私が離婚を決めた理由

離婚するまでの経緯のつもりでしたが、考えているうちに、AC、共依存などにぶつかっています。

本屋にて

2006-04-04 20:32:54 | 日々つれづれ
上二人の子ども達が、実家から帰ってくるので、駅まで迎えに行った。
少し時間があったので、本屋に寄った。
ここ数日、本を読むということに取り付かれてしまっている私。

あの頃、何故私が真っ直ぐに家に帰られなくなっていたのか、感じてみたいと思った。
たくさん並ぶ文庫の題名を見ながら、本の帯を見ながら、内容を想像する。
手にとって、ぱらぱらと中身を読む。

私は、自分以外の人生を感じて居たかったのかもしれない。
感情移入できそうな本を探し、好きな作家を捜し求めていた。
私は、私から逃げ出したかったのだろう。
実際に逃げ出すことが出来なかったから、責めて他の誰かに一瞬でもなりたかったのかもしれない。

あの頃、買っていた本を読み直すと、私が問題を抱えていたことは一目瞭然だったりする。
巨食症の明けない夜明け」「植物性恋愛」松本侑子著 集英社文庫
ファザーファッカー」内田春菊著 文春文庫
ガール」桜井亜美著 幻冬舎文庫
村上龍 村上春樹 柳美里 山本文緒 唯川恵 中上健次・・・・・・
それとアダルトチルドレン関連の数々の本

結構、トラウマなどをテーマに書かれた話も多い。
気に入った作家が見つかると、すべての文庫を読破した。
毎日の変わらない日常、逃れられない日常から、本を読むことで私は生きていたのかもしれない。

そう思うと、今も変わらないかもしれない。
本がブログに変わっただけで、数多くの人のブログを読み、人生を知る。
共感し、そして癒される。
身体に悪いわけでもなく、ただ日常生活に、少しばかり支障をきたしているだけだから、依存症まではいかないが、依存行為そのものかもしれない。

でも、あの頃のように、本を抱え込みたいとは思わない。
すぐ日常の、生まれたばかりの文章の方が、私にとって魅力的なのかもしれない。
気に入った本を、読みたい時に買う。
当たり前のことが当たり前ではなかった、あの頃。
今の方が、少しだけ、まともかもしれないな。

感情の欠落

2006-04-04 10:16:50 | 私のこと
konomiさんの「消せない感情の欠落」を読んで思ったこと。

私もずっと感情が欠落していた。
自分の身に起こってしまったことが、実感として湧かず、痛みとして感じなかった。
怒りとしては湧いてくるものの、傷としての痛みや、嫉妬という感情が、湧き出してこなかった。
それは、子どもに対しても同じだったかもしれない。

目の前に起こった出来事を、漠然としか捉えることが出来なかった。
先日、長男が頭を打ったときも同じだ。
自分の身の上に起こっているのではないような気持ちにさえなってしまっていた。
子どもが迷子になっても、必死で捜すわけでもない私が怖くなった。
子ども達を、失った時に、私は本当に悲しむのだろうかと思った。
普通、焦って捜すのではないかと思い直し、それを演じているかのようだった。

その反面、他人に起こった私と同じような出来事を、過敏に受け止め、当事者のように辛くなった。
我が子の姿が見えないときには、平気なのに、子どもにまつわる忌まわしい事件や事故が起こるたびに苦しくなった。
我が子と重ねてボロボロ泣いた。

友達の旦那の不貞行為を、当事者のように怒ってしまったことがある。
でも、実際に旦那がそんなことしても、直接の怒りが湧いてこなかった。
旦那に対して、愛情がないからだと思っていた。

結局、私は私の人生を歩んでこなかったのかもしれない。
いつも誰かの人生に、癒着しながら生きていた。
自分一人のためには、何ひとつ積極的な行動が取れないのに、誰かが一緒だと一生懸命に動き続けた。

先日、読んだ本
ファースト・プライオリティー」山本文緒著 角川文庫
 
この本のなかの「当事者」は私そのものかもしれないと思った。
身の回りに起こることを自分が当事者のように抱き込んでいく主人公。
家出」の中の彼女への思いもそうなのかもしれない。

小説の中で、私と同じように苦しむ主人公に語りかける言葉
「いいんだよ。当事者じゃない人間は当事者と同じ気持ちにならないで。いつか自分がそうなったときに頑張れば」
私にも、優しく響いてきた。


そんな私と反面、旦那はkonomiさんと同じように、何を見ても感じていないようだった。
私の痛みも、子どもの痛みも見えていないようだった。
ドラマを見て、号泣する私をあざ笑った。
「こんな作り物見て泣いて、馬鹿じゃないの?」

結局、私は人の痛みに共感することばかりを教えられて育ち、自分自身に共感することをしてもらえずにいた。
旦那は、親との係わり合いがないまま育ち、他人に感情があることを気が付かずにいたのか?

感情というものは、自然に生まれてくるものではなく、育っていくものだったのではないかと思う。
空を見て、「青いね」と
花を見て、「きれいだね」と
嫌な事があったとき、「悲しかったね」と
いいことがあったとき、「よかったね」と
言ってくれる誰かがいるから、その感情が育っていくのではないかと・・・・・

カウンセラーに、
「まだ、ねこさんは0歳なんだよ。」と言われたことがある。
気付いた時から、始まるのだと。
嫌な事があったとき、「悲しかったね」と
いいことがあったとき、「よかったね」と
私は、この欠落した感情を今から育てていくことになるのだろう。

先日、好きだっていう感情を4歳の長男から教えてもらった。
感情の一部が欠落した私が育てているのに、ちゃんとした子どもに育っているのは、保育園のお陰かもしれない。
先生と二人、二人三脚で育てているのだと私は思っている。
私が教えられないことを、先生が教えてくださっている、そんな気がする。

育つことのなかった感情一つ一つを、これから私は時間を掛けて、自分で育てていきたいそう思う。
そうして、いつか自分自身の人生の当事者になれる日がくればいいとそう思う。