さて、引き続き目黒のお寺を巡っている。山手通り沿いに大鳥神社があり、その隣に大聖院があった。そこから少し南に行くと、奥へ向かって参道が延びている。山手七福神の岩屋辨天、蟠龍寺である。

ここは山手七福神の一つなのだが、江戸の七福神ではこの山手七福神が最も古いという。門前には、清正公から目黒不動へと続く七福神が一目で分かる地図が掲出されている。
「江戸城の裏鬼門守護のために建立され、将軍の鷹狩りの際に参詣した「目黒の不動堂(龍泉寺)」の参詣道筋に設置された江戸時代から続く江戸最初の七福神巡りです。」(目黒不動商店街サイトより)
というのは勿論そうなのだが、江戸時代には市中から目黒へ参詣に訪れる人が多かったという。そのルートは二つあった。清正公から現在の目黒駅を経由して行人坂を下るルート。今日的な思考でいけば、他にどんな道があるのか?と思うのだろうが、品川宿へ入って、そこから碑文谷道、目黒道でやって来るというケースもあった。当時のお寺詣りというのは、信仰であることは一面であって、手軽なレクリエーションであったという側面も忘れてはならない。そんな時に、当時の一大レジャーランドでもあった品川宿にちょっと寄ってからお詣りにいくというのは、なかなか魅力的なルートであったはずだと思う。あっちへ人が流れてしまうと、目黒不動はともかくとして、清正公から行人坂に掛けてのお寺はまるで面白みのない話になってしまう。
となると、この白金、行人坂ルートに何か品川宿の華やかな楽しさに負けない、付加価値を付ける作戦が必要だという切れ者がいたのではないだろうか。そこで思いついたのが、七福神である。清正公から目黒不動までのお寺にこれを割り振ってやることで、こっち周りの楽しみを江戸の市民にアピールしようという作戦だったにちがいない。そして、案の定大成功を収めたので、あっちこっちで七福神巡りが拡がっていったというストーリーを考えてしまった。

奥に細長い参道を入っていくと、石像が迎えてくれる。
「この寺の創建は宝永6年(一七〇九)。浄土律復興のため、増上寺の高僧・霊雲上人が行人坂下の称明院をここに移し、蟠龍寺と改名された。本尊阿弥陀如来像(都文化財)・善光寺如来像が安置されている。本堂横の祠の中に山手七福神乗せ器物の弁財天があり、木造の弁財天は、お堂にまつってある。池の奥に「おしろい地蔵」の異名を持つ地蔵がひっそりと立つ。」(目黒区の案内板)

「蟠龍寺 下目黒3-4-4
目黒行人坂付近にあった称明院[慶安元年(1648)開創]を、増上寺の霊雲上人が浄土宗の戒律を復興するために現在地に移し、宝永6年(1709)「霊雲山称明院蟠龍寺」と改名再建されました。次いで、寛政6年(1794)律院となりましたが、「不許辛肉酒入山門」の結界石がその名残を今にとどめています。本堂には本尊として「木造阿弥陀如来像」(都指定文化財)があり、天明年間(1781~1788)に東都三番札所となり善光寺式阿弥陀三尊像も祀られています。「江戸名所図会」にのった境内は、当時の風趣が偲ばれ、元禄11年(1698)建立の地蔵尊があります。また、山手七福神の一つであり、江戸裏鬼門の鎮守として岩窟内に石像弁財天、弁天堂内に木造弁財天(八臂の天女像)が安置されています。さらに境内には、藍蝋の歌碑や下目黒尋常小学校創立の碑などもあります。
平成7年3月 目黒区教育委員会」(境内の案内板より)

非常にユニークなのは、見ていても全く分からなかったのだが、このお寺の境内には音楽スタジオがある。訪問した時に気が付かなかったので、写真も撮っていないのだが、このカットの左側手前のところ。ばんすたという名前が付いている。この寺の三男として生まれた吉田哲氏が、作曲家になられていて、境内でその雰囲気を一切壊さないように配慮しつつ、音楽スタジオを設立されたと言うことの様だ。非常にユニークで面白いと感心してしまった。

本堂。九世紀頃に武蔵の国の支配を考慮して神社や寺が成立していき、江戸時代になると、今度はそれが観光資源となっていったこと。その活用と発展を狙った七福神という着想などで、目黒は信仰とレクリエーションの地という両面を併せ持つようになっていったのだろう。

そんな風に考えて見ると、なかなか面白い。そして、この境内は、かつての目黒周辺の風雅な面影を偲ばせてくれるように思える。

境内には池が巡らされている。その周囲には、時代を感じる石造物が置かれている。

本堂横の岩窟。この中に石像の弁財天が祀られている。

その上の小高いところに弁天堂がある。

この中に木造の弁財天が祀られているという。七福神の時期には公開されていると言うから、この正月の時期と言うことになるのだろうか。

周辺の宅地化の中にあるのだが、この対比がまた面白い。

文政3年の銘がある石碑。これが藍蝋の歌碑ということのようだ。

ここは山手七福神の一つなのだが、江戸の七福神ではこの山手七福神が最も古いという。門前には、清正公から目黒不動へと続く七福神が一目で分かる地図が掲出されている。
「江戸城の裏鬼門守護のために建立され、将軍の鷹狩りの際に参詣した「目黒の不動堂(龍泉寺)」の参詣道筋に設置された江戸時代から続く江戸最初の七福神巡りです。」(目黒不動商店街サイトより)
というのは勿論そうなのだが、江戸時代には市中から目黒へ参詣に訪れる人が多かったという。そのルートは二つあった。清正公から現在の目黒駅を経由して行人坂を下るルート。今日的な思考でいけば、他にどんな道があるのか?と思うのだろうが、品川宿へ入って、そこから碑文谷道、目黒道でやって来るというケースもあった。当時のお寺詣りというのは、信仰であることは一面であって、手軽なレクリエーションであったという側面も忘れてはならない。そんな時に、当時の一大レジャーランドでもあった品川宿にちょっと寄ってからお詣りにいくというのは、なかなか魅力的なルートであったはずだと思う。あっちへ人が流れてしまうと、目黒不動はともかくとして、清正公から行人坂に掛けてのお寺はまるで面白みのない話になってしまう。
となると、この白金、行人坂ルートに何か品川宿の華やかな楽しさに負けない、付加価値を付ける作戦が必要だという切れ者がいたのではないだろうか。そこで思いついたのが、七福神である。清正公から目黒不動までのお寺にこれを割り振ってやることで、こっち周りの楽しみを江戸の市民にアピールしようという作戦だったにちがいない。そして、案の定大成功を収めたので、あっちこっちで七福神巡りが拡がっていったというストーリーを考えてしまった。

奥に細長い参道を入っていくと、石像が迎えてくれる。
「この寺の創建は宝永6年(一七〇九)。浄土律復興のため、増上寺の高僧・霊雲上人が行人坂下の称明院をここに移し、蟠龍寺と改名された。本尊阿弥陀如来像(都文化財)・善光寺如来像が安置されている。本堂横の祠の中に山手七福神乗せ器物の弁財天があり、木造の弁財天は、お堂にまつってある。池の奥に「おしろい地蔵」の異名を持つ地蔵がひっそりと立つ。」(目黒区の案内板)

「蟠龍寺 下目黒3-4-4
目黒行人坂付近にあった称明院[慶安元年(1648)開創]を、増上寺の霊雲上人が浄土宗の戒律を復興するために現在地に移し、宝永6年(1709)「霊雲山称明院蟠龍寺」と改名再建されました。次いで、寛政6年(1794)律院となりましたが、「不許辛肉酒入山門」の結界石がその名残を今にとどめています。本堂には本尊として「木造阿弥陀如来像」(都指定文化財)があり、天明年間(1781~1788)に東都三番札所となり善光寺式阿弥陀三尊像も祀られています。「江戸名所図会」にのった境内は、当時の風趣が偲ばれ、元禄11年(1698)建立の地蔵尊があります。また、山手七福神の一つであり、江戸裏鬼門の鎮守として岩窟内に石像弁財天、弁天堂内に木造弁財天(八臂の天女像)が安置されています。さらに境内には、藍蝋の歌碑や下目黒尋常小学校創立の碑などもあります。
平成7年3月 目黒区教育委員会」(境内の案内板より)

非常にユニークなのは、見ていても全く分からなかったのだが、このお寺の境内には音楽スタジオがある。訪問した時に気が付かなかったので、写真も撮っていないのだが、このカットの左側手前のところ。ばんすたという名前が付いている。この寺の三男として生まれた吉田哲氏が、作曲家になられていて、境内でその雰囲気を一切壊さないように配慮しつつ、音楽スタジオを設立されたと言うことの様だ。非常にユニークで面白いと感心してしまった。

本堂。九世紀頃に武蔵の国の支配を考慮して神社や寺が成立していき、江戸時代になると、今度はそれが観光資源となっていったこと。その活用と発展を狙った七福神という着想などで、目黒は信仰とレクリエーションの地という両面を併せ持つようになっていったのだろう。

そんな風に考えて見ると、なかなか面白い。そして、この境内は、かつての目黒周辺の風雅な面影を偲ばせてくれるように思える。

境内には池が巡らされている。その周囲には、時代を感じる石造物が置かれている。

本堂横の岩窟。この中に石像の弁財天が祀られている。

その上の小高いところに弁天堂がある。

この中に木造の弁財天が祀られているという。七福神の時期には公開されていると言うから、この正月の時期と言うことになるのだろうか。

周辺の宅地化の中にあるのだが、この対比がまた面白い。

文政3年の銘がある石碑。これが藍蝋の歌碑ということのようだ。

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