愚民党は、お客様、第一。塚原勝美の妄想もすごすぎ過激

われは在野の古代道教探究。山に草を踏み道つくる。

安倍政権発足   植草 一秀

2006年09月25日 | 政治
ロバート・J. シラー, Robert J. Shiller, 植草 一秀, 沢崎 冬日
投機バブル 根拠なき熱狂―アメリカ株式市場、暴落の必然




植草 一秀
日本の総決算


植草 一秀
現代日本経済政策論


堺屋 太一, 刈屋 武昭, 植草 一秀
あるべき金融 リスクテイクなくして再生なし


植草 一秀
ウエクサ・レポート 2006年を規定するファクター


大前 研一, 植草 一秀, 斎藤 精一郎, 高橋 乗宣, 水谷 研治
金融の論点〈’98〉


植草 一秀
金利・為替・株価の政治経済学


長谷川 慶太郎, 植草 一秀
これからの日本経済―景気回復への方策


安倍政権発足に際してもっとも注目されること  経済政策運営の要のポジション  植草一秀 http://www.asyura2.com/0601/hasan47/msg/671.html 投稿者 愚民党 日時 2006 年 9 月 16 日 20:23:50: (回答先: 小泉政権の経済政策は2003年春に事実上、完全破綻した   植草一秀  投稿者 愚民党 日時 2006 年 9 月 16 日 20:14:50)http://web.chokugen.jp/uekusa/ 2006.09.06第12回「失われた5年-小泉政権・負の総決算(6)」  本コラムの執筆に大きなブランクが生じてしまいお詫び申し上げます。執筆を再開し、従来よりも高頻度で執筆してまいりますのでなにとぞご高覧賜りますようお願い申し上げます。 小泉政権の5年半の期間に日本経済は最悪の状況に陥った。日経平均株価は7600円に暴落し、金融恐慌が目前にまで迫った。その後、日経平均株価は17000円台まで上昇し、日本経済も緩やかな改善を続けているから、小泉政権に対する国民の評価はさほど悪くない。「改革」で膿を出し尽くし、日本経済を再浮上させたなどという、見当違いの説明を聞いて思わず納得してしまう国民も多数存在しているようだ。だが、事実はまるで違う。小泉政権が提示した経済政策は文字通り日本経済を破綻寸前に追い込んだのだ。2003年5月に日本経済が破綻せず再浮上したのは、小泉政権が当初示していた政策を全面撤回して、正反対の政策を実行したからにほかならない。 この点については、本コラムで詳細に論じてきた。小泉政権は日本経済を破綻寸前にまで追い込んだのだが、そのことによって二つの副産物が生まれた。ひとつは多くの国民が本来直面せずに済んだはずの苦しみに巻き込まれたことだ。失業、倒産、自殺の悲劇がどれほどの国民に襲いかかったことか。彼らの苦しみは小泉政権の政策失敗によってもたらされたものである。「人災」と言って差し支えない。 もうひとつは、外国資本が日本の優良資産を破格の安値で大量取得できたことだ。バブル崩壊の後遺症により、本邦企業、銀行は資本力を失い、安値の実物資産を取得することは不可能な状況に追い込まれた。その状況下で、豊富な資本力を備えた外国資本が日本買占めに向かった。小泉政権は「対日直接投資倍増計画」などに鮮明に示されるように、外国資本による日本買占めを全面支援してきた。 小泉政権が2003年に金融処理における「自己責任原則」を放棄して税金による銀行救済に踏み切ったのは、米国の指導によった可能性が高い。米国の政権につながる金融勢力は、日本政府が金融恐慌をあおり、株価暴落を誘導しながら最終局面で銀行救済に踏み切ることを指導し、日本の優良資産を破格の値段で大量取得することに成功したものと思われる。 この9月に小泉政権は終焉し、安倍政権が発足する見込みである。安倍政権は小泉政権を継承するとしているが、小泉政権とは明確に一線を画し、是々非々の姿勢で政策を運営してもらいたい。 経済政策運営で小泉政権は「緊縮財政運営」を基本に置いた。財政赤字の拡大を回避するために、緊縮財政の路線を鮮明に提示した。小泉首相は「いまの痛みに耐えてより良い明日を」と絶叫した。緊縮財政で経済は悪化する。しかし、財政再建のためにはそれもやむなし。これが小泉政権の基本スタンスだった。 公約どおり日本経済は激しく悪化した。しかし、それで財政赤字は縮小しただろうか。2001年度当初予算で28.3兆円だった財政赤字は2003年度に35.3兆円に急増した。国税収入は2000年度の50.7兆円から2003年度には43.3兆円に激減した。 私は財政健全化のためには経済の回復が不可欠と主張し続けた。経済が回復すれば税収が増加する。経済成長による税収確保が財政健全化の王道であると主張し続けた。これに対して小泉政権は「経済が回復しても税収は増加しない。財政健全化には緊縮財政しかない」と真っ向から反論した。 2003年夏以降、株価反発を背景に日本経済の改善が始動した。果たして経済回復に連動して税収が増加し始めた。2005年度決算での国税収入は49兆円を突破した。景気回復により国税収入はわずか2年間に約6兆円も急増したのだ。財政健全化には経済の回復こそ特効薬であることが事実によって立証されつつある。 最近になって筆者の主張を小泉政権幹部が使用するようになった。竹中氏も従来の同氏の主張とは正反対であるにもかかわらず、「経済成長による税収増加により消費税増税を圧縮できる」と主張し始めている。正論への転向は歓迎するが、過去の不明についてはひと言添えるべきだろう。 安倍晋三氏はもとより「経済成長の重要性」についてのしっかりとした認識を有していた。私は安倍氏との私的な勉強会を重ねていたが、小泉首相と異なり、経済政策運営については柔軟な発想を保持していた。 2006年度の国税収入は50兆円を突破すると思われる。そうなると2006年度の財政赤字は25兆円に急減する。増税をしないのに、景気回復だけで財政収支は大幅に改善し始めているのだ。このことにより、大型増税の必要性が大幅に後退している。 日本経済はバブル崩壊後、1996年と2000年の二度、本格浮上しかけた。浮上しかかった日本経済が撃沈された理由は政策逆噴射にあった。’97、’98年の橋本政権の政策逆噴射、2000、2001年度の森、小泉政権の政策逆噴射が日本経済を撃墜した。いま日本経済はバブル崩壊後、三度目の浮上のチャンスに直面している。三度目の逆噴射があるとすれば、過去二回同様の近視眼的な緊縮財政の発想に基づく消費税大増税の決定と考えられた。 そうしたリスクは存在したが、折りしも景気回復による税収の増加という現実が経済成長による財政健全化誘導の考え方の正しさを誰の目にも明らかにし始めた。このことが、経済成長重視の経済政策の主張が広がりを持ち始めた背景でもある。安倍氏が政権発足のスタート台に立つタイミングでこの考え方をベースに置くことができたのは幸いであるし、望ましいことである。 安倍政権発足に際してもっとも注目されることは、経済政策運営の要のポジションにどのような人物を配置するかである。小渕政権は堺屋太一氏を起用して成功を収めた。小泉政権は竹中氏を起用し、日本経済は最悪の状況に陥った。その後に巧妙に政策の大転換を実行して小泉政権は危機を回避したが、人材起用の巧拙が政権の命運を左右する。安倍政権がどのような布陣を敷くのかに強い関心が注がれる。 なお、小泉政権の総決算については、日本ビデオニュース株式会社(代表取締役神保哲生氏)が主宰しているインターネット・ニュースサイト『ビデオニュースドットコムマル激トーク・オン・ディマンド第283回(2006年09月01日)』(9月1日収録)のトーク番組に筆者が出演し、現在、動画配信されているのでぜひご高覧賜りたい。http://web.chokugen.jp/uekusa/


【スクープ】 安倍新内閣、飯島秘書官を排除!! 〔東京アウトローズWEB速報版〕

2006年09月24日 | 政治

阿修羅から転載

【スクープ】 安倍新内閣、飯島秘書官を排除!! 〔東京アウトローズWEB速報版〕

http://www.asyura2.com/0601/senkyo26/msg/907.html

投稿者 いいげる 日時 2006 年 9 月 23 日 22:55:24:


http://outlaws.air-nifty.com/news/2006/09/post_f4e5.html


2006年9月23日 (土)

【スクープ】 安倍新内閣、飯島秘書官を排除!!

●暗闘の果て、波乱含みの新たな船出か!?
 
安倍晋三内閣は26日に発足するが、小泉政権下で5年5ヶ月に渡り、権勢を欲しいままにしてきた小泉首相の懐刀、飯島勲・首相秘書官が退任することが23日内定した。飯島秘書官は、安倍内閣でも影響力を保持しようと各種の画策を重ね、新内閣でも「内閣参与」などの肩書きで名を連ね、実質的な権力集中を目指していた。

この野望を実現するため、飯島氏はこの5年5ヶ月に及ぶ首相秘書官の〝威光〟を存分に使い、霞ヶ関、財界、永田町、マスコミなどを多面的に活用して、「自らの敵となりそうな人物の排除に集中してきた」(官邸筋)とされる。

こうした、飯島秘書官の動きに対しては、小泉首相は「無関心を装い、傍観していたが、本心は内閣の監視役として、飯島秘書官の新内閣への参加を望んでいた」(事情通)とされる。ところが、ここ1ヶ月以内での、飯島秘書官のマスコミ操縦の内幕などが、「一部でバレ、大騒ぎになった」(同)。

その結果、飯島秘書官サイドと反飯島側が「暗闘を繰り広げていたが、最終的に飯島が負けた」(官邸筋)とされる。これで、小泉政権を支えた飯島秘書官、竹中平蔵・総務相が、いずれも政治の表舞台から去ることになる。竹中氏は、年内にも渡米し、ウォール街を〝第二の人生〟にするとの観測も浮上しているが、飯島氏は、これまでの経験を生かし、永田町暮らしを続けるものと見られる。

 (山中湖畔にて、松島宣仁)  

投稿時刻 21時15分

http://outlaws.air-nifty.com/news/2006/09/post_f4e5.html






飯島 勲

代議士秘書―永田町、笑っちゃうけどホントの話




立花 隆

巨悪vs言論―田中ロッキードから自民党分裂まで〈下〉




鎌田 慧

くたばれ!自民党―13の症候群(シンドローム)




水木 楊

誠心誠意、嘘をつく 自民党を生んだ男・三木武吉




福岡 政行

日本をダメにした政治のカラクリ―自民党でも民主党でも日本は滅亡する 2004年政界大再編でこうなる!


浅川 博忠

自民党幹事長というお仕事―300億のカネ、800のポスト




浅川 博忠

自民党・ナンバー2の研究




奥島 貞雄

自民党幹事長室の30年




石原 信雄, 御厨 貴, 渡邉 昭夫

首相官邸の決断―内閣官房副長官石原信雄の2600日




江田 憲司, 龍崎 孝

首相官邸




仮野 忠男

首相官邸物語




姉小路 祐

首相官邸占拠399分




渡辺 乾介

首相官邸




渡辺 乾介

首相官邸




大下 英治

首相官邸の女



大室寅之祐 明治天皇の誕生 (3)

2006年09月22日 | 政治
阿修羅より転載
http://www.asyura2.com/2002/dispute4/msg/104.html



Re: 日本人はなぜ駄目か 投稿者 通りすがり 日時 2002 年 11 月 08 日 02:32:13:

(回答先: Re: 日本人はなぜ駄目か 投稿者 通りすがり 日時 2002 年 11 月 08 日 01:26:38)

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ならば、すり替えられた明治天皇とは誰なのか。

幕末、尊皇思想が起こってくるには、其の素地がある。水戸藩における思想体系は、尊皇思想であったと言っても過言ではない。幕末の藩主、水戸斉昭、其のブレーンの藤田東湖が、其の全てを代弁している。「将軍家は本家、禁裏は主君。」「いざと言うときは、禁裏にはせ参じるのが本来の姿。」そして、其の禁裏とは、彼らの思想上、それはいわゆる南朝を以て正当であるとしていた。彼らは隠し玉を持っていたのである。南朝の血を引く末裔であるというふれ込みの熊沢家。熊沢天皇である。

南朝を正当視する、松下村塾が、長州にあった。ご存じ、吉田松陰の塾である。そして、彼らもやはり南朝の末裔という大室家。大室天皇を要していたのである。いざと成ったら、この天皇を担ぎ上げ、革命を起こす。これが、彼らの最終目標で在った。

担ぎ上げられたのは、大室天皇であった。ただ其の事実は隠された。思ったよりスムーズに進んだ大政奉還、明治維新。隠し、事なきを得たほうが、社会掌握に良いと判断された。

松下村塾の遠からずに麻郷村(おごう)と言うところがある。ここに大室家はあった。慶応年間、高杉晋作の造った奇兵隊へ良く出入りしていた活発な十六歳前後の少年がいた。馬にも乗り、相撲も良く取った。彼の名を大室寅之祐と言う。

大室家は、九十六代、後醍醐天皇から四代目、松良天皇の末子光良親王の血を引くと言われている。いったん草莽の民となった者に、その真実のほどを云々するのは難しいが、光良親王は応永の乱(1399年)後、大内氏に従い周防へ下向し、麻郷村の麻里府に住み着き、大室と名乗ったというのである。

この家の大室寅之祐が、尊皇開国派に担がれ明治天皇になった。慶応3年夏のことである。
明治維新、新生日本の事相成り、社会もほぼ固まってくると、この事実は絶対に隠蔽しなければならない最極秘のこととなった。ここに、明治憲法の第1条と3条の出来た必然性が浮上してくる。

其の伊藤博文も亡き、明治四十三年頃南朝、北朝正当論議が学問の場で盛んになった。其の論議に幕を下ろしたのは、外ならぬ明治天皇であった。 「南朝が正当の王朝である。」
孝明天皇はもちろん北朝である。其の子であるなら、当然明治天皇も北朝である。自らを否定することである。学者の間には、内心かなりの混乱と疑問があったに違いない。しかし、それは、天皇は神聖にして犯すべからずと言う強権憲法のもとにオブラートにくるまれてしまった。自ら、南朝を名乗れなかった明治天皇のせめてもの自己表現であったのかもしれない。明治天皇自ら造らせた、北朝天皇家の系図、「纂輯御系図」には、後花園天皇の父後崇光院貞成親王の父は、不詳となっている。
これでも、明治天皇は孝明天皇の子で有り北朝といえるのか。

憲法で縛り、わざわざ天皇紀を出し、いっさいの批判を封じ込めた。天皇をひたすら神にしたのは、国民に疑問の余地を残さないためではなかったのか。14代将軍を殺し、孝明天皇を殺し、睦神天皇を殺し、すり替え明治天皇を作ったことをひたすら隠し、抹消するためでは無かったのか。神格化された天皇は、大東亜戦争に向かってひた走ることになる。
 
 
 
  http://www.asyura2.com/2002/dispute4/msg/104.html





太田 龍

長州の天皇征伐



大室寅之祐 明治天皇の誕生 (2)

2006年09月22日 | 政治
阿修羅より転載
http://www.asyura2.com/2002/dispute4/msg/104.html



Re: 日本人はなぜ駄目か 投稿者 通りすがり 日時 2002 年 11 月 08 日 02:32:13:

(回答先: Re: 日本人はなぜ駄目か 投稿者 通りすがり 日時 2002 年 11 月 08 日 01:26:38)


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2.幕末~明治(明治天皇)

明治天皇紀や、中山慶子の手紙などを覗いてみると、其の少年期は、虚弱体質で、病気ばかりしており、あまり学問は好かれず、御遊技ばかりしていたようである。

実の母親であるという中山慶子自身が、父である忠能に宛てた手紙が残っている。
「・・・何分にも世は末に及び、御所中悪魔えいまんにて恐れ入り候。当今様おん事(睦仁天皇)じつにお案じ申し上げ、悲観のほかこれなく候。とかく格別明君にあらせられず候わでは内外とても治まり申さず・・・かかるご時節に当今様の御代にならせられ候おんことなんと申し上げておんよろしく候や。ただただ神慮にかなわせられ、ご強運強く、神明のご加護にて早々内外の悪魔を遠ざけられ候よう、祈り入り祈り入り上げ候。なかなか紙上に尽くしがたき事ども日々御座候いて、浅間しきごようす、嘆き入り、嘆き入り参らせ候。」

我が子ならば、かなり欲目に見ても良さそうであるが、其の母親が、睦仁のあまりの愚昧さに嘆いているのである。この中山慶子の日記からは、睦仁は、精神障害があったのではないかと思わせるほどである。
上に抜粋したのは、慶応三年一月十二日の手紙である。
 
しかし其のわずか一年足らずして、さっそうと馬に跨り、声高らかに号令をかけ、臣下の乗馬を気遣うほどの賢人になっていた。この違いは一体何を意味するのか。全くかな釘流の書体であった睦人天皇が、明治天皇になったとたんに達筆になり、虚弱体質が、二十四貫目(約九十Kg)を超す巨体に成り、乗ったこともなかった馬を自在にこなし、つい三年ほど前、大砲の音を聞き気絶したことなど無かったように剛胆になった。これは一体何を意味するのか。
 
明治神宮の祭神は明治天皇と昭憲皇太后。
これって実に変ですね。明治天皇に対するなら、昭憲皇后でないといけない。
なぜ、皇太后なのか。実はこの疑問、明治時代にも出ているが、今更換えるわけにも行かないとかでそのままになっている。ただ、括弧付きで皇太后の下に昭憲皇后と書いた。皇太后だったら、明治天皇のお母さんに成る。

昭憲皇太后は、左大臣一条忠秀での三女で一条勝子と言った。寿栄姫と改め、睦仁親王の皇后として入内し、後に美子と改名した。
正式に皇后になった胸記されているのは、明治六年十二月八日であるが、慶応二年六月に見合いをして皇后に決定し、睦仁親王は慶応三年正月御大典を行っている。
明治天皇の肖像写真絵に描いた物を写真で取ったという顔に痘瘡をやった痕の、あばたが少々在った為、それを隠すためだったとも言われている。
しかし、睦仁親王は、子供の頃、種痘を受けているのである。現代医学の七不思議の一つである。

一言で言ってしまえば、睦仁親王と明治天皇は別人である。

慶応三年夏、睦仁天皇は軽い風邪を引いた。尊皇派の重鎮達により、薬が調合された。そんなことのあったすぐ後、皇居から、睦仁天皇の母の実家である中山家へ、一体の等身大の仏像と称する物が厳重に布でくるまれ運ばれた。このことはしっかり文章に残っている。

ここから、想像をたくましくすれがば、この仏像は、実は、毒殺した睦仁天皇の亡骸であった。そして、尊皇派によって、仕立て上げられた別の天皇が、すり替わった。

この陰謀に、中山家が、加担すれば、それは容易いことではないか。一つ疑問が残るのは、中山慶子が、実の子どもの暗殺に加担するかと言うことである。
実は、中山慶子が妊娠したとき、激しい腹痛によりしょう産の疑いがあったのである。このことはなぜか宮中には知らされなかった。無事良くなったと事なきを得たようになっているが、死産を隠し、赤ん坊を取り替えた可能性もあるのである。「権典侍様御用雑記」などは、その時のことを記している。ならば、一度やったことは二度だって出来る。すり替えなど、中山家にとって自らの権勢が維持できればいかほどのことでもない。後は、天皇近くにいた幾らかの公家を懐柔すれば済むことである。事実、中川宮などは、名を何回も換えているが、孝明天皇寄りで、攘夷派だったにもかかわらず、明治以後も公家社会の中枢に君臨している。
 
孝明天皇暗殺の噂は、当時公家社会の中でかなり話の遡上に上っていたという。明治天皇だって耳にしないはずはない。大変英明だった明治天皇が、真に孝明天皇の子ならば、この噂の中心人物である、岩倉具視や大久保一蔵を快く優遇したであろうか。たとえ噂だけでも。岩倉に至っては、其の病の枕元まで、天皇自ら出かけ見舞っているのである。
私にはとても理解しがたいものがある。
すり替えた天皇は、遷都の号令も何もなく、そそくさといち早く、江戸を改めた東京へ移された。そして明治と改元した。 

ならば、すり替えられた明治天皇とは誰なのか。


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 http://www.asyura2.com/2002/dispute4/msg/104.html





太田 龍

長州の天皇征伐



大室寅之祐 明治天皇の誕生 (1)

2006年09月22日 | Weblog
大室寅之祐 明治天皇の誕生 (1)  投稿者 通りすがり 日時 2002 年 11 月 08 日
http://www.asyura2.com/0601/revival1/msg/205.html

投稿者 愚民党 日時 2006 年 9 月 16 日 08:08:17:


阿修羅より転載
http://www.asyura2.com/2002/dispute4/msg/104.html



Re: 日本人はなぜ駄目か 投稿者 通りすがり 日時 2002 年 11 月 08 日 02:32:13:

(回答先: Re: 日本人はなぜ駄目か 投稿者 通りすがり 日時 2002 年 11 月 08 日 01:26:38)


(資料)
鹿島昇の「裏切られた三人の天皇-明治維新の謎」という本により、維新の際薩長間に、徳川家茂及び佐幕派であり鎖国に固執した孝明天皇、それに同調した睦仁親王を暗殺して、長州出身の南朝の後裔である大室寅之祐を睦仁親王にすりかえて明治天皇にするという密約があり、その首謀者は岩倉伊藤等であつたとする異説があることを知つた。
具体的には、伊藤博文が自ら隊長となつた長州力士隊にかつて吉田松陰が南朝再興の理想を託した一人の少年奇しくも睦仁親王と同年の16歳になる大室寅之祐なる者がいて、吉田松陰の命を受けた木戸と伊藤が掌中の玉の如くして養育し、孝明天皇と睦仁親王を暗殺した後で、睦仁親王とすりかえたというものである。

それによれば、
1.睦仁親王は天然痘を患い、「あばた」の残る虚弱体質であり、書は下手で、即位前乗馬の記録はないのに対し、明治天皇は「あばた」がなく、5尺7寸・24貫の巨漢で、達筆であり、鳥羽伏見の戦の際馬上閲兵した、また相撲を得意としたという。
2.中山日記における「寄(奇)兵隊の天皇」という表現、突然の東京遷都、昭憲「皇太后」の呼称(本来ならば「皇后」であるべき。また、大正天皇もこの呼称でよいと御裁可されたという。)南北朝正閏論における南朝正統の御裁定(天皇は「北朝」系であるにもかかわらず。)等々の事実がある。

この異説により、多年の疑問が氷解したように感じた。これによれば、長州出身者に対する厚遇、乃木大将の殉死(吉田松陰との関係)等の説明が出来るからである。また、これが事実であるとするならば、天皇制の日本近代史における意義が一層増すように思われた。

長崎県平戸市にある松浦史料博物館に本件につき訊ね次の返事を得た。
現在平戸城に、亀岡神社の宝物「祐宮(サチノミヤ)御初衣」が公開展示されています。この初衣には大納言中山忠能卿が松浦家第35代松浦煕(ヒロム)(乾斎)公(1791-1867)に宛てた添翰があります。同封した添翰のコピーの中に祐宮(後の明治天皇)の御誕生等について詳しく記されています。
これを見ますと、娘典侍慶子(ヨシコ)は皇子を懐妊され、8月27日表向き着帯(腹帯)、中山家の産所において9月22日に若宮降誕とあります。
ご存知のように、慶子様は松浦家第34代松浦清(清山)(1760-1841)の第八女愛子様と忠能卿の間に誕生し、後に光明天皇の典侍として宮仕えをしておられます。
因みに明治天皇は松浦清公の曽孫に当たられます。
明治天皇の出自については諸説があるかも知れませんが、当地平戸の識者の間では慶子様御生母説が有力でこれが定説となっているようです。ただ、慶子様が愛子様の娘であるということに、疑義をお持ちの方もおられるようです。


何れにせよ、祐宮(睦仁親王)は中山忠能が外祖父であることに間違いはない。
そこで、最後の藩主第37代松浦詮(アキラ)公(1840-1908)について、「松浦詮伯伝」を調べてみた。
その結果、詮公が中山家はもとより、三条・岩倉等と相当近い関係にあつたことと皇室から厚遇を受けている事実をあらためて知つた。

その「松浦詮伯伝」の中に、次のような記述がある。
明治10(1877)年1月5日、天皇及び皇后両陛下の御真影を拝戴す。21日宗族規約を設け、始祖源融(トオル)公神影の前に於て、誓約書に連署す。
署名人は正四位松浦詮、その長子従五位厚、次子従五位靖(ハ力ル)、分家従五位豊及び従五位渡辺章綱の5名でこれに詮の家令・家扶(何れも正四位)、靖の家令(従五位)、渡辺章綱の家扶(従五位)の4名が副暑している。
これをみて、源融公の末裔ということであれば他にも大勢いるであろうに、実質的に渡辺章綱だけを拘束する規約が何故この時期に必要であつたのか。
実は、渡辺章綱(後に子爵)は、鹿島氏の著書によれば、泉州伯太一万三千石の藩主であり、役職は大坂城の定番であつた。徳川慶喜の命を受けて孝明天皇暗殺の犯人を調べ、それが岩倉と伊藤であることを知り、後年設立した長崎の青年学校でこの事実を広言したため、伊藤の仕向けた刺客に襲われ、1894年死亡したことになつているが、実は逃れて1911年まで生きたという数奇な運命の持主である。
松浦家は維新の舞台裏を知つた上で、内乱等の不穏な動きに対処するため、宗族規約という名目で、渡辺章綱の言動を牽制するこ
とを図つたのではないだろうか。その背景には他よりの圧力もあつたかも知れない。

幕末、藩主の命を受けて情報活動を行つた平戸藩士に籠手田(コテダ)安定(1840-1900)なる人がいる。1867年京に上り国事を偵察し、薩摩の五代、長州の伊藤の知遇を受けた。後に滋賀県令・貴族院議員となり、天皇の寵を辱くし、平戸藩士中ただ一人華族(男爵)に列せられたこの人こそ、明治天皇の出自を確実に知つていたといえるだろう。(注1)
平戸島にはその北端に田助港というところがあり、幕末各藩の志士をのせた船舶が寄港し、多々良孝平という篤志家のところに、西郷吉之助(隆盛)、桂小五郎(木戸孝允)、山県狂介(有朋)、大隈八太郎(重信)等が屡々来て国事を談じたとのことである。その意味で平戸は、吉田松陰遊学のことと併せ、明治維新にゆかりのある地である。
(注1)井上家と籠手田家は隣家同士であり、家族は亙いに出入し、籠手田安定が滋賀県から連れ帰った愛妾から私の祖母、姉妹(寅之助の娘達)が琴、三味線の手ほどきを受けたという。また井上家の今一方の隣家は沖家で、日露戦争の露探として横川省三と共にハルピンで処刑された沖禎介の実家である。
籠手田安定の長男は大正中期陸軍砲兵大佐で退官帰郷。今から80年以上前の話である。戦後、井上家と籠手田家の子孫は東京に移住し敷地は残っているが人は住んでいない。

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(資料)【明治という時代】

1.幕末(孝明天皇と14代将軍家茂)

明治二十二年二月十一日、大日本帝国憲法が発布された。
第一条  大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第三条  天皇ハ神聖ニシテ犯スヘカラス
現在日本の形は、全てここから始まった。其の話をしよう。

 明治二十二年二月十一日、午前十時三十分、政府高官の並ぶ中、明治天皇の玉座着席によって、式典は始まり、明治天皇は憲法発布の勅語を読み上げた。式典はほんの十分ほどで終わったのであるが、祝砲がとどろき市中の鐘が鳴り、山車が練り歩き、仮装行列が繰り出し、さながら祭り気分の大にぎわいであった。
万歳、万歳、万々歳の大合唱のもと、無事、式典は終了した。因みに、最初は「奉賀」と唱える案が出たのであるが、何回も唱えていると「阿呆」に聞こえるので「万歳」に変わったらしい。それ以後、万歳は、頻繁に使われるようになる。そして翌年十一月二十九日から施行される胸決まった。国民を無知、阿呆たらしめた憲法の船出である。伊藤博文の胸中如何ばかりか。
 
第一条、天皇は万世一系であると記す。今から思えば、こんな大嘘、憲法の第一条に、良くも入れたものである。あまりの大胆さに、日本国民全員が、呆気にとられ、脳みその麻痺により信じ込んでしまったのか。
第三条でもって、天皇は神聖にして犯すべからずと念を押す。アジアでいち早く、近代的立憲国家になったという思いが、これらに対して目くら判を押させたのか。

それにつけても、少し前の幕末の世、天皇は玉と呼ばれ、政治の道具に過ぎなかった。そう行動してきたのは、伊藤博文自身では無かったのか。そして、それ以前は、すっかり歴史の表舞台からは無視されつづけて来た天皇である。

天皇の歴史のほんのさわりを紐解けば、天皇が万世一系で有るわけがないと言うことは少年でも見抜く。紐解いてもらっては困るから、神聖にして犯すべからずと続く。情報を独占し、強権によって言いくるめる。嘘八百でも、批判を許さず、何回も、声高に唱えることにより本当になる。御用学者が必死に太鼓持ちをやる。批判や意見を言おうものなら、その日から飯の食い上げになる。それどころか命すら危ない。従って御用学者に成らざるを得ない。おかしな理屈の積み重ねにより、いろいろと言いつくろう。一見開かれた世のように思われた文明開化の明治も、この一手ににおいて、まさに暗黒の世界にはいるのである。

伊藤博文らは、一体なぜこのような条項を入れたのであろうか。尊皇思想の成文化が其の全てであろうか。其の答えは幕末動乱期にあった。

倒幕に燃え立つ、革命の志士達は、其の革命思想が、最初から一貫していたわけではない。尊皇攘夷から、公武合体、攘夷、倒幕、尊皇開国へと変わっていく。

西欧列強との対立の愚を知った、薩摩、長州などは、尊皇、倒幕、開国へと傾いていく。慶応2年1月(1866)の薩長同盟の成立により、この考えは、確固たるものとなる。ところがである。尊皇として頂くべき、時の孝明天皇は、頑固な攘夷主義者であると共に、幕府に好意的で、公武合体を押し進めていたのである。

文久三年の八月十九日未明には、孝明天皇の指示により、中川宮朝彦親王を中心に、公武合体派の巻き返しを図り、尊攘派の公家達を追放、禁足した。もっとも、薩摩はこの時、まだ公武合体派であったが。しかし慶応二年の段階では、薩長をはじめ、革命志士側にとって、倒幕は、動かしがたい目標になっていた。従って、孝明天皇は、極めて大きな障害となっていたのである。しかし、孝明天皇は、一貫して公武合体路線を堅持していた。
 
そんなとき、天皇が疱瘡にかかったのである。
ここのところは、少し詳しく見ていこう。
「孝明天皇紀」、「中山忠能日記」より、拾ってみる。
ちなみに、中山忠能とは、明治天皇の生母と言われている中山慶子(孝明天皇の妾)の父である。

慶応二年十二月二十一日
 天皇は、少し風邪気味であったようだ。
十二月十二日
 高熱を発し、苦痛を訴える。
十二月十五日
 手に一対の吹き出物が出来る。
十二月十六日
 吹き出物が顔にも出来る。一睡も出来ず、吐き気と下痢が激し い。
十二月十七日
 典医十五名は正式に疱瘡と発表、宮中にわかに騒がしくなる。
十二月十八日
 吹き出物が変色して落ち着く。睡眠もとれはじめた。京都守護 職松平容保などがお見舞いに参内。
十二月十九日
 朝から食欲がでる。
十二月二十日
 食欲、便通も順調、吹き出物の経過も良好。
十二月二十一日
 天皇の機嫌が良くなる。吹き出物から膿が吹き出し始めてさら に楽になる。徳川慶喜もお見舞いに参 内。
十二月二十二日
 午前二時に葛湯一碗、唐きび団子三つ、さらに二時過ぎに唐き び団子五つ、十一時半にお粥一碗、  正午には御大便少々、 午後二時に唐きび団子七つ、五時にお粥一碗、八時過ぎにほし いい一碗、
 十二時前にお小水、そして午前一時前にお粥半碗と大根おろし 少々。

食欲も排泄の方も順調に回復していることを記している。又、中山忠能の日記にも、すでに前日に「全て御順道との儀承り、恐悦に存じ上げ候」と書いている。

十二月十三日
 食欲ますます進み、吹き出物の膿も出てしまい乾燥しはじめ  た。
十二月十四日
 この日も葛湯、お粥、ほしいいをとり、便通もあり、天皇の機 嫌はますます良好。

ところがである。

十二月十五日
 天皇の様態は前夜から急変、激しい嘔吐と下痢におそわれ、顔 には紫の斑点が現れた。さらには「御 九穴より御脱血」、七 転八倒の苦しみのうちにその夜遅く亡くなった。

天皇はまだ三十六才、それまでは至極健康な壮年であった。
 
孝明天皇記をはじめ、殆どの資料は、疱瘡による急死である胸、伝えている。しかし上の日記からだけでも、何か解せないものを感じるが、やはり戦後になり、いち早く歴史家のねずまさし氏が、孝明天皇は病死ではなく暗殺であることを学問的に論証された。事が事だけに、論証の正否などには関係なく、学会からは無視された。

ところが、十数年前、天皇の最後の病床に立ち会った宮廷医師、伊良子光順の曽孫に当たる伊良子光孝氏が、光順の手記について発表された。「日記の中には、毒殺ではないかと疑っているような表現があります。」としながら、自らも医師であるところから、其の手記を明細に検討した結果、医学者としてみるなら、砒素系毒物による急性中毒症状であると診断せざるをえない。(石見銀山あたりの)亜砒酸である可能性が高い。

これに対して、死因を痘瘡だとすると、痘瘡が殆ど全快した段階における様態の急変、異常な症状を説明することが出来ないと言われる。
 
ここまでくると、孝明天皇毒殺は、当時より、一部で噂されたとうり「何者かによる暗殺であったこと」はかなり高い確率で認識される。ならば、其の暗殺者は誰か。宮廷の奥深く、しかも権力の中枢で行われたことであり、今となっては物証は何もない完全犯罪である。

しかし状況証拠は、ただ一点を指し示している。岩倉具視と其のブレーン、薩摩、長州の討幕派の中枢。岩倉具視は、それ以前にも、天皇の暗殺を企て、投げ文されたことがある。
維新後の動向と考えあわせれば、岩倉のほかに、大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛、伊藤博文、彼らが大なり小なり関わっていたことは、全ての状況が指し示す。

岩倉具視の義妹、堀河紀子が宮中女官として入っていた。彼女が加担していたことは容易に推察されると、先に挙げた、ねずまさし氏も指摘している。
典医によって調合された、痘瘡の薬は、女官の手を経て天皇のもとに運ばれる。その間に、そっと毒物を混入すれば済むことである。
まさに、その後彼女は、口封じの如く、薩摩と思われる手によって殺害されているのである。
 
当時、日本に駐在していたイギリスの外交官アーネスト・サトウの「日本における外交官」と言う日記が残されている。

名前が日系人のようであるが、れっきとした紅毛人である。この日記の中に、孝明天皇は革命、革新のじゃまだったので暗殺されたという噂を聞いたという文章が残っている。もっとも、日本訳されたものは、なぜか、この部分がカットされてはいたが。噂と言っても、巷のそれとは違う。仮にも外交官の残した手記である。その筋の噂と言うことである。彼は、其の噂を聞き、さもありなんと納得している。

もう一人、朝鮮に安重根と言う朝鮮独立運動家がいた。明治四十二年十月十六日、満州ハルピン駅で、伊藤博文を狙撃したテロリストである。彼は、他の朝鮮人が多く持っているように、いやそれ以上にがちがちの儒教信奉者であった。彼は、伊東殺害の後、その場で取り押さえられたのであるが、その後の裁判等で彼自身の信条を述べている。伊東を殺害した理由の中にこんな文章が残っている。
「今ヲ去ル四十二年前現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラルル御方ヲ伊東サンガ失ヒマシタ其ノ事ハ皆韓国民ガ知ツテ居リマス」

伊藤博文は孝明天皇を殺害した。そのことは韓国民は良く知っていると言っているのである。安重根の情報入手経路は、はっきりしていないが、伊藤殺害の動機の一つになっている。彼の裁判は、どういう訳か裁判途中より、非公開になってしまった。

幕末を見ていると、今ひとつ疑問に突き当たる。それは、孝明天皇の死を遡ること、五ヶ月、将軍家茂の死についてである。
この時期、時代の思惑は錯綜している。

紀州より迎えた、徳川慶福は、徳川十四代将軍として、名も家茂と改めていた。後見役に一橋慶喜がいた。朝廷側、孝明天皇に支えられ、家茂は長州軍に対峙した。いわゆる禁門の変である。

大阪城に本拠を置き、長州征伐の途についた。長州は、劣勢に立たされていたが、このころ、薩摩の動きが微妙になってくる。土佐の坂本龍馬らの動きにより、薩摩長州は、密かに同盟を結ぶのである。西洋式の武器が、薩長へ流れ込むことにより、幕府側の旗色は悪くなる。

こんな折り、突然、若き征夷大将軍家茂は死去するのである。其の死は単に世間から隠されただけではなく、妻(孝明天皇の妹、和宮)をはじめとする近親のものにも、其の姿を隠したのである。時を同じく、薩摩藩主らにより、建白書が出された。内政変革の急務である胸を強調し、長州征伐をやめるよう説いたのである。状況は、俄然きな臭くなる。

死に一人立ち会ったという、旗本蜷川(にながわ)相模守の息子蜷川新は語る。
大阪城にいた将軍家茂は、慶応二年の七月毒物の盛られた茶を飲み、にわかに苦しみ始め死去した。毒殺の事実は極秘にされたが、家茂に従って従軍していた父は其の真相を良く知っていた。遺骸は江戸に送られた。和宮は遺骸に礼拝することを希望されたが、毒物の痕が顔面に気味悪く現れていたので、老中は納めてある棺を開くことを許さなかった。と言うのである。

薩長だけでは、毒は盛りづらい。やはり、急進派の公家が絡んでいる。尊皇攘夷から、開国へ方向転換しかけていた急進派の面々。指し示す方向は一つである。

文久三年三月、天皇の賀茂社行幸に供奉したとき、高杉晋作に、「イヨーッ、征夷大将軍!」とやじり飛ばされている。幕藩体制始まって以来の珍事であったが、幕府、将軍と言ったものの地位がいかに落ちていたかを如実に示している。
和宮(かずのみや)はわずか五年で未亡人となる。公武合体という政略結婚の悲しい犠牲者であった。時は過ぎ、昭和三十年、増上寺の発掘調査の際、和宮の棺の中から湿板写真が見つかった。その画像は確認されないまま一夜で消えたという。

将軍家茂の暗殺、孝明天皇の暗殺、どちらも、歴史を揺るがす大事件である。


 
 
  http://www.asyura2.com/2002/dispute4/msg/104.html


東京クーデター  【北上信治】  (5)

2006年09月20日 | 東京クーデター
東京クーデター       【北上信治】
Tokyo Coup d'etat
 
第三章 東京クーデター終結
 
政権樹立工作


 キャプテンは地上の情況から事態を賢明に洞察した。すべての準備はととのった。ただちに新政権樹立工作をはじめなければならない。


 全閣僚が一室に集められた。キャプテンは、その堂々たる体駆を彼らのまえに現わした。要望書を読み上げるキャプテンの朗々とした声が、室内に響きわたった。第一編を読み終わって、キャプテンは、以上の理由から現政権の解体を強く要求する。と宣告した。事件の真相が、ここにはじめて明らかにされた。

 つづいて、第二編の朗読が始まった。閣僚らは、この事件が革命を狙ったものではなく、政権転覆のためのクーデターであったことを知った。彼らの顔には、いちように安堵の表情が浮かんだ。

 キャプテンは、朗読を終わると、閣僚らを尻目に、悠揚と室外に消えた。


 地上に出たキャプテンは、精力的な活動を開始した。幹部と合議のうえ、政財界、学界、労働界など、意中の重要人物と個々の折衝を始め、新政権樹立のための工作が着々とすすんだ。

 工作は、あらかじめ準備された次の図式を正確にふまえて行われた。


 

組閣作業

一 新政権樹立工作の場所は、首相官邸内○○とする。

二 地上工作開始の時点で官房長官を同官邸内に移送、軟禁して工作に協力させるとともに、警備自衛隊の不慮の妨害排除にも役立たせる。

三 国会および首相官邸周辺の安全を確保するため、自衛隊を治安出動させる。このため首相および防衛庁長官の出動命令を録音し、このテープを官房長官に託し、内閣官房、警察庁に電話伝達させる。自衛隊の警備は、必要に応じて東京都内全区域および近県に広げ、連鎖反応的暴動・騒乱等の予防、制圧にあたらせる。

四 外国の万一の軍事介入に備え、陸・海・空全自衛隊を緊急警備につかせ、日本全土の防衛態勢を強化する。

五 自衛隊の出動は、官房長官とともにテレビ・ニュースなどで確認し、さらに、議事堂・首相官邸の安全を確認した時点で地上工作を開始する。

六 要望書は、事態の進展に合わせ、キャプテンの判断に基づいて新聞社、放送局に提供し、国民の理解と協力を得る。

 なお、首相の内閣解散声明の録音テープ、地下現場の首相との対談写真など、工作に必要なものの準備は、緊急、綿密に行う。

七 訪米中の外務大臣には某機関を通じて事件の真相を明かし、対外弁明に努力するよう依頼してあるが、その反響には十分な注視が必要である。

八 組閣は予定の人物を中心に行うが、参加承諾者全員から誓約書をとる。

九 組閣の見通しがつきしだい、前閣僚全員を各自宅に護送する。ただし、その引き渡し交渉は、キャプテンが官房長官、某重要人物と直接に行う。

十 今回の行動は、われわれ自身が政権を奪取するためにとったものではない。したがって、新内閣成立の発表をもって、本隊の任務を終了、解散するが、参加隊員は新たにA組織をつくり、新政権安定まで、その支援・監視の活動にあたる。

 


http://hanran.tripod.com/coup/tokyo33b.html

東京クーデター  【北上信治】  (6)

2006年09月20日 | 東京クーデター
東京クーデター  【北上信治】
Tokyo Coup d'etat
 
第四章 クーデターの戦略・戦術
 
一 クーデターの諸条件
 クーデターを起こすには、周到な準備が必要であることはいうまでもない。が、この準備のありかたは、決起者と現体制との力関係によって異なってくる。たとえば、日本では、自衛隊が行うばあいと、民間人が行うばあいとでは、その準備も方法も相違するのは当然である。

 いずれにしても、かなり長期の準備期間を必要とするので、事前にある程度は計画を察知されるおそれがある。しかし、原則的には隠密な行為であり、意表をついて行うのが特長であるから、その全計画を予見されるようなことがあってはならない。


 クーデターに必要な条件として、一般に、人物・資金・武器の三つがあげられるが、その前提として、クーデターの目的――動機を明確にすることが きわめて重要である。と同時にその終結の処理も十分に考慮されていなくてはならない。このことは当然のようにみえながら、実際には意外と忘れられていることが多く、そのためもろもろの悲喜劇がうまれる。たとえば、二・二六事件においては、綿密な集結処理案が準備されていなかったため、多大の犠牲が払われたにもかかわらず、決起者側が排除しようとした権力者たちの権力をかえって助長するという皮肉な結果を招いた。

 以下に、クーデターを起こすための必要条件を述べる。

 

クーデターの目的――動機・処理


   目的の明確化

 クーデターの目的は、動機と結果とに分けることができる。動機の完成が結果である。(ついでにいえば、その過程が戦略・戦術である。)

 動機は、個人的な権勢欲や物欲、あるいは私怨などでないことが好ましい。かりに私的なものを「大義名分」によって隠蔽したとしても、それはいつか露呈し、大衆の信を失うにいたるだろう。

 真実の衝動から大義名分をたて、これを明らかにかかげることは、近代国家においてはとくに重要である。主義主張が不明瞭であると、たんなる徒党の暴力とみなされる危険があるばかりでなく、ときには、体制側からその虚をつかれ、思わぬ反撃を加えられることもある。すなわち、クーデターの成否にもかかわってくるのである。

 また、目的のちがいによって、参加者の質・量も相違するだろうし、その戦術も当然変わってくるだろう。

 

   事後処理

 クーデターが勝利に終わった時点から、処理の問題が具体化する。

 処理は、それが動機と一体である以上、だだちに着手しなければならない。

 まず第一に、政策の発表とその実施である。権力をにぎりながら、見るべき政策とその実施がなければ、必ず反動があるものであり、勝算はまったくおぼつかない。

 政策は、実情にあったものでなければならない。つまり、広く国民の支持を受けるにたるものであることが肝要である。しかも、これはごく基本的なものに止めておくほうがよい。あまりにも細部にわたることは、かえって世論を沸騰させ、収拾を困難にするだけでなく、反対勢力につけいられることもあるだろう。もともとクーデターは、国民大衆の側にたって行うことを名目とする場合が多い。したがって、国民不在の政策は、クーデターを必ず失敗にみちぴく。

 政策の実施は、敏速果断でなければならない。ためらうことなく、あらかじめつくられた青写真どおり、一つ一つ具体的に推進していくのである。

 クーデターの事後処理は、一般的な戦後処理とはちがう。クーデターにおいては、相手に徹底的な打撃をあたえて再起不能におとしいれることはしない。政権の座からひきずりおとすだけである。いつ敵が反撃体制を整えるかわからない。たえず危険をはらんでいるなかで、事後処理は行われるのである。いわば、戦中処理といってもよいだろう。したがってクーデターのばあい、意に反した方向に流れぬよう、常に実効の確認を怠ってはならない。

 これまでのクーデターの例をみても、具体的な処理方式の不十分なものは、一時的に政権をにぎっても、すべて失敗に終わっている。たとえば、労働運動のうえに偉大な足跡を残し、レーニンもここから多くを学んだといわれるパリ・コンミューンも、軍事的指揮に統一がなく、かつ、地方農民との提携に失敗し、七十日の短命に終わった。政権樹立後の処理が不十分なために失敗した例である。

 もう一つ、事後処理に際して問題になるのは、クーデター主謀者らと次期政権担当者との関係である。ターデター側に、国民大衆の信頼をつなぎとめ、政権を担当する能力があったばあいでも、現実には国民感情が許さないことがある。したがって、ただちに自らが次期政権をにぎろうとするのは得策ではない。信頼できる第三者に政権をゆだねるのが賢明である。ただ、クーデター側の青写真が忠実に実践されていくかどうかについては、爾後も十分に監視する必要がある。そのためには、監視委員会のような、十分に実力をもった組織を保持し、政権が安定するまで監視と支援をつづけなければならない。

 

クーデターの主役たち


   第一の主役-自衛隊

 クーデターの実態を見ると、軍隊(軍人)が主役となっているばあいが多い。二・二六事件のように、軍人と民間人とが合体して行った例もあるが、これも行動の主役は軍人であった。また、自衛隊の同調をねらった三島事件(昭和四十五年)のようなものもある。

 軍隊がしばしば登場するのは、さきに述べたクーデターの必須条件である人員・武器・資金のうち、人員と武器とを軍隊があわせもっているからである。クーデターの際の資金が、主として武器の購入、人員集めのために使われることを考えれば、軍隊をつかむことによって、資金の必要性は半減するといってよい。

 日本のばあい、自衛隊は、自己の地位に関してつねに不満をもっているとされている。そこに今日、自衛隊クーデター本命説の台頭する要因がある。それも、主力が艦船である海上自衛隊より、やはり本命は陸上自衛隊であろう。

 しかし、ここに問題がないわけではない。陸上自衛隊はもとより、海・空自衛隊とも、隊員の構成はきわめて複雑になっており、戦前ほど容易にクーデター実行にふみきることができるかどうか、という点である。

 防衛大学校第一期卒業生(昭和三十二年三月卒業)二八六名全員が、昭和四十七年三月、三佐(旧軍の少佐にあたる)として陸・海・空自衛隊の中堅幹部のボストについた。彼らは、六・三・三制の教育を受けて育ってきた者たちである。第二期、三期、四期と下るにつれて、戦後民主教育の影響をいっそう強く受けてきた若者たちに占められている。

 昭和四十七年四月、防衛庁前で「沖縄派兵反対」の声明文を読みあげた五人の自衛官は、十九歳から二十三歳の一等陸士(同・上等兵)である。この一事からも、今後の若者の思想の動向の一端がうかがわれる。

 反戦自衛官は、この五人に止まらない。反戦現職自衛官約二〇〇名(自衛隊内反軍)、退役自衛官約三〇〇名(隊友反戦)のほか、労働者、学生による組識四〇〇~五〇〇名(反軍行動委員会、全国六十支部)、市民による組織(反軍闘争を支援する会)もあるといわれる(『週刊現代』昭47・5・18号)。もちろん、隊員のなかには、民族主義でガチガチに固まった者があることも事実であるが……。

 自衛隊の思想的脆弱性は、次のことからも見られる。

 昭和四十七年六月十五日の沖縄復帰に際して、沖縄県民は自衛隊の沖縄進駐に激しく反対した。このことは、自衛隊に対する日本国民全体の拒絶反応を象徴しているものである。この拒絶反応は、自衛隊の定員を充足させない現状をうみだした。いきおい隊員のポン引き募集が行われ、昭和四十年の一年間で二千余件の刑事事件、また年間平均三百件に近い懲戒処分事件が自衛隊内で起きているという事実が示す“質の弱さ”がでてきたのである。

 また、自衛隊員のサラリーマン化という問題もある。自衛隊は安保条約にもとづいて、アメリカ極東戦略の一翼をになうことになっており、有事の際は、アメリカの太平洋統合軍司令部(在ハワイ)の指揮下に入るとされている。したがって自衛隊は、旧軍隊のように自国を守るという立場ではなく、戦略的にはアメリカの出先機関にすぎない。サラリーマン化するのもうなずけないことではない。こうした自衛隊員が、はたして「国軍」という自覚をもちうるだろうか。こうした自衛隊員を引率して、よくクーデターを戦いとれるだろうか。

 しかし、さきに述べたように、自衛隊がクーデターを行うばあいは、武器や人員の獲得は、他にくらべてはるかに容易である。資金は不要に近い。これが、第一の主役たるゆえんである。

 

   第二の主役

 第二の主役は、1民間人と自衛官の合作、2民間人、である。

 1のばあいは、人員・武器の調達の面だけでなく、武器の操作を習得するうえでも便利である。

 2のばあい、人員・資金・武器の入手の困難さが、決起にあたって、はかりしれない大きな障壁となってあらわれるだろう。そこで、クーデターの重要な要素として「英知」が登場する。すなわち、微力な資金力・戦力をカバーするのが、人間の英知ということになるのである。


 

 ついでに、ここで今日の自衛隊の成り立ちをかんたんにみてみよう。

 一九五〇年(昭和二十五年)六月、朝鮮に戦火が起こると、アメリカはただちにこれに介入、日本駐留軍を参加させ、同時に、基地の治安維持その他の必要から、日本に警察予備隊をつくらせた。(連合国軍総司令部覚書による。陸上だけ)。五二年、日本の自衛力漸増の期待を定めた日米安全保障条約にこたえて、海上保安隊を加えて「保安隊」と改赦し、さらに五四年、日本政府は、自衛力増強、直接侵略への対抗手段などを織りこんだMSA協定に基づいて、防衛庁設置法、自衛隊法を制定、航空自衛隊を加えて、三軍方式の自衛隊に改組したものである。

 

クーデターと人物

 主役が軍隊(自衛隊)のばあい、その階級制度、指導命令系統からいって、指導者の人物そのものを論ずる余地はあまりないといえよう。しかし、クーデターの主役が軍隊(自衛隊)でないばあい、人の問題はけっしてゆるがせにできないことである。

「もしキューバ革命に、カストロが存在しなかったならば、キューバ革命は現時点では成立しえなかったであろう。……キューバ革命はかなりの、後年になっただろう」(ゲバラ『エピローグ――キューバ情勢の分析 その状況と将来』)

 クーデターを指導する人物については、あらゆる能力を一身に備えた超人的人物を期待することは不可能であろう。それぞれの面に卓越した才能をもつ人びとでもって司令部を形成するということが現実的である。たとえば、軍事面に明るい者、政治面で力のある者、金融面に豊かな経験を積んだ者というぐあいにである。こうした職能のほかに、人間として総体的に求められるべきことは、革命家としての情熱、勇気、決断力、それに、感情にまどわされない科学者的態度のもちぬしということになるだろう。

 ついでにいえば、司令部といっても、特にそうした形式的なものが必要だというのではない。主謀者、参謀、クーデターの協力者がそのつどの作戦会議、進行状況、政治・経済その他の情報交換、報告をそれぞれ行い、それを総合的にまとめることが大事なのである。また、その場所も、特にきびしい条件を必要としない。秘密アジトでもよいし、移動アジトでもかまわない。とにかく秘密のもれにくい場所でありさえすればかまわないのである。

 同志をつのるにあたって重要なことは、思想的に統一された組織を結成することである。前にも述べたように、チーム・ワークがきわめてたいせつであり、人の和がなくては成功は望めない。また、クーデターは、軍事革命のように事後に備えての兵力の温存を不可欠事とはしない。全力を受入して短時日に事を完了するに足る最少人員があればよいのである。いたずらに人が集まりすぎると、かえって失敗することも考えられる。人員の制限は、武器や資金の調達、訓練と秘密保持の面からも重要なことである。

 


武器


 クーデターにせよ、革命にせよ、その成果を握る直接的なものは、武器である。したがって、赤軍が自衛隊にもぐりこんで工作するとすれば、それは武器への執着と恐怖からである。右翼についても同様なことがいえよう。

 武器は、必ずしも最新式、精巧なものでなくともよい。戦闘に役だつものならなんでもよいのである。ただ、できるなら自衛隊が現在使用している武器と同様のものでありたい。(自衛隊がクーデターの主役であるばあいは、武器についての問題はまったくないので、ここでは、民間人の起こすクーデターについてのことである。)

 それは、事を起こした後に、体制側の精巧な武器をできるかぎり奪取しなくてはならないばあいが出る可能性があるからである。また、諜報網が厳重に張りめぐらされている今日、日本のように武器に対して監視の目の鋭い国で、精巧な武器に必要以上に執着することは、かえって監視の目にひっかかる危険がある。

 自衛隊と民間人との合作のばあいは、当然、武器の融通の可能性などが考慮されていい。

 ここで忘れてならないことは、クーデターを起こす以上、権力の中心部に一撃をあたえて、政治的機能を一時的に停止させなくてはならないということである。ところが、現在では、権力側の実力的支持者は、自衛隊という暴力組織である。したがって、この組織に対する工作を怠ることは、ぜったいに不利である。

 

資金


 資本主義社会は矛盾にみちている。したがって、財閥のなかには、必ずしも現体制に同調していないものもいるとみてよい。

 次のような例がある。

 昭和八年七月、神兵隊事件というクーデター計画事件があった。これは、右翼団体と軍人によるもので、首相以下、政・財界の要人を殺害し、軍部政権を樹立しようとしたものであった。計画は事前に洩れ、決行日(同月十一日)前夜、弁護士天野辰夫ら主謀者側四十六名が明治神宮内に集合したところを、一斉検挙され、事は終わった。この計画の遂行にあたっては、空から警視庁を爆撃する予定もふくまれていた。

 ところが、この計画の資金が、なんと某デパート重役・証券業者から出ていたというので、世人を大いにおどろかせたものである。とにかく、資金調達は、くふうと努力によっては、必ずしも困難なこととは思えないといってよいだろう。

 

訓練


 人員・武器・資金の準備が整ったあと、残された重要な問題は、訓練である。このばあいも、自衛隊が主役のばあいは別である。

 クーデターに武器や最新の科学機器が使用される以上、その操作に習熟することは当然の必要事である。どのように精巧な武器や機器をもっていても、その性能を十二分にはたらかせなくては、まったく無意味である。

 訓練は、武器などについてだけではない。言語・行動の訓練も重要である。言語の伝達を誤まったならば、すべては混乱し、破滅する。また、クーデターが二分一秒を争う電撃的作業に終始しなければならない以上、すべての行動は、沈着のなかにも敏速・正確になされることが必要である。また、訓練には、このような肉体的訓練のほかに、あくまでも事をなしとげようという精神面の訓練もふくまれよう。いわば、根性の養成とでもいってよい。

 実行段階のなかで起きる過失は、戦争とちがってクーデターのばあいはほとんど修正できない。また、とちゅうでの変更には非常な危険が伴う。したがって、予備訓練が寸分のちがいもなく、そのまま実行に移されなければならない。もちろん、現場を想定した訓練を行わなければならないが、同時に、なんらかの形で現場を実地に調査し、実行にあたってまごつかないようにしておかなければならない。

 

http://hanran.tripod.com/coup/tokyo41.html

東京クーデター  【北上信治】  (7)

2006年09月20日 | 東京クーデター
東京クーデター    【北上信治】
Tokyo Coup d'etat
 
第四章 クーデターの戦略・戦術
 
二 プロパガンダとアジテーション
 革命やクーデターにおいて重要な役割をはたすものに、プロパガンタ(propaganda 宣伝、特に政治宣伝)とアジテーンョン(agitation 扇動・アジ)がある。

 この二つは、まったく性格を異にしているとはいえない。プロパガンダのなかにアジ的要素をふくむことがあるし、アジテーションのなかにプロパガンダを入れることもある。事実、プロパガンダのなかに、なんらかの形でその宣伝を実行させようとする扇動的意図がなければ、宣伝は弱くなるし、アジテーションのなかにも、大衆の理解と共鳴を得るためのプロパガンダがなければ、扇動にのってはくれない。どちらの性格が強いかで、プロパガンダかアジテーションかということになる。

 この両者は、その用い方しだいでは、核兵器に優るとも劣らない力を発揮する。一九一七年(大正六年)のロシア革命の際、ポリシェビキの行ったアジテーションが、反革命流の陸軍士官候補生、コサック集団を、もののみごとに革命派あるいは中立に転向させたという実例が、このことを証明している。

 卑近の例としては、ベトナム戦争で、南ベトナム軍第五十六連隊の連隊長以下全員が解放軍に投降した事件がある。新開・雑誌などでも報道されたが、ここでは『週刊貌代』(昭47・6・5号)から、その記事の一部を引用してみよう。

 

   連隊会議で決議して投降

 ファム・バン・ディン中佐は、第三師団第五十六連隊長だった。

 クアンチ省タンラム戦闘中に反戦決起して連隊全員で解放軍に投降した。なお一個連隊全員が解放勢力に走ったのはベトナム戦争史上始めての出来ごとといわれている。

 三十六オのディン中佐は、政府連隊長中もっとも若い連隊長で、「大佐に昇進するまぎわだった」という。――(中略)――グエン・バン・チューが“ベトナム化成功のモデル”と評したほどの“要衝″タンラム基地を守った第五十六連隊の“集団投降”は、かいらい軍にとっては大ショックだと思うが。

「たしかにその通りだ。タンラムは地形にも、また、強固な施設にも恵まれていた。百七十五ミリの巨砲をはじめ、各種火力や爆薬も豊富だった。

 しかし、それだけでは勝てない。なぜならば、かいらい軍であったわれわれは不義の軍隊として、人民の正義に敵対したのだから」

 連隊は、決議声明を出した。

 第五十六連隊全員の決議にもとづく声明(投降……(中略)……

 これまで解放軍は「十項目」の呼びかけを政府軍に行って投降をすすめていた。厭戦気分にある南ベトナム政府軍兵士には、その内容は魅力あるものだった。

 その呼びかけの内容をみると、

(a) 各種兵科、兵種のかいらい正規軍の兵士、将校で、アメリカ=チュー一味の残虐なる軍事制度に反対し、かれら自身とその家族の生活条件改善を要求するものは、人民と革命権力の同情と支持をえられる。

(b) 前戦へ出動命令、カンボジア、ラオスへの出動命令に対し、あるいは、家族と人民のところへ帰るためその隊列を離れる個人、集団、部隊は、人民と革命権力から積極的に保護され、生活手段入手の上で援助をうけ、その家族のもと、故郷へ帰る機会を与えられる。

(c) 前戦で蜂起をおこし、解放勢力に適時に自分たちの行動を通信する兵士、将校、個人、集団、部隊には、援助があたえられる。(一部のみを掲載したようである。著者)

 つぎは、国道九号線沿いのケジャオ(ダウマ)基地での激戦で、あッという間にセン滅され、逃走したが解放軍に捕えられた海兵隊第百四十七旅団、ハ・トウッタ・マン少佐とのインタビュー。

 ――あなたは、解放戦線の“政府軍兵士”公務員に対する十項目政策を知っていたか。

「兵士たちは、すでに何回も公然と解放戦線のラジオによる呼びかけを開き、また、昨年この国道九号線で捕虜となったサイゴンかいらい軍兵士の体験談にも耳を傾けていた。

 わたしも、指揮官という立場上知らないフリをしていたが、実は、部下のラジオですでに何度も開いていた。昨年、ラオス侵攻のさい捕虜になった、第三旅団長グエン・バン・トウ大佐の話も聞いた。」

 ――今度の解放軍の大攻勢に、あなたがたは、ほとんど戦うこともなくカイ滅し、逃走したが、なぜ“十項目”を知っていて、投降しなかったか。

「たしかに、わたしを含め全員が“十項目”を知っていたし、また、ほとんど全員がPRG(臨時革命政府)を信頼していたことも事実だ。しかし“現実にどうするか”という態度決定を、それもあの凄まじい砲弾の雨のもとで、迫られると、やはり不安になったのだ。

 だから、兵士の心理は、逃げられるものならば、捕虜になるよりはその方がいいという方向に動いたのだろう」。

この他に無数の兵士の戦線の脱落は、マスコミ報道で、すでにご存知の通りである。

 

 アジやプロパガンダがいかに大きな効果をあげているかは、この一事でもよくわかる。ロシアの革命家たちが、敵軍内に潜入し、政治宣伝・扇動に活躍しただろう姿も、ベトナム戦のこの一コマから想像できる。ロシア革命の父といわれるレーニン(Vladimir Iliich Lenin)は、すぐれた革命理論家であると同時に、すぐれたアジテーター、プロパガンディストでもあった。

 わが国での最近の例をあげてみる。それは、昭和四十七年三月の衆院予算委員会(二十七日)での、社会党横路孝弘代議士の沖縄返還にかかわる発言である。もちろん、これなクーデターや革命を意識してのプロパガンダであったわけではないが、国民の政府不信をあおるうえで、大きな効果があった。横路氏は、日米の沖縄返還協定第四条三項は日本国民をあざむくものであると、その裏面を暴露して政府を追求した。これが、外務省機密漏えい事件に発展する。

 もともと国民の大多数は、体制側の発表をあまり信用しない。(浅間山荘事件で、機動隊の放水に村して赤軍の五人が、人質の牟田泰子さんのために人壁をつくって守ってくれたとか、その他かれらを弁護することばなどを、警察がかん口令を出して外部にもらさないようにしたようだと、ある週刊誌は書いていた。また、外務省の機密漏えい事件の本筋にはまったく関係ないはずの西山・蓮見両氏の個人的問題を暴露して、事件の本質から国民の目をそらせようとしたとも思える行動を体制側はとっている)。しかし、信用していなくても、これを否定しさるだけの材料をもっていない。だから、この種の暴露は、事の内容にもよるが、かなりの効果をあげることができる。

 すなわち、国民の支持を反体制側に転換させることに役だつだけでなく、体制側やその支持諸機関(自衛隊を含む)の士気を阻喪させ、ときにはその力を徹底的に破壊するにいたる。そして、反体制側をいっそう有利に導くことはいうまでもない。

 この宣伝・扇動工作は、クーデターの準備期間中に行うのが効果的である。さまざまなマス・メディアの発達した今日、体制側の非政をあばく資料をマス・コミに提供する方法もあろう。しかし、このことで自己の正体をつかまれ、逮捕される危険があるようなばあいは、当然中止すべきである。

 ここで注意しておきたいのは、プロパガンダやアジテーンョンがいかに強力な武器であったとしても、それは真実に基づかないもの――デマであってはならないということである。つくりあげられた虚構であることが判明したとき、「扇動」「宣伝」はたちまちその神通力を失ってしまい、その後においても回復することはない。

 また、逆に権力側の謀略宣伝=デマゴギー(Demagogy)が行われることも予想される。このことをあらかじめ考慮にいれておいて、それらへの対策をたてておくことも、戦略家のなすべき任務である。

 

http://hanran.tripod.com/coup/tokyo42.html

東京クーデター  【北上信治】  (8)

2006年09月20日 | 東京クーデター

東京クーデター   【北上信治】
Tokyo Coup d'etat
 
第四章 クーデターの戦略・戦術
 
三 クーデターにおける自衛隊の地位とその戦力
 クーデターは、高度の、特殊な政治闘争である。つねに、政治的闘争、政治的配慮、武力闘争が互いにかみあって成立する。武力闘争は、政治闘争完成のための手段であり、政治的配慮のない武力闘争は、たんなる暴徒の暴力行為にすぎず、必ず失敗に終わる。

 この武力闘争の戦術は、まえにもしばしば述べたように、奇襲作戦・特殊戦術が要求される。ゲリラ戦とは異なるのである。

 武力闘争という以上、武器が必要であることはいうまでもない。この武器の大量に所在する場所は、軍隊――日本では自衛隊しかない。しかし自衛隊は、体制側が反体制側を威圧し鎮圧するために設けた武力的暴力集団である。体制側は厖大な税金をつかって、あらゆる兵器と人員を確保することに努め、また、その隊員の訓練を怠らない。反体制のクーデター側にとっては、きわめて危険な集団である。それだけに、この自衛隊に対する工作なしには、クーデターを行うことは非常に困難である。それは、三無事件、三島事件をみても、かんたんに理解できることである。そこで、自衛隊の現況とその精神構造とを十分に研究しておく必要がある。

 

 さて、日本でクーデターの頻発した時代は、昭和初期から太平洋域争突入までの約十年間である。主なものをあげてみよう。

 三月事件―陸軍青年将校によるクーデター計画。一九三一年(昭6)三月、陸軍少佐橋本欣五郎ら桜会幹部に、小磯国昭ら陸軍中央部、民間右翼大川周明、社会民衆党の亀井貫一郎らが参画して企図。大川・亀井らの動員する大衆が議会を包囲、混乱に乗じて戒厳令をしき、軍隊を議会内に入れて軍事政権を樹立しようとしたが、計画不備のため未遂。

 十月事件―三月事件につづいて同年十月、未遂に終わった軍部急進派のクーデター。主謀者は橋本少佐ら中堅将校と民間右翼の大川周明、西田税ら。

 五・一五事件―一九三二年五月十五日(後述)

 神兵隊事件―一九三三年七月発覚(前述)

 二・二六事件―一九二六年二月二六日(後述)

 戦後においては、三無事件と三島事件がある。

 三無事件は、一九六一年(昭36)十二月二十一日に発覚、未遂に終わった。六二年一月を期して決行、当時の池田内閣の閣僚ら要人を、国会に乱入し殺害しようと計画したもので、元川南工業社長川南豊作、元陸軍士官学校六期生小一臣、五・一五事件の被告のひとり元海軍中尉三上卓らは、目的達成のために自衛隊を動かそうとした。

 三無事件とは、彼らが1無戦争、2無税、3無失業、の三つの「無」を主張したことからつけられた名であるが、具体的政策はなに一つ示されず、武器も、銃・日本刀の数本にすぎなかった。

 三島事件(一九七〇年十二月二十五日)でも、作家三島由紀夫らは自衛隊に乱入して、自衛隊の決起を呼びかけた。(後述)

 この二つの事件は、いずれも武器と人員を確保するため、自衛隊をねらったのである。このように、現在の日本においては、クーデターを起こすためには自衛隊の必要度は高い。

 

 この自衛隊を敵にまわしたらどういうことになるだろうか。さきにも述べたように、自衛隊は本来、反体制倒にとっては敵性集団である。その戦力も、第三次防衛計画終了の時点で世界七位、今次の四次防完了の時点では世界第四位にのしあがってくることが見込まれる。とくに陸上自衛隊は、兵員増はないがその機甲化はすさまじく、これによってその戦力は数倍増するものと考えられる。海上自衛隊もまたアジア一級の海軍に、航空自衛隊は世界一流の空軍勢力になるのである(注1)。

 ばあいによっては、このような厖大な戦力をもった自衛隊に、クーデター側は立ち向かうことになる。しかも自衛隊では、間接侵略――人民の不平不満などによる爆発等――を想定して、平時でも訓練をつづけている。当然クーデターでも起これば、総理大臣の治安出動命令をうけ出動することは明らかである。

 出動命令がおりたと想定しよう。

 まず主力となるのは第一師団である。普通科(歩兵)連隊は都内の市ヶ谷、練馬、埼玉県朝霞、静岡県の板妻にあり、特科(砲兵)連隊と戦車連隊が静岡県駒門にある(図参照)。これに陸上自衛隊の最精鋭を集めた富士教導団二五〇〇人が加わる。教導団は東富士に配備されており、装甲車一一〇両をもつ輸送隊や戦闘工兵大隊を含んでいる。装甲車一両で一個分隊を運ぶ。静岡県の各部隊は、東名高速道路を使用することにより、二時間で東京に展開することができる。さらに習志野第一空挺団一四〇〇人、立川、木更津のヘリコプター部隊も加わる。北開東、北陸地方に駐屯する第一二師団第四四連隊も、首都治安体制強化の狙いをもっている。事態によっては、これも加わってくる。これらを合わせると、兵力三万人に達する。さらに、東北地方の六師団と中部地方の第一〇師団を総動員すれば五万人近くなる。(注2)

 このような首都防衛配置による攻撃を、反体制側は予想しなくてはならない。これに対する戦術をどうするか。もちろん、正攻法攻撃は力の差で不可能である。ここに政治工作の必要性が生じてくる。が、これにふれる前に、自衛隊の精神面の分析に入ろう。政治工作は、当然その精禅面の把握なくしてなしえないからである。

 戦前の軍部は、他の国務機関の作用を受けない独立機関であった。陸軍参謀本部、海軍軍令部は天皇の軍統帥の直属補佐機関で、統帥権は天皇の大権となっていた。

 軍人は、男子にとっては第一の理想像で、それは国の楯、正義、勇気などを象徴するものであった。しかし今日の自衛隊は、若者の理想像とはほど遠い存在である。毎年おこなう隊員募集も、定員を満たすことができないのが現状である。

 昭和四十四年十二月の総選挙のおり、毎日新聞社で「関心ある問題について」世論調査をした。

「くらしの問題」が63%、「外交、防衛、国際間題」が18%、「どちらともいえない」が16%、「その他・無解答」3%となっている。「外交、防衛、国際間題」が18%を占めているが、このなかの「防衛」だけを取り上げたら、はたして何パーセントまで低下するだろうか。

 自衛隊員は、みな背広を着て通勤している。私服通勤を許可しないと、隊士のなりてが激減するという理由で、防衛庁も背広通勤を認めることにした。

 自衛隊員であることにそれほど劣等感を感じるのはなぜか。それは、長沼判決にも示されたように、自衛隊が憲法に違反した存在であるという意識があるとともに、隊員のほとんどが戦後の六・三制教育、民主主義教育によって育ってきており、なんらかの形で戦争のもつ非人間性、罪悪感を知らされているからであろう。

 だからクーデター工作をする場合、職業自衛官(三等陸曹以上)と一般隊士(三等陸曹以下)とを区別して考えることが必要である。職業自衛官は、自衛官を一生の職業と考える者たちで、一般隊士と当然違った観念をもっていると考えなければならない。ここに区別して対処しなくてはならない理由がある。

   注1 小山内宏『現代戦略論』

   注2 藤井治夫『自衛隊と治安出動」

 

http://hanran.tripod.com/coup/tokyo43.html


東京クーデター
Tokyo Coup d'etat
 
 
東京クーデター

昭和48年11月10日 第1刷発行
著者 北上信治
発行 近代社

以下、全部の目次と抜粋。これは、架空の東京クーデター発生時のドキュメンタリータッチの記述と、理論的記述などから成る。ここでは、理論的記述その他興味深い部分を中心に収録した。内容が古いのは当然なので文句を言わないこと。つーか、現代にはそのままあてはまらないと考えていただきたい(つまり、この情報を公開したところで、実際にクーデターは起こせないということ)。歴史的資料として読んでください。


 【北上信治】





楡 周平

宝島社文庫「新装版・クーデター」




砧 大蔵

ザ・クーデター




佐藤 大輔

平壌クーデター作戦 静かなる朝のために




楡 周平

クーデター




楡 周平

クーデター―COUP



小はん変死事件 結城純一郎の研究

2006年09月20日 | 政治


小泉純一郎愛人小はん変死事件の真相

http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/1213.html

投稿者 現代政治経済総合研究所 日時 2005 年 7 月 14 日








小泉純一郎と日本の病理
http://pt.afl.rakuten.co.jp/c/01efec44.327f6eed/?url=http://item.rakuten.co.jp/book/3666106/



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911 9.11 究極の大陰謀 動画 映像

2006年09月18日 | 911

911 Loose Change 2nd Edition with extra footage
http://video.google.com/videoplay?docid=7866929448192753501&hl=en



Click here to watch Loose Change - 2nd Edition
http://www.loosechange911.com/index_main.html


http://www.loosechange911.com/


911 Loose Change
http://video.google.com/videosearch?q=911+Loose+Change+&hl=en


【YouTube】 動画 911検索
http://www.youtube.com/results?search_query=911&search=Search



グーグル・ビデオ検索 911 【Results for 911 】

http://video.google.com/videosearch?q=911


【YouTube】 911 Loose Change 検索

http://www.youtube.com/results?search_query=911+Loose+Change+&search=Search


【YouTube】911 ABC 検索

http://www.youtube.com/results?search_query=911+ABC&search=Search


【YouTube】 911 BBC 検索

http://www.youtube.com/results?search_query=911+BBC&search=Search


【YouTube】 911 CNN 検索

http://www.youtube.com/results?search_query=911+CNN&search=Search


911 9.11 究極の大陰謀 動画 映像





デーヴィッド アイク, David Icke, 本多 繁邦

究極の大陰謀―“九・一一”テロの最終審判〈上〉




デーヴィッド アイク, David Icke, 本多 繁邦

究極の大陰謀―九・一一テロの最終審判〈下〉





晩夏の渚 (1)

2006年09月16日 | 写真集


おらの故郷は海がない県。故郷は関東平野最北端の盆地。
盛夏、お盆で帰郷したとき、24年ぶりに青春時の先輩にあった。

「実家の納屋に置いてあった、高橋和巳全集と田中正造全集がなく
なってしまったよ。納屋が燃えてしまったんだ」

先輩は残念そうに言った。

晩夏の渚、おらは先輩の言葉を思い出す。
高橋和巳は中国文学の研究者でもあった。

87年頃、集中的に読んだことがある。



http://f.flvmaker.com/mc.php?id=MzxcPpX4__GKUTAF6Eq.PMqehLcwBpXwjEYGJBYeIHBtcf/CMgTEYY_6tqRii7DPOebPWAchkJCeRRicDkKix

書誌的・高橋和巳
高橋和巳作品論―自己否定の思想
孤立の憂愁を甘受す―高橋和巳論
高橋和巳という人―二十五年の後に
高橋和巳コレクション (4)
高橋和巳コレクション (5)
高橋和巳コレクション (2)
高橋和巳の文学とその世界
闇を抱きて―高橋和巳の晩年
高橋和巳の思い出
評伝高橋和巳
高橋和巳コレクション (1)
高橋和巳短篇集
高橋和巳序説―わが遥かなる日々の宴
高橋和巳コレクション (10)
高橋和巳コレクション (9)
高橋和巳コレクション (8)
高橋和巳コレクション (7)
高橋和巳コレクション (6〔下〕)
高橋和巳コレクション (6〔上〕)

【決定】 新潮文芸賞、すばる文学賞   【文芸まるかじり 】

2006年09月16日 | Weblog
【決定】 新潮文芸賞、すばる文学賞   【文芸まるかじり 】

2006年09月13日

新潮文芸賞、すばる文学賞

第30回すばる文学賞(主催・集英社)は、瀬戸良枝さん(28)の「新しい歌」に決まった。副賞100万円。佳作に吉原清隆さん(35)の「テーパー・ジャンク」副賞50万円。

第38回新潮新人賞は吉田直美さん(27)の「ポータル・パレード」決まった。副賞50万円。評論部門は該当作なし。

文芸まるかじり
http://blog.livedoor.jp/sela1305/archives/50507964.html

● 来年3/31締め切りめざして、再挑戦、がんばるだ。




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