愚民党は、お客様、第一。塚原勝美の妄想もすごすぎ過激

われは在野の古代道教探究。山に草を踏み道つくる。

司馬遼太郎 <項羽と劉邦> 上巻 を読む

2013年11月25日 | 歴史

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たとえばアクセスが100だったとする。

70パーセントはマイクロソフトとグーグルのロボットによる巡回アクセスである。

実際の読者によるアクセスは30人。

だからアクセスはできるだけ落としたほうが、実態経済へと接近する。

中国をみるばあい、日本の10倍規模でみるのがいい。

だから現在の中国経済を分析するなら、司馬遼太郎の本を読む。

上巻を読むのに一日、読書とは外に出ず、こもることである。

読書とはこもりながら内的エネルギーを培養する。

物語は秦帝国の崩壊からであった。

この本で革命の概念が変わった。

革命とは王朝の崩壊と流民の反乱。

各地の将軍は流民を食べさしていかなくてはならない、これが原理だ。

この本を読みながら、これで、毛沢東の持久戦論を理解できると思った。

福建省から延安までの長征、中国20世紀革命が理解できると思った。

経済の原理原則とは食べること、生活し、活動する、事業を企てる。

 

 


司馬遼太郎 <アメリカ素描> を、読み終える

2013年11月24日 | 歴史

司馬遼太郎 <アメリカ素描> を、読み終えた。

アメリカに行ってきた人の話によると、アメリカとは巨大な人口国家らしい。

司馬遼太郎はひとつの場所にこだわり、そこを歩き、人に合い、

古代の遺産を発見するように、地下から発掘していく、思考によって。

日本のマスメディアはケネディ神話喧騒祭りである。

マスメディアはテレビと新聞で、国民の気分をつくり脳を洗脳するので

劇的狂気にみちた、すごすぎ過激である。

日本のマスメディアを操作しているのは、アメリカなのだろうか?

NHKや民報が信用されるのは、番組をつくるからだ。

毎日、番組を朝から深夜まで放送する巨大な人口帝国でもある。

 

 

 

 

個人メディアの条件とは持久戦でマスゴミを監視し、批判力を継続、生存することだ。

 

司馬遼太郎 <韃靼疾風録> を読み始める。

 

しかし猪瀬東京都知事、徳洲会から5千円。

日本維新の会の石原慎太郎代表の力とは、すごすぎ過激だ。

石原慎太郎が昨年、東京都知事を辞任すると宣言したのは

小沢一郎が国民の生活が第一の結党大会をした日である。

小沢一郎を長期にわたって叩いてきたマスメディアは、石原慎太郎と大阪の橋下を爆裂的に報道していった。

その結果、日本維新の会は12月の衆議院選挙で大勝利した。

昨年の今頃を思い出してみよう、

思い出すのも個人メデイアの身体的特権である。

日本維新の会とは、自民党・公明党政権を補完する政治勢力である。

現在とは永井路子が小説にした<銀の館>、日野富子の時代を反復しているのか?

乱世と戦国へと突入していく <混> の時代的特徴なのか?

<この世は乱世なのだ、わたしはもう行かなくてはならない>

遊行歌舞伎小栗判官の声が聞こえる。

 


夜から朝への町

2013年11月23日 | 歴史

夜から朝への町

 

個人メディアは全国から視聴料をぶんだくり、ありあまった資金で番組をつくるNHKに勝てるだろうか?

昨日、NHKと民放のテレビは朝から深夜まで、猪瀬東京都知事が徳洲会から5千万円問題の喧騒祭りだった。

おそらくリークしたのは、シナリオライター集団の東京地検特捜部である。

徳洲会事件がとうとう線から面へと展開するシナリオ脚本がいよいよシナリオ捏造基地の予算獲得に向けて動き出した。

猪瀬東京都知事はえじきとされた。

原発村も東電の分離を構想力にもつ猪瀬東京都知事をここで潰しておきたかったのだろう。

安倍晋三政権にとっては、猪瀬東京都知事をえじきとすることによって、国民の関心を秘密法案からそむけることができる。

ネグレクト戦略だ。

東京地検特捜部は風吹かしのシナリオライターだ。

マスメディアが一斉に朝から深夜までテレビ放送、朝には新聞各紙の一面トップ記事。

個人メディアはNHKなどのマスメディアに勝てるのだろうか?

猪瀬東京都知事はえじきとされることによって浮上するのが橋下大阪市長だ。

秘密法案成立への過程で明確になったのは、日本維新の会とみんなの党が安倍晋三政権の補完勢力であったことだ。

そのためにマスメディアは昨年12月の衆議院選挙で日本維新の会、2003年7月の参議院選挙でみんなの党を勝利させたのであろう。

安倍晋三自民党・公明党政権を補完する政党として、日本維新の会とみんなの党、ふたつも用意するとは、すごすぎ過激の

シナリオ脚本だ。

しかし、猪瀬東京都知事がえじきになるとは、原発ホワイトアウトにも書いていなかった。

シナリオライターの東京地検特捜部はなにしろ田中角栄を牢獄にぶちこんだ脚本家集団である。

劇的狂気の集団こそ東京地検特捜部である。

小沢一郎事件では地の底に落ちた東京地検特捜部シナリオライター集団が

予算獲得の復権にむけて風をふかしたのが

徳洲会5千万猪瀬東京都知事のラインであろう。

シナリオライターの台本を風吹かしとして劇場にて舞台化するのがマスメディアであろう。

そして国民の怨嗟をおあるのであろう。

<5千万か? ちくしょう、このやろう!> と。

個人メディアは資金力豊富なマスメディアには勝てない、しかし負けないという持久戦がある。

 東京地検特捜部の検察官とは、真昼間、空想、妄想のシナリオ。脚本。台本を書くのが仕事で

夜は美酒と美女による接待かんずめらしい。

 検察官が史上最大のどすけべであることは、誰でも知っているらしい。

 

 

 


中村真理子 <天智と天武ーー新説・日本書紀> を、読む

2013年11月21日 | 歴史

さて、ビックコミック連載、中村真理子 <天智と天武ーー新説・日本書紀>。

白村江の海戦である。

 

古田九州王朝説によると、倭軍の主体は九州王朝であった。

古代の海流ダイナミズムからいっても邪馬伊都国が九州であったことは定説だ。大宰府は倭国の首都であった。

白村江の海戦とは現代でもある。

 

 

 

ここで桜チャンネルのサンケイ新聞丸出し論理がいかにからっぽ空虚であったことが露呈してしまった。

 

桜チャンネルのサンケイ新聞丸出し論理とは日本古代史の複合に関して無知であったことが暴露された。

白村江の海戦とは現代でもある。

さて古田九州王朝説であるが

古田氏は大宝律令が発布された701年から、大和朝廷であると力説している。

ゆえに大化の改新と大海人の乱は九州王朝内部の物語として断定している。

古田九州王朝説によると

中村真理子 <天智と天武ーー新説・日本書紀> とは、九州王朝の物語となる。

九州王朝倭政権は白村江の敗戦によって滅びる。

そののち誕生したのが奈良、大和政権であり、倭を日本へと国名を更新した。

奈良盆地は世界史から撤退する政権にとって都合よい場所、山地に囲まれていたオタクだった。

奈良盆地でオタクの藤原不比等は日本書紀を10年間かけて編纂したという。

 

天孫降臨ではなく倭人降臨。

倭人とは九州から朝鮮南部を蹂躙していた。

倭人とは海洋民族であり、中国南部から米を食べる稲作労働を九州に伝播した。

それが壹(いち)の誕生でもあった。デジタルとは零(ゼロ)と壹(いち)によって構造化される。

邪馬壱国(やまいちこく)。われわれは卑弥呼(ひみか)の子宮から誕生した。

これがデジタル倭人降臨の原子と原始と幻視の裸像であろう。

 大海人とは倭人の原理でもあった。

日本書紀とは九州王朝の物語。

大海人の正統歴史は奈良盆地、続・日本書記から記述される。

そこで倭人は盆地人へと変貌していったのだろう。

 

 


司馬遼太郎 <アメリカ素描> を、読み始める

2013年11月21日 | 歴史

司馬遼太郎は人間と文明と文化を思考する人である。

 

アメリカ文明とは世界現代文明である。

日中友好条約を成立させた周恩来を中国の人々は愛したが

日中友好条約を成立させた田中角栄を日本の人々は排除していった。

田中角栄は東京地検特捜部によって牢獄にぶちこまれてしまった。

小沢一郎も総理への道を日本の人々によって壊滅されてしまった。

なぜか?

いま、司馬遼太郎と永井路子を集中的に読んでいるのは

その排除における深部を文明と文化と人間を観察することによって解明したいからだ。

読書とは思考による素描でもある。

おれは政治活動家ではない。

町に埋もれた、一握の塵芥である貧困者に過ぎない。

敗戦後日本とは岸信介たち昭和革新官僚がつくりあげた満州国でもあった。

その加速度は三島由紀夫が自決した1970年11月以降激しくなり、日本深部は満州国へと突進していった。

日本の人々は笑うであろう。

思考の巨人、司馬遼太郎はそれを観察していた。

原発とはエネルギーによって食われた満州国象徴なのか?

瞬間的感性と思考はスケッチブックの鉛筆の線なのである。

安倍晋三戦争内閣は満州国総仕上げのために登場し、2013年に二度目の戦争内閣をつくることに成功したという。

日本の人々は小沢一郎勢力をゼロに陥れ、安倍晋三戦争政権が圧倒的力を持つことを選挙で選択したのである。

それが今年の熱帯であった7月25日の参議院選挙だった。

パソコンのOSやCPUがアメリカであるように、現代世界文明とはアメリカである。

アメリカを観察しなくては生きていけない、それが生存の条件でもある。

読書とは生活のなにかを犠牲にしなくては時間がつくれない。

読書人も小説家のように時間を創造する。

<日本語が滅びるとき>を書いた人は、読む人を主題とした。

いったい、日本語を話す、ある様式生活をもった日本の人々とは何か?

おれも日本の人々のひとりだった。

 

 

1970年11月、三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で自決したとき、おれが選択したのは<平凡>への生活思想だった。

平凡という週刊誌が発行されていたが、そのマスメディア内容ではない。

個人メディアとしての平凡思想である。

おれは三島由紀夫の自決という非凡その特異性を選択せず、平凡な人生を思想として選択したのだ。

平凡とは人の尊厳でもある。

三島由紀夫の政治自決を総括した滝口弘人論文から、貴族的死生観を凌駕する民衆の平凡な死生観を学んだのだった。

平凡とは民衆の死生観でもある。

人は平凡な母の子宮から全世界へと産み落とされる。その全世界とは人類の戦争と競争だった。戦乱と乱世だった。

おれはそのころ、肉筆回覧誌の漫画雑誌を発行していた。ガリ版謄写版印刷によるミニコミ誌を仲間とともに発行していた。

17歳だった。新聞配達をしながら高校の授業料は支払っていた。

おれが個人メディアの原点を平凡として確立したのは、1970年、高校3年のときだった。

そのころの風土は大学に行かない、労働者への道を選択することだった。

独学していくしかなかった。

読書とは第2の子宮でもあった。

読書しろと教えられたのは石森章太郎の<漫画家入門>であり、手塚治虫の<漫画の描き方>だった。

 

社会とは自己を鍛えてくれる父であった。社会こそが大学であった。

社会現場の人々は教授でもあった。

読書とは第2の母でもあった。

おれは小沢一郎支援運動でさまざまな人々に出会った。

個人メディアは実践的身体感覚の記憶装置を読書との出会いによって総括する。

おれはひとりだ、孤独に強い、平凡な町に棲息している貧困者であり崩壊した人間だ。

だが発信できるデジタルパソコンがあった。

 

1993年とはいまから20年前である。

パソコン通信の時代、電話回線、23時からNTTの電話回線は安くなり、深夜にてアクセス、誰もが寝不足になった。

ひとつの画像をダウンロードするにもアップロードするにも5時間はかかった。

そのころ大容量の動画が個人メディアで配信されるなど、誰もが夢にもみていなかった。

 草の根ネットはインターネットの登場により、1995年以降、打倒されていった。

安倍晋三戦争政権と竹下登三宝会は<平凡>を甘く見ている。

そこはすでに他者なき自己完結のカラッポでしかないマスメディアの残像でしかない。

デジタルパーソナルコンピュータとは、あまりにも平凡だ。

そこから平凡な個人メディアはガリ版印刷を継承し、打倒され打倒されまくり、復活するのだろう。

読書という第2の子宮、第2の母によって。現場社会という父に鍛えられながら。

鋼鉄はいかに鍛えられたか、それは黄土による百姓土工高炉であった。無駄ではなかった。

農民は鉄をつくり、耕作物を腐らせてしまった。これが毛沢東の矛盾論だった。

黄土とは東アジア文明と文化の中原であったからである。

黄土の砂を一握として言葉にしたのが時代閉塞の現状を書いた石川啄木の北帰行だった。

 

 


周恩来を読む

2013年11月20日 | 歴史

周恩来 追悼会 

 

 

 

 

 

なぜ、周恩来語録は発行されないのだろう。

周恩来とは知恵の総量でもあった。

<大衆に批判されても諦めるな、職務を守れ> 周恩来語録

周恩来語録とは、全世界で仕事をする人々の語録でもある。

外交仕事の失敗が戦争であるが、安倍晋三と日本国家外務省は外交職務を投げ出し、東アジア戦争を勃発しようとしている。

安倍晋三は田中角栄と周恩来が成立した日中友好を破壊せんとしている。

周恩来が死んだのは1976年、それから40年後。

まさに痛みを感じていない圧倒的世界観無感知の人々は中国へ行った。

痛みを感じている人々は日本から中国へは行けなかった。

歴史の痛みを感じる心とは、いつも少ない。

 


11月、早朝

2013年11月20日 | 生活

 

11月、早朝

時代はどう総括されるのだろうか?

たとえば世界構造が転換した1989年には、パソコンが普及し、パソコン通信が開始されていた。

1990年代はデジタルによって総括されるのだろうか?

1993年といえば20年前である。

パソコンがそれほど普及していない1980年代は確かに

書物によって総括されるだろう、記録は印刷物と新聞、テレビにしかない。

1990年代はすでにパソコンが普及し、記録はデジタル記憶装置にもある、書物とデジタルの複合である。

マスメディアは30年前から10年間の時代を総括できる能力が喪失していた。

あはは、おほほ、と、マスメディアとは即時的に浮かれる川のバブルである。

マアメディアとは今があるだけで、過去も未来もない。

書物とデジタルを自由に駆使し複合的に時代を総括するのは個人メディアであろう。

シリア内戦

中東はイラク戦争から欧米世界権力によって、国家と個人が解体されている。

おそらく原理が砂漠の一神教で同じだからだ。

キリスト教もイスラム教もユダヤ旧約聖書から誕生した。

イスラエル周辺の国は無政府主義の地獄回廊へと解体されていくのだろうか?

古代文明をもつエジプトも解体される過度期にある。

アジアもうかうかすると欧米世界権力によって、国と個人が解体されてしまう。

欧米世界権力は再び全世界を奴隷植民地へと変遷させているのが、現在だ。

なぜ、それほど集中的に

司馬遼太郎と永井路子を読むのかは明らかであろう。

東アジアと日本を再発見するためである、個人メディアとして。

 

 

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永井路子 <わが町わが旅> を読む

2013年11月18日 | 歴史

木曽路の旅

義仲の物語がおもしろかった。

それにしても永井路子の仏閣と仏像との出会いはすごいものがある。

マドアゼルの副編集長をしていた永井路子は

古都を旅する女性の前衛でもあった。

司馬遼太郎と永井路子を交互に読む。

小説家は時間を創造する、

そして作家は人間と建物と文物をひたすら底から観察する。

それが小説家の旅であり批評なのだろう。

評価経済社会において、ひたすら中古本を読む。

これが圧倒的読書の時間帯。


司馬遼太郎 <長安から北京へ> を読む

2013年11月17日 | 歴史

ブックオフで買ったのはA5サイズのハードカバー単行本。

1976年発行の初版もの。

読了するまで時間がかかった。

1975年5月、司馬遼太郎の中国紀行である。

司馬遼太郎は革命期の人間が好きだ。

感性と論理に、必ず結語を導き出す。それが出力であろう。

中国は日中友好成立準備に3年間をかけて8億の民衆を説得したという。

文化大革命とは古代遺跡の発掘でもあったことが、この本を読むとよくわかる。

 


永井路子長編小説 <銀の館> を読む

2013年11月16日 | 歴史

花之乱 2話 主要部分

 

日野富子の物語。

NHK大河ドラマで演じたのは三田佳子だった。

ブックオフ、上下合わせて210円で買ったのだが、長編小説は最後まで読むのに時間が膨大にかかる。

永井路子の歴史小説はおもしろい。

足利幕府が混乱へと向かっていく幕が切って落とされるラストシーン。

 読了はしたのだが、寒い冬の朝だ。これからもっと寒くなるのだろう。

 

 


夏の思い出 鎌倉の浜

2013年11月16日 | 生活

夏の思い出 鎌倉の浜

 

冬になる、夏を思い出す。

コラージュは、グーグルのピカソでつくった。

デジタルは進化してるという幻想がある。

おれはデジタルとは漢字の古代、起源に向かっていると思っている。

音の起源

文字の起源

画像の起源

 

小説とは時間を創造する。

おれの歴史は、壊れたパソコンのハードディスクに埋まっている。

 


原発ホワイトアウトの小説方法論

2013年11月16日 | 生活

アクセスが150まで落ちた。

ねらいどおりである。

50まで落とす必要がある。

夜勤現場は仮眠があるが、なかなか眠れない。

小説<原発ホワイトアウト>そこには細部に神が宿ると書いてあった。

午前4時頃から<父親と息子の対話>のシーンが突然、おれの脳裏に復活した。

どの小説、どの映像でみたシーンだろうか? いろいろ脳の記憶装置から思い出そうとしてもわからない。

NHK大河ドラマ<太平記>、足利尊氏と父のシーンだろうか、

タルコフスキー映画監督作品のシーンだろうか、

黒岩重吾古代小説のシーンだろうか、

わからない。

早朝の作業で、ようやく思い出した。脳の記憶装置から引き戻すことができたのである。

それは映画<エデンの東>だった。

父と息子との対話、ラストシーンである。

なぜ突然、エデンの東がきたのかは

<原発ホワイトアウト>の小説方法論を考えていたからもしれない。

原発とは人類が楽園から追放されたエデンの東だったからかもしれない。

夜勤現場から貧しいアパートに帰還する途中、コンビニによって、東京新聞を買った。

<原発ホワイトアウト 10万部突破> 

若杉冽の第2作小説は、エデシの東のように父と息子との対話になるだろうと予測する。

なつかしいアメリカ映画俳優、ジェームス・ディーン。

徳川家康遺訓

原発第一による会津藩の惨状


11月の町

2013年11月13日 | 生活

11月の町

 デジタル動画は鮮明であると思いこんでいる人々は多い。

だが、デジタル動画とは、ぼかすことも可能なのだ。

デジタル動画画像をめぐって、いろいろ実験をしていきたい。

デジタルとは何か?

それはサルトル<存在と無>である。

 


脳は舌である

2013年11月12日 | 歴史

寒くて眠れない。

今年一番の冷え込み。

冬になると腐らないからいいと、煮込みばかり食べ、飽きてしまった。

業務スーパーで買ってきたハムときゅうり赤漬けを食べて気づいた。

人間の食感とは脳であると、多様なものを食べないと、人生と生活が活性化しない。

貧しいながらも、多様な食感は、生きる糧となる。

数年前、ある職場で先輩から教えられた。

脳細胞が動いていないと、仕事にならないと。

おれは舞踏などやっていた身体主義だったから、脳がなんだべよと思い込んでいたが

そこで脳の動きが重要だと教えられた。とくに高齢者になると脳が仕事をする。

 

最新号のビックコミックがおもしろい。

これからはマンガについても、いろいろ書いていこうと思う。

回復させたパソコンは今のところ順調だ。

おれはひとりだ、だが孤独に強い。

仕事は死ぬまでやらねば生活はできないが

63歳まではオタクとして閉じこもろうと思っている。

ファシズムに抵抗するレジスタンスとは、おれにとっては孤独な貧乏生活オタクになることだ。

小説を読み、マンガを読み、生きていきたい。

おれが小沢一郎支援運動に参加したのは

ファシズムに抵抗するレジスタンス勢力の構築を夢みたからだと思う。

しかしおれは弱い人間なので、2012年12月衆議院選挙、2013年7月参議院選挙、2度の徹底した敗北によって

展望を喪失し、解体された人間となった。

おれはひとりになる。

ひとりから日本と生活文化を再発見していく、それがおれの貧しい方法だ。

 

長安から北京へを半分ほど読む。