愚民党は、お客様、第一。塚原勝美の妄想もすごすぎ過激

われは在野の古代道教探究。山に草を踏み道つくる。

ビックコミック、<マタギーある狩人の見た戦場>の中心軸とは

2014年08月17日 | 東京クーデター

先日、8月10日発売のビックコミック期待の新星!!

山地拓郎さんの作品を読む。

物語の中心軸、

人にとって本格的な身体による知識とは

野性動物と同じであって

現場からの体験からであった。

現場とは人と人、1万年前縄文以来のムラである。

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埴輪 男子胡座(あぐら)像 古墳後期 

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女は1万年前縄文以来、狩りに旅立った男たちの身体安全を祈り、

男の帰りをムラで待っていた。

埴輪  婦人像 古墳後期


本日8月12日産経新聞朝刊1面<終戦直前>記事に疑問あり

2014年08月12日 | 東京クーデター

 

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そもそもドイツの分割占領政策を日本で再現させることが、米国の当初の計画であった。

米国軍部の統合戦争計画委員会が作成した<JWPC385ー1>計画によれば、占領は三つ

の段階に分かれていた。

最初の段階は、3ヶ月に限定され、第2段階は、9ヶ月、そして第三段階は、占領目標が達成さ

れるまでである。占領地域は四つに分けられることになっており、北海道と東北地域はソ連軍

九州・中国地方は英軍、四国は中国軍にそれぞれ委ねて、米国が担当するのは、関東・中

部・近畿の本州主要部分の予定であった。

また、これとは別に首都東京は四カ国の共同占領としていた。これは正にドイツの四カ国によ

る分割統治、そしてベルリンの共同統治と同じ手法を採る計画であった。

蒋介石-日本分割に反対 <p196>

蒋介石と日本  -----友と敵のはざまで

                  黄 自進  (こう じしん)

                               2011年1月19日 発行

                 発行所      武田ランダムハウスジャパン

 

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 なぜ日本の国際社会での敗戦決定としての終戦が延ばされたのか?

これは米軍がヒロシマにウラン原子爆弾、ナガサキにはプルトニウム原子爆弾を投下する

ためであった。

この全世界人類への恐怖と物理化学の盲信激烈過激の脅威なる畏怖の大戦略によって

国際世界基準通貨はイギリスのポンドから米国のドルへと大変貌が可能となった。

国際金融動物たる仮想ユダヤ人たるハザール人はすでに国際金融詐欺操作の舞台を

ロンドンシティからウォール街へと移転完了していた。

ヒロシマにウラン原子爆弾、ナガサキにはプルトニウム原子爆弾を投下とは

国際金融動物によるポンドからドルへの国際世界基準通貨変遷のためであった。

敗戦後、日本で天皇制が維持でき、分割されなかったのは、

国連や国際社会で、蒋介石が日本を守ってくれたからであった。

轡田輝宣

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 玄米発行乳酸菌製造を背景に<蒋介石と日本>の写真を撮る

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生かせなかった皇室保持シグナル 謀略警戒、遅れた終戦決断

2014.8.12 11:10

 英国立公文書館で見つかった当時の中立国アイルランドとアフガニスタンから打たれた電報は、あらゆるチャンネルを通じて米国が「皇室(天皇制)存続を認める」シグナルを日本に送ろうとしたことを示している。皇室存続が伝えられながら本土決戦を唱える軍部の抵抗で降伏(ポツダム宣言正式受諾)をしぶり、犠牲者を増やした日本の指導層の判断が改めて問われそうだ。(編集委員 岡部伸)

 

 ◆MI5副長官日記

 英国立公文書館所蔵のガイ・リッデルMI5(英情報局保安部)副長官日記の1945年(分類番号KV4/466)8月5日にこんな記述がある。

 「スイスで日本は、ヤコブセン国際決済銀行顧問を通じ、ダレス米戦略情報局(OSS)欧州総局長と試験的和平交渉を始めたが、米国は無条件降伏に固執しながら、必ずしも皇室廃止を含んではないとの多くのヒントを投げかけている」

 
実際に米国は、ドイツ降伏後の同年5月8日から8月4日まで14回にわたり、ザカリアス大佐が「無条件降伏まで、攻撃をやめないが、無条件降伏とは日本国民の絶滅や奴隷化ではない」「主権は維持される」などと無条件降伏の条件緩和、つまり天皇制存続を認める可能性があることを短波放送で伝えた。

 しかし、日本は、これを「謀略」と受け止め、米英は無条件降伏以外受け入れず、それは「国体」存亡の危機につながる、と思い込んでいた。東郷茂徳外相も「無条件以上の媾(講)和に導き得る外国ありとせば『ソ』連なるべし」(「時代の一面 東郷茂徳外交手記」)とむやみにソ連頼みの和平工作にのめり込んだ。

 同年7月28日にポツダム宣言を「黙殺」したため、8月6日広島、同9日長崎に原爆を投下され、同日、頼みの綱だったソ連から宣戦布告を受け、ようやく国体(皇室)護持を条件にポツダム宣言受諾の用意があることを同11日、米英側に伝えた。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140812/plc14081211100006-n2.htm

◆日本国民の意思で

 ダブリンの現地時間8月10日に別府節弥領事が打ったグルー米国務長官代理(元駐日大使)の見解として皇室保持方針の電報が日本に届くのは同11日ごろとなる。

 同12日未明、米国から「日本国の政治形態は日本国民の意思で決まる」とのバーンズ回答が届き、同日午前、拝謁した東郷外相は、回答は「国民の意思が尊重されるから皇室の安泰は確保される」と奏上、天皇は「そのまま応諾するように」と語り、同日午後の皇族会議で「戦争をやめる決心をした」と発言。同14日に宣言受諾を受け入れる聖断を下す。

 このほか、米国では新聞各紙が皇室維持を報じている。現地時間11日付ニューヨーク・タイムズ紙は、「日本は降伏を申し出る」「米国は天皇を残すだろう」、同12日付で「連合国ヒロヒト(天皇)存続を決定」と伝えた。

 こうした新聞報道を、中立国スイス駐在の岡本清福(きよとみ)陸軍武官とスウェーデンの岡本季正(すえまさ)公使が引用して本国に連絡。岡本武官の報告が同12日夕に陸軍省に届き、同13日未明には岡本公使の「実質的には日本側条件(皇室護持)を是認」との電報が外務省に届いた。これらは、ザカリアス放送とともに天皇が皇室維持に確信を得る根拠とされてきた。さらに今回明らかになった別府電も、聖断の根拠となった可能性は十分考えられる。

現地時間8月13日にカブールの七田基玄公使からも「皇室は維持され、問題は解決する」との電報が打たれながら、日本の指導部は米国からの皇室存続の回答がないことを理由にクーデター計画まで進めた軍部の抵抗を前に終戦決断が遅れた。その結果、降伏を迫る米軍の空襲が続き、同14日から15日にも陸軍造兵廠があった大阪市や山口県光市、岩国市、埼玉県熊谷市、群馬県伊勢崎市などで多くの市民が犠牲になった。

 310万人といわれる日本の戦争の犠牲者のうち、ドイツ降伏後、終戦までの3カ月間で約60万人が命を落としており、米国から皇室存続のサインがありながら、聖断による終戦まで時間がかかったことは多くの問題を残したといえる。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140812/plc14081211100006-n4.htm

 

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2014.8.12 07:01

間もなく69回目の終戦記念日を迎える。大戦末期、連合国からポツダム宣言で無条件降伏を迫られた日本では、軍部が本土決戦を主張、「国体(天皇制)護持」を求めて戦争を継続した。こうした中、終戦直前に日本のダブリン領事とカブール公使が、「皇室保持の日本の要求を米英が受け入れる」と外務省に打電していたことが11日、英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。(編集委員 岡部伸)

 

 アジアの共産化をもくろむソ連を警戒して早期戦争終結を望んだ米国が、無条件降伏を要求しながら、中立国のアイルランドとアフガニスタン経由で「皇室保持」のシグナルを伝えていた資料として注目を集めそうだ。

 外務省に打たれた電報は英ブレッチェリー・パーク(政府暗号学校)が傍受、解読、翻訳し最高機密文書ULTRA(分類番号HW12/329、330)としてまとめられ、英国立公文書館に保管されていた。

それによると、別府節弥ダブリン領事は、1945(昭和20)年8月2日、休暇のため一時帰国したアイルランドのブレナン駐米大使と会談。大使が帰国直前に面談したグルー米国務長官代理(元駐日大使)が「3カ月以内に対日戦が終結すると予測はできないが、日本人が意図すれば、明日にも終わる」と発言したことを聞き出し、8月8日付電報で外務省に報告した。

 続いて別府領事は同10日、アイルランド外務次官と面談し、グルー米国務長官代理が「皇室存続の日本の要求を米英は受け入れる」との見解を示しているという情報を入手、同日付で打電した。

 また、七田基玄(もとはる)カブール公使は同13日、在カブール米公使とスイスで公式交渉を行った際、皇室保持を連合国は受け入れることを知らされ、同日付の緊急電で外務省に伝えている。

 東郷茂徳外相は同12日、「皇室の安泰は確保される」と奏上。天皇は同13日、戦争継続を訴える阿南惟幾(これちか)陸相に「国体(皇室)が守れる確証がある」と語り、同14日の御前会議で宣言受諾(降伏)を聖断した。ダブリンから打たれた電報が、その根拠の一つになった可能性がある。

敗戦まで日本が在外公館を置いていた中立国はスイス、スウェーデン、ポルトガル、アイルランド、アフガニスタン、ソ連だった。

 

 ■「聖断の根拠に」

 昭和史に詳しい作家、半藤一利氏の話「ソ連の膨張を恐れた米国は天皇制存続に反対のソ連、中国などに配慮して無条件降伏を貫きながら、条件緩和を伝える短波放送(ザカリアス放送)などで皇室保持のシグナルを発していた。ダブリンとカブール発電報は、その一環だろう。しかしソ連仲介の和平に固執した日本は米英の意図を読めず、終戦が遅れた。終戦直前のダブリン電報は、東郷外相が天皇に伝え、天皇が阿南陸相に『確証がある』と語り、終戦を聖断した根拠の一つとなったのだろう」

 

【用語解説】ポツダム宣言 1945(昭和20)年7月26日、米大統領、英首相、中国主席名で日本に、「日本軍の無条件降伏」など13カ条を求めた宣言。中立条約を結んでいたソ連は参戦後に参加した。同年8月14日、御前会議で昭和天皇が宣言の正式受諾を決め、大戦は終結した。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140812/plc14081207010005-n3.htm

平成26(2014)年8月12日((火) 産経新聞朝刊から

 


東京クーデター  【北上信治】  (5)

2006年09月20日 | 東京クーデター
東京クーデター       【北上信治】
Tokyo Coup d'etat
 
第三章 東京クーデター終結
 
政権樹立工作


 キャプテンは地上の情況から事態を賢明に洞察した。すべての準備はととのった。ただちに新政権樹立工作をはじめなければならない。


 全閣僚が一室に集められた。キャプテンは、その堂々たる体駆を彼らのまえに現わした。要望書を読み上げるキャプテンの朗々とした声が、室内に響きわたった。第一編を読み終わって、キャプテンは、以上の理由から現政権の解体を強く要求する。と宣告した。事件の真相が、ここにはじめて明らかにされた。

 つづいて、第二編の朗読が始まった。閣僚らは、この事件が革命を狙ったものではなく、政権転覆のためのクーデターであったことを知った。彼らの顔には、いちように安堵の表情が浮かんだ。

 キャプテンは、朗読を終わると、閣僚らを尻目に、悠揚と室外に消えた。


 地上に出たキャプテンは、精力的な活動を開始した。幹部と合議のうえ、政財界、学界、労働界など、意中の重要人物と個々の折衝を始め、新政権樹立のための工作が着々とすすんだ。

 工作は、あらかじめ準備された次の図式を正確にふまえて行われた。


 

組閣作業

一 新政権樹立工作の場所は、首相官邸内○○とする。

二 地上工作開始の時点で官房長官を同官邸内に移送、軟禁して工作に協力させるとともに、警備自衛隊の不慮の妨害排除にも役立たせる。

三 国会および首相官邸周辺の安全を確保するため、自衛隊を治安出動させる。このため首相および防衛庁長官の出動命令を録音し、このテープを官房長官に託し、内閣官房、警察庁に電話伝達させる。自衛隊の警備は、必要に応じて東京都内全区域および近県に広げ、連鎖反応的暴動・騒乱等の予防、制圧にあたらせる。

四 外国の万一の軍事介入に備え、陸・海・空全自衛隊を緊急警備につかせ、日本全土の防衛態勢を強化する。

五 自衛隊の出動は、官房長官とともにテレビ・ニュースなどで確認し、さらに、議事堂・首相官邸の安全を確認した時点で地上工作を開始する。

六 要望書は、事態の進展に合わせ、キャプテンの判断に基づいて新聞社、放送局に提供し、国民の理解と協力を得る。

 なお、首相の内閣解散声明の録音テープ、地下現場の首相との対談写真など、工作に必要なものの準備は、緊急、綿密に行う。

七 訪米中の外務大臣には某機関を通じて事件の真相を明かし、対外弁明に努力するよう依頼してあるが、その反響には十分な注視が必要である。

八 組閣は予定の人物を中心に行うが、参加承諾者全員から誓約書をとる。

九 組閣の見通しがつきしだい、前閣僚全員を各自宅に護送する。ただし、その引き渡し交渉は、キャプテンが官房長官、某重要人物と直接に行う。

十 今回の行動は、われわれ自身が政権を奪取するためにとったものではない。したがって、新内閣成立の発表をもって、本隊の任務を終了、解散するが、参加隊員は新たにA組織をつくり、新政権安定まで、その支援・監視の活動にあたる。

 


http://hanran.tripod.com/coup/tokyo33b.html

東京クーデター  【北上信治】  (6)

2006年09月20日 | 東京クーデター
東京クーデター  【北上信治】
Tokyo Coup d'etat
 
第四章 クーデターの戦略・戦術
 
一 クーデターの諸条件
 クーデターを起こすには、周到な準備が必要であることはいうまでもない。が、この準備のありかたは、決起者と現体制との力関係によって異なってくる。たとえば、日本では、自衛隊が行うばあいと、民間人が行うばあいとでは、その準備も方法も相違するのは当然である。

 いずれにしても、かなり長期の準備期間を必要とするので、事前にある程度は計画を察知されるおそれがある。しかし、原則的には隠密な行為であり、意表をついて行うのが特長であるから、その全計画を予見されるようなことがあってはならない。


 クーデターに必要な条件として、一般に、人物・資金・武器の三つがあげられるが、その前提として、クーデターの目的――動機を明確にすることが きわめて重要である。と同時にその終結の処理も十分に考慮されていなくてはならない。このことは当然のようにみえながら、実際には意外と忘れられていることが多く、そのためもろもろの悲喜劇がうまれる。たとえば、二・二六事件においては、綿密な集結処理案が準備されていなかったため、多大の犠牲が払われたにもかかわらず、決起者側が排除しようとした権力者たちの権力をかえって助長するという皮肉な結果を招いた。

 以下に、クーデターを起こすための必要条件を述べる。

 

クーデターの目的――動機・処理


   目的の明確化

 クーデターの目的は、動機と結果とに分けることができる。動機の完成が結果である。(ついでにいえば、その過程が戦略・戦術である。)

 動機は、個人的な権勢欲や物欲、あるいは私怨などでないことが好ましい。かりに私的なものを「大義名分」によって隠蔽したとしても、それはいつか露呈し、大衆の信を失うにいたるだろう。

 真実の衝動から大義名分をたて、これを明らかにかかげることは、近代国家においてはとくに重要である。主義主張が不明瞭であると、たんなる徒党の暴力とみなされる危険があるばかりでなく、ときには、体制側からその虚をつかれ、思わぬ反撃を加えられることもある。すなわち、クーデターの成否にもかかわってくるのである。

 また、目的のちがいによって、参加者の質・量も相違するだろうし、その戦術も当然変わってくるだろう。

 

   事後処理

 クーデターが勝利に終わった時点から、処理の問題が具体化する。

 処理は、それが動機と一体である以上、だだちに着手しなければならない。

 まず第一に、政策の発表とその実施である。権力をにぎりながら、見るべき政策とその実施がなければ、必ず反動があるものであり、勝算はまったくおぼつかない。

 政策は、実情にあったものでなければならない。つまり、広く国民の支持を受けるにたるものであることが肝要である。しかも、これはごく基本的なものに止めておくほうがよい。あまりにも細部にわたることは、かえって世論を沸騰させ、収拾を困難にするだけでなく、反対勢力につけいられることもあるだろう。もともとクーデターは、国民大衆の側にたって行うことを名目とする場合が多い。したがって、国民不在の政策は、クーデターを必ず失敗にみちぴく。

 政策の実施は、敏速果断でなければならない。ためらうことなく、あらかじめつくられた青写真どおり、一つ一つ具体的に推進していくのである。

 クーデターの事後処理は、一般的な戦後処理とはちがう。クーデターにおいては、相手に徹底的な打撃をあたえて再起不能におとしいれることはしない。政権の座からひきずりおとすだけである。いつ敵が反撃体制を整えるかわからない。たえず危険をはらんでいるなかで、事後処理は行われるのである。いわば、戦中処理といってもよいだろう。したがってクーデターのばあい、意に反した方向に流れぬよう、常に実効の確認を怠ってはならない。

 これまでのクーデターの例をみても、具体的な処理方式の不十分なものは、一時的に政権をにぎっても、すべて失敗に終わっている。たとえば、労働運動のうえに偉大な足跡を残し、レーニンもここから多くを学んだといわれるパリ・コンミューンも、軍事的指揮に統一がなく、かつ、地方農民との提携に失敗し、七十日の短命に終わった。政権樹立後の処理が不十分なために失敗した例である。

 もう一つ、事後処理に際して問題になるのは、クーデター主謀者らと次期政権担当者との関係である。ターデター側に、国民大衆の信頼をつなぎとめ、政権を担当する能力があったばあいでも、現実には国民感情が許さないことがある。したがって、ただちに自らが次期政権をにぎろうとするのは得策ではない。信頼できる第三者に政権をゆだねるのが賢明である。ただ、クーデター側の青写真が忠実に実践されていくかどうかについては、爾後も十分に監視する必要がある。そのためには、監視委員会のような、十分に実力をもった組織を保持し、政権が安定するまで監視と支援をつづけなければならない。

 

クーデターの主役たち


   第一の主役-自衛隊

 クーデターの実態を見ると、軍隊(軍人)が主役となっているばあいが多い。二・二六事件のように、軍人と民間人とが合体して行った例もあるが、これも行動の主役は軍人であった。また、自衛隊の同調をねらった三島事件(昭和四十五年)のようなものもある。

 軍隊がしばしば登場するのは、さきに述べたクーデターの必須条件である人員・武器・資金のうち、人員と武器とを軍隊があわせもっているからである。クーデターの際の資金が、主として武器の購入、人員集めのために使われることを考えれば、軍隊をつかむことによって、資金の必要性は半減するといってよい。

 日本のばあい、自衛隊は、自己の地位に関してつねに不満をもっているとされている。そこに今日、自衛隊クーデター本命説の台頭する要因がある。それも、主力が艦船である海上自衛隊より、やはり本命は陸上自衛隊であろう。

 しかし、ここに問題がないわけではない。陸上自衛隊はもとより、海・空自衛隊とも、隊員の構成はきわめて複雑になっており、戦前ほど容易にクーデター実行にふみきることができるかどうか、という点である。

 防衛大学校第一期卒業生(昭和三十二年三月卒業)二八六名全員が、昭和四十七年三月、三佐(旧軍の少佐にあたる)として陸・海・空自衛隊の中堅幹部のボストについた。彼らは、六・三・三制の教育を受けて育ってきた者たちである。第二期、三期、四期と下るにつれて、戦後民主教育の影響をいっそう強く受けてきた若者たちに占められている。

 昭和四十七年四月、防衛庁前で「沖縄派兵反対」の声明文を読みあげた五人の自衛官は、十九歳から二十三歳の一等陸士(同・上等兵)である。この一事からも、今後の若者の思想の動向の一端がうかがわれる。

 反戦自衛官は、この五人に止まらない。反戦現職自衛官約二〇〇名(自衛隊内反軍)、退役自衛官約三〇〇名(隊友反戦)のほか、労働者、学生による組識四〇〇~五〇〇名(反軍行動委員会、全国六十支部)、市民による組織(反軍闘争を支援する会)もあるといわれる(『週刊現代』昭47・5・18号)。もちろん、隊員のなかには、民族主義でガチガチに固まった者があることも事実であるが……。

 自衛隊の思想的脆弱性は、次のことからも見られる。

 昭和四十七年六月十五日の沖縄復帰に際して、沖縄県民は自衛隊の沖縄進駐に激しく反対した。このことは、自衛隊に対する日本国民全体の拒絶反応を象徴しているものである。この拒絶反応は、自衛隊の定員を充足させない現状をうみだした。いきおい隊員のポン引き募集が行われ、昭和四十年の一年間で二千余件の刑事事件、また年間平均三百件に近い懲戒処分事件が自衛隊内で起きているという事実が示す“質の弱さ”がでてきたのである。

 また、自衛隊員のサラリーマン化という問題もある。自衛隊は安保条約にもとづいて、アメリカ極東戦略の一翼をになうことになっており、有事の際は、アメリカの太平洋統合軍司令部(在ハワイ)の指揮下に入るとされている。したがって自衛隊は、旧軍隊のように自国を守るという立場ではなく、戦略的にはアメリカの出先機関にすぎない。サラリーマン化するのもうなずけないことではない。こうした自衛隊員が、はたして「国軍」という自覚をもちうるだろうか。こうした自衛隊員を引率して、よくクーデターを戦いとれるだろうか。

 しかし、さきに述べたように、自衛隊がクーデターを行うばあいは、武器や人員の獲得は、他にくらべてはるかに容易である。資金は不要に近い。これが、第一の主役たるゆえんである。

 

   第二の主役

 第二の主役は、1民間人と自衛官の合作、2民間人、である。

 1のばあいは、人員・武器の調達の面だけでなく、武器の操作を習得するうえでも便利である。

 2のばあい、人員・資金・武器の入手の困難さが、決起にあたって、はかりしれない大きな障壁となってあらわれるだろう。そこで、クーデターの重要な要素として「英知」が登場する。すなわち、微力な資金力・戦力をカバーするのが、人間の英知ということになるのである。


 

 ついでに、ここで今日の自衛隊の成り立ちをかんたんにみてみよう。

 一九五〇年(昭和二十五年)六月、朝鮮に戦火が起こると、アメリカはただちにこれに介入、日本駐留軍を参加させ、同時に、基地の治安維持その他の必要から、日本に警察予備隊をつくらせた。(連合国軍総司令部覚書による。陸上だけ)。五二年、日本の自衛力漸増の期待を定めた日米安全保障条約にこたえて、海上保安隊を加えて「保安隊」と改赦し、さらに五四年、日本政府は、自衛力増強、直接侵略への対抗手段などを織りこんだMSA協定に基づいて、防衛庁設置法、自衛隊法を制定、航空自衛隊を加えて、三軍方式の自衛隊に改組したものである。

 

クーデターと人物

 主役が軍隊(自衛隊)のばあい、その階級制度、指導命令系統からいって、指導者の人物そのものを論ずる余地はあまりないといえよう。しかし、クーデターの主役が軍隊(自衛隊)でないばあい、人の問題はけっしてゆるがせにできないことである。

「もしキューバ革命に、カストロが存在しなかったならば、キューバ革命は現時点では成立しえなかったであろう。……キューバ革命はかなりの、後年になっただろう」(ゲバラ『エピローグ――キューバ情勢の分析 その状況と将来』)

 クーデターを指導する人物については、あらゆる能力を一身に備えた超人的人物を期待することは不可能であろう。それぞれの面に卓越した才能をもつ人びとでもって司令部を形成するということが現実的である。たとえば、軍事面に明るい者、政治面で力のある者、金融面に豊かな経験を積んだ者というぐあいにである。こうした職能のほかに、人間として総体的に求められるべきことは、革命家としての情熱、勇気、決断力、それに、感情にまどわされない科学者的態度のもちぬしということになるだろう。

 ついでにいえば、司令部といっても、特にそうした形式的なものが必要だというのではない。主謀者、参謀、クーデターの協力者がそのつどの作戦会議、進行状況、政治・経済その他の情報交換、報告をそれぞれ行い、それを総合的にまとめることが大事なのである。また、その場所も、特にきびしい条件を必要としない。秘密アジトでもよいし、移動アジトでもかまわない。とにかく秘密のもれにくい場所でありさえすればかまわないのである。

 同志をつのるにあたって重要なことは、思想的に統一された組織を結成することである。前にも述べたように、チーム・ワークがきわめてたいせつであり、人の和がなくては成功は望めない。また、クーデターは、軍事革命のように事後に備えての兵力の温存を不可欠事とはしない。全力を受入して短時日に事を完了するに足る最少人員があればよいのである。いたずらに人が集まりすぎると、かえって失敗することも考えられる。人員の制限は、武器や資金の調達、訓練と秘密保持の面からも重要なことである。

 


武器


 クーデターにせよ、革命にせよ、その成果を握る直接的なものは、武器である。したがって、赤軍が自衛隊にもぐりこんで工作するとすれば、それは武器への執着と恐怖からである。右翼についても同様なことがいえよう。

 武器は、必ずしも最新式、精巧なものでなくともよい。戦闘に役だつものならなんでもよいのである。ただ、できるなら自衛隊が現在使用している武器と同様のものでありたい。(自衛隊がクーデターの主役であるばあいは、武器についての問題はまったくないので、ここでは、民間人の起こすクーデターについてのことである。)

 それは、事を起こした後に、体制側の精巧な武器をできるかぎり奪取しなくてはならないばあいが出る可能性があるからである。また、諜報網が厳重に張りめぐらされている今日、日本のように武器に対して監視の目の鋭い国で、精巧な武器に必要以上に執着することは、かえって監視の目にひっかかる危険がある。

 自衛隊と民間人との合作のばあいは、当然、武器の融通の可能性などが考慮されていい。

 ここで忘れてならないことは、クーデターを起こす以上、権力の中心部に一撃をあたえて、政治的機能を一時的に停止させなくてはならないということである。ところが、現在では、権力側の実力的支持者は、自衛隊という暴力組織である。したがって、この組織に対する工作を怠ることは、ぜったいに不利である。

 

資金


 資本主義社会は矛盾にみちている。したがって、財閥のなかには、必ずしも現体制に同調していないものもいるとみてよい。

 次のような例がある。

 昭和八年七月、神兵隊事件というクーデター計画事件があった。これは、右翼団体と軍人によるもので、首相以下、政・財界の要人を殺害し、軍部政権を樹立しようとしたものであった。計画は事前に洩れ、決行日(同月十一日)前夜、弁護士天野辰夫ら主謀者側四十六名が明治神宮内に集合したところを、一斉検挙され、事は終わった。この計画の遂行にあたっては、空から警視庁を爆撃する予定もふくまれていた。

 ところが、この計画の資金が、なんと某デパート重役・証券業者から出ていたというので、世人を大いにおどろかせたものである。とにかく、資金調達は、くふうと努力によっては、必ずしも困難なこととは思えないといってよいだろう。

 

訓練


 人員・武器・資金の準備が整ったあと、残された重要な問題は、訓練である。このばあいも、自衛隊が主役のばあいは別である。

 クーデターに武器や最新の科学機器が使用される以上、その操作に習熟することは当然の必要事である。どのように精巧な武器や機器をもっていても、その性能を十二分にはたらかせなくては、まったく無意味である。

 訓練は、武器などについてだけではない。言語・行動の訓練も重要である。言語の伝達を誤まったならば、すべては混乱し、破滅する。また、クーデターが二分一秒を争う電撃的作業に終始しなければならない以上、すべての行動は、沈着のなかにも敏速・正確になされることが必要である。また、訓練には、このような肉体的訓練のほかに、あくまでも事をなしとげようという精神面の訓練もふくまれよう。いわば、根性の養成とでもいってよい。

 実行段階のなかで起きる過失は、戦争とちがってクーデターのばあいはほとんど修正できない。また、とちゅうでの変更には非常な危険が伴う。したがって、予備訓練が寸分のちがいもなく、そのまま実行に移されなければならない。もちろん、現場を想定した訓練を行わなければならないが、同時に、なんらかの形で現場を実地に調査し、実行にあたってまごつかないようにしておかなければならない。

 

http://hanran.tripod.com/coup/tokyo41.html

東京クーデター  【北上信治】  (7)

2006年09月20日 | 東京クーデター
東京クーデター    【北上信治】
Tokyo Coup d'etat
 
第四章 クーデターの戦略・戦術
 
二 プロパガンダとアジテーション
 革命やクーデターにおいて重要な役割をはたすものに、プロパガンタ(propaganda 宣伝、特に政治宣伝)とアジテーンョン(agitation 扇動・アジ)がある。

 この二つは、まったく性格を異にしているとはいえない。プロパガンダのなかにアジ的要素をふくむことがあるし、アジテーションのなかにプロパガンダを入れることもある。事実、プロパガンダのなかに、なんらかの形でその宣伝を実行させようとする扇動的意図がなければ、宣伝は弱くなるし、アジテーションのなかにも、大衆の理解と共鳴を得るためのプロパガンダがなければ、扇動にのってはくれない。どちらの性格が強いかで、プロパガンダかアジテーションかということになる。

 この両者は、その用い方しだいでは、核兵器に優るとも劣らない力を発揮する。一九一七年(大正六年)のロシア革命の際、ポリシェビキの行ったアジテーションが、反革命流の陸軍士官候補生、コサック集団を、もののみごとに革命派あるいは中立に転向させたという実例が、このことを証明している。

 卑近の例としては、ベトナム戦争で、南ベトナム軍第五十六連隊の連隊長以下全員が解放軍に投降した事件がある。新開・雑誌などでも報道されたが、ここでは『週刊貌代』(昭47・6・5号)から、その記事の一部を引用してみよう。

 

   連隊会議で決議して投降

 ファム・バン・ディン中佐は、第三師団第五十六連隊長だった。

 クアンチ省タンラム戦闘中に反戦決起して連隊全員で解放軍に投降した。なお一個連隊全員が解放勢力に走ったのはベトナム戦争史上始めての出来ごとといわれている。

 三十六オのディン中佐は、政府連隊長中もっとも若い連隊長で、「大佐に昇進するまぎわだった」という。――(中略)――グエン・バン・チューが“ベトナム化成功のモデル”と評したほどの“要衝″タンラム基地を守った第五十六連隊の“集団投降”は、かいらい軍にとっては大ショックだと思うが。

「たしかにその通りだ。タンラムは地形にも、また、強固な施設にも恵まれていた。百七十五ミリの巨砲をはじめ、各種火力や爆薬も豊富だった。

 しかし、それだけでは勝てない。なぜならば、かいらい軍であったわれわれは不義の軍隊として、人民の正義に敵対したのだから」

 連隊は、決議声明を出した。

 第五十六連隊全員の決議にもとづく声明(投降……(中略)……

 これまで解放軍は「十項目」の呼びかけを政府軍に行って投降をすすめていた。厭戦気分にある南ベトナム政府軍兵士には、その内容は魅力あるものだった。

 その呼びかけの内容をみると、

(a) 各種兵科、兵種のかいらい正規軍の兵士、将校で、アメリカ=チュー一味の残虐なる軍事制度に反対し、かれら自身とその家族の生活条件改善を要求するものは、人民と革命権力の同情と支持をえられる。

(b) 前戦へ出動命令、カンボジア、ラオスへの出動命令に対し、あるいは、家族と人民のところへ帰るためその隊列を離れる個人、集団、部隊は、人民と革命権力から積極的に保護され、生活手段入手の上で援助をうけ、その家族のもと、故郷へ帰る機会を与えられる。

(c) 前戦で蜂起をおこし、解放勢力に適時に自分たちの行動を通信する兵士、将校、個人、集団、部隊には、援助があたえられる。(一部のみを掲載したようである。著者)

 つぎは、国道九号線沿いのケジャオ(ダウマ)基地での激戦で、あッという間にセン滅され、逃走したが解放軍に捕えられた海兵隊第百四十七旅団、ハ・トウッタ・マン少佐とのインタビュー。

 ――あなたは、解放戦線の“政府軍兵士”公務員に対する十項目政策を知っていたか。

「兵士たちは、すでに何回も公然と解放戦線のラジオによる呼びかけを開き、また、昨年この国道九号線で捕虜となったサイゴンかいらい軍兵士の体験談にも耳を傾けていた。

 わたしも、指揮官という立場上知らないフリをしていたが、実は、部下のラジオですでに何度も開いていた。昨年、ラオス侵攻のさい捕虜になった、第三旅団長グエン・バン・トウ大佐の話も聞いた。」

 ――今度の解放軍の大攻勢に、あなたがたは、ほとんど戦うこともなくカイ滅し、逃走したが、なぜ“十項目”を知っていて、投降しなかったか。

「たしかに、わたしを含め全員が“十項目”を知っていたし、また、ほとんど全員がPRG(臨時革命政府)を信頼していたことも事実だ。しかし“現実にどうするか”という態度決定を、それもあの凄まじい砲弾の雨のもとで、迫られると、やはり不安になったのだ。

 だから、兵士の心理は、逃げられるものならば、捕虜になるよりはその方がいいという方向に動いたのだろう」。

この他に無数の兵士の戦線の脱落は、マスコミ報道で、すでにご存知の通りである。

 

 アジやプロパガンダがいかに大きな効果をあげているかは、この一事でもよくわかる。ロシアの革命家たちが、敵軍内に潜入し、政治宣伝・扇動に活躍しただろう姿も、ベトナム戦のこの一コマから想像できる。ロシア革命の父といわれるレーニン(Vladimir Iliich Lenin)は、すぐれた革命理論家であると同時に、すぐれたアジテーター、プロパガンディストでもあった。

 わが国での最近の例をあげてみる。それは、昭和四十七年三月の衆院予算委員会(二十七日)での、社会党横路孝弘代議士の沖縄返還にかかわる発言である。もちろん、これなクーデターや革命を意識してのプロパガンダであったわけではないが、国民の政府不信をあおるうえで、大きな効果があった。横路氏は、日米の沖縄返還協定第四条三項は日本国民をあざむくものであると、その裏面を暴露して政府を追求した。これが、外務省機密漏えい事件に発展する。

 もともと国民の大多数は、体制側の発表をあまり信用しない。(浅間山荘事件で、機動隊の放水に村して赤軍の五人が、人質の牟田泰子さんのために人壁をつくって守ってくれたとか、その他かれらを弁護することばなどを、警察がかん口令を出して外部にもらさないようにしたようだと、ある週刊誌は書いていた。また、外務省の機密漏えい事件の本筋にはまったく関係ないはずの西山・蓮見両氏の個人的問題を暴露して、事件の本質から国民の目をそらせようとしたとも思える行動を体制側はとっている)。しかし、信用していなくても、これを否定しさるだけの材料をもっていない。だから、この種の暴露は、事の内容にもよるが、かなりの効果をあげることができる。

 すなわち、国民の支持を反体制側に転換させることに役だつだけでなく、体制側やその支持諸機関(自衛隊を含む)の士気を阻喪させ、ときにはその力を徹底的に破壊するにいたる。そして、反体制側をいっそう有利に導くことはいうまでもない。

 この宣伝・扇動工作は、クーデターの準備期間中に行うのが効果的である。さまざまなマス・メディアの発達した今日、体制側の非政をあばく資料をマス・コミに提供する方法もあろう。しかし、このことで自己の正体をつかまれ、逮捕される危険があるようなばあいは、当然中止すべきである。

 ここで注意しておきたいのは、プロパガンダやアジテーンョンがいかに強力な武器であったとしても、それは真実に基づかないもの――デマであってはならないということである。つくりあげられた虚構であることが判明したとき、「扇動」「宣伝」はたちまちその神通力を失ってしまい、その後においても回復することはない。

 また、逆に権力側の謀略宣伝=デマゴギー(Demagogy)が行われることも予想される。このことをあらかじめ考慮にいれておいて、それらへの対策をたてておくことも、戦略家のなすべき任務である。

 

http://hanran.tripod.com/coup/tokyo42.html

東京クーデター  【北上信治】  (8)

2006年09月20日 | 東京クーデター

東京クーデター   【北上信治】
Tokyo Coup d'etat
 
第四章 クーデターの戦略・戦術
 
三 クーデターにおける自衛隊の地位とその戦力
 クーデターは、高度の、特殊な政治闘争である。つねに、政治的闘争、政治的配慮、武力闘争が互いにかみあって成立する。武力闘争は、政治闘争完成のための手段であり、政治的配慮のない武力闘争は、たんなる暴徒の暴力行為にすぎず、必ず失敗に終わる。

 この武力闘争の戦術は、まえにもしばしば述べたように、奇襲作戦・特殊戦術が要求される。ゲリラ戦とは異なるのである。

 武力闘争という以上、武器が必要であることはいうまでもない。この武器の大量に所在する場所は、軍隊――日本では自衛隊しかない。しかし自衛隊は、体制側が反体制側を威圧し鎮圧するために設けた武力的暴力集団である。体制側は厖大な税金をつかって、あらゆる兵器と人員を確保することに努め、また、その隊員の訓練を怠らない。反体制のクーデター側にとっては、きわめて危険な集団である。それだけに、この自衛隊に対する工作なしには、クーデターを行うことは非常に困難である。それは、三無事件、三島事件をみても、かんたんに理解できることである。そこで、自衛隊の現況とその精神構造とを十分に研究しておく必要がある。

 

 さて、日本でクーデターの頻発した時代は、昭和初期から太平洋域争突入までの約十年間である。主なものをあげてみよう。

 三月事件―陸軍青年将校によるクーデター計画。一九三一年(昭6)三月、陸軍少佐橋本欣五郎ら桜会幹部に、小磯国昭ら陸軍中央部、民間右翼大川周明、社会民衆党の亀井貫一郎らが参画して企図。大川・亀井らの動員する大衆が議会を包囲、混乱に乗じて戒厳令をしき、軍隊を議会内に入れて軍事政権を樹立しようとしたが、計画不備のため未遂。

 十月事件―三月事件につづいて同年十月、未遂に終わった軍部急進派のクーデター。主謀者は橋本少佐ら中堅将校と民間右翼の大川周明、西田税ら。

 五・一五事件―一九三二年五月十五日(後述)

 神兵隊事件―一九三三年七月発覚(前述)

 二・二六事件―一九二六年二月二六日(後述)

 戦後においては、三無事件と三島事件がある。

 三無事件は、一九六一年(昭36)十二月二十一日に発覚、未遂に終わった。六二年一月を期して決行、当時の池田内閣の閣僚ら要人を、国会に乱入し殺害しようと計画したもので、元川南工業社長川南豊作、元陸軍士官学校六期生小一臣、五・一五事件の被告のひとり元海軍中尉三上卓らは、目的達成のために自衛隊を動かそうとした。

 三無事件とは、彼らが1無戦争、2無税、3無失業、の三つの「無」を主張したことからつけられた名であるが、具体的政策はなに一つ示されず、武器も、銃・日本刀の数本にすぎなかった。

 三島事件(一九七〇年十二月二十五日)でも、作家三島由紀夫らは自衛隊に乱入して、自衛隊の決起を呼びかけた。(後述)

 この二つの事件は、いずれも武器と人員を確保するため、自衛隊をねらったのである。このように、現在の日本においては、クーデターを起こすためには自衛隊の必要度は高い。

 

 この自衛隊を敵にまわしたらどういうことになるだろうか。さきにも述べたように、自衛隊は本来、反体制倒にとっては敵性集団である。その戦力も、第三次防衛計画終了の時点で世界七位、今次の四次防完了の時点では世界第四位にのしあがってくることが見込まれる。とくに陸上自衛隊は、兵員増はないがその機甲化はすさまじく、これによってその戦力は数倍増するものと考えられる。海上自衛隊もまたアジア一級の海軍に、航空自衛隊は世界一流の空軍勢力になるのである(注1)。

 ばあいによっては、このような厖大な戦力をもった自衛隊に、クーデター側は立ち向かうことになる。しかも自衛隊では、間接侵略――人民の不平不満などによる爆発等――を想定して、平時でも訓練をつづけている。当然クーデターでも起これば、総理大臣の治安出動命令をうけ出動することは明らかである。

 出動命令がおりたと想定しよう。

 まず主力となるのは第一師団である。普通科(歩兵)連隊は都内の市ヶ谷、練馬、埼玉県朝霞、静岡県の板妻にあり、特科(砲兵)連隊と戦車連隊が静岡県駒門にある(図参照)。これに陸上自衛隊の最精鋭を集めた富士教導団二五〇〇人が加わる。教導団は東富士に配備されており、装甲車一一〇両をもつ輸送隊や戦闘工兵大隊を含んでいる。装甲車一両で一個分隊を運ぶ。静岡県の各部隊は、東名高速道路を使用することにより、二時間で東京に展開することができる。さらに習志野第一空挺団一四〇〇人、立川、木更津のヘリコプター部隊も加わる。北開東、北陸地方に駐屯する第一二師団第四四連隊も、首都治安体制強化の狙いをもっている。事態によっては、これも加わってくる。これらを合わせると、兵力三万人に達する。さらに、東北地方の六師団と中部地方の第一〇師団を総動員すれば五万人近くなる。(注2)

 このような首都防衛配置による攻撃を、反体制側は予想しなくてはならない。これに対する戦術をどうするか。もちろん、正攻法攻撃は力の差で不可能である。ここに政治工作の必要性が生じてくる。が、これにふれる前に、自衛隊の精神面の分析に入ろう。政治工作は、当然その精禅面の把握なくしてなしえないからである。

 戦前の軍部は、他の国務機関の作用を受けない独立機関であった。陸軍参謀本部、海軍軍令部は天皇の軍統帥の直属補佐機関で、統帥権は天皇の大権となっていた。

 軍人は、男子にとっては第一の理想像で、それは国の楯、正義、勇気などを象徴するものであった。しかし今日の自衛隊は、若者の理想像とはほど遠い存在である。毎年おこなう隊員募集も、定員を満たすことができないのが現状である。

 昭和四十四年十二月の総選挙のおり、毎日新聞社で「関心ある問題について」世論調査をした。

「くらしの問題」が63%、「外交、防衛、国際間題」が18%、「どちらともいえない」が16%、「その他・無解答」3%となっている。「外交、防衛、国際間題」が18%を占めているが、このなかの「防衛」だけを取り上げたら、はたして何パーセントまで低下するだろうか。

 自衛隊員は、みな背広を着て通勤している。私服通勤を許可しないと、隊士のなりてが激減するという理由で、防衛庁も背広通勤を認めることにした。

 自衛隊員であることにそれほど劣等感を感じるのはなぜか。それは、長沼判決にも示されたように、自衛隊が憲法に違反した存在であるという意識があるとともに、隊員のほとんどが戦後の六・三制教育、民主主義教育によって育ってきており、なんらかの形で戦争のもつ非人間性、罪悪感を知らされているからであろう。

 だからクーデター工作をする場合、職業自衛官(三等陸曹以上)と一般隊士(三等陸曹以下)とを区別して考えることが必要である。職業自衛官は、自衛官を一生の職業と考える者たちで、一般隊士と当然違った観念をもっていると考えなければならない。ここに区別して対処しなくてはならない理由がある。

   注1 小山内宏『現代戦略論』

   注2 藤井治夫『自衛隊と治安出動」

 

http://hanran.tripod.com/coup/tokyo43.html


東京クーデター
Tokyo Coup d'etat
 
 
東京クーデター

昭和48年11月10日 第1刷発行
著者 北上信治
発行 近代社

以下、全部の目次と抜粋。これは、架空の東京クーデター発生時のドキュメンタリータッチの記述と、理論的記述などから成る。ここでは、理論的記述その他興味深い部分を中心に収録した。内容が古いのは当然なので文句を言わないこと。つーか、現代にはそのままあてはまらないと考えていただきたい(つまり、この情報を公開したところで、実際にクーデターは起こせないということ)。歴史的資料として読んでください。


 【北上信治】





楡 周平

宝島社文庫「新装版・クーデター」




砧 大蔵

ザ・クーデター




佐藤 大輔

平壌クーデター作戦 静かなる朝のために




楡 周平

クーデター




楡 周平

クーデター―COUP