1982年2月3日の谷中、根津、池之端を歩くも今回でラスト。よみせ通りから諏訪台通りの道へと登ってきてという辺りから、日暮里の駅前の辺り。そして、最後は上野桜木へと戻って終わりと言うことになる。
旧蒲生家住宅。今は谷中の町興しの拠点にもなっている様子。この頃は家の前にブロック塀があった。谷中七丁目17。
諏訪台通りを少し北へ向かったところ。この諏訪台通りは、上野公園まで伸びていくこの台地の尾根筋の道で、恐らくは非常に古い時代から存在した道だろうと思われる。谷中七丁目17。
一枚目に移っている寿し恵は、もう少し先に建て替えられて営業されていたのだが、今は閉店されている。
この道は北へ進むと、古河庭園の前で岩槻街道と合流する。そのまま赤羽へと続いていく。上野公園で台地から下れば、浅草浅草寺は間近である。浅草寺は東京エリアでは最も古い歴史を持った寺であり、かつて交通の要衝であったともいう。内陸から浅草寺へ結んでいくルートとして、江戸開府や太田道灌といった人物の時代を遙かに超えた時代から、この道はあったのではないだろうか。
この当時は、木造二階家の長屋が連なる町並みだった。もちろん、この当時には町歩きをする人などいなかった。谷中七丁目17。
さらに進んで、朝倉彫塑館の向かい辺り。右手の鮮魚店すぎうらは、今は料理屋をされているようだ。建物は建て替えが進んで、町並みも変わった。谷中五丁目9。
その北側の並び。ここは今も変わらないところ。谷中五丁目9。
谷中を歩く人の目を惹き付ける錻力店吉川。今も変わらない。谷中五丁目9。
日暮里駅前から夕焼けだんだんへと繋がる道に出る辺り。建て替えられて大分雰囲気が変わった。谷中五丁目11。
日暮里駅前。蔵があって、立派な木造二階家の日本建築が聳えている。明治と言うよりは、江戸の面影と言いたくなるような家。今はマンションが建っている。谷中七丁目20。
谷中せんべいの店の横を入ると、レンガ塀が続いていた。この塀は今もそのまま残っている。谷中七丁目20。
日暮里駅前のランドマークともいえそうな本行寺。この頃はまだ植木が小さいので、空が広々と見えている。歳月が経過すると植木の育ち具合に驚く。西日暮里三丁目1。
谷中墓地の入口。谷中七丁目16。
そして、一気に上野桜木へと移動する。この当時、不思議とこの町内で空き家になっていた家が何軒もあった。この家も玄関を塞がれている。上野桜木二丁目7。
上野桜木というところも、池之端と並んで、どことなく粋な感じの町だと思う。この家も塀がひしゃげたりして傷んでいるものの、往年の桜木という町の雰囲気を残していた様に思える。上野桜木二丁目8。
以前このブログで紹介した「大正・吉原私記」によると、著者の波木井皓三氏の家がこの町内にあったそうなのだが、具体的な場所の記述がないので分からない。吉原の大籬「大文字楼」の主の家というのは、どの辺りであったのか、興味が湧く。この家も空き家で傷んでいた。板塀に瓦屋根の玄関と、なかなか立派な家だった。上野桜木二丁目7。
上野桜木で撮影した分は、場所の特定に後で結構苦労したのだが、このカットは特徴的な道路の形で直ぐに分かった。上野桜木二丁目8。
言問通りを越えて、芸大の裏へ出てくる途中にあった木造二階家の町屋。今は建て直されている。上野桜木一丁目4。
これで1982年2月2日と3日に渡って谷中、根津、池之端周辺を歩いて撮影した写真のほぼ全てを見て頂いた。2013年10月4日にHAGISOカフェにて、アートリンク上野-谷中2013のイベントとして開催したスライドショーで上映したカットに加えて、現在の姿もあるものは添付してみた。久し振りに谷中を歩いて回って、これほど大事に思う人の多い町は幸せな町だと感じた。そう思う反面、谷中の良さの多くは、そこに暮らす人たちの生活と共にある点だと感じる。そういう意味合いから見ていると、古くからの商店の移転もあり、住民の高齢化、そして転出も結構あるようで、町の様相がじわじわと変わってきていることも感じる。町興しで観光化され、ビジネスを主眼に置いた店も増えているのだろう。ギャラリーも数多く出来ている。そういった新しくビジネスの場として谷中を捉えてやって来た人たちと、いかにして谷中という町の価値を維持していくことの重要性を共有していけるのかと言うことが、課題になっていくのだろう。とはいえ、NPOを立ち上げて、具体的な形で建物の保存管理、活用に取り組んでいたり、そしてその成果が大きくなっているところを見ると、頭が下がる。
これからの谷中がどう変わっていくのか、見つめ続けて行きたいと思った。
旧蒲生家住宅。今は谷中の町興しの拠点にもなっている様子。この頃は家の前にブロック塀があった。谷中七丁目17。
諏訪台通りを少し北へ向かったところ。この諏訪台通りは、上野公園まで伸びていくこの台地の尾根筋の道で、恐らくは非常に古い時代から存在した道だろうと思われる。谷中七丁目17。
一枚目に移っている寿し恵は、もう少し先に建て替えられて営業されていたのだが、今は閉店されている。
この道は北へ進むと、古河庭園の前で岩槻街道と合流する。そのまま赤羽へと続いていく。上野公園で台地から下れば、浅草浅草寺は間近である。浅草寺は東京エリアでは最も古い歴史を持った寺であり、かつて交通の要衝であったともいう。内陸から浅草寺へ結んでいくルートとして、江戸開府や太田道灌といった人物の時代を遙かに超えた時代から、この道はあったのではないだろうか。
この当時は、木造二階家の長屋が連なる町並みだった。もちろん、この当時には町歩きをする人などいなかった。谷中七丁目17。
さらに進んで、朝倉彫塑館の向かい辺り。右手の鮮魚店すぎうらは、今は料理屋をされているようだ。建物は建て替えが進んで、町並みも変わった。谷中五丁目9。
その北側の並び。ここは今も変わらないところ。谷中五丁目9。
谷中を歩く人の目を惹き付ける錻力店吉川。今も変わらない。谷中五丁目9。
日暮里駅前から夕焼けだんだんへと繋がる道に出る辺り。建て替えられて大分雰囲気が変わった。谷中五丁目11。
日暮里駅前。蔵があって、立派な木造二階家の日本建築が聳えている。明治と言うよりは、江戸の面影と言いたくなるような家。今はマンションが建っている。谷中七丁目20。
谷中せんべいの店の横を入ると、レンガ塀が続いていた。この塀は今もそのまま残っている。谷中七丁目20。
日暮里駅前のランドマークともいえそうな本行寺。この頃はまだ植木が小さいので、空が広々と見えている。歳月が経過すると植木の育ち具合に驚く。西日暮里三丁目1。
谷中墓地の入口。谷中七丁目16。
そして、一気に上野桜木へと移動する。この当時、不思議とこの町内で空き家になっていた家が何軒もあった。この家も玄関を塞がれている。上野桜木二丁目7。
上野桜木というところも、池之端と並んで、どことなく粋な感じの町だと思う。この家も塀がひしゃげたりして傷んでいるものの、往年の桜木という町の雰囲気を残していた様に思える。上野桜木二丁目8。
以前このブログで紹介した「大正・吉原私記」によると、著者の波木井皓三氏の家がこの町内にあったそうなのだが、具体的な場所の記述がないので分からない。吉原の大籬「大文字楼」の主の家というのは、どの辺りであったのか、興味が湧く。この家も空き家で傷んでいた。板塀に瓦屋根の玄関と、なかなか立派な家だった。上野桜木二丁目7。
上野桜木で撮影した分は、場所の特定に後で結構苦労したのだが、このカットは特徴的な道路の形で直ぐに分かった。上野桜木二丁目8。
言問通りを越えて、芸大の裏へ出てくる途中にあった木造二階家の町屋。今は建て直されている。上野桜木一丁目4。
これで1982年2月2日と3日に渡って谷中、根津、池之端周辺を歩いて撮影した写真のほぼ全てを見て頂いた。2013年10月4日にHAGISOカフェにて、アートリンク上野-谷中2013のイベントとして開催したスライドショーで上映したカットに加えて、現在の姿もあるものは添付してみた。久し振りに谷中を歩いて回って、これほど大事に思う人の多い町は幸せな町だと感じた。そう思う反面、谷中の良さの多くは、そこに暮らす人たちの生活と共にある点だと感じる。そういう意味合いから見ていると、古くからの商店の移転もあり、住民の高齢化、そして転出も結構あるようで、町の様相がじわじわと変わってきていることも感じる。町興しで観光化され、ビジネスを主眼に置いた店も増えているのだろう。ギャラリーも数多く出来ている。そういった新しくビジネスの場として谷中を捉えてやって来た人たちと、いかにして谷中という町の価値を維持していくことの重要性を共有していけるのかと言うことが、課題になっていくのだろう。とはいえ、NPOを立ち上げて、具体的な形で建物の保存管理、活用に取り組んでいたり、そしてその成果が大きくなっているところを見ると、頭が下がる。
これからの谷中がどう変わっていくのか、見つめ続けて行きたいと思った。
おでん屋おせんのはす向かいにあったと思われます。
吉原から移築したという話を聞いた記憶があります。
今は立て直され店も閉店しています、波木井氏の邸宅と思われる建物も立て直されています。
コメントありがとうございます。
東京大空襲を生き延びても、流石に歳月には勝てずに街も変わっていきます。既にこのブログで現在の様子として歩いた分すら過去のものになっていますし。波木井氏のところまでご覧いただいていて、嬉しく思います。機会があれば、そう思いながら見て歩いてみたいと思います。