森かずとしのワイワイ談話室

平和・人権・地球・子育て・教育・くらし・そしてまちを語る

改めて 「年頭の所信」(続)

2012-01-04 22:59:14 | 議員活動
 二日のブログに引き続いて年頭の所信(続)を三日に掲載するお約束だったが、身体が言うことを聞かず!?今夜に持ち越しになってしまった。問い合わせもあった。お詫びしながら、これから、改めて「年頭の所信」(続)にとりかかる。

 まずは、澤野論文だ。「違憲の原発は停止・廃炉へ」原発は違憲だ。こう言い切る主張はなかなかお目にかかれない。核保有の是非や違憲性についての論議は盛んに行われてきた。しかし、原発となると、安全性とかエネルギー論がもっぱらになって、原発そのものの違憲性は言及されて来なかった。考えてみれば、原発のルーツは核兵器にあり、核爆弾の原料を生産する。石破元防衛大臣のように原発を潜在的な核抑止力と正直に言う政治家が存在している。ならば、無差別殺人に結びつきかねない原発そのものは平和憲法が許容しないと考えることに筋がある。人命の保護、土地家屋等の財産権、健康権、食の安全確保、平和の内に地域で住み生き続ける権利・・・これらすべてを脅かすおそれを原発は持っている。
 衆参での憲法審査会が動き出し、改憲準備に於いては民自に違いはない。石川では今春あたりが再稼働をめぐる山場が来そうだ。これを全力で阻止しなければならないが、さらに全国運動として、「違憲原発の廃炉」の主張を今後ウエートが高まる憲法改悪阻止に位置付けていくべきだと思う。
 さて、澤野教授は、世界の国の中で、原発無条件禁止の憲法があると指摘している。それは、オーストリア憲法だ。「核分裂によるエネルギー生産を目的とする施設建設と既存の当該施設がある場合の始動禁止」この核兵器の禁止とともに憲法に規定した原発禁止条項は、1978年制定の「原発禁止法」を1999年に一般法から最高法規へと格上げしたものだ。これを当時1999年7月14日の中日新聞は、次のように報じている。「オーストリア国民議会(下院)は13日開いた本会議で、原子力発電所の建設や核兵器の製造や国内持ち込みなどを全面的に禁止する非核化を新たに憲法に盛り込むことを全会一致で承認した。核の禁止を憲法に明記するのは欧州ではオーストリアが初めて。
 オーストリアでは1978年、ウィーンの西約50キロのツウェンテンドルフにある唯一の原子力発電所の稼働の是非をめぐり国民投票を行い、操業停止が決まっていた。それ以降、国内には核関連施設は一切建設されていない。またこの国民投票の結果を受け、平和利用を含む非核化を定めた一般法が制定されていた。今回の議会承認は、非核化を一般法から憲法に格上げして明記することで、核の全面廃絶に向けた全国家的な意志を内外に示したものとみられる。」
 ドイツやイタリアの脱原発が前面に出てきたが、このオーストリアの非核化がチェルノブイリ事故以前からの国民の総意によって切り拓かれてきたことは、もっと注目されて良い。
 また、澤野教授は、地方に於いても、無防備地域宣言条例や平和条例への脱原発条項の盛り込みや脱原発条例制定も推奨している。原発問題は、まさに国や社会のあり方そのものを問うものであるから、そうした広角度の視野を持って取り組んでいくべきだと思う。

 次は、私の原点たる教育に関わる「教育と資本の構造的危機米国の場合」に触れておきたい。ここでは、アメリカのチャータースクール化の実態を採り上げ、教育の自由化、競争至上主義に巣くうゲイツ財団、ブロード財団といったファンドの存在を告発している。オバマ大統領の経済顧問ローレンス・サマーズ、連邦政府教育長官アーン・ダンカンらが、オバマ政権の「トップへの競争」政策に深く関与し、テスト、チャータースクール、学校の民営化、教員の任期制(終身在職権の剥奪)を画策してきた。社会に蔓延してきたあらゆる格差という背景を切り離し、学力格差・低学力の責任をすべて学校に帰す。これは、全国一斉学力調査、教員免許の更新制、学校選択制などを導入してきた日本と随分と重なってくるではないか。
 このジョン・ベラミ・フォスター論文では、政府推奨のチャータースクールの理事会役員に、ヘッジファンドの管理職が入り込んでいると暴露している。教育が投資の市場と化していると。そして最も注目すべきは、アメリカで2000年代より学校の自由化、チャータースクール化が何をもたらしているのかについてだ。彼らが教育上の利益と呼んだ全米統一テストの結果すらが、公立学校の生徒を下回った。高得点の学校では、成績優秀な子どもをあらかじめ選別して就学させていたことが発覚。1.6倍もの時間拘束で生徒を絞り上げるたため、支援を要する貧困家庭の子どもは落ちこぼれ、公立学校に戻っていった。教員の低賃金と学校経営の利潤増大。こうした教育産業の教育は世界中に輸出されている!日本でも実感。
 こうした荒廃に対し、アメリカの教育界は立ち上がっている。今年に入って、カリフォルニア州のブラウン知事は、「教員がテストに向けた教育に集中させられるために創造的な授業や生徒との関係づくりを犠牲にせざるを得なくなっている。学校が州のテストに縛られる時間を減らし、教育の主権を学校、教員、保護者に戻す。生徒の成績データベースへの予算支出を中止させる。悪戦苦闘する「底辺校」に影響を与えている真の問題は、学校のある地域の社会的・経済的条件に深く根ざしている。」と宣言した。
 また、デトロイト市にあるジェームズ&グレース・リー・ボッグズ・センターのモットー「もう一つの教育は可能だ。」を紹介し、子どもを教育を含むコミュニティづくりの過程に参加させることが必要だと訴えている。生徒自身を主役とする解放教育への転換だ。私がかつて熱中して読んだパウロ・フレイレの解放教育論が紹介されているのだ。
 論文は、1949年に執筆されたアインシュタインの「なぜ社会主義か」を紹介する。「個人の無力化こそが資本主義の最大の罪悪だ。教育制度全体がこの罪悪から発している。極端な競争意識が生徒に植え付けられ、どん欲に成績を挙げることが将来の職業生活の準備だと思い込むよう訓練されている。この酷い罪悪をなくす唯一の方法は、社会的な目標に方向付けられた教育制度を備えた社会主義経済の確立を通じてだ。」こうアインシュタインは述べている。私は、社会主義を社会民主主義と置き換えてこれを読み、現代のアメリカ、そして日本の教育の陥っている病理からの根本的な処方が指摘されていると読み解く。
 足元に目を転じよう。金沢の子どもたちの今日のシグナルは、「学びからの逃走」が始まっていることを予見させる。駆り立てる教育の限界が露呈しているように思えてならない。全国学力調査結果の低下を正当に評価することが出来るとしたら、点数引き上げへの一層の駆り立てではなく、学びの原点に立ち戻る英断を行うことだ。教員から議員に転身した者としての責任において、市長および教育委員会に迫る。

 久しぶりに随分と長い論文になってしまった。「独裁者が席巻した大阪秋の陣」、「市民社会とは何か」はいずれも、ポピュリズムが席巻しつつある病んだ日本社会において、政治の主体となるべき市民とは何か、民主主義とは何か、とりわけ政治主体としての市民、労働者の責任について、論考している。政治が激動すると見られている2012年。既存政党への広範な市民の不信が、得体の知れない独裁者の登場を許すとなれば、それは市民の存在が幻想であり、民主主義が敗北することを意味する。市民の責任には、耳障りの良い言説の裏を見抜くこと、市民の側にかくべき汗があることを訴えかける議員の勇気も必要だ。橋下流構造改革は誰の何のための改革なのか、所得の不再配分を転換させる改革なのか、議員定数削減は果たして民主主義の強化か、富の偏在の実態から消費増税方針がどう見えるのか、これに対置する税の累進制回復、証券優遇税制廃止・不労所得課税強化の正統性。2012年は、こうした社会のトレンドに対する反論を地域の住民と共に考え会う地道な活動に邁進したいと思っている。


 今日4日は、市役所でも仕事初めで、市、市議会合同の新年互礼会にはじまり、会派未来の昼食懇談会、うわさの北国新聞社互礼会、そして4日目の年始挨拶回りの一日だった。夜ともなるとぐっと寒くなっている。寒波がくるというので、積雪が心配だ。

 長文読破に感謝。

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