山風景とデジタルコラボ+α                                   

コンテンツ作製のため、山風景等を素材にして様々な試みを綴ってみます。

池つぼ

2014年12月01日 | 歴史ネタ
松崎町門野地区経由で富貴野山宝蔵院へ向かうと、切り通しを抜けた地点に弘法大師御旧跡碑が建っている。
この碑については過去に説明済みなので、そちらをご覧いただきたい。


さて、池つぼと呼ばれるくぼ地がこの碑の背後に存在する。
長さが約100m、幅50mのちょうど卵を縦にスライスしたようなくぼ地状になっている。

現在は杉が植林され、辺りと同化しているため指摘されないと、嘗ては灌漑用水のための池だったとは思いもよらないかもしれない。
ため池が廃止されたのはいつか?植えられた杉の太さからして20年から30年程度は経過していると思われるので、必然的にそれ以前の廃止ということになりまする。

ではなぜここがため池だったと断言できるのか?
谷を堰き止めた地点に碑が建っているのですね。

背面に「門野ヨリ富貴野ニ通ズル道路及水路敷開墾寄附」と書かれてあります。

碑の四面全てに謂れが刻まれておりますので、皆で確認作業をしています。



さて、全てワタシの憶測に過ぎませんが、ここからが核心部分です。
先ずはMAPを確認願います。


① 門野地区の水田は、その立地条件によりしばしば渇水に見舞われた
② そこで、ため池を造るよう、明治期に県へ陳情を繰り返した。
③ 大正の初めになり近代工法も確立され、既存の水源とは別の富貴野山側の水源利用によるため池を県事業で実施してもらえることとなった

そもそも尾根上のあの谷に堰を作ったところで、さしたる水量も確保できるはずもありません。したがって大師橋上流辺りに、ため池への給水堰を設けたのではないでしょうか?
暗渠か、それとも現道にそった水路で引き込んだかは、今後の調査が必要です。現有の水道施設がそれに当たるのではないかとも考えていますが。
MAP上で水田として利用できそうな場所を示してあります。
渇水期に水門を開く設備がどようなものだったかは、今後の研究課題です。

想定される水田への供給ルートを考えてみましたが、全てがワタシの空想の産物かもしれません。

お地蔵様の指さす方向にあるもの

2014年11月30日 | 歴史ネタ
富貴野山宝蔵院が弘法大師によって開かれ、その後7参詣道のうち一色口が禁忌とされたようだ。

古くより栄えた富貴野山・宝蔵院(松崎)には、「富貴野の七口」と言う白川口、皆奈(海名野)口、江奈口、桜田口、船田口(門野)、峰輪口、河津口がある。
しかしこれには弘法大師が開山した云う一色口が禁忌とされ公表されていないと言う。
理由は女谷の形状が修行の妨げ説が有力と考えられている事による。


伝承なので疑わしいのは当たり前だが、その内容を考えてみることにする。

弘法大師伝説は、行基に比べれば多くはないものの修善寺の独鈷伝説など各地に存在するようだ。したがって、そもそも弘法大師が富貴野山に訪れ、宝蔵院を開山したかどうかからして疑わしい。もし大師本人或いはその弟子が開山に携わったことが事実としても、長らくこの地に留まったとも考えにくく、開山当初から参詣道が複数あったとは思えないのは当たり前であろう。
そしてその後「一色口は禁忌」とされ、参詣口が閉じられたということだが、その一色口には開山から900年くだった天明年間に、一色の若者達によって建立された宝蔵院への道標地蔵がいまでも残されていることへの説明がつかなくなる。禁忌としたなら、撤去してしかるべき道標が、そのまま残地されてることからすれば、伝承そのものが眉唾ものといわざるを得ないわけだ。天明年間と言えば、江戸期最大の飢饉が襲ったその真っ只中である。石造物の多くは化政時代のように世の中が平穏な時代に建立されるのが常であるが、天明の大飢饉は伊豆にはあまり影響がなかったのか、或いは飢饉ゆえ仏門に縋るものが多くなったため、道迷いせぬよう厚志により建立されたものか等の理由があろうが、想像の域をでない。
 さて、この道標地蔵が一風変わっている。分岐地点に安置された浮彫立像の地蔵様の光背部分に、富貴野山へ続く方向が書かれてある。また、袖の下から手が伸び行き先を指し示すなど、手の込んだ意匠のものとなっている。ところがである。よく観察すると、左右の文字と行き先が逆転しているように見えることに気づかれるだろう。この謎を解くヒントを与えてくださったのが、先般道中ご同行いただいたおじなべさんである。目的地へ導かせる主体は誰か?お地蔵様の立場になって考えれば、おのずと答えがでます。その解釈はこうである。「(お地蔵様の)右(手方向)又は左(手方向)ふきのみち」と読めばよいのである。つまり、括弧内を省略した文字を彫ったため、参詣者から見て左右が逆転したように見えてしまったというわけだ。したがって参詣者がここでの判断を間違えると、とんでもない方向へ進んでしまうことになるので特に注意が必要である。ともかくも参詣者は難しいことを考えずに、お地蔵さまの前に立ったら、袖の下から伸びる手が指し示す方向へ辿ればよいのである。
道標地蔵は、川金沢沿いに3体佇んでいらっしゃるので、以下のマップに位置関係を落とし込み、三体の画像及び光背文字を掲載しておく。(下流から1体目と2体目は道路開削により設置位置が変わっていると推測される)


第一道標 右ふきのみち 左やまみち ※右手が判別しにくいですが


第二道標 左ふきのみち 右白川みち


第三道標 左ふきのみち 右やまみち


いかがだろうか。三体すべての設置位置が行き先と符号することが理解いただけるものと思う。
ちなみに、この書物の文面も掲載しておくこととしよう。


最後に一色口が禁忌とされた理由が、「女谷の形状が修行の妨げになることによる」ことらしい。
これをいかに解釈するか?一色口から座禅石まで参詣道を登りつめ、尾根に沿って宝蔵院へ達するとすると、あの「のぞき岩」脇を通過したと考えられる。とすれば、こう解釈できないだろうか?
「一色口からの参詣道で必ず通過する「のぞき岩」の形状が女性の陰部を彷彿とさせるので、この参詣道は修行の妨げになる」と・・・

 


 いずれにせよ、どの伝承も後付によるものと思われ、なんの確証もない。

 ただ一色口に佇む道標地蔵だけはいまだに、富貴野山を指し示し佇んでいるのは紛れもない事実である。
 

酔っ払いが秋の夜長に

2014年11月25日 | Weblog
博多に行ったからには、秋葉社ともうひとつ訪れねばならないヤシロがありました。

ライフワークにしている、豊国さんです。


神輿も飾ってありました。


神屋宗湛屋敷跡に建つ豊国神社 


酔っ払っいジジイが夜中に探索なんかしてたら、
まあ、マニアックそのものに見えたでしょうなあ!


二重滝

2014年11月25日 | Weblog
川金谷にあると言われる二重滝

kawaさんブログによると、某所にて「二重滝」と銘打ったパネル画像が展示されているらしい。

そこって、恐らくここですよね(一年半前画像)

昨日訪れた滝と同一のものと思われます。

昨日は、並列(パラレル)に流れる滝で、「二連滝」の呼び名が正しいかもです。


で、ワタクシが真の二重滝ではなかろうと思う滝がこちらです。
一重目滝


その下の二重目滝 木立の中に一重目滝が写っています


一重目の滝の高さは、15mほどはあったかと記憶しています。

さあ、いかがでしょうか?

ここまで到達するには、それなりの覚悟が必要ですよ。

消えた石造物の行方

2014年11月24日 | 訓練、探索
のどかな初冬(晩秋)の日和でございました。
そんなわけで、
ジイイ軍団と一年半ぶりに富貴野山宝蔵院へ行ってまいりました。


気づきましたしょうか?以前には本堂前に横一線に並べられてあった石造物群が、忽然と消え失せていたのです。

間違えなく以前にはあったのです。(30体ほど)


これが本日の、山門があった本堂直下参道付近の画像です。

謎を解くヒントは、この画像にあるのですよ。
お解りいただけますか、ワトソン君。いや、甲斐 享君。



こちらが以前の画像です。

答えは、参道中央にならぶ背中合わせの石造物だけだったのものが、参道両脇にも向かい合うように置かれたからなんですね。

嘗ての参詣道や山中等から運ばれ集められた石造物がそれなりの数量になったため、本堂直下の参道へ追加安置したからでしょうか?

昭和時代に撮影されたと思われるこの書物掲載画像も、参考として掲示しておきますね。



(参考にならない経路)