男澤惠一・家系と先祖のBLOG

「先祖を知れば未来が見える」著者、日本家系調査会の男澤惠一が読者様の幸福を願って書いております。

石川家(岩手県奥州市前沢区)のルーツは?

2009年11月27日 | この名字のルーツは?
岩手県奥州市前沢区大字古城付近には石川家ばかりが集中しています。この近辺の石川家は・・・

《石川家由来について》
清和天皇十代之後胤 源 重利が石川氏の祖源 重利は仁平2年6月(1152)軍功をあげ、源 義朝公より石見国(島根県)石川村を賜り石川氏を称しました。

天文2年(1533)石川肥後守彦次郎重冬が軍功をあげ、将軍足利義晴公より磐井郡松川村(東磐井郡東山町)を領しました。また天文6年(1537)の戦いでも、重冬は武勲をたて、胆沢郡下河原村・若柳村、磐井郡日形村・長嶋村等を主君・葛西氏より与えられました。
永禄6年(1563)彦次郎久重のとき、胆沢郡大林城主(胆沢郡金ケ崎町永沢)・柏山明吉公(葛西氏家臣)の配下となり、度々の軍功により柏山氏側近家老として半入館(胆沢郡金ケ崎町)に住みました。石川氏は佐倉河半入(奥州市水沢区佐倉河字半入)に居宅を持っていたので半入館と呼ばれていたと推測されています。

石川家系図には、祖重冬は永正年間(1504~21)に胆沢郡内に来住し、以来、代々「彦次郎」を世襲名とし、重冬-久重―重恒と三代、約80年にわたり繁栄し重恒の代に没落したとあります。
葛西氏没落後に石川氏は帰農し、慶長~元和(1596~1624)の頃から現在地(奥州市水沢区佐倉河字半入7)に居住したと云われています。江戸期は開発など村発展に貢献し“良民の称”を与えられています。

石川氏は水沢地方に最も多く、半入屋敷石川氏はその祖といわれています。
本家先祖初代は“彦作”、半入館石川氏は代々“彦次郎”と、“彦”の字が共通しています。
半入屋敷石川氏(奥州市水沢区佐倉河字半入7)の菩提寺は、永徳寺(金ケ崎町永門前・曹洞宗)で、墓地は、自宅裏と永徳寺境内と常楽寺境内(水沢区佐倉河字曽根田)の3ヶ所にあります。現在の当主で36代目。家紋は「丸に笹竜胆」。郷土資料「胆沢町史」「南都田郷土史」「葛西氏家臣団事典」より

《家紋について》
丸に笹竜胆
竜胆紋は源氏一族の代表家紋とされ、源を名乗る武家が好んで使いました。正確には村上源氏、宇多源氏の代表家紋であります。清和源氏系も多く用いています。
葉が竹の笹に似ているところから笹竜胆とも呼ばれます。清楚な花を咲かせ、見た目にも涼しく、愛らしい風情を漂わせています。家紋ばかりではなく、平安時代にはとりわけ貴族の間で愛好された文様でもあります。上流階級の衣裳の織り文様や輿などの装飾に用いられました。
石川竜胆は河内国(大阪)石川郡より起こる清和源氏義家流・伊勢国(三重県鈴鹿郡)亀山藩の石川家定紋です。
奥州石川氏(清和源氏義家流)は、陸奥国石川郡(福島県東部)に住み石川氏を称しました。子孫、伊具郡(宮城県)角田城城主となります。この一族の家紋は、「鶴紋(飛び鶴・対い鶴)」を使用しています。

日本家系調査会

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