さて、池上本門寺の塔頭を巡っているのだが、惣門前から時計回りに辿ってきて、本門寺裏手を回り込んできたわけである。ここからは、本門寺の南東側を見ていく事になる。今回取り上げているところは、池上の山の上、台地上に位置している。五重塔の辺りから程近い辺りである。そして、まずは一番外側を回ってみる。
歩いて行くと、右手にブロック塀があって、その中に堂雨が見えている。残念ながら、このお寺は今は公開されていないようだ。法養寺という。
「法養寺
天正十五年(一五八七)頃、神田三河町に開創。慶長年間(一五九六~一六一五)幕命により下谷稲荷町に移転。江戸城西御丸と大奥の祈祷所となり「わら店の法養寺」とよばれた。また、境内に熊谷稲荷大明神を祀り、江戸市中の信仰を集めた。
明治四十三年(一九一〇)当地にあった妙教庵と合併し、翌年この地に移った。妙教庵は、もと当地にあった蓮光坊が荒廃したため九代将軍徳川家重に仕えた妙教尼が炻保三年(一七四三)に再興した寺である。」(門前の掲示より)
立派な山門で、堂宇も外から見える限りでも風格を感じる。門が閉ざされているのが惜しい。最初に開創された神田三河町というのは、今の住所で言えば内神田二丁目辺り、龍閑橋に近い辺りの南北に細長い町であったところ。徳川家康が巻頭を領地にする直前の時期に開創されている。まだ、うら寂しい寒村であった江戸にできた寺が、みるみる内に大都市が出来上がっていく中に呑み込まれていき、下谷稲荷町へ移転したと言うことだが、これも明暦の大火(一六五七)に先んじてのことで、大火以前から江戸の新しい町造りの計画が始まっていたことを感じさせられる。
「釈迦涅槃刺繍画像(非公開) 大田区文化財
絹地、刺繍、縦一九五センチ、横二四五センチ。銘文により製作年代は寛文三年(一六六三)、作者は縫物師戸塚七兵衛であることがわかる。
紀伊徳川家の二代藩主光貞の室(令夫人)である天真院が、寄進したものと伝えられる。
また、寛政八年(一七九六)薩摩藩島津家の御奥の女性が施主となって、修復されたことが、軸裏の銘文からわかる。
桃山時代の遺風を感じさせる豪華な工芸作品としても貴重である。
昭和五十一年二月二十五日指定 大田区教育委員会」(門前の掲示より)
下谷稲荷町は、上野駅から浅草へ向かう道の途中。調べて見ると、浅草へ行く道の南側にこの寺はあったようだ。
「日蓮聖人坐像 大田区文化財
木造寄木造り、彩色、玉眼、像高四九・四センチ。
寺伝によると、もと江戸城本丸に安置されていたが、徳川四代将軍家綱の室、高厳院の熱心な法華経信仰により、当時下谷稲荷町(台東区)にあった当寺に寄進されたものといわれる。
破損等の危険性から、まだ細部にわたる調査が不可能で、銘文なども発見されていないが、様式的にみて、かなり古風を備えており、あるいは中世に造像されたものではなないかと推考される。
昭和五十一年二月二十五日指定 大田区教育委員会」(門前の掲示より)
明治時代から市中の寺が周辺部へ移転すると言うことも普通に行われていたようで、都心部の過密化というのも大きな理由だったようだ。それにしても、池上では寺号を持つ寺は明治以降に移転してきた寺ばかりなのが面白い。
「法養寺文書[一括] 大田区文化財
一、大曼荼羅 二十一点
二、古文書 四十点
三、子記録・書跡類 四十二点
当寺は、かつて下谷(台東区)にあり、江戸城両御丸と大奥の祈祷所となていたことから、御本丸御使番や大奥の局の書状等が残されており、その関係を考える時に興味深いものがある。
また池上南谷壇林(本門寺付属の僧侶の学校)の基本資料である「永照録」等、池上本門寺史を研究する上でも貴重な史料が含まれている。
昭和五十年三月十九日指定 大田区教育委員会」
その隣には、心浄院がある。
「心浄院
元亨三年(一三二三)本門寺三世 日輪聖人が、日蓮聖人の故郷安房や、ご自身の故郷平賀を遠く望む当地に庵室をつくり大泉坊と称した。日輪聖人在世中に日徳聖人が再興し心浄院と改称したと伝えられるが、享保年間(一七一六~一七三六)の火災で資料を失ったため、その年代などは不明である。また、壇越の小木氏は日蓮聖人が佐渡流罪のとき弟子の日朗聖人に教化された島民で、日朗聖人を慕い池上に住み当院を興したとも伝えられる。」(門前の掲示より)
現在の本堂は開創650年記念事業で建立されたものとのこと。
そして、その向かいには堤方神社がある。
創建年代不詳とのことだが、江戸時代の所期に若宮八幡社としてできたらしい。(猫のあしあとより)
現在は、南品川の天祖・諏訪神社の兼務社になっている。かつては、この神社の前の道を下りきったところにある妙運寺が別当だった。明治43年に地名から、現在の堤方神社という名称になったという。
神楽殿も立派なもの。
手水舎は天皇在位五十年記念に作られたもの。
社殿と狛犬。社殿は江戸時代末期、天保十一年(一八四〇)のものだという。(『馬込と大田区の歴史を保存する会』ホームページより)
堤方神社の扁額。
そして、凝った細工の施された拝殿。
先に掲載した法養寺と心浄院は、細い道を挟んだ向かい側。向こうには、五重塔が見えている。
歩いて行くと、右手にブロック塀があって、その中に堂雨が見えている。残念ながら、このお寺は今は公開されていないようだ。法養寺という。
「法養寺
天正十五年(一五八七)頃、神田三河町に開創。慶長年間(一五九六~一六一五)幕命により下谷稲荷町に移転。江戸城西御丸と大奥の祈祷所となり「わら店の法養寺」とよばれた。また、境内に熊谷稲荷大明神を祀り、江戸市中の信仰を集めた。
明治四十三年(一九一〇)当地にあった妙教庵と合併し、翌年この地に移った。妙教庵は、もと当地にあった蓮光坊が荒廃したため九代将軍徳川家重に仕えた妙教尼が炻保三年(一七四三)に再興した寺である。」(門前の掲示より)
立派な山門で、堂宇も外から見える限りでも風格を感じる。門が閉ざされているのが惜しい。最初に開創された神田三河町というのは、今の住所で言えば内神田二丁目辺り、龍閑橋に近い辺りの南北に細長い町であったところ。徳川家康が巻頭を領地にする直前の時期に開創されている。まだ、うら寂しい寒村であった江戸にできた寺が、みるみる内に大都市が出来上がっていく中に呑み込まれていき、下谷稲荷町へ移転したと言うことだが、これも明暦の大火(一六五七)に先んじてのことで、大火以前から江戸の新しい町造りの計画が始まっていたことを感じさせられる。
「釈迦涅槃刺繍画像(非公開) 大田区文化財
絹地、刺繍、縦一九五センチ、横二四五センチ。銘文により製作年代は寛文三年(一六六三)、作者は縫物師戸塚七兵衛であることがわかる。
紀伊徳川家の二代藩主光貞の室(令夫人)である天真院が、寄進したものと伝えられる。
また、寛政八年(一七九六)薩摩藩島津家の御奥の女性が施主となって、修復されたことが、軸裏の銘文からわかる。
桃山時代の遺風を感じさせる豪華な工芸作品としても貴重である。
昭和五十一年二月二十五日指定 大田区教育委員会」(門前の掲示より)
下谷稲荷町は、上野駅から浅草へ向かう道の途中。調べて見ると、浅草へ行く道の南側にこの寺はあったようだ。
「日蓮聖人坐像 大田区文化財
木造寄木造り、彩色、玉眼、像高四九・四センチ。
寺伝によると、もと江戸城本丸に安置されていたが、徳川四代将軍家綱の室、高厳院の熱心な法華経信仰により、当時下谷稲荷町(台東区)にあった当寺に寄進されたものといわれる。
破損等の危険性から、まだ細部にわたる調査が不可能で、銘文なども発見されていないが、様式的にみて、かなり古風を備えており、あるいは中世に造像されたものではなないかと推考される。
昭和五十一年二月二十五日指定 大田区教育委員会」(門前の掲示より)
明治時代から市中の寺が周辺部へ移転すると言うことも普通に行われていたようで、都心部の過密化というのも大きな理由だったようだ。それにしても、池上では寺号を持つ寺は明治以降に移転してきた寺ばかりなのが面白い。
「法養寺文書[一括] 大田区文化財
一、大曼荼羅 二十一点
二、古文書 四十点
三、子記録・書跡類 四十二点
当寺は、かつて下谷(台東区)にあり、江戸城両御丸と大奥の祈祷所となていたことから、御本丸御使番や大奥の局の書状等が残されており、その関係を考える時に興味深いものがある。
また池上南谷壇林(本門寺付属の僧侶の学校)の基本資料である「永照録」等、池上本門寺史を研究する上でも貴重な史料が含まれている。
昭和五十年三月十九日指定 大田区教育委員会」
その隣には、心浄院がある。
「心浄院
元亨三年(一三二三)本門寺三世 日輪聖人が、日蓮聖人の故郷安房や、ご自身の故郷平賀を遠く望む当地に庵室をつくり大泉坊と称した。日輪聖人在世中に日徳聖人が再興し心浄院と改称したと伝えられるが、享保年間(一七一六~一七三六)の火災で資料を失ったため、その年代などは不明である。また、壇越の小木氏は日蓮聖人が佐渡流罪のとき弟子の日朗聖人に教化された島民で、日朗聖人を慕い池上に住み当院を興したとも伝えられる。」(門前の掲示より)
現在の本堂は開創650年記念事業で建立されたものとのこと。
そして、その向かいには堤方神社がある。
創建年代不詳とのことだが、江戸時代の所期に若宮八幡社としてできたらしい。(猫のあしあとより)
現在は、南品川の天祖・諏訪神社の兼務社になっている。かつては、この神社の前の道を下りきったところにある妙運寺が別当だった。明治43年に地名から、現在の堤方神社という名称になったという。
神楽殿も立派なもの。
手水舎は天皇在位五十年記念に作られたもの。
社殿と狛犬。社殿は江戸時代末期、天保十一年(一八四〇)のものだという。(『馬込と大田区の歴史を保存する会』ホームページより)
堤方神社の扁額。
そして、凝った細工の施された拝殿。
先に掲載した法養寺と心浄院は、細い道を挟んだ向かい側。向こうには、五重塔が見えている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます