部の出身であることがそのプライドとして表れていると言えるだろう。また、その時代の「まともな家で育った」感覚でいえば、木村家の様な得体の知れない家は格下に見るところもあっただろうと思う。木村曙のことで、時雨が彼女を美人伝で取り上げながら、栗本鋤雲の娘という説があると書いたのも、背景にそういったものがあることを理解しておいた方が良さそうに思える。

荘太の生まれた神田橋のいろは牛肉店も焼失した神田大火の慰霊碑。


文京区本郷の春日局に縁の深い、麟祥院というお寺に慰霊碑は残されていた。


「第三号にはReal Conversation、第二のReal Conversationと題する同人たちの対話がある。場所は「芝浦、新思潮編輯の用に宛てる木村の書斎」であり「下町の大通のあるレストラン」であった。木村荘太のほか谷崎潤一郎、和辻哲郎、大貫晶川らが登場して、文学芸術を語り、自作の抱負を語っている。そのなかにこんな会話が出てくる。

 木村 僕も何かやらなくつちやならないな。僕は谷崎が徳川時代の形式を借りて書こうとするやうなデカダンな心持を矢張り現在の自分にして書いて見たいな。江戸なんざあどうでもいい。僕の心を引くのは殺風景な煉瓦作りの間になつかしい土蔵の残つてる東京だ。
 谷崎 所謂ヤング、トオキョオだね。
 木村 ヤング、トオキョオに二種あるね。
 和辻 島崎さんの何かにあるぢやないか、澄んだ江戸ツ子に濁つた江戸ツ子といふのか。
 木村 つまりそれだ。(そろそろ巻き舌になる)谷崎は土蔵だよ。今度君の事を書くかも知れないぜ。
 谷崎 僕のなにを。
 木村 君が緒婚するのに代々の血を汚したくないつてんで、女を探しあぐむ処さ。其処へゆくと僕は違ふよ。僕の愛する母系の血はペエルに依って汚されたんだ。昔カントリイから首府にあこがれて湧いたその血が、一面の僕をヨオロツパと凡ての近代といふものに走らせるんだ。

「いろは」の兄弟、ことに荘太を考えるうえでのおもしろい発言である。谷崎は純潔の江戸っ子の血を守ろうとしているが、自分の出生はそうではないと断言してはばからない。荘太はそのころ異母妹と結婚していたが、またほかの異母妹との愛欲に苦しんだ人であった。両国吉川町の第八「いろは」、浅草広小路の第十「いろは」、そして芝浦館・芝濱館での生活をとおして、文学とデカダンスと、そしてモラリズムの相克にのたうちまわっている。」

 やはり、こんな感じで、荘太は自分のコンプレックスを告白している。問題は、ここでは軽やかに言い放って見せていながら、実際には荘太はそこに向かい合ったり、突き詰めたりと言うことが出来ない。その辺りの甘さというのが、荘太の弱さであって、その弱さ故に私は荘太に惹かれる。才能に溢れ、常識人であり、しかも強い谷崎の文学は、正に文学というに相応しいと思うのだが、その前で立ち竦む荘太に人間の心のあり方を感じる。荘太と荘八の兄弟では、荘八の方が取り上げられる機会も多いし、著作ですら兄を遙かに上回っている。私も荘八の全集は持っている。そして、荘八の文章は面白い。だけど、荘八のことを掘り下げていくときでも、この兄の存在、そして生き方を知らなければ荘八の心の内にも決して近づくことが出来ないだろうという気がする。

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