古幡氏は長野県下では安曇野市穂高牧と穂高に最も集住している(家紋は橘紋)が、松本市内は松本市奈川黒川渡に最も集住していました。行ってみたら山に囲まれた辺ぴな地域に古幡氏が何軒もありました。
ここの古幡氏は家紋が剣片喰と笹竜胆の二種類でした。笹竜胆は源氏ゆかりの家紋と言われますので、見た瞬間、予想外な感じがしました。奈川村誌の中に、嘉永二年(1849年)の文書によれば、江戸後期の奈川村庄屋の古幡彦一郎は、もとは永嶋姓で家紋も永の文字紋だった。文久元年の文書では古幡姓になっていて、家紋も笹竜胆に替えたという。
調査家系は丸に剣片喰紋。奈川の半分くらいはこの家紋と同じでした。木曽福島町で庄屋を務めた古畑氏も丸に片喰紋。古畑(古幡)伯耆守家重(ふるはたほうきのかみいえしげ)は通称孫兵衞または孫助といい、木曽家村の三子黒川三郎家景の後裔と伝える。この系は明治時代に後継ぎがなく断絶。しかし同家から奈川村に出た古畑(古幡)氏もある。片喰系の家紋が一致することから調査家系のルーツはここと思われます。木曽氏流黒川氏の流れか?現木曽郡木曽町に古幡(古畑)氏が集住している。
ところで木曽氏(清和源氏)の家紋は笹竜胆です。奈川村のもう一つの古幡氏、永嶋氏から改姓し庄屋古幡氏も笹竜胆であることから木曽氏との関りがあり、古幡氏と一緒に移住した可能性もある。ちなみに現在も永嶋姓が多い地域は木曽郡木祖村でした。
以上のことから、当古幡氏は清和源氏義賢流木曽氏、義仲の八世孫家景が古幡(古畑)を名乗った系、のちの古幡伯耆守の後裔の可能性が大きい。奈川の「黒川渡」の地名だが、木曽にも同じ「木曽郡木曽町新開黒川渡」の地名がありました。奈川黒川渡の地名は土地が似ていることから木曽の黒川渡と同じ地名を付けたかもしれません。
様々な一致点はルーツであることを物語っています。一軒一軒まわってみれば伝承が残っているかも知れませんが、村誌には反映されないことも多い。系譜学上の新しい発見になるかも知れません。
ここの古幡氏は家紋が剣片喰と笹竜胆の二種類でした。笹竜胆は源氏ゆかりの家紋と言われますので、見た瞬間、予想外な感じがしました。奈川村誌の中に、嘉永二年(1849年)の文書によれば、江戸後期の奈川村庄屋の古幡彦一郎は、もとは永嶋姓で家紋も永の文字紋だった。文久元年の文書では古幡姓になっていて、家紋も笹竜胆に替えたという。
調査家系は丸に剣片喰紋。奈川の半分くらいはこの家紋と同じでした。木曽福島町で庄屋を務めた古畑氏も丸に片喰紋。古畑(古幡)伯耆守家重(ふるはたほうきのかみいえしげ)は通称孫兵衞または孫助といい、木曽家村の三子黒川三郎家景の後裔と伝える。この系は明治時代に後継ぎがなく断絶。しかし同家から奈川村に出た古畑(古幡)氏もある。片喰系の家紋が一致することから調査家系のルーツはここと思われます。木曽氏流黒川氏の流れか?現木曽郡木曽町に古幡(古畑)氏が集住している。
ところで木曽氏(清和源氏)の家紋は笹竜胆です。奈川村のもう一つの古幡氏、永嶋氏から改姓し庄屋古幡氏も笹竜胆であることから木曽氏との関りがあり、古幡氏と一緒に移住した可能性もある。ちなみに現在も永嶋姓が多い地域は木曽郡木祖村でした。
以上のことから、当古幡氏は清和源氏義賢流木曽氏、義仲の八世孫家景が古幡(古畑)を名乗った系、のちの古幡伯耆守の後裔の可能性が大きい。奈川の「黒川渡」の地名だが、木曽にも同じ「木曽郡木曽町新開黒川渡」の地名がありました。奈川黒川渡の地名は土地が似ていることから木曽の黒川渡と同じ地名を付けたかもしれません。
様々な一致点はルーツであることを物語っています。一軒一軒まわってみれば伝承が残っているかも知れませんが、村誌には反映されないことも多い。系譜学上の新しい発見になるかも知れません。
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