愚民党は、お客様、第一。塚原勝美の妄想もすごすぎ過激

われは在野の古代道教探究。山に草を踏み道つくる。

人様から笑われ、人様から馬鹿にされ、人様から蔑視されて、人の価値の値段がつくべよ、とほほ。

2013年12月14日 | 小沢一郎

寒いよね、寒い、人知れず、貧しきアパートに帰還。

このアパートも建て替えとなるんかねぇ、とほほ。

たいへんだんべ。

世間様を体感するために、帝都新宿へ。

小沢一郎応援街宣に参加。3ヶ月ぶりだんべよ、とほほ。

まず、思い出横丁へ、ラーメン食べ、うまい。ママからライターをもらった。

そのお礼に、武蔵野在野をさそって、街宣中であったが、ウイスキーを飲みにいった。

武蔵野在野は、おらの故郷矢板で小沢支援演説に来てくれた友だ。

矢板駅で街宣が終わり、食堂に入り、焼酎、一本をあけ、酔ったまま、宇都宮へ。

宇都宮で餃子を食べ、さらに飲み、上野駅から東京駅へ。

武蔵野在野は東京駅から中央線に乗ったが、大月駅まで。

大月駅でおり、飲んだそうだ。武蔵野在野は野人である。

帝都新宿でチラシを配っていると、やはりいるよね、熱狂的小沢支持者が。

おら、ひとりでこれをやらないとね。まんず、湘南の藤沢駅あたりから、とほほ。

発見するのは通行者であると、武蔵野在野は語った。

偶然は必然へ。

武蔵野在野をおらの故郷、矢板の高原山、温泉旅館へつれこみ

来年は、小沢宣伝を午後、矢板駅でやり、その後、高原山の温泉旅館へ、

そこで酒を飲む。

そのような旅を。

おれは悪党である。

時代が変わったと武蔵野在野は語った。

おらは読書ばかりこもっていたので足が弱っていた。とほほ。

野心復活は足からだよね、とほほ。

来週土曜日は帝都新宿で小沢街宣をやったのち、懇親会だという。

おらは酒乱だから、心配だ。

まあ、なんとかなるべよ。

いいよね、街宣とは通行者による発見をひたすら待つ。

主体は通行者の偶然と必然にある。

これこそ中国古代書にある<道>だよね。

 

 韓国朝鮮の源態が韓非子であるならば、二本の日本とは信義である。

帝都新宿西の通行者は主体者としてみていた。

なにが信(ノブ)であり、なにが義(ヨシ)であるかを。

時代は武蔵野在野が語ったように変わっていた。

信義(ノブヨシ)である。

道であった。

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三国志』魏書弁辰伝によると、辰韓と弁辰(弁韓)は、風俗や言語が似通っていたという。土地は肥沃で、五穀の栽培に適していた[1]を飼い、縑布を作った[1]。大鳥の羽根を用いて死者を送るがそれは、死者を天空に飛揚させるという意味であった[1]の産地であり、韓、などが採掘していた[1]。市場での売買では鉄が交換されており、それは中国での金銭使用のようであった[1]

また倭人とも習俗が似ており、男女とも入れ墨をしていたとある[1]。武器は馬韓と同じであった[1]。礼儀がよく、道ですれ違うと、すすんで相手に道を譲った[1]

弁韓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E9%9F%93

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弁韓(弁辰)     

 

『後漢書』弁辰伝

 弁辰與辰韓雜居、城郭衣服皆同、言語風俗有異。其人形皆長大、美髮、衣服清。而刑法嚴峻。其國近倭、故頗有文身者。

 弁辰と辰韓は雜居しており、城郭、衣服などいずれも同じで、言語と風俗は異なる。その族は背が高くて大きく、美しい髮、衣服は清楚である。刑罰法令は厳格。その国は倭に近い故に全身に刺青を施している者も少しいる。

 

 初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。準後滅絶、馬韓人復自立為辰王。建武二十年、韓人廉斯人蘇馬等詣樂浪貢獻〔1〕。光武封蘇馬為漢廉斯邑君、使屬樂浪郡、四時朝謁。靈帝末、韓、濊並盛、郡縣不能制、百姓苦亂、多流亡入韓者。

 初め、朝鮮王準は衛満に国を破られ、その残党数千人を連れて逃れ、海に入り、馬韓を攻めて打ち破り、韓王となって自立した。準の後裔は絶滅し、馬韓人が再び辰王に自立した。建武二十年(44年)、韓人、廉斯人の蘇馬らが楽浪郡に詣でて貢献した。光武帝(後漢の初代皇帝)は蘇馬を漢廉斯邑君に封じ、楽浪郡に属させて、四季ごとに入朝させた。

 霊帝の末(189年)、韓、濊はともに強勢となって郡県では制御不能となり、百姓は苦悩したが、多くが韓に逃亡した者達である。

 

 馬韓之西、海島上有州胡國。其人短小、髡頭、衣韋衣、有上無下。好養牛豕。乘船往來、貨市韓中。

 馬韓の西、海上の島に州胡国がある。その族人は背が低く小さく、髪がなく、衣服は毛皮で、上着はあるが下穿きはない。巧みに牛や豚を飼育する。船で往来し、韓で交易する。

 

 

『三国志魏書』弁辰伝

 弁辰亦十二國、又有諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、其次有險側、次有樊濊、次有殺奚、次有邑借。

 有已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁〔辰〕樂奴國、軍彌國(弁軍彌國)、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戸路國、州鮮國(馬延國)、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國(馬延國)、弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國。

 弁辰もまた十二国、また諸々の小さな別邑があり、各自に渠帥(首領)がおり、大首領は臣智と言い、その次に險側、次に樊濊、次に殺奚、次に邑借がいる。

(弁辰には)彌離彌凍国、接塗国、古資彌凍国、古淳是国、半路国、樂奴国、彌烏邪馬国、甘路国、狗邪国、走漕馬国、安邪国(馬延国)、瀆盧国がある。

(辰韓には)已柢国、不斯国、勤耆国、難彌離彌凍国、冉奚国、軍彌国(弁軍彌国)、如湛国、戸路国、州鮮国(馬延国)、斯盧国、優由国がある。

 

 弁、辰韓合二十四國、大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸。其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之、世世相繼。辰王不得自立為王。土地肥美、宜種五穀及稻、曉蠶桑、作縑布、乘駕牛馬。嫁娶禮俗、男女有別。以大鳥羽送死、其意欲使死者飛揚。國出鐵、韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。俗喜歌舞飲酒。有瑟、其形似筑、彈之亦有音曲。兒生、便以石厭其頭、欲其褊。今辰韓人皆褊頭。男女近倭、亦文身。便歩戰、兵仗與馬韓同。其俗、行者相逢、皆住讓路。

 弁辰と辰韓の合計二十四国(ただし、上記には辰韓は十一国しか記載がなく、難彌離彌凍国は両者に重複する)、大国は四、五千家、小国は六、七百家、総計は四、五万戸である。その十二国は辰王に属している。辰王は常に馬韓人を用いて擁立することが代々継承されている。辰王は自ら王に立つことはできない。

 土地は肥沃で、五穀や稻の栽培に適しており、多くの蚕や桑があり、縑布を作り、牛馬の車に乗る。妻を娶る婚礼あり、男女の別がある。大鳥の羽を死者に送る、その意は死者が天空に飛揚することを望む。国は鉄を産出し、韓、濊、倭など皆、これを採りに来る。諸貨の売買には皆、鉄を用いる。中国で金銭を用いるがごとくである。また二郡で供給する。

 風俗は歌舞、飲酒を好む。瑟があり、形は筑に似ており、これを弾く音曲がある。子が生まれると、石に頭を押し付け、扁平にすることを欲する。今、辰韓人は誰もが扁平な頭をしている。男女は倭に近く、全身に刺青もする。歩兵戦に慣れており、兵器は馬韓と同じ。その習俗は、路上で行き交えば、皆、道を譲りあう。

 

『南斉書』加羅國伝

 加羅國、三韓種也。建元元年、國王荷知使來獻。詔曰:「量廣始登、遠夷洽化。加羅王荷知款關海外、奉贄東遐。可授輔國將軍、本國王。」

 加羅国、三韓の一種なり。建元元年(315年)、国王の荷知は使いを持って来貢する。詔に曰く「広く量って初めて登朝し、遠くの蛮夷が懐いた。加羅王の荷知は親しく海外(中華の外)の難関を越え、遠方の東から方物を奉じる。輔国將軍、加羅国王を授けるべきなり」

 

 弁辰與辰韓雜居、亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似、祠祭鬼神有異、施灶皆在戸西。其瀆盧國與倭接界。十二國亦有王、其人形皆大。衣服清、長髮。亦作廣幅細布。法俗特嚴峻。

 弁辰は辰韓に雜居し、城郭をも有する。衣服、住居は辰韓に同じ。言語、法俗は相似するが、祠に鬼神を祭祀するのは異なる、皆が家の西にかまどを置く。そこの瀆盧国は倭と境界を接する。十二国にも王がおり、身体は皆大きい。衣服は清潔、総髪である。また広い幅の細布を作る。刑罰における法俗は特に峻厳である。

 

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/sankan-benkan.htm

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