東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

足立区千住一丁目~二つのお寺

2014-08-14 19:43:38 | 足立区
足立区千住一丁目の二つのお寺を訪ねてみた。街道筋の宿場町らしく、戦災を免れているところも多いこの辺りには、歴史的な背景を感じさせるものが残されている。まず、お寺へ行く前に、天空劇場前に建てられていた石碑。南足立郡役場跡の碑。南足立郡というのは、昭和7年に東京が35区制を敷いて大東京に生まれ変わる以前、周辺部は郡仁分類されていた。その当時の足立区一帯が南足立郡であった、その役場がここにあったという碑である。南葛飾郡、北豊島郡、南豊島郡、荏原郡、そして豊多摩郡からなっていた。


不動院
「不動明王が本尊です。本木の吉祥院の末寺になります。本山は、和歌山県根来寺で、元弘2年(1332年)に開基されました。芸州供養塔(戊辰戦争に従軍した安芸藩士混成義勇隊の供養塔)があります。」(あだち観光ネットより)


元々は旧街道の裏手、宿場町の入口の要衝を占めていたという立地になるのだろうか。
「不動院
 当寺の本尊は不動明王である。元弘二年(一三三二)秀天上人の開山という。
 もと吉祥院の末寺で、白幡八幡社の別当と伝えられている。
 拇域に、正面「南無阿弥陀仏」、右側面に「藝州」と大書した大きい供養塔がある。これは明治維新の際、千住口からの新鮮そうに従軍した芸州藩の軍夫、従属者のうち、千住近在から参加した者の戦死者を永代供養したものである。
 また、川魚料理人の人たちが、魚類の冥福を祈るために建立した包丁塚の碑がある。
 本寺は、千住宿の問屋場に近いところから宿場関係の人々の墓石が多い。明治九年(一八七六)六月二日、明治天皇東北巡幸のとき御休憩所になった中田屋の墓、千住旅籠屋一同が万延元年(一八六〇)に建てた遊女の無縁塔などがある。
 平成六年三月 東京都足立区教育委員会」


訪問時が彼岸時だったので遠慮したが、色々と興味深いお寺の様だ。


入口を隣接する様に、もう一つのお寺、慈眼寺がある。
「慈眼寺
 当寺は、新義真言宗で、山号を千龍山、院号を妙智院という。寺伝によれば、正和三年(一三一四)二月、行覚上人が関東巡錫の折に創建、三代将軍徳川家光の時、伝弘法大師作聖観世音菩薩像を安置し本尊とし、江戸城北方の祈願所として葵の紋の使用を許されたとされる。
 幕末に編纂され、千住宿の故事を記録した『旧考録』によれば、弘化四年(一八四七)四月、東叡山寛永寺の山主(上野の宮様)慈性入道法親王が日光参拝の際、宿場本陣に支障があり、当寺が本陣を勤めた。以来、六度寛永寺山主の休息所となった。
 また、文人墨客との付き合いが深く、特に江戸時代後期の画家建部巣兆との親交から、「巣兆寺」とも呼ばれた。
 境内にある板碑(貞治六年銘)、地蔵菩薩庚申塔、庚申塔(寛文七年銘)が足立区文化財に登録されている。
 平成二十六年三月 足立区教育委員会」


古い墓石などがまとめておかれている。これだけでも、迫力を感じる。


境内に小さな堂宇を作って、祀られていたりする。


境内の奥には、祠も祀られている。神仏分離の嵐を無事にやり過ごせた祠なのだろうか。今は、ネコが昼寝をしていた。


本堂。直ぐは意義には高層マンションが建っている。


この辺りは戦災を受けている様で、本堂も戦後の再建のようだ。山門だけが残ったらしい。


庫裏も雰囲気のある建物。すぐ裏手が国道4号線で、そこに面した辺りには高層マンションが建てられている。


南北消防保存会の碑。
「千住町消防組
 昭和七年十月一日、足立区の誕生とともにこの地にあった千住町消防組屯所は、足立消防署(昭和二十二年八月一日千住消防署と改称)となり、近代消防が発足した。
 消防組織の歴史を溯れば、享保四年(一七一九)ときの江戸町奉行大岡越前守忠相の肝煎りで江戸町火消が生まれ、自治的な「いろは四十八組」が鳶の者によって組織されたのを始めとする。
 千住も江戸四宿の一つとして栄え、東北路の要衝であったところから、文政十二年(一八二九)に戒坊更番所を建て町民が管理したという。安政年間には南北千住消防組ができ、明治以降は警視庁の指揮下にあったが、明治二十八年からは自治体の千住町消防組として活躍した。
 ここにある南北消防組記念碑は、大正十二年四月に建てられたもので、創始以来の殉職物故者の氏名を記し慰霊顕彰している。
 昭和五十七年十月一日 東京都足立区教育委員会」


最新の画像もっと見る

コメントを投稿