東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

足立区千住緑町

2014-08-04 19:16:53 | 足立区
足立区千住緑町は、一丁目から三丁目までの町域を持っている。墨堤通りの外側で、隅田川が千住大橋に向けて大きく蛇行している、そのカーブの内側のエリアにある町である。この辺りは戦災の被害が大きかったところで、奥まで足を踏み入れなかったのだが、この町の成り立ちなどを知ると、いずれ改めて訪ねてみたくなった。撮影は2014年3月に行った。
「足立の今昔」(足立区役所編昭和54年刊)に詳しく書かれているので、引用しておく。
「千住緑町と京成西千住駅
 千住緑町は隅田川沿いにある。ここに町名がついたのは昭和六年、五十年にも満たない町だ。町名が物語る通りそのころ一帯は緑の原っぱだった。人家と言えば現在の北千住公園入口の西側付近に民家が二列くらい建っていただけだ。
 その公園入口のあたりは当時、蓮田が一面に広がっていた。そして公園は隅田川の拭き上げ工事による埋め立て地でデコボコした砂原だったが、春先になるとここでよくヒバリのさえずりの訓練が行われていた。そんなことを覚えている古老はこう述懐する。
 「どうせ都心からの客だったんだろうが、乗用車にヒバリの籠を積んでやってきていた。その竹籠っていうのは細長くて高さが一メートルくらいもあったろうか。上は竹ではなく網が張ってあったよ。その籠から出されたヒバリはさえずりながら舞い上がり、ようやく地上に降りてくると不思議にその籠に戻ったものだ。だが、子供の騒ぎは禁物だったとみえて、私ら子供が近づくと良く追っ払われたものだ。」

 このようにのんびりしていた緑町が活気を帯びてきたのは京成電鉄の開通だ。もともと京成電鉄は押上~成田間の鉄道だったが、かねてから都心進出が願いだった。ちょうどその前に筑波高速軌道会社が田端から筑波山までの鉄道路線を認可され未着工のままだった。
 京成電鉄はこの権利を買収してから、起点を日暮里に移し、さらに上野公園地下まで延長して認可を受けた。いよいよ着工、急ピッチの工事が進められ。一方、緑町は京成電鉄不動産部によって区画整理が始められた。
 隅田川の鉄橋が開通すると間もなく貨物電車が土砂を運んできては、緑町の線路ぎわにおろした。この土砂は日暮里~上野公園駅間のトンネル作りで生まれたもので、この土砂によって町造りがどんどん進められた。こうしてみると緑町の街は、上野の山の土砂と、隅田川の川砂で造成されたと言っても過言ではなかろう。

 こうして町づくりや線路工事も進んだ昭和八年十二月十日、京成電鉄は開通し、区内に京成関屋、千住大橋、西千住の三駅が設置され房総方面との連絡が密になった。緑町地区には西千住駅が開設された。現在の緑町二丁目交番の付近だ。同時に整備された土地は分譲地として京成電鉄不動産部から売り出された。道路が十字に直交する区画整理された土地で、住宅地としての分譲されるのは区内はもとより、都内でもはしりだった。このためか、当時の住宅公団とも言うべき同潤会がこの分譲地を買い上げ、今風の土地付き建て売り住宅をはじめた。建物の中には尺貫法ではなく、メートル法使用の和風住宅があり、当時モダンな住宅として話題になったものだ。
 こうして緑町は京成電鉄を軸にして発展した区内でも珍しい町だが、昭和二十二年にこの交通の中心、西千住駅は廃止された。
 この千住緑町は巻の野(牧野)とも呼ばれ「千住出てから巻の野迄は、竿も艪舵も手にゃつかね」と千住節に歌われるように、ヨシやアシが繁り水の出やすい場所でこの辺の田は「小便田」などとも呼ばれていた。税金が高い割には収穫が少なく、所有していることさえ大変で。田のくねで小便をしようものなら「お前の小便したところの土地を持っていけ」といわれた。また「坪三十銭、酒二本をつけて引き取ってもらった」という話も聞いた。この地が遊郭の最初の指定地であったことを知る人も少ない。」

墨堤通り沿い、隅田川のカーブに合わせる様に、この道もカーブしている。その内側。居酒屋花。小さな店だが、奥にモルタル仕上げの二階家がくっついている。千住緑町二丁目6。


逆側から見たところ。こちら側にも平屋の店舗がくっついている。奥に見えるモルタル二階家が気を引く。千住緑町二丁目6。


その少し北寄り、墨堤通りの千住緑町交差点の角、木造モルタル仕上げの看板建築、鈴木薬局があった。この日はお休みだった様だ。この向かい側には、靴のメーカーとして有名な、ハルタもある。千住緑町二丁目10。


店舗上の一部が二階、後ろ側は平屋という構成になっている様だ。窓周りなど、モダンな雰囲気の造形になっている。千住緑町二丁目10。


横手に回り込んでみたところ、墨堤通りから坂道が下っていることが分かる。千住緑町二丁目10。


かつての堤防であった墨堤通りの高さから下がると、隅田川の氾濫原だったエリアだけに、フラットな地形が向こうまで続いている。千住緑町三丁目1。


その直ぐのところにあった木造モルタル仕上げの二階家。仕舞た屋のようだが、戸井田商店の文字看板が取り付けられている。千住緑町三丁目1。


更に千住緑町三丁目の端っこの辺りに、緑湯があった。唐破風の立派な屋根。この北寄りは、もう千住桜木一丁目になっていく。千住緑町三丁目28。


この千住緑町に暮らした人たちの生活を支えてきたのだろうか。千住緑町三丁目28。

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3 コメント

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Unknown (キブロワイト)
2022-05-22 19:35:55
正和自動車教習所の隣(現在歯医者)にあったラーメン屋の名前、憶えてらっしゃらないですか?L字形のカウンターのみの小さなラーメン屋だったんですが。昭和の終わりまであったはずなのですけど
Unknown (kenmatsu_fs)
2022-05-23 06:27:16
私は地元民ではないので、残念ながらわかりません。お役に立てませんで、申し訳ない。
Unknown (キブロワイト)
2022-06-12 17:59:31
あー、そうなのですね。しかし、懐かしい風景が見れて胸がいっぱいになりました。ありがとうございます!

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