足立区千住橋戸町の続き。その名の通り、千住大橋のたもとの町である。そして、江戸以来の宿場町の一角であり、隅田川水運の要衝でもあった町。今は都心部に程近い交通の要衝であり、マンションの建ち並ぶ町へと姿を変えている。その千住大橋から少し北へ進んだところを西へ入って行く道がある。昭和22年に撮影された空中写真を調べてみると、国道4号線沿いの一角は町並ごと空襲の被害を免れているエリアがあるのだが、戦後に大きな道が西へ通されていたりして、大分様変わりしていった様だ。
その道沿いの建物も大半は建て替えられているのだが、中に一軒、掃部宿からの歴史ある町であることを感じさせてくれる様な、切り妻屋根の木造二階家があった。千住橋戸町40。
リフォームされていて、側面はモルタル仕上げになっていたり、こちら側は波板が貼られていたりするが、屋根瓦も重厚な雰囲気。そして隣には小さな祠も祀られている。周囲には高層マンションが聳えているのが分かる。千住橋戸町40。
そして、文字通り千住大橋のたもとには、奥の細道の出発地であることを記念した「奥の細道矢立初めの地」の記念碑などが整備された、小さな公園がある。千住橋戸町31。
「史跡 おくのほそ道矢立初の碑
千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ
行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なをすすまず。人々は途中に立ならびて、後ろかげのみゆる迄はと見送なるべし。」
そして、その奥に進んでいくと、堤防を越えて隅田川の水辺へと下りることができる様に整備されている。「千住大橋際歴史資料空館」と名付けられている。
堤防の壁面には、奥の細道へと旅立つ芭蕉の姿が描かれている。
千住大橋の下には、水面にブイが浮いている。これは木橋時代の橋杭が今も水中に三本残されている証しとのこと。昭和2年に震災復興計画で鉄橋に架け替えられたのだが、その時に残ったものだという。
昭和2年に架けられた鉄橋の千住大橋。鋼タイドアーチ橋という構造。
さて、千住大橋の下を歩き回って戻って、国道4号線が大きく左へとカーブしていくところ。足立市場前の交差点になっている。旧道はここを真っ直ぐ北上していき、新道は左へ逸れて宿場町をバイパスして行くルートを取っている。千住橋戸町50。
その千住市場の前にも、芭蕉の石像が飾られている。かつては、この千住宿南側が千住市場であったのだが、今はこの市場にまとめられている。千住橋戸町50。
その道沿いの建物も大半は建て替えられているのだが、中に一軒、掃部宿からの歴史ある町であることを感じさせてくれる様な、切り妻屋根の木造二階家があった。千住橋戸町40。
リフォームされていて、側面はモルタル仕上げになっていたり、こちら側は波板が貼られていたりするが、屋根瓦も重厚な雰囲気。そして隣には小さな祠も祀られている。周囲には高層マンションが聳えているのが分かる。千住橋戸町40。
そして、文字通り千住大橋のたもとには、奥の細道の出発地であることを記念した「奥の細道矢立初めの地」の記念碑などが整備された、小さな公園がある。千住橋戸町31。
「史跡 おくのほそ道矢立初の碑
千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ
行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なをすすまず。人々は途中に立ならびて、後ろかげのみゆる迄はと見送なるべし。」
そして、その奥に進んでいくと、堤防を越えて隅田川の水辺へと下りることができる様に整備されている。「千住大橋際歴史資料空館」と名付けられている。
堤防の壁面には、奥の細道へと旅立つ芭蕉の姿が描かれている。
千住大橋の下には、水面にブイが浮いている。これは木橋時代の橋杭が今も水中に三本残されている証しとのこと。昭和2年に震災復興計画で鉄橋に架け替えられたのだが、その時に残ったものだという。
昭和2年に架けられた鉄橋の千住大橋。鋼タイドアーチ橋という構造。
さて、千住大橋の下を歩き回って戻って、国道4号線が大きく左へとカーブしていくところ。足立市場前の交差点になっている。旧道はここを真っ直ぐ北上していき、新道は左へ逸れて宿場町をバイパスして行くルートを取っている。千住橋戸町50。
その千住市場の前にも、芭蕉の石像が飾られている。かつては、この千住宿南側が千住市場であったのだが、今はこの市場にまとめられている。千住橋戸町50。
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