森かずとしのワイワイ談話室

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教育のことを思う

2012-07-25 20:50:53 | 森かずとしの子育て・教育相談室
 大津市で起こった中学生のいじめ自死事件で、教育界が厳しい批判にさらされている。教育現場から議員として出てきた私として考えるところがある。

 ここ一両日の教育に関する二つの活動を交えて考えを述べてみたい。

 昨日は、いしかわ教育総研が白山市を視察した。白山市は、松任市時代の2002年から、教育条件の内でも特に人の配置に予算を投じて、独自に小1に30人学級を導入し、県内自治体に先鞭をつけた。小中学校全校に学校図書館司書配置にも先駆的にとりくんできた。昨日の視察で、合併後の白山市の教育施策を概観し、松任図書館を拠点に展開する学校図書館支援システムを視察した。その後、東明小学校に移動し、学校図書館を活用した読書教育の現場を視察した。子どもたちの読書量の飛躍的な伸び、司書と司書教諭と学級担任が連携した図書館活用授業の多様化、子どもの調べ学習の深まりを垣間見た。
 公立図書館と学校図書館を結ぶ学校図書館支援システムは、全市的な図書の共有システムとして機能し、学校間格差を埋めている。図書館司書は専門職であり、非常勤職員の雇用期間制限から例外扱いしている。そのため、学校での経験を生かした独創的な読書指導が学校間の情報交換で拡がっている。説明に当たった司書の熱意には脱帽した。
 金沢市もようやく図書館司書の配置を開始している。金沢でもとりくんできた玉川こども図書館を拠点にする学校図書館支援システムも司書の存在があってはじめて所期の機能を果たすだろう。

 こうした条件整備はあくまでの条件整備だ。その上に立って、子どもたちひとりひとりに寄り添った教育実践を行うのか、子どもたちがつながり社会の縮図としての子ども集団を育てていくのかが問われる。まさに、いじめ問題への対処とはそのものだ。

 子どもを見つめ、支え、子どもたちをつなく教育は、障害のある子をみんなで包み込んで育ち合っていく共生共学の教育に凝縮されていると私は考えている。
 今年度になって金沢市では、中学校の修学旅行と小学校の宿泊体験に医療的なケアを必要とする子どもが友達と一緒に参加できるように、サポート体制をどうつくるのか、三件の事例が生まれている。今日、私が保護者の市教委との話し合いに同行したのは、夜間にも酸素吸入を必要とする子どもをいかにして一緒に一泊の宿泊体験に連れて行けるようにするかが課題だった。金沢市が県内では先駆的に介助員派遣を事業化した特別支援教育サポーター制度を柔軟に活用したサポーター派遣が出来ないか、その先例づくりに前向きな相談ができた。

 市教委の指導課長は、保護者に言い切った。「この子が参加することで、この子だけではなく、周りの子が育つ。このことを自分自身の経験から学んできたから、何としてもサポート体制を実現して、一緒に参加させて上げたい。」教育委員会サイドがこのように表明するようになったことは、率直に感動的だ。ここまでに至る道筋は、条件がないなかでの保護者の苦闘であったし、最も弱い立場にある子どもの側に立って、子ども集団と教職員集団につながりあうことを迫った覚醒した教師の存在があったことを私は知っている。

 あまりに痛ましい事件が再び起こった。大津の中学校で子どもたちの間で一体何があったのか。それに教職員集団がどう関わったのか。保護者や地域にどうメッセージを発したのか。報道からは見えては来ない。学校があるところには、いじめは存在していると学校を知るものは誰もが認識している。人間に成長するまでに乗り越えるべき山が精神の成長の過程に必ずあるからだ。そして大人社会にも政治にも経済にもいじめの構造が厳然としてある。その構造に直面しながら、先の見合えないストレスを子どもたちはため込んで成長する。いじめに表象される未成熟な自己防衛意識やエゴの克服は、教育の課題そのものだ。これを解決するには、地道で回り道を含む、人間同士の関係性を紡ぐような気の遠くなるような営みが避けられない。誤解を恐れずに言うならば、解決がゴールではなく、解決の過程が教育の内実だ。
 そこでは、一人たりとも無関心や見て見ぬふりを許さない毅然とした真剣なぶつかり合いがなければならない。そのことに教師が勇気を持って取り組めるような世の中のコンセンサスがいる。今の日本にこれがない。だから、学校は周りに壁をつくって守ろうとする。文科省や教育委員会が外形的ないじめ調査を行い、その数的な変化で評価するようなことでは解決し得ない。そんな流れがまたぞろ台頭することがないように警鐘を鳴らしたい。マスコミは、いじめ報道を教育の再興に資するにはどう扱うべきなのか熟慮して貰いたい。

 大津の市長が謝罪し、和解に向けた動きが報じられている。保護者との信頼関係の回復は容易ではないが、それに努力する以外にはない。だが、このことが、教育委員会制度の本質的欠陥だとか、首長が直接教育行政を取り仕切るべきだなどという潮流に利用されるものであってはならない。
 なぜならば、行政権力からの独立機関である教育委員会制度は、教育を洗脳の道具として政治権力・軍部が支配した帝国主義の痛切な反省に立って制度化されたものだからだ。大津の事件を巡っては、教育委員会事務局長たる教育長の対応が隠蔽だと批判されている。次に登場したのは市長である。市長は保護者の思いを理解していて、教育委員会に介入できないもどかしさを訴える。最高責任者が見えない。それは教育委員長だ。教育委員会制度が問題なのではなく、教育委員会の独立性が担保され、教育委員長が教育の条理で対処するリーダーシップを発揮できないことに問題がある。

 制度発足当初は教育委員は公選制であった。これをつぶしたのは、政治権力に他ならない。首長任命と予算権がないことで、行政権力に事実上従属するものとなってきた。「四権分立のひとつが教育でなければならない。」尊敬する先輩教師が常々私に語ってくれた言葉だ。教育条理に基づいた教育委員会の機能強化、子どもの随伴者であり、教育の担い手としての教職員が自己の使命感に裏打ちされて、相互の批判を経て、教職員集団の教育力を獲得しようとする主体的な討論と実践が求められている。教職員組合の自発的な教育研究運動の役割が大きいことも言うまでもない。

 制度に魂を入れることと徹頭徹尾教育の条理でこの難局に当たること。全国の教育行政と現場が真摯に向き合うべきときだ。

 

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