さて、四回目で馬込から少し外れてきたので、馬込周辺と修正してみた。前回掲載した中井谷熊野神社から南へ進んでいったところ、馬込から大田区中央へと町名が変わっているが、住宅地の中に木々の茂った一角があった。そこが黒鶴稲荷神社。これは神社裏手に当たる道。この道も一旦下って、向こうの方でまた上っているのが分かる。
角を曲がって細い道を入って行くと、先は階段になっていた。元々はここが参道であったという。 . . . 本文を読む
さて、前回掲載した北向稲荷神社の隣には、善照寺という浄土真宗のお寺がある。参道は山の下から延びている。
創建は昭和21年というから、新しいお寺だ。現在の社殿などは、昭和55年にできたものらしい。山門の柱の裏に彫られていた。
境内には享保十一年の銘のある石仏像もあった。これはどこから来たものだろうか。
墓地が斜面に広がっている。
善照寺から少し尾根筋に上った方向で、さらに南東へと進 . . . 本文を読む
湯殿神社から少し南側に進んでいく。次の平行する道に出ると坂の途中に円乗院という寺がある。瓦葺きの山門が重厚な雰囲気だが、境内などは近年に整備されたばかりという感じ。
高野山真言宗のお寺で、準別格本山とのこと。不動明王が本尊。
「当山は陽岳山南晴寺円乗院と呼び、鎌倉時代末期、天永法印によって草創されたと伝えられています。
弘法大師空海を宗祖とする高野山真言宗に属し、総本山金剛峯寺より寺格準別格本 . . . 本文を読む
池上本門寺とその周辺を歩いて行く中で、徐々に本門寺から離れながら馬込辺りも歩き回ることになっていた。本門寺の北側の裏手になるのだが、尾根筋と谷が交互に交錯するアップダウンの激しい地形で、一つずつの谷筋を辿ってみたりするのも面白いだろう。今回はそこまではできていないのだが、周辺の寺社を中心に見て歩いた。
都営地下鉄浅草線の西馬込駅を降りて、第二京浜から一本裏の通りに入ると古くからの道の雰囲気を漂わせ . . . 本文を読む
さて、14回に分けて続けてきた池上本門寺とその周辺、ひとまず今回で終わりとなる。本門寺から始まって、時計回りに周辺にある塔頭を回ってきた。池上の山上の塔頭を訪ねて、最後は山を下りて来たところから。堤方神社の前の道を下る坂を、今はめぐみ坂という。
「めぐみ坂
現在では、坂の西側にめぐみ教会があるため、めぐみ坂と呼ばれることが多いようである。かつては、昭和四年までこの地にあった料亭「あけぼの楼」にち . . . 本文を読む
さて、妙見堂の裏を進むと、前に訪れた永寿院の横手に何かすごいものがあるなと惹き付けられて行ってみた。
永寿院の一部に当たる所なのだが、由来の中に出て来た「徳川家康と側室お万の方の孫にあたり、紀州徳川家初代藩主頼宣の娘、鳥取池田家初代藩主池田光仲の正室」という方のお墓である。築造するのに厖大な費用を要する巨大な墓所なので、万両塚と呼ばれるようになったそうだ。
周囲には空堀が巡らされている。
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さて、堤方神社から坂を下ってしまわずに戻ってくることになるのだが、五重塔の方から来て二股に道が分かれているところがある。左へ行くと堤方神社、右へ行くと妙見堂という案内が建てられている。この辺りは、本門寺の墓地が広がっているところでもある。
その妙見堂道を行くと先に左手にあるのが、永寿院。
「永寿院
寛永十九年(一六四二)以前の開創。備中庭瀬藩主 戸川達安が本門寺十六世日遠聖人に帰依して自らの下 . . . 本文を読む
さて、池上本門寺の塔頭を巡っているのだが、惣門前から時計回りに辿ってきて、本門寺裏手を回り込んできたわけである。ここからは、本門寺の南東側を見ていく事になる。今回取り上げているところは、池上の山の上、台地上に位置している。五重塔の辺りから程近い辺りである。そして、まずは一番外側を回ってみる。
歩いて行くと、右手にブロック塀があって、その中に堂雨が見えている。残念ながら、このお寺は今は公開されていな . . . 本文を読む
実相寺を過ぎると、その先にはもう本門寺の塔頭はない。しばらく行くと、第二京浜が近づいてきて、右手に立派な薬医門が保存されている所にくる。これが池上梅園というところ。
「当公園は池上本門寺の西にあり、高低差を生かした梅園や茶室などがある公園になっている。
戦前までは当地は日本画家の伊東深水の自宅兼アトリエ(月山山荘)[2]であったが、戦災で焼失。
戦後は、拡張され築地の料亭経営者の邸宅があったが . . . 本文を読む
さて、再び池上の山裾の道に出ると、まだまだ幾つもの寺院が並んでいる。
「西之院
日蓮聖人滅御四十~五十年頃(一三二二~一三三二)の開創。日蓮聖人が池上宗仲公の館に逗留されていたとき、直弟子 日興聖人の庵室として創建されたと伝えられ、その弟子日法聖人を開山とする。もとは市野倉村の貴船神社(明治期に大田神社に合祀)そばの松や柏の鬱蒼とした山の中にあったが、いつの時代にか当地に移された。寛永年間(一六二 . . . 本文を読む