森かずとしのワイワイ談話室

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63回目の敗戦記念日に寄せて(1)

2008-08-15 02:21:25 | 平和のために
 1945年の8月15日から63年目の敗戦記念日がやってきました。今、北京オリンピックが開催中であり、日本人選手達の一挙手一投足が話題をさらっているところです。ギリシャで始まった古代オリンピックは、国家を背負ったスポーツの祭典であったのではなく、都市市民のスポーツの祭典であったと言われています。
 このオリンピックが国家間のスポーツ対決の構図を色濃くし、開催国の国家意識(ナショナリズム)を高揚させる手段として最大限に利用されたのは、ナチスドイツ時代のベルりンオリンピックであったことは知られている通りです。
 今回の北京オリンピックを巡っても、中国国家の威信をかけた体制のもとで、チベット問題が大きく報じられていますし、中国の政治体制に対する批判的な言説が氾濫するような状況での開催となっています。そして、最中に起きたグルジア共和国の南オセチア自治州をめぐるグルジアとロシアの武力衝突です。
 先日、市民の政策研究会の事務所お披露目の会で、この21世紀の民族問題を市民としてどう考えていくべきかが話されました。大国の国家物語が次々と揺らぐ様を私たちは目にしています。独立を求める側も、その権力にあるものと、一般民衆との間には、富や権利状況に支配被支配の関係が貫かれてはいないか。そこに目を向けることが、市民の立場です。どんな民衆運動も、ひとたび国家権力を手にすると、そこに支配と被支配の関係がつくられて、国家による抑圧が生まれてくる。
 宗教による民族運動がクローズアップされるチベットは善、それを弾圧する中国は悪といった単純図式では済まないものが現実でしょう。また、民族独立運動を敵視し、武力で弾圧しようとする既成の大国の内部にある利害、大国指導階級間の利害関係を見据えて、そこに生きる市民の現実から私たちは事態を判断し、国家の見解に埋没、従属しない市民の見解を持たなければならないでしょう。
 100年間の覇権の後に衰退したパックスブリタニカに替わって世界の盟主に立ったパックスアメリカーナも、100年の区切りを前に衰退を隠せない状況です。帝国の下で国民として従属させられてきた市民が、次の新しい世界の担い手として登場できるのか。国家という戦争を不可避とする権力構造を乗り越えた世界市民による地球市民社会が現出するのか。
 敗戦によって「与えられた民主主義」を享受してきた私たちが、自前の民主主義を獲得できるのか、私たちが皆で考え合わなければ、新時代の扉は開けないでしょう。
 今日は、お昼を挟んで繁華街で街頭宣伝です。
 





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