東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(73)東京の地形

2015-01-02 22:27:11 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、東京の地形、そして荷風へと話が進んでいく。

「 花の雲鐘は上野か浅草か
 私の家では、春になれば一度はかならず花見に出かけていた。妹と私が両親のあとをついていくのだが、ときには住み込みの、工場の職工さんもいっしょだった。行く先はたいてい墨田堤か上野の山である。飛鳥山にも行ったことがあるが、かすかな記憶しかない。
 小学二年生のとき、綴方の時間に花見を書いたことがあった。担任の高木先生は作文指導に熱をこめていた方で、見たこと、思ったことをありのままに書きなさいと教えてくれた。自由題だったので、私はつい先日、出かけたばかりの隅田公園を書いた。桜の枝のあちこちに短冊がぶら下っている。そこには和歌とか漢詩などが書かれていた。私には読めなかったが、たぶんそんなものだったろうとおもう。そのなかでひとつ、読めるものがあった。
「さくらは日本の花。たいせつにしませう。」
 ところが、花の下の酔っぱらいはその枝をもぎとって、振りかざしながら踊っていたのである。
 教えられたとおりに、ありのままを書いたにすぎなかったが、高木先生はたいへん褒めてくれた。そして学校の掲示板に貼り出してくれた。私は恥ずかしくてしようがなかったが、内心うれしかった。」

 近藤氏の文学表現の揺籃について、といった趣のところだ。幼い日に夢中で書き上げたものが認められ、誉められるという経験は、やはりその人の人生を確実に豊かにしてくれるものになると思う。そこで認めて貰えたことが、何かを書いて表すことに対しての自信にもなり、その喜びの源泉とも言えるだろう。
 近藤氏は、清住町の住人であったから、隅田堤は庭のようなもので、その少し先が上野の山、飛鳥山は遙か彼方という距離感だろうか。

「東京の花の名所からこんな記憶がよみがえってきたが、私が子供のころにおぼえたのは、東京の地形のおもしろさだった。ふだん平地で暮していたためか、坂道を知らなかったからである。坂を登るとき、降るときの眼にうつる風景の変化は、ちょっとたとえようのないほどの爽快さがあった。清洲橋や万年橋、高橋のような橋の上り下りとはまた別のものであった。その感触はたいへん心地よかった。」

 この辺りは、武蔵野台地の上で育った私にとっては正反対の感覚で、非常に面白いところだ。ちょっと行けば直ぐに坂があって、下れば必ず上らなければならないという、坂が付いて回る感覚がある。下りの爽快感に対しての、上りの鬱陶しさというのもあって、素直に坂道が好きだとは言いたくないような気分があるのだが、その一方では坂の上からの見晴らしの気持ち良さは棄て難いとも思う。それだけに、隅田川界隈などに出掛けていった時の、あの限りなく平たい地面が続いているような感触は何とも不思議に思えるものだ。

「最近、吉行理恵さんの「靖国通り」(「新潮」平成七年十二月号)という作品を読んだ。「市ヶ谷駅から斜めの方向にある広い上り坂の途中に生家はあった。いまは同じ町内だけれど横町に棲んでいる」と書き出して、九段・麹町台地の地形とともに、父吉行エイスケと、美容師の母あぐり、兄吉行淳之介の想い出、坂にまつる清景を書きこんでいる。その歴史、地誌、人物におもいをはせた、おもしろい作であった。そのなかに九段坂の上と下に貝塚跡があったと書かれている。
「下の貝塚跡からは牡蠣や蛤なども出てきたそうだ。背は徒歩で行ける範囲に海があったのだ」といって、彼女はくりかえし「海の夢」「靖国神社の夢」をみるのである。その一節に、「地図を見て貝塚跡の見当をつけてきたのに、うろうろしていると、植込みに木の聖域と名付けて、ヤブヅバキ、ススキ、ヤマハギ、ソメイヨシノ等武蔵野の雑木林の植物が成長する過程を見守ってほしいと立て札に書いてある。黄色い花が満開だけれど名前が分からない。
 九段坂に戻り降りてゆくと、『もとは石を以て横に階をなすこと九層にして、且つ急峻なりし』と標識に書いてある。『坂上は観月の名所として名高く、一月、七月に十六日、夜待ちといって月の出を待つ風習があったといいます』。いまは七月に入ったばかりだけれど坂の上で月が綺麗にみえた。
九段坂の下で靖国通りは目白通りと交叉している。右折して、目白通りを歩き出す。建物が消燈し、あたりが暗くて貝塚跡もなにも見えない。」
 貝塚は先史時代の人間の生活史を物語る。海にかこまれた日本ではいたるところに発見されている。東京湾の貝塚分布図をみると、川越、大宮、幸手にまでおよんでいて、古利根川、荒川の流域は海または入江だったことが想像される。それにしても九段は陸地の最前線だった。理恵さんは九段に海辺をも。とめて歩きまわる。
 九段坂はかなりの急坂であったらしい。明治三十年代の半ばから市電が通るようになっても、その坂は電車が登りきれるものでなかった。そのため堀側斜面を開削して走ることになった。当時の写真絵葉書でみかける風景である。大正の震災のあと工事がおこなわれて、現在の坂となった。
 おもえば江戸・東京は、武蔵野台地の末端の海辺斜面につくられた城下町だったのである。」

 九段と海というと、坂の上にある石造りの灯台を直ぐに思い浮かべてしまった。吉行理恵さんというと、「あぐり」と淳之介氏というコントラストのある取り合わせと、さらには姉の女優である和子さんと、よくもこれほどに才能溢れる三人が同じ家の兄弟姉妹として揃うことがあるものだという驚きと、まあそんなことを思う。そして、ここに描かれているように、市ヶ谷に近い辺りの方であるだけに、そこから歩いてみても直ぐの靖国神社から九段坂も日常の範囲であった事を改めて思わされた。調べてみると、一家の母であるあぐりさんは100歳を超えて健在でおられるとのこと。理恵さんは、2006年に亡くなられている。
 関東大震災の後の東京復興事業は、単に町を再興しただけではなく、大きな通りを防火帯としての役割も兼ねて開通させ、区画整理を行い街路を整然とさせていったのだが、それだけではなく九段坂の勾配の緩和などということも行われている。坂道の勾配緩和は、あちらこちらで行われているが、想像するだけでも大きな工事であっただろうこと、そしてそれによって坂の印象が一変していったことを感じる。

「現在のように台地や下町、斜面や川筋にピルディングが建ってしまうと、東京の地形は眼に見えにくくなってしまった。永井荷風が森鴎外の観潮楼に通ったときの道すじ、あの藪下の道でさえも、建物にさえぎられてしまう。ピルディングが東京風景の清もしろさを消し、地形改造が無趣味な都市になさしめたといっても言い過ぎではない。
 荷風は大正初期にあって、それを憂えていた人である。
「日和下駄の歩みも危くコツコツと角の磨滅した石段を踏む毎に、どうか東京市の土木工事が通行の便利な普通の坂に地ならししてしまはないように」と願っていた。
 彼は小石川台地の坂道の中途の旧武家屋敷で育っている。眼下には江戸川が流れていた。飯田町や一番町、そして大久保にも住んだ。大正九年には、麻布台地のやや下りかかった場所に偏奇館を造っている。三十間堀の木挽町にも神田川の代地河岸にも住んだことがあったが、帰るべき場所はつねに山の手であった。彼の文学には、たとえ花柳明暗の巷や下町の路地裏が多く舞台にとられていたにせよ、彼はいつも坂を下ってきて、坂をのぼりかえしている。『日和下駄』の崖、坂、富士眺望の章をみると、東京の自然地理、人文地理のすぐれた観察者だった。そこに力をこめて叙述していたのである。」

 永井荷風と言う人の感性を一言で言い表していくのなら、こういう事なのだとも思う。そう、彼こそは明治の山の手の人である。山の手という言葉から受けるイメージが、今日とはそれなりの隔たりを持っている、江戸以来の武家地としての山の手こそが、彼のバックボーンにあったということはとてもかんじることだ。下町へと出掛けていって、そして帰ってくるということが、彼の有り様を表す上でまさに至言という気がする。下町の路地裏に紛れ込むように彼は彷徨っていくのだが、それはその町の住人としてではなく、事情通の部外者という様なスタンスでそこに関わっている。完全なる部外者として、未知の領域に冒険をしているという距離感ではなく、概ね事情は知ってはいるが、その町の人間ではないという、絶妙な距離感が荷風の描いた東京を見ていく上でのキーになるのだろう。
 今日に置いても、荷風に惹かれる人が数多く、そして荷風の描いた東京の残滓を求めて歩くということも珍しくないというのには、多くの人が下町どころか東京の住人ですらなくなっていたりする、そんなポジションから見る過去の東京という光景が、地元自慢ではない、微妙な他者性を持った視線の荷風には共感を持ちやすいのかもしれない。

 荷風の生家にちかい金剛寺坂の案内看板。


「上野から道灌山、飛鳥山にかけての、高地と低地をかぎる側面を「崖の中でも最も偉大なもの」と書いた。神田川のお茶の水の絶壁を「崖の最も絵画的なる実例」と書いた。その神田川両岸の坂には彼のおもいがこもっている。たとえばお茶の水の昌平坂、葛角坂。飯田町の二合半坂。さらに大曲より上の安藤坂、金剛寺坂、荒木坂、服部坂、大目坂などである。神田川を眺めるのにいいとか市街眺望、冨士眺望にいいなどというが、そこには彼の少年時代からの記憶につながるものがあったとおもわれる。」

 上野から道灌山、飛鳥山にかけてというのは、さらにそのまま赤羽まで続く、旧荒川による台地の浸食による崖線であり、この尾根伝いを歩いてみることは、今日であっても面白く、興味深い。江戸開府以前というのはもとより、あの尾根伝いの道は太古からあったのではないかと思われるものでもある。江戸時代に行われた、江戸の開発事業の中でも最大級の土木工事であるお茶の水の神田川開削の結果である、お茶の水の絶壁というのも江戸の風景としては正にそれらしさの極致でもある。
 それに続けて書かれた、神田川の両岸の坂は、確かに荷風の生家に近い小石川の台地から神田川へ向けて下るものが多い。

「東京の下町は、本来彼の生活にはない部分だった。むしろ羨望の念をいだいていた。文学や芝居に興味をおぼえ、その仲間たちとつきあい、放蕩の味を知ってから、足しげく坂を下っていくことになる。「山の手に生まれて山の手に育つた私は、常にかの軽快蒲酒なる船と橋と河岸の眺めを専有する下町を羨むの余り、この崖と坂との佶倔なる風景を以て、大に山の手の誇とする」と書いたのである。」

 この辺りの趣には、小山内薫のことを思い起こさせるものがある。小山内は、九段坂上の南側、当時の富士見町、現在の九段南で育っている。そして、この連載でも取り上げられていたが、若き日に日本橋中洲にあった真砂座で演劇人としての生活をしていた。そして、山の手の人である彼は、そうとうに下町に魅了されていき、それを自伝的小説「大川端」にしたことは知られている。
 小山内と荷風とでは、山の手の人といいながらも相当に持ち味が異なっている。陸軍軍医の息子として生まれたものの、父親を早逝され、富士見町が明治期に一躍花街に生まれ変わっていく中で育った小山内と、武家の家に生まれ、エリート教育を施されながら、そこから弾け出ていく荷風。その対比は興味深い。
 さらに言えば、荷風の「おかめ笹」という白山下の花街を舞台にした小説の中で、主人公の住む町を小山内の育った富士見町にしている。その町が明治になってから、花街へと変わっていったことなど描き出し、新興の花街の一つとして白山のことも描いていた。あまりに小山内の実家の町そのものであっただけに、荷風がそれを全く意識していなかったとは、私には思えなかったほどだ。

 九段南、かつて富士見町と言われた辺りの名残を感じさせる建物。震災と戦災で焼失しているので、「おかめ笹』で描かれた町を探しても無理と言うべきなのだ。


「彼は感性のゆたかな旅人だった。足かけ六年にわたるアメリカ、フランスの生活では新鮮なおどろきとともに外国の美と醜をみつめてきた。しかし、眺望にかんしては多くの場所で感嘆の声をあげている。モンマルトルその他、高台からの市中俯瞰のたのしみをあげたのは、その最たるものであろう。荒かしく、人の手の入らぬ自然よりも、人の棲息する場所に好奇の眼をもって対処したのほ、彼が都会の詩人であり、人文地理学者の一面をもっていたからであろう。
 私はいつも『日和下駄』を読みかえしながら、明治の東京、震災まえの東京を探ろうとする。しかし、もう大方は消え去ってしまっている。荷風先生に教えられながら歩くのだが、かすかな余韻がつたわってくるだけだ。それでも震災後の私には、すこしは理解し得るところ無きにしもあらずである。
それは子供のころの記憶である。隅田川のほとり、上野の山、九段の坂。そこからははっきりと東京の地形を実感することができた。しかし、いま上野の山に行けば、花見宴会の陣取り合戦である。向島側の隅田公園では、頭上の高速道路から自動車の轟音がぴっきりなしに響く。これでは花見もなにもあったものではない。
 世の中はなんと騒々しくなったことか。市中のピルディングはみな大きくなって、中景、遠景はもちろんのこと、近景までもふさいでいる。

 荷風という人の面白さは、江戸以来の町を深く愛していたことだろう。人の手になるものを嫌ったわけではなく、そこに美を見出し、新しく西洋をもして作り上げられていくものが、それ以前に比べて良くなっていないと言いたかったのではないだろうか。そういう感覚は、ポストバブルの時代を迎えて、ようやく私にも良く分かる様になった。必要な機能や要件は既に揃っているのに、敢えて作り直してみせて、以前よりも良くなったわけではないというものは、建築に限らず、近年はいくらでも上げることができそうだ。
 東京の地形、これを肌で感じる最高の方策は、足を使って歩き回ることに尽きる。自分の足で歩き回っていると、坂があること、その傾斜の程度がどれほどのものであるのか、そういったことを自分の感覚を通じて知ることが出来る。さらに、歩く速度で町を見ていくことは、その有り様や変化を知る上で最上のものだと思う。

 荷風旧居跡。麻布市兵衛町の偏奇館跡。戦災による空襲で荷風の家は焼失してしまった上に、現在は大規模再開発が行われていて、普通の町があったことすら想像できない状況になっている。


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