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東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(64)方面委員とセツラー(つづき)

2014-07-27 19:21:31 | 東京・遠く近き
方面委貝とセツラー(つづき)
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、セツルメントについてである。

「墨田区役所編纂の『墨田誌考』(昭和五十年刊)という年表を読んでいると、大正八年の項に、二つのセツルメントが設立されたと出てくる。
  五月  キリスト教婦人嬌風会外人部が、興望館セツルメントを松倉町に設立、隣保事業を開始する。
  十一月 救世軍が、東京府社会事業協会の委託を受け、柳島横川町(太平四丁目)に社会殖民館を設立。隣保事業を開始する。
 この記述からわかるようにキリスト教主義による救貧社会事業であった。片山潜が神田三崎町にキングスレー館を建ててから、この運動は徐々に浸透しはじめている。深川平野町の明照社会館、淀橋の有隣園(明治四十四年)、三田四国町の三田学園、亀戸の愛清館(大正四年)、下谷山伏町の知徳会(同六年)、芝浜松町の大正婦人会(同七年)などにつづいで、本所地区にも救いの手がのぺられている。それまでにも労働学校や授産所、託児所、貧民学校はつくられてきたし、大正六年には、東京府に救済課(社会事業所所管)が新設されてはいたが、その地域に根ざした活動は、主として民間有志によって先鞭がつけられている。二つのセツルメントが生まれたのは、方面委員制度発足の一年まえのこと、本所に方面館ができる三年まえにあたる。時代は第一次大戦直後の不況下であって、シベリア出兵や米騒動の波及で世の中が暗い雰囲気にとざされていたころである。」

 明治以来、我が国の社会福祉という面においては、こうした民間からの活動が先鞭を付けて支えてきていたという面が大きいようだ。以前書いたことのある、救貧院の活動でも渋沢栄一という人の信念が、その存在を守り支えてきたものであったということは大きかった。そこでも、自助努力で解決すれば良いという意見は常に付きまとっていたようだし、そういった圧力を跳ね返しながら強い意志を持っていかなければ、とても支えていけるものではなかった。そう思うと、先人達の果たしてきた役割の大きさには、やはり頭が下がる思いがする。
 ここで大正時代のことを振り返る上では、やはり第一次大戦による好不況と共に、米騒動ということは忘れがたい。明治以降の日本の世情ということを知る上でも、米騒動が如何に激しく行われていったのかということも知っておくべき事だろう。今の時代は、皆が感覚的にも飼い慣らされた時代というべき状況にあるから、社会的な争乱に対して悪であるという意識がまず先行する。それだけでは理解し得ないものがあるし、そういった背景を抜きにしてはこの時代の事を理解し得ないものがあるとも思う。

 「私はその場所と事業をとおして、そこで献身的に働いた人共の姿を想像したりするが、そんなときに想いおこす一組の老夫婦がいる。戦後、市川に住んだときの父の友人であった。市内に自然山とよぱれる松林の一帯があって、そのそぱで幼稚園を経営していた。クリスチャンだが無教会派、とりたててキリスト教の教義を云々するわけでほなく、園児の面倒見のいい、柔和な夫婦だった。自分たちの過ぎ来し方を語るわけでもない。しかし、あるとき、なにかの話のついでに、若いころ、菊川町のセツルメントで働いていたと語ったのだ。貧しい人たちのために、そこへとびこんだという。二人はそこで知りあって結婚したとのことであった。
 とすると、どこのセツルメントだろうか。光の友会か婦人セツルメントか、そのいずれかであろう。私が深川の清澄町の生まれだと知って、菊川の地名を出したにちがいない。私はまだ中学を卒えたばかりで、深く質問するほどの知識をもたなかった。焼けるまえの竪川ぺりとか菊川町をおもいおこしながら聞いていたにすぎない。しかし、社会奉仕を吹聴せず、それをいささかも手柄話にしようとしない園主の木訥な人柄に感じ入ったのであった。」

 キリスト教をベースにした方々の社会奉仕という言い方をしてしまうと、少し軽く感じられてしまうようにも思える。明治期のキリスト教については、内村鑑三の話など見ていると、どうもスノビッシュなところが鼻に付くところもあるのだが、その一方ではこうした社会に密着した形で献身的な活動が行われてきた実態もあることは、やはり凄いものだとも思う。ここで描かれているような、無名で自らの業績を誇るわけでもなく、自らと自身の信仰の前に正直に生きた方々が数多くおられたということもあったのだろう。こうして歴史となっているセツルメントは、そういった方々が支えていくことで成立していたわけなのだ。貧しく厳しい時代であった明治、大正、そして昭和という時代を思うと、これらのことの重みを改めて感じる。そして、むしろそこから抜け出せたと思えた時代の方が遙かに短く、希少な時であったとも今は思える時代になっている。

「先日、私は亀戸から天神様の横をぬけて横十間川を北へ歩いて行った。栗原橋は替けかえの工事中だった。その北に神明橋、柳島橋とつづく。運河の水は澱んでいる。それは昔とかわらないが、左手の、かつて工場だったあたりには自衛隊の建物や中層アバートが立ちならんで見ちがえるようである。柳島元町の同潤会アバートほ、完全に姿を消していた。その跡地と周辺をふくむ一角では工事がはじまっていて、敷地四八七三平方メートル余の場所に、地下一階、地上十四階のアバートが建つのだそうだ。建設概要の標識をみると「横川五丁目地区第一種市街再開発事業、平成六年四月起工、八年四月竣工予定」とあった。その横手にほ仮設の長屋があって、薬局、中華料理、理髪などの店がならぶ。
 この付近で記憶にのこっているのほ、横川橋の通りの南と北の真近かなところに二つの小学校があったことである。伯母の家が太平町三丁目の電車通りにあって、子供のころ、母に連れられて亀戸天神に詣でるときはかならず立ち寄っていた。そしてあたりを散歩して、近くの賛育会病院とか学校を眼にしてきた。北側の柳元小学校は戦争末期に廃校になって、都立本所工業学校がそこに移ってきた。いまの深川商業高校である。南側の柳島小学校は健在かとおもっていたら、まるで様子がかわっている。数年まえ廃校になって、本所消防署の堂々たる司令塔をそなえた、あたらしい建物が完成したところだった。二日先の「庁舎落成式奥」のための準備がすすめられていた。」

 横十間川に架かる栗原橋。 背景には、東京スカイツリーも間近である。


 栗原橋の親柱。


 そして、横十間川。川沿いでは親水公園になるのか、工事が進められている。


 同潤会柳島アパートの跡地。今は、記事中で建設工事が行われていたプリメール柳島という高層マンションが建っている。


 その入口。同潤会のあった景色からは想像が出来ない。いよいよ東京から同潤会アパートは全て姿を消してしまった。


 近藤氏が散歩された時に落成したばかりだった本所消防署。


「こんな散歩に出たのは、実は、旧柳島元町にあった東大セツルメントの跡地をたしかめたかったからである。同潤会アバートのたたずまいはおぼえている。セツルメントはそのまえの横町を西に入ったところというのもきいていた。しかし私は写真でみただけである。ものごころのついた昭和十年代、ことに昭和十三年以降、事業は閉鎖されて、恩賜財団愛育会に譲渡されているので、もう過去のものとなってしまっていたのであろう。
 私ほ『回想の東京帝大セツルメント』(福島正夫、石固哲一。清水誠繍、日本評識社、昭和五十九年)の記述をたよりに探してみようとおもった。創設当初の地番でぽ「柳島元町四十四番地」、いまの墨田区横川四丁目十一番である。編者のひとり、石田哲一氏は「数年前からセツルの跡地に記念碑でも建設したらということが話題になり、具体案を作成したらということになりましたが、跡地の確定、土地所有権の取得等の点で困難な問題があり」、記念碑の建設は保留してこの記録集をまとめたというが、そこには青春の情勲がこもっている。」

 東大セツルメントの跡地。ここに近藤氏も立ったのだなと思いながら。


 すぐ近くには、新築の本所警察署。


 春日通りの横川交番前交差点。本郷から都電で一本だったのだなと、しみじみ思う。


「東大セツルメントの活動は関東大震災のさいの上野公園に拾ける罹災者救護からはじまっている。そのうえ学生たちは「東京罹災者情報局」をつくって「尋ね人」安否の調査伝達をおこない、「帝都大震火災系統地図」を作成した。今年一月十七日の阪神大震災のとき、多くの若者がボランティア活動に参加したことは記憶にあたらしい。それとおなじように上野の山での学生たちの活躍にはめざましいものがあった。その中心に法学部の穂積重遠、末弘厳太郎両教授がいたのである。
『回想の東京帝大セツルメント』には十四年間の概要と、回想として、歴代主事七名、そこにかかわった三十九名の執筆文がおさめられている。資料として『東京帝大セツルメント十二年史』(昭和十二年刊)からの再録、設立、前後、解散前後の資料、関係者の著作目録などがおさめられている。それだけに教授陣や会友、会員たちの志したもの、柳島元町での実態が生き生きとつたえられている。」

 こうした過去の積み重ねも、当事者であった方々が高齢化され、しかも前記のような自らの行いをことさらに言挙げしていくことをしないままであれば、歴史という時間の経過の中に押し流されて忘れ去られていくことになってしまう。こうしたセツルメントの活動の話は、確かに地味な話である。この近藤氏の連載が単行本化されていない現実があるように、その一編として取り上げられているこうした話も、普段はなかなか目にすることもないままに忘れ去られていくことになっている。その一方では、現在の社会のあり方として、厳しく自己責任に帰していく方向性があり、さらには社会福祉の削減を行う為ならどこか手段を選ばないとさえ言えそうな行政の振る舞いというものも起きている。我々の社会がどういった積み重ねの上にあり、足下に何が埋まっているのかを知ることは極めて重要なことなのではないだろうか。

「セツルメント運動の目的を端的にいいあらわす表現としては「知識の分与作用」であり、「実際知識の吸収作用」であった。社会教育、法律相談、医療をほどこすとともに、学生にとっても生きた学問の場となること、大衆のなかに溶けこむことによって実際の学問を育ててゆくことである。本郷から本所への道は、理想に燃える学生たちの道であった。
 学生たちはセツラー、またはレジデントとよぱれていた。レジデントはハウスに住みこんで事業に参加する。規約に「セツラーハ東京帝国大学学生ニシテ現二本事業二参加スルモノヲ謂フ」「セツラーは各部二所属シ部員トシテ少クモ毎週一回ハ事業二参加スル義務ヲ負フ」とあって、託児部、児童部、図書資料部、調査部、医療部、法律相談部、労働者教育部、市民教育部、少年教育部、消費組合部などそれぞれに力のかぎりをつくしている。その当時の情景は「回想」にくわしい。工場街に生まれた労働者の大学であった。」

 安易に懐古趣味を振りかざしたいとは思わないし、こういった時代の日本が素晴らしかったというつもりもない。実際、貧困の問題は目を覆うばかりであり、都市部の問題としてこれだけの要素が出て来ているわけだが、農村部のそれとてひとたび天候不順などが起きたらどれほど悲惨な状況になっていたのか、それを思うと安直な過去の礼賛など出来るものではない。それでも、東京帝国大学という、今よりもよりエリートとしての特別な存在であった大学において、ここまで無垢な社会との向き合い方が実践されていたということには、知性とは何かということを改めて考えさせられるものが含まれているように思える。自己の利益のみを追い求め、他者は蹴落とすべき存在でしかないという考え方は、この時代でもあったはずだ。ただ、それだけではなかったということなのだろうが、社会と自分との関わり方をどう捉えていくのかということに、より深いものを求める所があるように思える。

「山花てるみは昭和六年から消費組合の一員としてセツルメントに出入りした人である。夫は労働大学の一期生、娘は託児部に入っていた。後年の娘の手記「本との出会い、人との出会い」を引用して、柳島セヅルメントはまさしく私たち親子の生活文化のふるさとだったと述べている。そして「労働者の権利意識がたかまって、みずからようやく獲得した施設とはことなりますが、それだけに地域の指導者の方々の情熱がじかにつたわる、心のふれあう場所であったと、むしろ、当時の開拓者精神に、新鮮な感動をおぼえるのです」と書いた。
 レジデント、セヅラーの回想だけでなく、受講者、助力者の記録もおさめられているが、この山花てるみさんという方は、前杜会党委員長の山花貞夫氏の母親である。宮田親平氏の「東京帝大セツルメントの人々」(『別冊文蟄春秋』二〇九号、平成五年十月)によって教えられたのだが、彼女に取材して、夫君にふれている。
「昭和六十二年に糖尿病が悪化して亡くなった夫、山花秀雄は、生涯に検挙・拘留を受けること百十数回、入獄四回。労働組合運動の、まさしく闘士の人生を貫いた。明治三十七年神戸市の下町生まれ。……十四歳のとき米騒動に接して社会の矛盾に目ざめ、さらに神戸市に起ζった川崎・三菱両造船所の大争議を目のあたりにしたことから、労働運動に一生を捧げる決意をし、当時唯一の全国組織であった友愛会に入る。」
 大正十三年、賀川豊彦の紹介で上京、横川橋に住み、セツルメント労働学校の一期生になった。そこでバスガールだったてるみさんと知りあって昭和五年に、結婚したとある。山花貞夫氏は太平町の賛育会病院で二・二六事件の朝、生まれたというのだが、てるみさんが「託児所では二人の子どもがお世話になりました」と書いているところからみると、貞夫氏は幼児期にセツルメントの空気を吸っていたことになる。」

 少し長くなっているのだが、どうしてもこの辺りは端折ることが出来ない。今の時代から、こうしてかつての労働運動の歩みなど聞いていくと、当局の弾圧や過酷労働の実態など、どれほど多くの人々の献身的な活動によって、その実態が改善されていったのか、気が遠くなるような話だと思う。それがいつの間にか、平然とこういった時代に逆戻りしていこうとしている。社会党は社民党と名を変えており、そしてその党勢は見る影もなくなってしまった。さらには、支持母体であった労働組合も使用者側に簡単に丸め込まれていき、平然と非正規労働者という新たな被差別層を売り渡す側に回っている。結果的に組合は社会的な支持すら失いつつあるというのに、そんな状況にすら思いが至らないというようにしか見えない。
 先達の積み上げてきたものは、思いの外容易く崩れ去るものであった。そうとしか言い様がない。誰も救おうとしない人、誰にも手を差し伸べられない人がこれ程増えていく世の中になるとは、二十年前のこの連載を書かれていた頃には思いもしなかったことだった。それは、血を流して獲得した世代から代替わりしていく中で、受け継ぐことの出来なかったものがあったからなのか、それとも単に社会を無条件に信用していれば裏切られるはずがないという、愚かな思い込みのせいなのか、そんなことを考えてしまう。
 山花氏が社会党の委員長であったのは、もう二十年以上前の話だし、彼が六十三歳で急逝したことを改めて見ると、その後の時代の傾斜の方向などやはりうんざりした気持にさせられる。

「東京帝大セツルメントは昭和十三年のはじめ、その左傾化が貴族院で問題になったとして警視庁特高部の取調べをうけた。大学隣保館と改称するとの声明を出したが、結局は監督官庁に容れられず、経済的支援の途もとだえて、自発的に閉鎖する。あきらかに治安維持法という悪法のもとの弾圧であった。帝大新聞の二月七日号で、穂積教授はつぎのように語っている。
「この際諸種の事情からサツバリと解散することにした。セツルは由緒ある社会事業団体として江東の市民にも非常な恩恵を与へ市民もこれを頼りにして生活してゐたのにこんなことになつて私としては申し訳がない銃後はどうしても隣保共助事業が必要だからセツルの諸施設を各方面の関心者が受け継いで市民のために尽して呉れることを希望する。」
 ここで過したセツラーたちのその後の生き方には、セツルメントの精神が生きている。私はその回想記を読み、その跡地に立ってみて、下町に芽生えた人間の場をおもいうかぺていた。しかし、その痕跡はいまなにも残っていない。」

 今の時代、色々とこれまでになかったことが起きてきている。そんな中で、そういった動きを警戒したり、危惧する発言をすると、嘲笑されるというケースはネット上でよく見掛ける。根拠もなく付和雷同して、不安に駆られていくことは冷静にといわざるを得ないが、何も起きるはずがないと根拠もなく政府や社会を信用するというのも、大きく構えているように見せたいのかもしれないが、それ程賢い姿勢だとも思えない。現実に進んできている方向はどちらを向いているのか、そして、ここまでどう言った方向で変化が起きてきたのかを見れば、ある程度の予測は付けられるものだ。口当たりの良くない未来が迫っていると思うのなら、その危惧を口にするのは当然なことだろう。利口ぶって、見通したつもりになっていて、気が付けば足下が崩れ落ちているというのが一番馬鹿げた結末なのだから。過去に行われてきたことがどんなことで、何が行われてきたのかを知ることは、これから先に起きうることを考える上ではとても重要な事だ。かつて起こした過ちを繰り返さないと、どうしていえるのか。そう言えるのは、過去の過ちに向き合う姿勢を持った者だけではないだろうか。


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