ガーン!
宮崎で「具体美術」を発信し続けた藤野忠利さんが亡くなった。そのことを知ったのはフルムーンの日。昼時分、雨の中を郵便屋さんが郵便物を届けにきた。しかし、郵便受けは外。雨が降るのでそのままにしておいた。夕方、郵便物を見て、ガーン!。
「藤野忠利の仕事」展の案内ハガキだったが、その案内に逝去の報告が記載されていたのだ。実は数日前に気になり、娘さんに電話したばかりだった。入院されているのを知っていたので、近いうちに見舞いに行こうと思っていたが、ずるずると日延べしていた。
私:気になっているのだけど、 どうされていますか? どこに入院されてますか?
応え:○○病院、今、会えないところにいってます。
というようなやり取り。家族しか会えないほど、症状が思わしくないのだと理解してしまった。
案内ハガキのプロフィールにはこうある。
1936年 宮崎市生まれ。宮崎大宮高校卒、立命館大学経済学部卒
1961年 宮崎交通入社、企画宣伝課
1973年 現代っ子センター創立
1999年 現代っ子ミュージアム創立
2018年 12月「GUTAI FACES」刊行(鉱脈社)
白髪一雄氏に師事。1965年から1972年具体解散まで出品
1936年 宮崎市生まれ。宮崎大宮高校卒、立命館大学経済学部卒
1961年 宮崎交通入社、企画宣伝課
1973年 現代っ子センター創立
1999年 現代っ子ミュージアム創立
2018年 12月「GUTAI FACES」刊行(鉱脈社)
白髪一雄氏に師事。1965年から1972年具体解散まで出品
私にとっては、とても大切な人だった。初めての出会いは、現代っ子センター創立からまもなくの頃。多分、新聞記事か何かで知ったのだろうが、センターを訪ねた。現在の場所とは違い、橘通に近い木造の2階だったように思う。記憶の底をたどれば、そこには金色の鯉のぼりがかけてあった。それも金ピカではなく、“いぶし銀”ならぬ“いぶし金”の鯉のぼりだったように思う。
それから幾年かたち、藤野さんの展示会パンフレットやハガキ等を作成する機会が何回かあった。そしてメール・アート。日本では嶋本昭三氏が、機関誌「具体」を送付したのが始まりとされているが、藤野さんから送られて来るメール・アートは、常識破りで型にはまらない自由なもので、郵便物そのものがアート作品だった。その幾つかが手元に残っているが、そこには、「どこにもないものをつくれ」をモットーとした具体美術の精神そのものが詰まっていた。
ある時、祖母山に行こうという話が舞い込んだ。登山から遠ざかっていた時期だったが、聞けばレディース山岳会主催という。それなら少しは大丈夫かと思い、二人して参加した。出発は午前3時。朝方に登山口を出発。ゆっくり歩くのだろうと思っていたら、参加者みなハイペース。女性と思っていたのが大間違いだった。私の方はどうにか付いて行けたが、藤野さんは途中から遅れぎみとなった。足を痛めていた。それでもどうにか祖母山登頂に成功。その後、障子岳、親父山を経て、四季見原へ。足もとにはフワフワ感じるほどの落ち葉が積もり、見上げればこの上ないほどの紅葉だった。この時の登山は、お互い忘れ難いものとなり、時々話題にのぼった。祖母山登山を共有できたことはこの上ない。
私が住まいを増築した時や、田舎町にギャラリーを建てた時には、作品を持って駆けつけてくれた。それらの作品は、チューブから出された絵の具で直接描かれたもので、ギャラリーには当時モチーフとされていた「大入」と題された作品のひとつをいただいた。その「大入」は、それ以来ギャラリーの守り神となっている。
そのような関係だったので、亡くなったと知った時は、とてもショックだった。案内の「藤野忠利の仕事」展が開かれている現代っ子ミュージアムへは、気持ちを抑えながら出かけた。挨拶をすませ、作品が展示してある2階へ。そこには、昨年末に県立美術館で開催予定だったという新作たちが掛けられていた。厚手の麻布を自由な形にカッティングされ、様々に色付けされた作品は、ここ2、3年のものより立体化しつつあるようであり、新たな展開が試みられているようだった。存命であれば、それこそ次なる展開を目にすることができたと思うのだが…。加えて、展示されていた在りし日の姿の前には、出版されたばかりの著作『GUTAI FACES』が供えられていた。病床でも編集を続けられたという。そこには、常識にとらわれずどこにもない作品をつくり出してきた「具体」の面々が掲載されていた。藤野さんの最後の大仕事だったように思う。ご冥福を祈りたい。