男澤惠一・家系と先祖のBLOG

「先祖を知れば未来が見える」著者、日本家系調査会の男澤惠一が読者様の幸福を願って書いております。

桓武平氏秩父支流 高山氏 小林氏

2020年05月03日 | この名字のルーツは?
治承4年(1180)に源氏の勢力が平氏を討つために兵を挙げると、東国の武士団も挙兵しました。当時の上野国(群馬県)を本拠にしていた武士である、武藏の秩父氏から分かれた高山氏とその分流小林氏も挙兵しました。源 範頼軍の中に小林次郎・三郎と高山三郎の名があります(一ノ谷の合戦)。さらに文治5年(1189)大軍を率いて奥州討伐に向かった中に高山・小林両氏の名があります。源 頼朝が30年ぶりに上洛時の一千騎の中に、小林次郎の名があります。
鎌倉幕府成立後の嘉禄2年(1226)5月には高山・小林両氏が高山御厨(藤岡市)周辺地域の地頭になっていました。
鎌倉幕府成立時に功績のあった有力な御家人達が次々に滅ぼされていくなかで高山・小林両家はこの後も存続して、新田義貞とともに幕府を滅ぼすことになります。
高山氏は武藏国秩父地方を領地としていた秩父氏の分家の一つで、秩父重綱の三男重遠が武藏国高山村(飯能市高山)に住み高山姓を名乗りました。その後上野国緑野郡高山御厨(藤岡市高山)の守備のため移住して来ました。そして高山御厨を本拠とした地方武士団となりました。最初に居を構えたのは現在の美九里地区高山下組であったといわれ、その近くの興禅院(曹洞宗・藤岡市高山288)には高山氏の墓所があります。
小林氏は高山重遠の三男・五郎重幸が緑野郡小林村(藤岡市)に居を構え小林氏を称しました。そこから天文年間(1532~54)以前に緑野郡中大塚(藤岡市)に移りました(中大塚城・駒形の砦)。建武元年(1334)の書状に「上野国大塚地頭小林孫五郎重政」の名があり、中大塚城の外郭にある墓地には「天正9年(1581) 小林美作守重勝」の銘を持つ墓石があります。永禄10年(1567)5月に武田信玄は小林氏に対し「ほみの村」(藤岡市保美)、森之郷(藤岡市森)、中嶋(藤岡市中島)など109貫文を給付しています。
江戸期は、代々五郎兵衛を襲名し、緑野郡中大塚村の名主、組頭等の村役を勤めました。

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