さて、引き続き目黒のお寺を巡っている。山手通り沿いに大鳥神社があり、その隣に大聖院があった。そこから少し南に行くと、奥へ向かって参道が延びている。山手七福神の岩屋辨天、蟠龍寺である。
ここは山手七福神の一つなのだが、江戸の七福神ではこの山手七福神が最も古いという。門前には、清正公から目黒不動へと続く七福神が一目で分かる地図が掲出されている。
「江戸城の裏鬼門守護のために建立され、将軍の鷹狩 . . . 本文を読む
目黒川を渡り、次は大鳥神社である。今は山手通りと目黒通りの交差点であり、交通の要衝であるのだが、恐らくは古くからそうであったのだろうと思う。そのために、ここに神社が置かれたのだろう。目黒川は天然の要害という側面があっただろうし、そこに向いて開けた谷の少し上という位置関係である。
「言い伝えによると景行天皇の時代に当地に国常立尊を祀った社があり、日本武尊が東夷平定の折に当社に立ち寄って祈願した。その . . . 本文を読む
JRの目黒駅というのは、知っている方も多いかと思うが、品川区にある。品川駅が港区にあったりもするわけだが、この辺りのことは駅にその名が付くことで本来の地域からずれたエリアがその名前で認識されるようになるということは、各所で起きている。ここもそんな一つであるわけだが、地図を見ると品川区の先端が微妙に飛び出して目黒駅をカバーしていてというのは、どんな経緯で境界が決まったのか、興味深いものがある。そんな . . . 本文を読む
さて、行人坂を下ったところが目黒雅叙園である。ここについては、既に多くを語られているので、私が付け加えることはない。「「行人坂の魔物~みずほ銀行とハゲタカ・ファンドに取り憑いた「呪縛」」町田徹著を読む」の禍々しさを知ると、余計に足が遠のくと言うこともある。アルコタワーが落成した時に見物によったことはあるのだが、敢えて中に入りたい気分はなくなってしまった。でも、この辺りを歩くなら読んでからの方が面白 . . . 本文を読む
さて、品川からの道を辿ってみたところから、今度は目黒を少し見て歩こうかと思う。まずは、行人坂と坂の途中にある大円寺というお寺を見てみようと思う。行人坂というのは、目黒駅前から目黒川に向けて下っていく道である。清正公前から白金台を抜けてきた道が、山手線を越えて下る道である。今でもかなりの急坂である。江戸時代、元禄の頃にこの急坂の緩和策として権之助坂が開かれた。
この坂に纏わる物語として、「「行人坂の . . . 本文を読む
さて、品川宿から目黒、碑文谷へと伸びた道を辿り、その行き先がそれぞれ寺院であるところを尋ねてみた。そして、碑文谷の円融寺、目黒の目黒不動龍泉寺の開基が同じ人物であるところまで見てきたのだが、もう少しまとめて俯瞰してみると、より全体像が見えてきて、ダイナミズムが感じられると思った。
806年 目黒大鳥神社創建
808年 目黒不動尊瀧泉寺創建 円仁(慈覚大師)によるという。
853年 円融寺、円仁に . . . 本文を読む
さて、品川からの道、もう一度碑文谷へと戻ってみようと思う。碑文谷道というくらいで、碑文谷という地名そのものと深い繋がりを持つと言われている、碑文谷八幡宮である。この神社、円融寺からは200メートル強しか離れていない。この神社の創建は明らかではないが、「鎌倉時代の武将で源頼朝に仕えていた畠山重忠の守護神を、二俣川にて北条義時の軍に討たれた後、その臣榛沢六郎が交付し宮野佐近がこれを奉祀したといわれてい . . . 本文を読む
さて、不動道は割と呆気なく、目黒不動尊へと至ってしまう。門前町もそれらしい雰囲気があって、古くからの歴史を持った感じが楽しい。最後は来た道を直角に曲がると山門が見えてくる。
山門の前には比翼塚がある。
「幡随院長兵衛との掛け合いでお馴染み、四代目鶴屋南北作の歌舞伎狂言「御存知鈴ヶ森」の主人公白井権八は、実在したかどうかは不明です。(一説では実在の人物で、改心して自首するどころか、手のつけられな . . . 本文を読む
さて、碑文谷道の終点、円融寺である。創建以来1150年という歴史を持つ古刹で、法華寺として栄えた歴史を持つことは前回紹介した。境内には見所が多いので、続けて見ていこう。
鐘楼そのものは、平成元年に作られたもの。他の建築に合わせた銅葺きの屋根が特徴的だ。鐘は寛永20年(1643)に鋳造されたもので、昭和18年(1943)に国の重要美術品に指定されているという。
そして、この円融寺のハイライトは、 . . . 本文を読む
さて、ようやく品川から古道を辿ってきた終着に到着する。その行き先が円融寺というお寺。その東門がこの道の終点である。
前回の法界塚の所から真っ直ぐに道が繋がっている。東門前から振り返って見たところ。
そういえば、法界塚の所で道が不自然にカーブしている件、明治時代の地図も調べみたが、明治11年の地図でも既に現在と同じ道が通っている。江戸時代からそうなっていたのだろう。道の形を見ていると、丸くカーブ . . . 本文を読む