東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

足立区千住橋戸町~その一

2014-08-05 19:27:34 | 足立区
足立区千住橋戸町は千住大橋のたもとに当たるエリアで、ここしばらく見てきた日光街道の西側の千住宿の耕地であったり、隅田川の氾濫原であったりといったエリアよりも古い時代から開けてきている歴史がある。千住の南側の一帯を千住掃部宿という。「千住の民俗」(足立区立郷土博物館発行)から引用する。
「●千住掃部宿
 熊谷堤の外側一帯の町である。慶長三(1598)年に石出掃部介吉胤が本木村から移って拓いた掃部新田がはじまりで、万治元(1658)年に千住掃部宿として町とな宿場の一部となった。町域は現在の千住仲町を中心に東西に広がっている。字名は堤内東、堤外東、堤内西、堤外西と字牛田の一部である。(現関屋町、東、宮元町、緑町の各一部)。なおかつての掃部宿氷川神社(現仲町氷川神社)の祭礼では、掃部宿のうち河原町、橋戸町を除く地域で神輿の巡航がある。
 ●千住河原町と千住橋戸町
 両町は元もと掃部新田(掃部宿)の一部であったが、いずれも掃部宿の「高内」(石高の内)とされ掃部宿の枝郷であった。万治元年の掃部宿の町立てに伴い、両町も町となった。掃部宿の高内であることは江戸時代を通じて変化はなかった。こうした成立経緯から、江戸時代に成立した八か町の中で面積が小さい。しかし河原町には市場が形成され、橋戸町には物資が集散する河岸場があったことから経済力は大きかった。」

まずは、千住大橋のたもとをすこし西へ行ったところにある橋戸稲荷神社を見てみよう。千住橋戸町25。
「橋戸稲荷神社と伊豆長八の鏝絵   登録 昭和五十七年十二月
 当社は、昔この地の半農半漁の開拓民が、稲荷の神を勧請し延徳二年(一四九〇)の創建という。もとは千住河原の景勝地に本殿のみが建立されていたと伝わる。
 江戸時代、千住が宿場になると、社の付近に、上流の飯能・秩父・川越方面から物資が陸揚げされ、この辺りは、継場として栄えた。
 文禄三年(一五九四)千住大橋が架けられると、人馬の往来が数多くなり、宿場を通る人々や、河川の小揚組などの信仰を集め今日に至った。
 文久三年(一八六三)拝殿の前扉に、当時鏝絵の名工として名高かった伊豆長八の創作で白狐が彫刻された。伊豆長八の作品として、数少ない貴重な遺作である。
 平成一六年三月  足立区教育委員会」


境内はそれ程広大というわけではないが、まとまりのある雰囲気で手水舎がまず手前にある。左手には橋戸町会館がある。


手水舎は立派なもの。周囲の雰囲気も、この辺りだけ往年の面影を残している様に思える。


境内の石碑の碑文
「橋戸稲荷神社縁起
この車は、延長四年(九二六)に創建された、千住では歴史の古い神社である。初めは千住の渡し場のほとりの小高い丘に小さな社が造られ、土地の開拓農民や荒川の上流から江戸に荷物を運ぶ船頭達の信仰を集めた。祭神倉稲魂命と称し、本殿は延徳二年(一四九〇)拝殿は文久二年(一八六二)に建立された。現在の本殿は、土蔵造りで扉を開くと左右に伊豆長八の雌雄二匹の狐と稲穂の漆喰の彫刻が見られる。懐古本殿五〇〇年、奉祝天皇陛下御即位大典(皇紀二六五〇年)を記念し、総代氏子中が集い祝祭を上げ茲に縁起の碑を建立する。
 平成二年九月十五日 鯨岡兵輔書」


拝殿。この奥の本殿が、足立区では唯一という土蔵造りのもので、足立区の有形文化財に指定されているという。写真撮りそびれてしまった。


扁額。


拝殿前にあった鏝絵のレプリカ。これはいつでも見ることが出来る。



昭和27年の太鼓新調記念の奉納額。


昭和2年の太鼓新調記念の奉納額もあった。


入口の石柱の裏には、明治一七年の銘が彫られていた。


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