愚民党は、お客様、第一。塚原勝美の妄想もすごすぎ過激

われは在野の古代道教探究。山に草を踏み道つくる。

小説  新昆類  (34) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】

2006年10月31日 | 小説 新昆類
 推古女王・聖徳太子時代の執権であった曽我一族によって百済仏教は急激に取り入れら
れ、上からの革命を推進したの曽我入鹿であったが、天智と鎌足によるクーデータで、曽
我一族は抹殺されるのだが、曽我一族の政策は「大化の改新」としてより貫徹されたこと
は、明治維新が徳川幕府末期の「開国」政策を貫徹したのと同期である。

 天智大王が六七一年に死亡すると、翌年すぐさま「壬甲乱」とよぶ、内戦が現出した。

 王位継承をめぐる内戦である。王の兄弟や王の息子たちが、王位継承をぐって、王権内
権力闘争を現出するのは、ヨーロッパ史をみても同期している。ある王朝内部の権力闘争
こそが、その王朝の臣下にすぎない部族長を学習させ、その王朝内部権力の弱体をねらっ
て、王を殺す。王を殺した部族長はその王朝の血統を切断し、まったく異質な王として多
部族におのれを認めさせおのれの王朝をひらく。これが権力政治闘争の常識なのだ。ただ
しこの常識は血統が重要となる父権王朝の場合であるが、血の戦いが臨界点に達し極度の
不均衡になると女王が誕生する。それが天武大王死後の六九〇年、持統天皇である。持統
天皇女王の執権が、天武大王の魔手から、シャーマンたちに命を守られた鎌足の子、藤原
不比等であった。藤原とは藤が国土に広がるという意味であり、藤原一族は平城京から平
安京への支配貴族へとのし上がっていく。不比等とは不死鳥の意味。その一族は昭和の近
衛内閣であり、九三年の細川内閣まで、血統は継承してきた。まさに天皇制と同期してき
た。

 「壬甲乱」の内戦において、新羅の王子であった大海人王子は、天智大王の息子である
大友王子を敗北させる。大海人王子は東へ開拓団として移住した戦闘部族を組織した。勝
利した彼は六七三年「天武」として大王の地位を剥奪する。天智大王が学習したことは、
王位継承をめぐる血のすざましい内部権力闘争を続けていけば、いずれわが王朝は滅亡す
るという危機意識である。彼は朝鮮半島における、唐・新羅同盟軍と百済・日本連合軍と
の総力戦を戦争指揮し、その敗北による打撃を経験した。その敗戦から、内部たる国家建
設に尽力し、おれの息子へ継承しようとしたが、天武によって転覆されてしまった。この
七世紀は、謎の四世紀、魏志倭人伝にある記述、壮絶な倭人による内戦を反復した。まさ
に騎馬民族部族による大王をめぐる内戦であった。天智大王は、これら血の闘争の歴史で
あった「倭」(やまと)の過去を消却し、あらたな「日本」を対外的に誕生させる方向感
覚に向かった。日本とは戦国時代が周期的に反復し、そこから女王が安定させていくので
ある。徳川家康は戦国の女たちの願いから誕生した。

 ある政治共同体はおのれが参入し投企した政治闘争や戦争の、敗北・敗走の処理と総括
をめぐって分裂する。その反対に勝利した軍の政治共同体はより一層団結する。なぜなら
敵の敗北という表層空間によって、おのれの強い内部を力として確認でき、おのれの可能
としての空間が拡大するからである。しかし勝利した側のシステムが衰退期に没入してい
るのであれば、逆にその勝利によっておのれを自身を喪失してしまい、システムは固定化
していく。その結果、やがて政治共同体の内部は自壊し、現在から漂流していく。

 七世紀の日本とは、まさに朝鮮半島の高句麗・新羅・百済による国家消滅をかけた三国
戦争に規定された戦国時代であった。ここから八世紀初頭に日本は誕生したのである。そ
れが「古事記」であり「日本書紀」である。官僚機構による日本文明と日本歴史の誕生で
ある。千二百年がたち、時間は千支臨界点である。ゆえに天皇制の時間は終わろうとし
ているのである。あらたなる日本文明と歴史が誕生するのかどうか、それが、二〇〇一年
に死者たちから問われている内容である。この革命たる維新に失敗すれば、日本はもはや
国家消滅という百済・新羅・高句麗の運命をたどることは間違いない。ゆえに民衆の文化
ではなく官僚機構の文明こそが、総括される必要があり、制度疲労として官僚機構の腐敗
が元文明の衰退として現出しているのである。

 ヨーロッパに学ぶのは、近代の罪悪としての進歩制度ではなく、ウィルスなのである。
ウィルスとの死闘こそ学ぶ必要がある。それは近代人間を現出したルネサンスではなくル
ネサンスを準備したヨーロッパ中世におけるウィルスとの死闘からである。そこから人間
とは生き物であることが再度、あたらしい人間像として定性される。

 そして、アメリカ合衆国USAは、その誕生から検討されなくてはならない。その解明
による自壊によって、おのれはUSAから離脱でき、世界イメージの再構築が可能的現在
となるのである。理論は制度によっておのれの内部と深層に刷り込まれ書きこまれた映像
と表層を自壊するためにある。理論はおのれを不自由に縛る奴隷の足かせを切断すること
にある。これが場所と実践である。理論とは時間の経験である。

 現在の言説とは、宇宙に飛び立った人間が宇宙船内で、データー記録として、呼び出す
ことができる内容であるか、ということである。本物の力を内在した記録は、生き残るこ
とができるだろう。わたしは、そのために昨年の十二月末からタイピングしてきた。テキ
ストは一九九二年に手書きでファクス原稿用紙にかいたものである。さすがに、遅々とし
てすすまなっかた。それは手書きテキストがエネルギーがあったからである。九二年当時
はいつか、印刷して発行しようと思って書いたのだが、こうして、八年後に鬼怒一族と有
留一族のインターネット秘密サイト「ディアラ・原光景」に掲載になるとは予想していな
かった。これがテキストの力である。

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うわさによれば、天皇(孝明天皇)は天然痘にかかって死んだということだが、
数年後、その間の消息によく通じているある日本人がわたしに確言したところによれば、
天皇は毒殺されたのだという。
この天皇は、外国人にたいしていかなる譲歩をおこなうことにも、断固として反対して
きた。そこで、来るべき幕府の崩壊によって朝廷がいやおうなしに西欧諸国と直接の関
係に入らざるをえなくなることを予見したひとびとによって、片付けられたというので
ある。

-------------------アーネスト・サトウ 【一外交官が見た明治維新】上

兵庫開港の攻防をめぐって、孝明天皇は暗殺されたのではないかと自分は思う。
イギリスが突きつけていたのは、日本列島の総開港であり市場開放であった。
資本主義の交易のためには、日本の幕藩体制は破壊される必要があった。
アーネスト・サトウは横浜で発行されていた英字新聞(ジャパン・タイムズ)に
幕府を廃棄し天皇を中心とした政治体制のシステム革命論を発表する。
これは日本語に訳され、日本の書店で売られていく。
イギリスは明治維新政治体制構想力に関わっている。

戦争とは交通関係でもある。
イギリスは薩摩と長州の戦争を通じて、薩摩人と長州人が好きなった。
世襲制度の末期にあった徳川幕府の政治家よりも、薩摩人と長州人に期待を寄せた。
イギリス人は魚を食べ、何でも食べるから世界帝国になった。
アーネスト・サトウも日本食を食べ日本酒を呑み、日本の作法を徹底的に実践で習得
する。各藩の人間と宴会をやり芸者を呼び、徹底して交流していく。芝居小屋にもい
く。

イギリスが幕府に突きつける要求は、現在日本が、米国政府から「年度要望改革書」で
突きつけられている情況と同じだ。

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日本の下層階級は支配されることを大いに好み、機能をもって臨む者には相手がだれで
あろうと容易に服従する。ことにその背後に武力がありそうに思われる場合は、それが
著しいのである。伊藤(伊藤博文)には、英語を話せるという大きな利点があった。こ
れは当時の日本人、ことに政治運動に関係している人間の場合には、きわめてまれにし
か見られなかった教養であった。もしも両刀階級(武士)の者をこの日本から追い払う
ことができたら、この国の人民には服従の習慣があるのであるから、外国人でも日本の
統治はさして困難ではなかったろう。
だが外国人が日本を統治するとなれば、外国人はみな日本語を話し、また日本語を書か
なくてはならぬ。

------------------アーネスト・サトウ 【一外交官が見た明治維新】下

アーネスト・サトウ
【一外交官が見た明治維新】【上・下】 訳/ 坂田精一 岩波文庫 1960年発行



 二十一世紀現在の日本と明治維新はリンクしている。アーネスト・サトウはイギリス
帝国の情報機関工作員であった。アーネスト・サトウがつくりあげた日本近代のWINDOWS
OS、基本プログラムによって、クーデター明治維新の革命は成就した。アーネスト・
サトウこそ恐るべきアングロサクソンの他者学習能力の具現プログラム起動を体現して
いる。アヘン戦争によって中国はイギリスの半植民地となった。日本はプログラムによ
ってイギリス帝国の代理機関、東アジア侵略戦争立国へと変貌していった。その代償は、
アングロサクソン二重帝国、アメリカよりの、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下だった。




 わたしは、七十年代、八十年代、九十年代、現在の上部機構システム成員による、現場
歴史たる事実の消却を、けしてうのみにはしない。そう、わたしたちはアンダーグランド
の蝦夷なのだ。鬼怒一族は古代、大和朝廷軍によって高原山を追われて以来、各地の地下
人として生存してきた。水田稲作造作の奴隷として西国に流された鬼怒一族は、北条鎌倉
幕府炎上後、勃発した後醍醐天皇と足利尊氏の内戦、朝廷が分裂した南北朝時代、流民と
なって、故郷である高原山をめざした。選び抜かれた者のみを山の民として高原山に送り、
多くの者は、箒川西側にある豊田村へ住み着き、水田稲作開墾をしていった。豊田村には
わが一族が誇る、大和朝廷蝦夷侵略軍将軍坂上田村麻呂を暗殺した所がある。わが一族は
そこを坂上田村麻呂が宿泊した将軍塚として偽装保存することに成功した。坂上田村麻呂
が創建したという木幡神社も実は鬼怒一族が建てた社だった。そしてわが聖地高原山は、
今でも、生命を誕生させた古代地球のエネルギーをそのまま温存しているかのような神秘
に満ちた山である。

 寺山修司寺は古来、役小角(えんのおづね)の教えを継承した修験道の聖地寺だった。
「野に伏し、山に伏し、我、役小角とともに在り」修行を司る根拠地こそ寺山修司寺だっ
た。山岳の高原山で修行し、修験で得た「実修実証の世界」である霊応と験力は「たとえ
親、兄弟といえども、一切他言をしてはならない」ことが掟とされた。それゆえ高原山の
修験道は綱領なき密教となった。さらに高原山の修験道と蝦夷の聖地である青森県の恐山
は通低していた。言語なき身体の歴史こそ野と山に山岳密教にあった。

 幕末、孝明天皇と睦仁皇太子を暗殺したのが、長州のテロリスト伊藤博文と山県有朋だ
った。伊藤博文と山県有朋は長州の大室寅之祐を明治天皇にすり替えたのである。伊藤博
文と山県有朋はイギリスの工作員として、同じく、イギリスの工作員であった坂本龍馬と
ともに徳川幕藩体制を転覆した。

 いにしえの日本を破壊することこそ西欧侵略軍の代理機関明治維新政府の役割だった。
明治元年に出された「神仏分離令」は、山岳修験道を弾圧し、山岳密教を崩壊させ変質さ
せていった。

 寺山修司寺は真言宗智山派に所属することにより、明治維新政府の日本破壊、宗教弾圧
の暗黒時代を生き延びることができた。古来からの神社も明治政府の強権弾圧によって、
四割が消滅させられていった。なにもかも大室寅之祐明治天皇を神とするためだった。

 最後に塩田純一氏の論文「異界の人──日本のアウトサイダー」から抜粋引用したい。
 
 
 -------------------------
  古来、日本人にとって「狂気」とは、社会的規範からの免脱として排除される一方で、
  超自然的存在の憑依によって生じる聖なるものとして崇められるという両義性を有する
  ものだった。精神に異常をきたした者は日常の生活空間とは異なる「異界」へと入って
  いく。この「異界」は、日本の民俗信仰では超越的、観念的な世界ではなく、現実に存
  在する【女比】(ハハ)の国として海や山であり、実際に日常世界=里を捨て、「異界」
  =山に入っていく人々、おそらくは精神病者の例は、「神隠し」の伝承などとして柳田
  国男ら民俗学者によって報告されている。
  
   しかも、注目すべきは、異界と現世の交通が双方向性であり、里への突然の帰還がし
  ばしば伝えられている点である。こうした連続性、可逆性を有する異界=外部と現世=
  内部との関係は、アウトサイダー/インサイダーという空間的な位置関係を明確に示す
  概念とは微妙にニュアンスが異なる。その意味では、「アウトサイダー」という用語を
  敢(あ)えて日本語に置き換えるなら、むしろ民俗学的色彩を込めた、たとえば「異界
  の人」といった言葉こそふさわしいかもしれない。
  
   日本における前近代的な「狂気」の様態として特徴的なのは、「動物憑依」である。
  ヨーロッパ中世においても、精神病は悪魔が取りついたものと信じられていたが、日本
  ではそれはしばしば狐、狸、犬神、蛇、猿、天狗などの動物、ないしは妖怪が憑依する
  ことによって引き起こされるものと考えられた。そして祈祷、その他の方法によってこ
  れらの憑きものを追い出すことで治療は可能とされ、共同体が再びその人物を迎え入れ
  ることもよくあることだった。
  
   <略>
   
   今日、私たち日本人にとって「外部」と「内部」の関係は再び揺らいでいる。「外部」
  を構成するのはかつてのように欧米=近代という単一の価値基準ではない。アジア、アフ
  リカ、さらに伝統的な「日本」ですら、私たちの眼に「外部」として映り始めている。
  「外部」が多様な価値を提示する一方で、「内部」は依然として主体性を欠いたままであ
  る。これは一面では危険な状態だ。何ら明確なクリテリアを持たないまま「外部」=異
  文化のいたずらな消費に陥ってしまうからである。私たちの課題は、確固たる「内部」を
  構築し、「外部」とのふさわしい関係を見出すことである。その意味で、打ち棄てて来た
  周縁、「異界の人」の造形表現に眼を向けることは、真の「内部」を構築する契機となる
  はずだ。
  
      【異界の人──日本のアウトサイダー】  塩田純一 (美術批評家)
  
 ---------------------------------------


                 ──ウィルス・イデオロギー・完──




【第1回日本経済新聞小説大賞(2006年度)第1次予選落選】


小説  新昆類  (35) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】

2006年10月31日 | 小説 新昆類
 渡辺寛之は昭和二十八年一月十七日、雪が深夜にかけて降った朝、高原山の寺山修司
寺本堂扉の前に置かれていた捨て子だった。寺の住職である渡辺日義が赤ん坊の泣き声
を聞き本堂に行ってみると綿入れのはんてんに囲まれていた男の子の赤ん坊が置かれて
いた。住職はすぐ捨て子であることに気づいた。住職は妻の恭子と相談し、まだ子供がいな
かったので育てることにした。名前を渡辺寛之と命名し日義の長男として出生登録をして戸
籍に入れた。四年後、住職の妻、恭子に女の子が産まれた。恵子と名づけた。

 渡辺日義は寺山修司寺の住職をしながら泉中学校の教師でもあった。そして塩原町に接
する矢板市泉地域社会福祉などの相談役でもあった。寛之と妹の恵子は寺山修司寺で日義
と恭子の愛情に守られ仲良く育った。その後、日義と恭子には子供ができなかった。

 東京オリンピックの翌年、渡辺寛之は泉中学校に通い一年生になり十二月末の冬休みに
なった。妹の恵子は小学三年生だった。恵子と寛之が寺の境内で石蹴りをして遊んでいる
と、下から山門の石段を登ってくる中年の男が見えた。ネクタイをして黒いコートを着た
男は、境内までやってきて、じっと寛之を見ていた。

「お坊さんはいらっしゃいますか?」と男は寛之に聞いた。

 寛之は母屋の玄関を指差した。ありがとう、そう言って男は母屋の玄関前にたち、ごめ
んくださいと中に声をかけた。母屋の台所からエプロンで手を拭きながら恭子が、はいと
答えながら男の前に立った。

「住職にご相談があってまいりました。有留源一郎と云う者です」

 男は名刺と塩原饅頭の菓子箱を恭子に渡した。名刺には有限会社有留鉄工取締役の肩書
きがあり、住所は広島県広島市安佐北区白木町大字有留125番地と印刷されていた。

「まぁ、わざわざ広島から」と恭子は名刺を見て驚いた。そして有留源一郎を土間に入れ、
どうぞと囲炉裏に腰をかけさせた。そして奥座敷で仕事をしていた渡辺日義の所に行った。

「あなた、広島からお客様です」恭子は名刺を日義に渡しながら、何の用かしらと不安な
顔をした。日義は恭子の不安を「きっと寺の歴史を聞きにやってきた人だよ」と打ち消し
た。

 有留源一郎の名刺を持ち作務衣を着た日義が土間の囲炉裏に姿を現すと、源一郎はてい
ねいにおじぎをした。源一郎は最初自分が住んでいる有留村の鎌倉寺山は高原山の寺山修
司寺と縁があるのかもしれないなどと話をしていたが、この寺に捨てられていた寛之のこ
とで相談があると切り出した。日義は子供たち聞かれてはまずいと、源一郎を奥座敷に上
がらせた。恭子は湯を沸かすとお茶を奥座敷に持っていった。そして土間に戻ると外に出
て、境内で遊んでいる寛之と恵子を確認した。寛之と恵子に、お客様が来ているので、外
で遊んでいるようにと言った。そして恭子は有留源一郎の話を聞きに奥座敷に入った。

 有留源一郎の話によると、寛之が産まれたのは、高原山の北側だった。高原山の北側は
塩原町である。高原山の中腹で、寛之の親は炭焼きを職業とし、炭焼き小屋で暮らしてい
た。寛之が産まれたのは昭和二十七(一九五二)年十二月だったが、寛之の両親は悪い病
気にかかり小屋で死んでしまった。寛之の両親を弔った炭焼きの仲間は貧しさゆえ、寛之
を育てることができない、それで寺山修司寺なら育ててくれるだろうと判断し、この寺の
本堂に翌年の一月十七日に、捨て子として置いていったとのことだった。

 有留源一郎と寛之の両親は遠い親戚であったが、交流はほとんどなく、高原山の炭焼き
の連中からも寛之の両親が死んだことは知らせてもらえなかった。塩原温泉に旅行で来た
ので、昨日、親戚である寛之の両親の炭焼き小屋を訪ねたら、廃屋になっていた。高原山
で炭焼きをしている人の小屋を探して、寛之の両親のことを聞いたら、すでに死んだとの
ことだった。高原山の炭焼き人から寛之の行方を聞いたの内容を有留源一郎は日義と恭
子に話した。

 高原山の山の民サンカが住民登録をしたのは昭和二十七年であった。それまで山の民サ
ンカは日本国民として戸籍に編入されていない。子供たちも義務教育を受けていず山の民
サンカは日本国民とは別の独自な世界で暮らしていた。有留源一郎は自分のところに寛之
の両親が死んだ知らせがこないのも理解できると話した。

 日義はありそうな話だ、うーんと唸った。でも寛之がその死んだ炭焼きの子供だという
証拠は……疑問を恭子は有留源一郎に投げかけた。右太股にやけどの跡があると炭焼き仲
間の人が話していましたが……有留源一郎は答えた。確かに……恭子がつぶやいた。寛之
の右太股にはやけどの跡があった。

「親戚の義務として、私のところで育てたいのですが……」

 有留源一郎は本題を切り出した。日義も恭子も将来は恵子が真言宗智山派総本山で修行
した僧を婿としてもらい、寺を継いでもらいたかった。寛之は高校までめんどうをみて、
東京に就職させるつもりでいた。

「いきなりそう言われましても……」

 日義は妻とよく相談をするから結論は待ってくれと有留源一郎に言った。
 
「もちろんです。今日、どうのこうのという話ではありません。私はただあの子の親が誰
であったかを知らせにまいり、私があの子の親戚であることをお伝えにきたのです。今ま
で育てていただき誠にありがとうございました。私の怠慢ゆえ、今まで来られなかったこ
とをどうかお許しください」

 有留源一郎は畳に額をこすりつけ謝り、日義と恭子に詫びた。
 
「突然来て、いきなりあの子をこちらで預かるなどと無礼な願いを言いまして……
そちらさまのお気持ちも考えず誠に申し訳ございません」

 有留源一郎の声と詫びる身体には真剣に裏打ちされた迫力がみなぎり、日義と恭子は圧倒
されていた。そのとき日義も恭子もこの人に寛之を託すしかないと判断した。

 その日、有留源一郎は深々と土間の玄関で頭を下げ、寺から去っていった。日義と恭子
の夫婦は寛之にどう説明していいかという重い課題を背負った。何よりも寛之を兄として
したっている恵子の反応が心配だった。兄と妹の関係を引き裂くことになる運命、しかし
子供たちは耐えるしかないだろうと日義は思った。

 昭和四十一(一九六六)年三月二十八日、寛之は有留源一郎に連れられ、寺山修司寺か
ら有留源一郎が住む鎌倉寺山、広島県広島市安佐北区白木町大字有留へと旅立つことにな
った。運命に翻弄され寺の山門を降りる寛之の中学生服姿は痛々しかった。肩から中学生
の布カバンをかけ、左手には旅行カバンを持っていた。有留源一郎も旅行カバンを持って
いた。寛之のこれまでの衣服や私物、勉強道具やこれまでの教科書、本類は、後から日本
通運で広島県へ、送る段取りとなった。山門の石段の両側は高い杉並だった。見送る日義
と恭子、恵子はお兄ちゃんと叫びながら山門を駆け下り、寛之の右腕を行かないでとつか
んだ。寛之は立ち止まった。寛之も肩をふるわせ泣いている。有留源一郎はそのまま山門
の階段を下りたところで待っていた。寛之は泣き叫ぶ恵子のしがみつく手を離しながら、
云った。

「恵子、しかたがないんだ。しかたがないんだ。これがおれたちの運命なんだ」
 寛之は自分にも必死に言い聞かせていた。

 恭子は山門の上から下に降りてきて、恵子を抱きしまた。
「恵子、お兄ちゃんとの別れはつらいけど、耐えるのよ。しっかりとお兄ちゃんの旅たち
を見送ってあげるのよ、寛之、つらくなったらいつでも帰ってきなさい。ごめんさい、寛
之、お母さんは、何もしてあげられなくて……」
 そして恭子は嗚咽をあげた。
 
 寛之に身体の底から慟哭が突き上げてきた。これ以上、恵子と恭子の前に立ち尽くすこ
とはできなかった。

「恵子、これを読め、おれがいなくなった後は、本を読むんだ。負けないで生きるんだ」

 寛之は中学用の布カバンからト壺井栄「二十四の瞳」を取り出し、恵子の手に渡した。
恵子はその本を動物的に強く握った。自分がいなくなった後の恵子が心配だった。

 寛之は涙を右腕を拭きながら、黙って山門を駆け下りた。四十八段ある山門の石段、
その第一段目に寛之の足が下りたのを見届け、有留源一郎は、山門の上で見守る寺山修
司寺住職渡辺日義に深々と頭を下げた。そして山門階段の真ん中で泣いている恵子を抱
きしめながら嗚咽を上げている恭子にていねいに頭を下げた。右手は拝礼し顔の下にあ
った。

「さあ、行くけんね」
 有留源一郎は、優しさの中に断固した意思と決意を寛之に波動させながら広島弁で云っ
た。

「寛之お兄ちゃーーーーーん、帰ってきてーーーーえ」
 
 そのとき、恵子のかん高い叫び声が、寺山修司寺を囲む山の空気に裂け目をつくった。
恵子の叫び声に鳥が一斉に空に飛び立つ。その羽音はさらに裂け目を増幅させていった。
有留源一郎は驚き樹木の枝に囲まれた空を見上げる。枝と枝の間を何匹の黒いむささびが
飛んでいる。有留源一郎は鳥肌がたった。動物としての危険信号を空気に感じた。身体よ
りの危機感と防衛本能を作動させながら、有留源一郎は山を降りていく。寛之は有留源一
郎の後に続き、寺山を降りていく。寺山修司寺が遠くになっていく、寺山に入る山道の入
り口まで来たときだった。猿の群れがふたりを待っていた。まだその場所は高原山の中腹
だった。周囲はひたすら山の森と林だった。

 有留源一郎は立ち止まった。寛之は源一郎の背中の後ろにいた。猿の群れの前にいる
大きな躯体をした猿王が一歩二歩と源一郎に近づいた。有留源一郎と猿王はしばらく動
かず相対していた。目線を相手からはずしたら終わりだと、源一郎はまっすぐに猿王の
眼を見ていた。

「おれは高原山の猿王トネリ。お前はその子をどこへ連れて行く」

 有留源一郎の意識下の意識に声が聞こえた。

「我は、広島、鎌倉寺山の有留一族の棟梁、源一郎なり。この子、寛之はわが有留一族の
古来よりの同盟軍、鬼怒一族の最後の人間なり。我は、高原山の鬼怒一族を再建せよとい
う先祖の霊声を鎌倉寺山で聞き、寛之を立派に鎌倉寺山で育てるために、ここにやってき
た」

 有留源一郎は意識下の意識、阿頼耶識で猿王トネリに返答した。
 
「その子は高原山にとって必要な者、返してもらわねばならぬ。その子を遠くへ連れて行
くことは、我ら高原山ばかりでなく、八溝山の怨霊、岩獄丸も許さぬと云っている。その
子をただちに返してもらうことは、高原山と八溝山の総意なり」

「返す、必ず高原山に返す。我は、この子、寛之を修行のために鎌倉寺山に預かっていく。
山県有朋一族に支配された高原山を奪い返すためには、この子の修行が必要なのだ」

 阿頼耶識で高原山猿王トネリと有留源一郎は真剣勝負の応答をしていた。
 
 そのとき、猿王トネリと有留源一郎の直線軸に対して、三角錐の地点に、新たなる猿が高
い木から降り立った。

「我は鎌倉寺山の猿王ウガンセンなり。有留一族の源一郎は必ず約束を守る。有留源一郎に
襲い掛かることは、鎌倉寺山の猿が許さぬ」

 ウガンセンの顔は幼少時にくらった、ヒロシマ原爆投下放射能の被爆風によって、頬の肉
が崩れ骨が見えていた。広島市安佐の鎌倉寺山に暮らしていた猿族は原爆投下によって、多
くの仲間が死んでいった。ウガンセンの姿態は高原山の猿に恐怖をもたらした。


 周りを囲む高い樹木の枝に、広島県の鎌倉寺山からやってきた猿の群れがいた。一斉に高
原山の猿は防衛体制に入った。一気誘発の緊張が森に波動する。

「鬼怒一族と有留一族の合言葉を言え」
 高原山猿王トネリは有留源一郎に迫った。
 
「ひえだみくりや、ひえだみくりや」
 有留源一郎は目を閉じ、両手で結界を験し、合言葉の呪文を唱えた。
 
「これにて疑いは晴れた。我ら、その子の高原山帰還を、ひたすら待っている」

 有留源一郎が指の結界と呪文をとき、眼を開いたとき、猿の群れは目の前から消えていた。
樹木の枝からも猿の群れは消えていた。山の空気は穏やかな静寂な森林へと転換されていた。
寛之は有留源一郎の後ろ、いつのまにか、草の上で眠っていた。有留源一郎は眠ったまま
の寛之を背におぶり、後ろに回した両手で、寛之の体を支えながら、高原山を降りていっ
た。道は寺山修司寺に登ってきた山道といつのまにか違っていた。迷ったのかもしれない。
寛之を背負う後ろの両手には、自分の旅行カバンと寛之の旅行カバンを持っていた。力が必
要だった。額と全身から汗が流れる。有留源一郎の背骨を感じ、眠っている寛之の肩には中
学生の布カバンが掛かっている。南方向に下界が見えてきた。矢板の町だった。有留源一郎
は高原山の麓の里、矢板市と塩原町の境界にある伊佐野村まで降りてくると、菓子屋の店先
にある公衆電話から、矢板駅前にあるタクシー会社に電話をかけ、タクシーを呼んだ。

 寛之は眠りから目覚め意識を回復させていた。覚えていたのは、有留源一郎の前に猿がい
たことだけだった。ふたりが矢板駅から上野行きの列車に乗ったのは、午後四時半だった。
広島県までは列車の旅だった。

 恵子は小学四年生へ、寛之は中学二年生へと進む矢先の出来事だった。早春の兄と妹の別れだった。

 高原山の猿と鎌倉寺山の猿は、これを機に固い同盟を結んだ。トネリの娘デイアは、同盟
契りの証として、ウガンセンの嫁となることになった。トネリは鎌倉寺山の猿が、原爆投下
による放射能によって、遺伝子が破壊され、子供が産まれてもすぐ死んでしまうことを、ウ
ガンセンから聞き、高原山と八溝山から選ばれた娘猿を十猿、ウガンセンに託すことにした。
鎌倉寺山の猿は子孫生存のため新しい血が必要だった。

「すまぬ、おれたち一族は何のお返しもできぬ」
 ウガンセンがトネリに恐縮してわびた。
 
「いや、あの子を、鬼怒一族の最後の人間を、鎌倉寺山にて守ってくれればそれでいい」
 トネリがウガンセンの心に応えた。
 
「我ら、トネリ殿のデイア姫と高原山と八溝山の娘猿を守り、無事、広島の鎌倉寺山に帰還
した後、鬼怒一族の最後の人間を守り、山県有朋一族から高原山を奪還するトネリ一族の悲
願達成を終生援軍するであろう」
 ウガンセンは鎌倉寺山の猿と高原山の猿、同盟軍の前で誓った。
 
 鎌倉寺山の猿はトネリの好意により、高原山裏、奥塩原の湯につかり、さらにそのルート
から奥那須の湯まで案内してもらい、原爆病にやられた遺伝子躯体を温泉で癒した。しばら
く高原山と那須山にウガンセン一族は逗留し、そしてディア、娘猿を守りながら鎌倉寺山へ
と帰還した。一年後、ウガンセンとデイアの息子ラフォーが産まれた。鎌倉寺山からのラフ
ォー誕生の報告を聞き、トネリは同盟契りの証に喜んだ。ラフォーは鎌倉寺山猿族の頭とな
るべくこの世に誕生した。ラフォーは青年になり、同盟契りの証として、高原山の娘猿アマ
テを嫁にもらった。アマテはラフォーの息子を産んだ。ラフォーは息子をディアラフォーと
名づけた。

 ディアラフォーが産まれた年の冬、ウガンセンは原爆の猿としてこの世から去った。死ぬ
前にラフォーに言った。

「鎌倉寺山の猿、原爆による生存継承の危機は、高原山の猿によって救われた。高原山から
来た女猿がわれらの子を産んでくれた。高原山との同盟契りは永遠に守るべし。我ら、後鳥
羽上皇、後醍醐天皇が隠岐に流されたとき、帝を密かにお守りした猿の一族なり、その誇り
をけして絶やしてはならぬ。我らの神は猿田彦なり。高原山が山県有朋によって支配された
ように、ここ鎌倉寺山は明治の大帝へと成り上がった長州の大室寅之祐王朝によって絶対強
権によって支配された。そして広島に原爆が投下された。それを大室寅之祐王朝昭和ヒロヒ
トは、是認した。我ら鎌倉寺山猿の怨念はしかたがなかったではすまされぬ。我が亡き後、
かならず原爆を投下したアメリカに復讐するのだ。そのためには高原山の猿、トネリ一族の
協力を仰ぐのだ。わが遺言、トネリ殿に伝えよ。わが一族の復讐、必ず理解してくれるはず
だ」

 ウガンセンは日本猿として死んでいった。ウガンセンのなきがらを鎌倉寺山に埋めると、
たたちにラフォーは、妻アマテと産まれたばかりのディアラフォーを連れ、高原山へと向か
った。トネリはウガンセンの遺言をラフォーから聞き、「ウガンセン殿の無念、何代かかろ
うが、晴らそうぞ」と言った。人間離れした日本猿の復讐こそに、日本の神々、猿田彦の系
譜、後鳥羽上皇と後醍醐天皇の御心があった。ラフォーは同盟誓いの証として、わが子ディ
アラフォーをトネリにさしだした。

 ディアラフォーはトネリの元で修行し、やがて高原山猿の棟梁になる運命となった。その
猿徳は八溝山にまで波及した。






【第1回日本経済新聞小説大賞(2006年度)第1次予選落選】

小説  新昆類  (36) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】

2006年10月31日 | 小説 新昆類
    5
   
 昭和四十二(一九六七)年四月、関塚茂は矢板中学校の三年生になった。三年になって
急にクラス替えがあった。一年、二年と同じクラス、友達も多かったので、それがバラバ
ラになってしまい茂は淋しかった。それほど前のクラスは居心地がよかった。クラス替え
になってさっそく茂は背が小さかったので、川崎村の二人組みから目をつけられた。

 ひとりは親分格の斉藤武とその子分格の山口一郎だった。妙な話だが背が一番小さいの
が茂で次に一郎そして三番目が武だった。校庭での朝礼は、学級委員を先頭に、次に縦に
並ぶのが茂、次に一郎、次に武だった。武は左目の網膜に白いものがあり、川崎小学校で
は、「メッカチ」と言われいじめられていた。矢板中学校に来てからは暴力でクラスメートを威嚇
するようになった。武は茂を自分の子分にしようとしていた。茂は、休み時間になると、
武と一郎に呼び出された。

「話があるから、ちょっと、いくべ」

 子分の一郎が茂に伝え、茂は武と一郎に挟まれながら廊下を歩き、校舎のはずれにある
物置小部屋に入った。

「おらの子分になれ、ならなげれば、殴るぞ!」

 武が恫喝した。
 
「おらは、そういうのは嫌いだ、殴りたければ殴ったらよがんべ」

 茂は決然と応えた。調子こくんでねぇ、このやろうと武と一郎に茂は、二発、頬を殴
られた。それから休み時間のたびに武と一郎につきまとわれた。1年、2年の時のクラス
に暴力的な人間はいなかったので、茂の新しい環境は暗くなった。耐えるしかなかった。
茂は中学校よりも朝刊夕刊の新聞配達の方にやりがいを持っていた。

 茂は全国紙の毎日新聞を配達していた。受け持ちは国道四号線沿いの本通り商店街だっ
た。朝はいつもスポーツ紙に掲載されていた富島健男のすけべな連載小説を読みながら配
達するのが楽しみだった。茂は貸本屋から借りてきた富島健夫のクラスノートという高校
生が卒業するときの恋愛小説を読んでいたので、富島健夫の純愛小説とエロ小説との落差
がわからなかった。早朝の街で、読売新聞の配達をしている泥荒に出会った。泥荒は末広
町方面を配達していた。中学校で泥荒とは別のクラスだったが、行き会うたびにオッスと
あいさつをした。あいつも家は貧乏で苦労していんだんべと茂は泥荒に強い仲間意識をも
った。ある朝、校長が校庭での朝礼で、新聞配達をしている生徒がある家に配達された牛
乳を盗んで飲んでいるという通報があった、そうゆうことをしてはいけないと、全生徒の
前で訓示をたれた。茂はそのとき、歯をくいじばりながら、校長を真正面からにらみつけ
た。下を向いたら敗北でおれは終わりだと思った。もしかしたら泥荒かもしれないと思い
三組の列に並んでいる泥荒を見た。泥荒も歯をくいしばり眼光に燃え、校長を真正面から
見つめていた。あいつじゃない、あいつもおれと同じ、新聞配達少年が校長に侮辱された
と、たぎる怒りに胸は煮えくり返っている。何が市民からの通報だ、ちくしょう、暇なク
ソジイイの嫌がらせだ。そのとき、泥荒が茂を見た。ふたりは、眼光で「オッス」と挨拶
をした。負けてたまるか! とふたりは同時に顔をうなずき無言で、新聞配達少年の闘志
を確認した。

 矢板中学校の生徒は、毎朝、暇なクソジイイに監視されていた。登校する朝の定刻には
「君が代」が校舎のスピーカーから大音響のうなりを上げる。生徒は登校途中であっても
道路に止まり、「君が代」の大音響が聞こえたら、歩きを制止し、あるいは自転車から降
り、直立不動になり校舎の国家国旗掲揚に向かい拝礼するのだ。山県有朋一族に支配され
てきた矢板中学校の伝統だった。朝の「君が代」拝礼のとき、会話したり姿勢が崩れてい
る生徒がいたならば、山県有朋一族を敬服する「汚れ勢力」の暇なクソジイイが校長に毎
朝、電話で通報するシステムが完成していた。そして校長が、今朝の「君が代」拝礼には
きちんとやっていなかった生徒がいたと、朝礼で全生徒の前で訓示をたれる監視恫喝制度
が起動していた。さすが、長州テロリスト山県有朋支配地の伝統だった。山県有朋は、同
じく長州テロリスト伊藤博文とともに、幕末の孝明天皇と睦仁皇太子を暗殺し、長州の大
室寅之祐を明治天皇として祀り上げた人間であった。大室寅之祐明治天皇を神として貫徹
するために明治維新政府は強権となって、さまざまなものを壊滅した。日本近代は欺瞞に
よって成立した。大室寅之祐王朝の欺瞞と戦争による民衆虐殺の伝統こそ、明治、大正、
昭和の強権だった。その基礎をつくりあげたのがテロリスト山県有朋だった。日本の近代
とは、欺瞞と「嘘の神」の貫徹史でもあった。ゆえに「君が代」は大音響でうなりを上げ
る。

 中学校では相変わらず、武と一郎が、休み時間になるとしつこく、つきまとってきたの
で、武と決闘をして、現状を打開しようと茂は決意した。決闘は土曜日の放課後、中学校
から荒井村にいく道沿いにある牛馬市場ということになった。そこは牛と馬が売られる日
以外は誰もいない広い場所だった。クラスメート二人が立会人でついてきた。

 茂と武は取っ組み合いのケンカをしたが、ふたりとも背も力も同じ位なので、なかなか
決着がつかなかった。立会人が一息入れろと中断した。ふたりはひと時ケンカをやめた。
茂が立会人とこれからどうずるか、最後までやるのか話していたところ、武が茂の肩を手
で話があると後ろからチョンチョンとたたいた。茂がなんだと振り返った時、武のパンチ
が茂の左目に入った。このやろう、汚い手をつかいやがってと茂は動物のようなでかい
声を出し、猛然と武に向かっていった。武はヨロヨロとうろたえた。茂は何発も武の胸と
腹にパンチを浴びせ、ぶちのめした。自分でもこれほど暴力が発動できる人間であること
を、瞬間に茂は自分自身を発見していた。そのとき立会人が危険を感じ、やめろそこまで
だと仲裁に入った。ケンカはここまでだと立会人がふたりに言った。じゃぁ、おれは帰る
ぞ、夕刊の新聞配達があるかならと茂は肩掛け布製のカバンを拾い、牛馬市場の建物を後
にした。後ろから、逃げるか、このやろうと武が声を出したが茂は相手にしなかった。一
郎は最初から最後まで黙って見ていた。

 月曜、茂は眼帯をして登校した。後ろから武に殴られた左目が腫上がっていたが、それ
はケンカの勲章でもあった。おれはケンカができる人間だと茂は自信に満ちていた。その
日から武と一郎は、茂に休み時間まとわりつくのを止めた。一郎も武から距離を置くよう
になった。武のケンカゲーム相手は、他の人間に向かった。授業が終わった掃除の時間、
武は、川崎村の隣にある木幡村から登校している成績が良い山田秀雄を挑発し、ぶちのめ
した。クラスメートは誰も止めに入らなかった。茂も黙って見ていた。中学一年、二年の
時と違って、新しい環境は殺伐としていた。それとも三年になり大人になったのだろうか
と茂は思った。掃除が終わり、毎日のクラス討論の反省会が始まる時、秀雄は机に両手で
頭をふせ泣いていた。周りの女子もそれを見ないようにしていた。男子は沈黙のなか、暴
力で調子に乗り、威張っている武をいつかぶちのめすと暗黙の了解を空気のなかで感じて
いた。すでに中学三年になると、表ざたにせず、隠しながら進行する政治的人間になって
いた。

 六月のある日、雨が降っていた。保健体育の授業は体育館だった。九人制のバレーボー
ルの試合を男子と女子、二組づつに分かれてやる事になった。最初に男子が二組に分かれ
て試合をやり、女子はコートの周りを囲んで観戦することになった。茂は選手からはずれ
観戦となった。選手となり得意げに武はコートの後方にいた。武の対戦組のサーブとな
った。ボールを打つのはバレーボール部に所属している岡田純一だった。岡田は強いサー
ブを武めがけて打った。武は取れなかった。次のサーブも武めがけて打つ。ふたたび武は
受けたが後ろにはじき返した。武が対戦する相手の組の全員が武をめがけて打った。武こ
そがチームの弱点であることが女子生徒の前でクラス全員の前でさらされた。武は蒼ざめ
た顔になり、ますます身体は羞恥と恐怖に硬直していった。その日から武はクラスで目立
たない人間へと変貌した。集団の暗黙による政治的報復を恐れる人間となった。十五の季
節を迎える少年少女たちは、陰部に陰毛が生えて、隠すことを知り、体が大人へと脱皮を
とげていく過程の思春期にあり、それは距離をとるというニヒリズムへの知覚が芽ばえる
季節でもあった。

 茂は武の挑発から解放されて、クラスの中で友達をつくっていった。最初の友達は牛乳
配達をしている石田実だった。石田に誘われたのは七月はじめの土曜日だった。土曜日は
半ドンで、昼1時前には学校が終了していた。

「今日、冒険に行くべよ、汚れてもいいズボンと上着を持ってこいよ、あと新聞紙ももっ
てこい」

 待ち合わせは矢板駅だった。茂は夕刊の新聞配達もしていたので、遊べるのは土曜の午
後の夕刊配達するまでの時刻と、夕刊配達がない日曜だった。茂の家族住むアパートから
駅までは歩いて十分ほどだった。新聞紙の束を布製の手提げに入れて駅に行くと、すでに
紙袋を腕にかかえた石田が待っていた。石田は目が三角で、ねじれた印象がある男だった。
よし、いくべ、ついてこいと石田は駅の公衆トイレに向かった。茂は石田の後からついて
いった。公衆トイレは男女共有だった。水洗式ではなく汲み取り式便所だった。

 トイレの入り口に入ると、左側が小便用便器が三個あり、右側に大便用男女共用個室ト
イレが二っつあった。ベニヤのドアには薄緑色のペンキが塗ってある。石田と茂は端のト
イレに入った。木の板壁にはのぞき見るためのちいさな穴があり、そこに紙がねじこまれ
ている。石田はそれを取ると、ここからとなりが見えるべ、のぞいて見ろと茂を促した。
そして石田はドアを少し開け、誰も来ないことを確認すると、隣のドアに入り、隣のトイ
レの穴からもねじ込まれていたチューインガムを取った。

 茂はしゃがんでその穴を見ると、となりのトイレが見えた。石田が隣トイレから帰って
きた。

「この穴をみて、女かどうか確認するんだっぺ」

 石田はドアにあるちいさな二つの穴を指差して言った。茂は立ち上がってドアの穴をみ
るとトイレ入り口方向の外が確認できた。

「きっと、高校生がのぞきにつくった穴だんべな」

 石田はそう言うと、紙袋から新聞紙を出し、白い陶器製の便器を拭き始めた。何故、そ
んなことをするのか茂にはわかならなかった。どうやら便器に体を潜りこませ便溜め槽に
まで降りるらしい。石田は紙袋から古い長袖シャッツを取り出し、半袖シャッツの上に着
た。おまえも着替えろと石田が指示をしたので茂も紙袋から汚れた長袖シャッツを取り出
し、それを着た。ていねいに石田は便器を新聞紙でふき取ると、さらにボロ布で便器をき
れいにした。石田は紙袋から軍手二組を出すと、一組を茂に、これをはめろと渡した。

 隣からトイレドアが開き閉まる音がした。誰か入ったなと石田が小声で言った、そして
しゃがんで、左目を強く閉じながら右目をぱかっと開き、のぞき穴を見る。おんなだと石
田は小声で言った。よし、おれは潜るからなと、軍手をはめ、両足を便器に入れ、徐々に
体を沈ませていく。石田の両足はやがてコンクリートで出来ている便槽についた。そして
便器から手を離し、便槽へと潜り込んだ。だいじょうぶかと茂は声をかけた。下からニヤ
っと笑う石田の顔が見えた。

 茂ははじめての体験に興奮していた。茂がのぞき穴から見ると女子高校生がパンツを下
げているところだった。陰部から恥骨へと毛が生えているのが見えた。やがて女子高校生
は腰を下ろし、用を足していった。のぞき穴からは女子高校生の髪が下に垂れているのが
見える。やがて女子高校生は顔を上げた、そして不思議そうに目の前のちいさな穴を見て
いる。好奇心で女子高校生はその穴に瞳を近づけてきた。茂はあわてた。ここで穴から目
をはなせばバレてしまうと思い、そのまま見続けた。光が女子高校生の瞳に遮られ、穴は
真っ暗になった。やがて女子高校生は穴から目を離して、光が見えてきた。女子高校生は
立ち上がってパンツをはきはじめた。用を足した女子高校生はトイレのドアを閉め出て行
った。美人だったと茂は思った。

 石田が便器に手をかけ、顔を出し肩から上半身を出し、はいずり上がってきた。
 
「いまのおんなが捨てたモノだっぺ」と石田は紐がついた茶色の生理用具を茂にみせた。
そして便槽へと落とした。

「ション便をへっていたよ、今度はおめえが中にもぐれ、足、滑らないように気をつけろ
よ」
 ドアの穴から外を見ていた石田が、来たっぺ、おんなだ、潜れと小声で指示した。茂は
両足を便器に入れ、両腕で体を支えた。腰まで便器に入れ、両足の着地点をまさぐった。
やがて左足の運動靴が便槽に着いた。その左足を基点に今度は右足を着き、便槽を大きく
開脚した両足でまたぐ格好になる。足が滑れば便槽の底まで落ちるはめになる。両足を踏
ん張りながら、茂は肩から顔を便器の下に沈めた。上から石田が、隣はきれいな女子高校
生だんべ、下からよくおがめよと真剣な顔でいった。石田の眼は危険な遊びの情熱に燃え
そして炎は歪んでいた。その石田の眼を便器の下から見ながら茂はうなづいた。

「あまり近くまで行くとバレるから、気をつけろよ」

 石田が小声で注意した。
 
 便槽の中の便溜めには蛆虫が蠢いていた。紙、そして糞、ション便の匂いに圧倒された。
両足で踏ん張っているコンクリートの便槽壁は農茶色でぬるぬるしている。茂は軍手をは
めた右手を便槽の壁を押し指に力を入れた。これで体を支える三点が確保されたことにな
る。向こうの便器から光が差してくる。茂は慎重に前進していった。濃紺のスカートそし
て女子高校生の両足が見えた。女子高校生は、ゆっくりと白いパンツを下ろし、やがて下
半身を丸出しにしてしゃがんだ。茂は便槽の下から女子高校生の中心を仰ぎ見た。暗くて
性器はよく見えなかった。茶色い生物体のようだった。やがてその生物体の口からション
便が発射された。次に大便が爆弾のように茶色の生物体の黄門から落とされてきた。茂は
あわてて体を後退させた。女子高校生のション便と糞爆弾投下が終了し、今度はチリ紙が
ひらひらと落ちてきた。茂は初めておんなのおまんこを仰ぎ見たことになるのだが、それ
は憧れの美しいおまんこというより、茶色いシワと溝がある怪物の排泄生物体だった。茂
にとっては革命的な出来事になってしまった。暗い便槽の世界で、茂の少年期は終焉した。
茂は便器に手をかけ、顔から肩そして腰を便器の外に出していった。はぁはぁと新鮮な空
気を吸った。小声で静かにしろと石田が真剣な顔で注意した。

「なにか下のほうで見えた、気持ち悪かったよ」

 トイレから出た女子高校生が外で待っていた女子高校生に話す声が聞こえた。
 
 月曜日、茂は中学校へ登校したが、すでに、おれは恥ずかしい事をしたという罪悪感を
心の底に内包していた。クラスメートの女子中学生や女教師がスカートの下に怪物のよう
な生物体を宿していることが信じられなかった。その日から茂は赤面恐怖症になってしま
った。授業で教師に指され椅子から立ち上げると顔は真っ赤になっていた。またいくか?
と石田は土曜日に誘ったが、用があるからと茂は断った。

「おめぇ、おっかなぐなってしまたんだんべ」

 石田は歪んだ眼で笑った。
 
 夏休みになった。茂は朝の朝刊配達が終わると、箒川へ自転車で水浴びに行ったりして
過ごした。夕方になると夕刊配達をした。勉強はしなかった。夜はマンガを描いたり、テ
レビをみて過ごした。お盆が過ぎると宿題の絵を長屋の前にある大きな木を描くことに決
め、昼間から木の前で絵を描いて過ごした。その木は長屋の前の道路の向こう側にあった。
砂利が敷かれた空き地だった。茂はひとりで絵を描いているときが一番幸せだった。夏休
みが終わりその絵は体育館に張り出され銀賞をとった。茂は嬉しかった。

 二学期になると、高校進学の模擬テストがあった。そして黒板の横の机には就職案内の
パンフレットが置かれるようになった。クラスメートはひとりひとりが進路を問われるよ
うになった。授業が終わると高校進学のための課外授業が行われるようになった。茂は夕
刊配達があるので、課外授業の申し込みをしなかった。自然に茂は高校進学しないグルー
プとより付き合うようになった。高校進学しないグループはほとんど氏家町にある職業訓
練所へ入るつもりでいた。茂は那須工業高校の土木科を希望していた。自分の進路を選択
していくという社会の重みをクラスメートの誰もが感じていた。天真爛漫だった中学一年
や二年の時と違って、それぞれが内向化していった。未来への不安と心を隠し秘密を持っ
た茂はインキンタムシに犯されてしまった。体を動かすたびにきんたまが痛かった。つい
に茂は、きんたまを圧迫できる水泳パンツを履いて登校した。後ろの女子生徒に水泳パン
ツの線を見られるのが怖かった。茂は夢精をするようになっていた。夢の相手は長屋の二
軒隣のおばさんだった。夢の中で茂は発射した。起きるとパンツが精液で水濡れしていた。
先行し大人になっていく体の革新に、意識は置きざれにされ不安と動揺の日々だった。
家ではテレビを見ながら国語辞書を開き、性に関する語句を読み、ひとり興奮していた。

 茂は高校に入学してからも新聞配達を続けた。学校よりも新聞配達で生きた社会から学
ぶことが多かった。
 


【第1回日本経済新聞小説大賞(2006年度)第1次予選落選】

小説  新昆類  (37) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】

2006年10月31日 | 小説 新昆類
     6 

 大船駅西口から横浜市立場に行く神奈川中央交通のバスに乗ると、原宿交差点を過ぎ、
バスは米軍深谷通信基地沿いの道路を走っていく。深谷通信基地にはいくつもの電磁波塔
が林のごとく樹立していた。この基地の機能は、米海軍第七艦隊の艦船や、厚木海軍航空
機と横須賀の海軍司令部を結ぶことで、三十基のアンテナと五十五基の送信機で艦船に中
継送信をおこなっていた。その周りには畑であった。ふちのある丸い帽子を被った有留源
一郎は深谷通信基地手前のバス停で降りると、深谷小学校の方向に歩いていった。左手に
深谷小学校、右手には深谷通信基地のいくつも樹立している電磁波塔が見えた。

 平成十八(二〇〇六)年八月六日広島原爆記念日の早朝だった。そして今日は日曜日だ
った。道路にはまだ車も走っていなければ人も歩いていなかった。有留源一郎は畑のあぜ
道を歩いていった。面前に電磁波塔がそびえている。彼は黒い肩掛けバックから虫カゴを
取り出すと、草のあぜ道にしゃがんだ。虫カゴを開けると中から茶色い昆虫が四匹飛び出
してきた。その昆虫はゴキブリとクモが合体したちいさな電磁波新昆類だった。電磁波を
体内から外に発生させる生物だった。電磁波に放射されながら飼育されたので、電磁波を
発生させる場所こそおのれが生存できる場所であると本能が起動して、草のあぜ道を新昆
類は勢いよく跳ねながら深谷通信基地の方向へと姿が消えていった。有留源一郎は八十五
歳になっていたが、意思的な後姿だった。空となった虫カゴを黒いバックのなかに戻し、
畑のあぜ道から道路に戻ると、彼は深谷小学校を過ぎ住宅地のなかを歩いていった。坂を
上り今度は左折して坂を下りていく路地を歩いていった。やがて廃墟となったドリームラ
ンドタワーが見えてきた。大きな道路に出ると下手にバス停が見えた。そのバス停の手前
に三菱ふそうの幌がある青い二トントラックが止まっていた。有留源一郎がそのトラック
まで歩いていくと、助手席のドアが開いた。有留源一郎は黙って乗り込む。運転席に座っ
ていたのはタオルを頭にまいた関塚茂だった。トラックは瀬谷の方向へと走り、相鉄線の
三ツ境駅で男をひろった。三ツ境駅から乗り込んで来たのは渡辺寛之だった。野球帽を被
りハイキングに行くかのようなの姿をしていた。渡辺寛之と関塚茂は五十三歳になってい
た。渡辺寛之はNECの早期退職に応じ、現在は高齢者相手にパソコンやインターネット
のやり方などを教える商売をしていた。

 トラックは三ツ境駅から厚木街道に入り大和駅方向へと走っていった。幌に覆われた荷
台の後ろには、大き目のハイキング用ザック五個とひとつのダンボール箱のなかに一眼レ
フのデジタルカメラが五個、毛布に包まれて入っていた。荷台の前には三個のダンボール
箱が黒いゴムバンドによって、動かないように固定されていた。

 大和警察署を過ぎると交差点の右側にファミリーレストランのガストが見えてきた。ト
ラックは交差点を右折してガストの駐車場に入った。時刻は朝八時前だったが、すでに真
夏の太陽はぎらついていた。渡辺寛之は運転助手席のドアを開けると、すぐさまトラック
の後ろに行き、幌を閉めているゴムバンドをはずしていった。運転をしていた関塚茂も幌
のゴムバンドをはずす。そして荷台に乗り込み、渡辺寛之に一つのハイクング用ザックと
一つのデシカメを渡した。渡辺寛之は後からトラックの後ろに歩いてきた有留源一郎にそ
れを渡した。そして自分が背負い身に付けるザックとデジタルカメラを受け取った。関塚
茂は荷台で自分のザックを背負い、デジタルカメラを首にかけると荷台の幌の中から外に
降りた。そして幌を閉めるゴムバンドを関塚茂と渡辺寛之はトラックにかけた。三人は店
のドアへと歩いていった。

 ガストのドアから出てきたのは、めぐみ、渡辺寛之の妻である真知子、泥荒の三人だっ
た。めぐみは有留源一郎、渡辺寛之、関塚茂に眼を合わすことなく、先ほど関塚茂が運転
していたトラックへと歩いていった。真知子はすれ違うとき、夫の手に自分たちが乗って
きたワゴンのカギを渡した。

 めぐみはトラックの運転席に乗り、渡辺真知子と泥荒は助手席に乗った。助手席には有
留源一郎が残していった黒い肩掛けバックがあった。それを真知子は座席の後ろに入れた。
めぐみが運転するトラックは大和警察署方向へと走り、厚木街道と四六七号線の交差点を
右折し四六七号線藤沢方向へと走っていった。すでに泥荒も関塚茂も鬼怒一族と有留一族
の秘密結社同盟の一員となっていた。

 ガストで朝食を注文したのは有留源一郎、関塚茂だった。渡辺寛之はドリンクを注文し
た。三十分ほどくつろいで、三人はガストを出ると大和駅方向へと歩いていった。大和駅
のタクシー乗り場からタクシーに乗った。

「引地台公園までお願いします」

 関塚茂が運転手に告げた。近距離は金にならないと、運転手はしかめ面で車を動かした。
朝から公園で趣味の写真とりかよ、公民館の写真サークルだなと運転手は思った。運転手
は鏡で後ろの客席の有留源一郎の顔をチラっと見ながら、この老人が写真サークルの先生
だと判断した。まったく元気で景気がいいのは年寄りばっかりだよと思った。続いて運転
手は鏡で渡辺寛之と関塚茂の顔をチラっとみた。五十歳代のこいつらは写真サークルの会
員だなと運転手は判断した。ケっ、趣味の写真かよ、日曜の撮影場所が公園かよ、まった
く金がかからない趣味だわ、こいつらケチケチしている五十歳代のサラリーマンが、夜の
街で飲まなくなってしまったので、本当に不景気だわと運転手は後ろの客を呪詛した。

 引地台公園でタクシーから降りた三人は、それぞれがデジタルカメラをかまえ違う方向
へと散っていった。誰から見ても自然が好きな公園を散策する趣味を楽しむカメラマンだ
った。渡辺寛之は一時間ほど公園の樹木などをカメラで撮り、「やまと冒険の森」の方向
へ歩いていった。「やまと冒険の森」で、また彼は1時間ほど写真を撮った。それから米
軍厚木海軍飛行場の境の木陰で腰をおろし、ザックの中からビニール袋に入ったおにぎり
二個と冷茶のペットボトル取り出した。

 ザックは開けたまま腰の後ろに置いた。渡辺寛之の後ろには広大な米軍厚木飛行場があ
った。ザックの中からちいさなゴキブリの群れが外に飛び出してきた。電磁波に反応し昆
虫ウィルスを体内に宿した新昆類だった。電磁波に放射されながら、日本人の精液をエサ
に飼育されてきた新昆類は渡辺寛之の子供たちでもあった。新昆類は日本人遺伝子には無
害だが白人の遺伝子をもった米国人には害悪になるだろうことを新昆類プログラム設計者
の渡辺寛之は知っていた。新昆類が宿す昆虫ウィルスは鳥インフルエンザよりも破壊力が
あった。米軍厚木飛行場の草むらで繁殖した新昆類昆虫ウィルスが米軍兵士に寄生し、新
インフルエンザとして破壊力を起動させるのは九年後の二〇一五年だった。それを鬼怒一
族と有留一族の秘密結社は2015年体制プログラムと命名していた。

 渡辺寛之のザックから外に出た新昆類は米軍厚木飛行場から出す電磁波に反応し、草む
らの茂みに入っていった。夜に活動する新昆類は羽を広げ飛び、広大な米軍厚木飛行場の
あちこちに飛んでいき、ここは新昆類が生存する最高の領域になるだろうと渡辺寛之は思い、
夏草の匂いを嗅ぎながら令茶を飲みながらおにぎりを食べている。食べ終わると腰の後ろに
あったザックの中身を見たがもはや新昆類は一匹もいなかった。寛之はおにぎりを包んであ
ったラップをまるめ、ゴミ袋となったビニール袋に入れると、それをザックの中に入れた。
そして令茶のペットボトルを飲み干した。飲み干したペットボトルをザックのなかに入れ
ると、寛之はザックのチャクを閉めた。そして立ち上がった。向こうに有留源一郎が散策
しながら時折止まり写真を撮っている姿が見えた。

 渡辺寛之が「やまと冒険の森」から外の道路に出ると、引地台公園方向から関塚茂が歩
いてくるのが見えた。空を見上げると真夏の太陽は頂点に位置していた。渡辺寛之は野球
帽の下から流れる額の汗を右手で拭くとそのまま大和駅方向へと歩いていった。有留源一
郎も関塚茂も渡辺寛之と同様に基地との境で、背負ったザックを開け、おにぎりを食べる
はずだった。渡辺寛之は有留源一郎の老体がこの暑さにやられないだろかと心配したが、
関塚茂が後ろについているから大丈夫だろうと心配を打ち消した。有留源一郎の強靭な意
志力にこの日の決行まで導かれてきたのだと思いながら渡辺寛之は大和駅に向かって街を
歩いていた。三人合わせて九十匹の新昆類が米軍厚木海軍飛行場に放されたことになる。

 渡辺寛之は歩いてガストまで戻り、真知子たちが駐車場に置いていったトヨタワゴン・
カルディナを運転して、ガストの駐車場から車を出した。大和警察署を過ぎ厚木街道と四
六七号線の交差点を右折して四六七号線を藤沢方向へと走らせた。すぐ右側にファミリー
レストランのジョナサンが見えた。信号機のところで右折し渡辺寛之はトヨタワゴン・カ
ルディナをジョナサンの駐車場に入れた。そして車をロックして店に入っていった。やが
てこの店に有留源一郎と関塚茂が「やまと冒険の森」から戻ってくる手順になっていた。
渡辺寛之はドリンクのみを注文し、ドリンク・バーから氷を入れたアイスティを席に持っ
てきた。この後のプログラムは、有留源一郎と関塚茂を待ち、三人で栃木県矢板市の高原
山に向かうことだった。関東を北上するトヨタワゴン・カルディナの運転は関塚茂の任務
だった。

 めぐみが運転する四六七号線藤沢方面に向かったトラックは、小田急江ノ島線桜ヶ丘駅
付近で泥荒を降ろした。泥荒は後ろの幌を開け、ザックと望遠付きデジタルカメラのセッ
ト二組を取り出し、幌をゴムバンドで閉めた。前の運転助手席のドアを開け、ザックとデ
ジタルカメラを渡辺真知子に渡した。そして自分用のザックを背負いカメラを首にかけ桜
ヶ丘駅方向に歩いていった。太陽がぎらついているので野球帽をかぶった。

 泥荒は桜ヶ丘駅から鈍行の小田急江ノ島線町田行きに乗った。町田駅から小田急小田原
線に乗り換える。泥荒は座間駅で降り、そこからタクシーに乗った。泥荒は富士山公園で
タクシーを降りると、一時間ほど公園の樹木などを撮影した。富士山公園の向こうは米軍
座間キャンプ基地だった。泥荒はそこで渡辺寛之と同様にザックを開け、おにぎりを食べ
る。ザックの中から這い出してきた新昆類は座間キャンプ基地が出す電磁波に反応し、草
むらのなかを基地の方向に蠢いていった。

 白い帽子の渡辺真知子がトラックから降りたのは、四六七号線と戸塚茅ヶ崎線の交差点
である藤沢橋付近だった。真知子は遊行通りを藤沢駅北口まで歩いていくと、江ノ電に乗
り鎌倉で降りた。そこでJR横須賀線に乗りJR横須賀駅で降りた。目の前はヴェルニー
公園で、横須賀本港の海が見えた。渡辺真知子は三十分ほどデジタルカメラで撮影すると、
樹の木陰の下で、ザックを開けおにぎりを食べた。海軍基地が出す電磁波に反応した新昆
類がナップザックから外に出てくる。沈黙の昆虫ウィルスを宿した生物兵器は夏草のなか
に消えていった。渡辺真知子は海を見ながらハンカチで顔に流れる汗を拭った。渡辺真知
子は白い帽子をとると、髪を潮風にさらした。気持ちがいいと真知子は感じた。渡辺寛之
の姉さん女房である真知子は五十四歳になっていた。子供はひとりだった。真知子と寛之
の子供は史彦で広島大学工学部の学生だった。ヒューマノイド専門課程を勉強していた。
史彦はひとりで山口県にある米軍岩国基地へのアタック、新昆類放出を寛之と真知子と同
じように決行するはずだった。真知子は史彦が心配だった。史彦は決行後、岩国基地から
有留一族の根拠地がある広島県広島市安佐北区白木町大字有留に帰還する手はずだった。
有留村にあるアジトこそ有留源一郎が経営していた有留鉄工所だった。大きな工場は今、
看板をはずし工場は閉鎖され鉄工の生産をしていないがその代わり新昆類が秘密に生産さ
れていた。

 史彦は二十歳だった。史彦は工場閉鎖された有留鉄工所から広島大に車で通学していた。
工場は史彦のヒューマノイド研究所へと変貌していた。史彦のヒューマノイド研究はコン
ピュータそのもののロボット化だった。言語の自動書記。ロボットが文章を書き、その文
章をメールとしてインターネットから携帯電話に無差別発信する。返信された人間のメー
ルからその人間の姿態をロボットが分析し、それに見合ったメールを返信するという実験
だった。携帯電話インターネットへのヒューマノイドによる介入である。ヒューマノイド
研究所へと転換された工場には、何台ものコンピュータがインターネットと接続されてい
た。コンピュータのキーボードを打っているのはヒューマノイドたるロボットだった。そ
のロボットは人間の手のみ模倣されていた。ロボットはパソコンによるあらゆるインター
ネット掲示板にも無差別に自動書き込みをしていた。それはヒューマノイドが文章のみに
よって人間と対話する実験だった。人間の自尊心をくすぐり喜ばせたり、人間を挑発し怒
らせたりしながら、ヒューマノイドは史彦の工場からインターネットに浸透していった。
そしてすでに株式市場にもヒューマノイドは介入していた。証券会社を挑発し株誤発注へ
と誘惑し、東京証券市場売買システムの弱点を突く工程だった。ヒューマノイドによる市
場数字の操作である。渡辺史彦はすでに個人投資家でもあった。

 有留村の住民からも史彦は源一郎の孫として認知されていた。村人はこの八月、源一郎
がまた旅行に行ったので孫の史彦が留守番をしていると思っている。鬼怒一族と有留一族
を継承する正統の血筋として、有留源一郎の記憶と財産を譲り受ける男が史彦であった。
有留源一郎が死ねば史彦が棟梁になることが約束されていた。岩国基地へひとりでアタッ
クすることは棟梁への試練でもあった。

史彦は鎌倉寺山猿の一群によって密かに守られていた。その頭こそラフォーだった。



 めぐみが運転するトラックは、藤沢橋を左折し遊行寺坂を上り戸塚茅ヶ崎線から横浜新
道に入り新保土ヶ谷ICから横浜横須賀高速道路に乗った。めぐみは横浜新道での渋滞か
ら解放され、一挙にスピードを上げる。目指すのは横須賀だった。昭和三十九(一九六四)
年生まれのめぐみは二十一世紀の今年四十一才になっていた。夫は五十三歳の関塚茂だっ
た。藤沢市鵠沼海岸に一戸住宅の中古を買って住んでいた。子供はふたりだった。ふたり
とも娘だった。上の子は真由美、下の子は亜紀という名だった。真由美は高校を卒業する
と神奈川県庁に就職し基地対策課で働いている。米軍基地の情報は真由美から手に入って
いた。亜紀はコンピュータ専門学校に通っている。夏休みの亜紀は今、沖縄へと遊びに行
っている。海水浴などをしながら八月いっぱいは米軍基地周辺の情報収集と手ごろなアジ
トになる別荘を物色する役目だった。

 めぐみは横須賀ICから本町山中道路に乗り、JR横須賀駅沿いの一六号線に出た。ト
ラックは横須賀商店街手前で左折し三笠公園に入っていく。海には三笠記念艦船があった。
めぐみはトッラクを第一駐車場に止めた。一時間四百円で二十四時間の有料駐車場だった。
三笠公園は真夏のせいか観光客はまばらだった。すばやく有留めぐみはトラックの幌を開
け荷台のゴムバンドをはずし、三個のダンボール箱を前方から荷台の後ろに移動させる。
ダンボール箱のふたが開かないように貼ってあったガムテープを引き剥がす。公園の清掃
員が近くにいないことを確認すると、ダンボール箱をかかえ、トラック荷台後ろの草むら
に持っていった。そしてダンボールをひっくり返し、中から新昆類の群れを草むらに放し
た。幌が間昼間の死角となった。めぐみはその作業を三回反復すると、空になったダンボ
ール箱を荷台に戻し、濃い草色の幌を閉めた。そして公園の出入り口まで歩いていった。
公園前道路の向こうに「海軍さんのカレー」という食堂があったので、そこで食事をする
ことにした。

 三笠公園の東には米海軍横須賀基地があった。そして横須賀は米海軍原子力空母の母港
でもあった。ヴェルニー公園と三笠公園の二ポイントでの新昆類放出、三笠公園では三個
のダンボール箱から三百匹の新昆類が放されたことになる。昆虫ウィルスの宿した生物兵
器の母体は原子力空母に侵入し、アメリカ本土へと太平洋を渡航していくはずだった。原
子力空母の乗務員は五千人だった。毎日五千人の食事をつくる空母の厨房はどのホテルよ
りも巨大だった。ゴキブリが進化した新昆類はそこで繁殖するはずだった。電磁波に放射
されながら飼育され世代を更新してきた新昆類、米海軍原子力空母が出す電磁波環境のな
かで新世代が誕生するプログラムでもあった。

 横浜駅西口で渡辺真知子と泥荒をひろい、湾岸線から首都高速に入り、東北自動車道へ、
そして矢板ICで降り、高原山をめざす行程をめぐみはイメージしながら、「海軍さんの
カレー」の店で食事をした。外が暑いので冷えたビールを飲みたかったが、冷たいウーロ
ン茶でがまんをした。真夏の太陽に燃えたロードを南関東から北関東へトラックで走るの
は忍耐力がいる労働だったが、夜には高原山の麓でビールが飲めると楽しいイメージでお
のれを鼓舞した。




【第1回日本経済新聞小説大賞(2006年度) 第1次予選落選】

小説  新昆類  (38-1)  【第1回日経小説大賞第1次予選落選】

2006年10月31日 | 小説 新昆類
    7

 関塚茂が運転し有留源一郎と渡辺寛之を乗せたトヨタワゴン・カルディナは、矢板IC
を降り片岡から旧国道四号線を北上した。内川の橋を越え右折し木幡の集落に入り、木幡
神社の駐車場に車をとめた。三人は鬼怒一族が創建したのにもかかわらず、わざと坂上田
村麻呂とその系譜である源氏の神社である記録させてきた木幡神社の石段を上がっていっ
た。本殿の前で三人は拍手をひとつ打ち、ていねいに頭を下げた。

 木幡神社から旧国道四号線に戻ったトヨタワゴン・カルディナは、水田稲作の田園地帯
から矢板の町に入り左手にある矢板市役所と右手にある矢板小学校を過ぎていった。交差
点を直進して塩原町方面へと走る。商店街には人が歩いていなかった。真夏のゴーストタ
ウンのようだと渡辺寛之と関塚茂は故郷を感じた。

 左手に寺山修司寺へ行く道が見えてきた。渡辺寛之はその方向を感慨深く見た。郷愁が
胸をしめつけてくる。妹の恵子に最後に会ったのは昭和五十二(一九七七)年の東京、春
爛漫だった。

 寛之は中学一年から中学二年に進級する春休みにその寺を出て以来、一度も帰っていなか
った。妹の恵子とも高校生までは手紙を出し合っていたが、矢板市と広島市は遠すぎた。
寛之が広島の高校から東京三田にあるNEC工場に就職してからは、恵子との文通も途絶
えていった。恵子は矢板東高校を卒業すると宇都宮大学の教育学部に入り、寺山修司寺地
元の小学校教師となった。その後、京都にある真言宗智山派総本山智積院で修行した僧を
婿にとった。恵子の婿は渡辺日義を継ぎ檀家から寺山修司寺の住職となることを約束され
ていた。寛之は寺山修司寺に住む恵子に会いたいという慕情が沸き起こったが会わないほ
うがいいとすぐさま慕情を打ち消した。成人してから恵子とは昭和五十二(一九七七)年
の春、一度だけ東京で会ったことがある。恵子は二十歳だった。寛之は二十四歳だった。
突然、寛之の職場に恵子から昼休み電話がかかってきた。

「恵子です。東京に出てきたのでお会いしたいのですが、仕事が終わってから会えないで
しょうか?」

 寛之は一瞬言葉が詰まった。何年も聞いていない声だった。そして声は子供ではなく大
人の声になっていた。寛之が今何処にいるのですかと聞いたら恵子は神田神保町の古本屋
街にいるといった。書籍を探しにやってきたのだといった。いつ帰るのかと寛之が聞いた
ら上野駅発の最終でと恵子が答えた。午後は何処に行くのかと寛之が聞いたら恵子は、神
保町の古本屋街で食事をしてから日比谷公園に行ってみるつもりだと答えた。それなら午
後六時に上野駅の上野公園開札口前にある東京文化会館のホール入り口で会おうと寛之は
恵子にいった。上野なら帰る時間を気にしないですむと恵子は承諾した。

「わたしは黒いコートを着たシーンズ姿でメガネをかけています、お兄さんは……?」

 恵子が質問したとき、寛之は中学生のとき恵子と別れてからの年月で胸が詰まった。記
憶の重力だった。

「おれは緑色のジャンパーを着ている。わかるから大丈夫だよ」

 上野公園開札口を出てすぐ前の東京文化会館に行くと、黒いコートを着た娘が立ってい
た。上野公園入り口の歩道は春爛漫で桜吹雪が夕風に舞っていた。久しぶりと寛之は笑顔
でその娘の前に立った。恵子はみずみずしい大きなくりくりとした新鮮な目を開いて寛之
を見つめた。

「メガネをかけていないじゃないか」

 そう寛之が恵子にいった。
 
「だってわたし小学生のときまだメガネをかけていなかったから……」

「そうかぁ……会えて嬉しいよ、大きくなったなぁ恵子……」

「お兄さんも……」そういって恵子は肩掛けバックからメガネを取り出し顔にかけた。

 美しい女になったと寛之は恵子を見て思った。ジーンズの腰周りが魅力的だった。
 
 寛之と恵子はそして沈黙した。十一年ぶりの兄と妹の再会だった。ふたりは桜が満開に
なった上野公園を歩きだした。

 日比谷公園には行ってきたのかと寛之が恵子に聞いたら、探していた書籍がなかなか見
つからなかったので午後一時ごろまで神保町の古本屋街を歩いて、それから上野公園に来たと
恵子はいった。上野で美術館めぐりが出来て楽しい時間を過ごせたと恵子ははずむ声で話
した。寛之はそれなら日比谷公園で食事をしようと恵子に提案し、恵子がぜひともと承諾
したので上野駅に引き返した。山手線に乗り有楽町で降り、日比谷の森へと歩いていった。

 今夜の日比谷公園はデモ隊ではなく恋人たちが歩く青春のエロスが支配していた。
大きな公園ねと恵子がいった。向こうにレストランがあると寛之がいった。日比谷松本楼
の明かりが見えてきた。二人は松本楼の店に入っていった。そして窓の席に着いた。窓か
ら有楽町方向にビルの明かりが見える。寛之はハンバーグステーキでいいかと恵子に聞き、
恵子がうなずいたのでそれを注文した。さらにお酒は飲めるかと恵子に聞き、恵子がすこ
しならと答えたので、ワイン赤を一本注文した。

 二人はお互いを見つめ会いながら食事をした。そして寛之も恵子も言葉を探すかのよう
にワインを飲んだ。

「素敵なお店ね……お兄さんとこうして会え、こうしてお食事ができるなんて……
お寺からお兄さんが出ていったのは、わたしがちょうど小学四年生になるとき……」

「そうだったな、おれは広島市の中学校に転校して、見知らぬ土地で生きるのに精一杯だ
ったよ。まさかおれが捨て子だったとはな、その事実を寺山の親父さんから告げられたと
きはショックで打ちのめされたな。おれは塩原の炭焼きの子であると告げられ、本当の父
も母もおれが生まれてからすぐに死亡したという話には、自分の運命に仰天したよ、寺山
修司寺にやってきた源一郎おじさんがおれの唯一の親戚だったから、おれは広島に行くし
かないと理解するしかなかったんだ。寺山修司寺には二度と戻れないとおれは悟ったんだ。
だから広島に行っても、矢板のことは過去のこととして忘れようとした。恵子から手紙が
来たがあまり返事は出せなかった、悪いと思っている。広島の高校を卒業してNECの工
場に就職してからは毎日忙しくてな、大学卒のやつらに負けないためには仕事が終わって
も寮で電気通信の勉強もしなくてはならなかったしな、本当に恵子に手紙を書く余裕など
なかったんだ、わかってくれよ。東京で生き抜くためには、過去を切って捨て、明日へと
前進していく闘争心がないと敗北してしまうんだ。会社は今、コンピュータ事業に向かっ
ているし生き残りが工場でのスローガンなんだ。学習しない者は敗北してしまうんだ、ま
るで戦争だよ。矢板はおれにとってもう過去の共同体なんだ。東京で生き抜くためには過
去の共同体を切り捨てながら戦闘していくしかないんだ。今、会社で奨励されている職場
学習文献はクラウゼヴィッツの戦争論なんだ、おれは岩波文庫に赤線を引きながら学習し
ているよ。会社はコンピュータ事業についてこられない社員はいらないという組織方針だ
から、たいへんだよ」

 寛之はワインを飲み干しながら一気に話した。
 
「たいへんなのね……戦争論なんてまるで新左翼の革命運動みたい」

 恵子がそう応えたので寛之はほんとだと笑った。恵子も笑った。
 
「恵子は何の本を探しに東京に来たの?」
 寛之が聞いた。
 
「田中正造に関する本を……今、栃木ではブームなの」
 恵子が答えた。
 
「足尾鉱毒事件で天皇に直訴した政治家だよね」
 寛之が質問すると、恵子がうなずいた。
 
「栃木県の近代史に興味があるの」
 だから田中正造なのかと寛之は納得した。
 
「古代には興味がないのか? たとえば寺山修司寺の歴史とか……」
 寛之は恵子の表情を読み取りながら質問した。
 
「矢板の郷土史も勉強するつもりよ、わたしお父さんと同じように学校の先生になるつも
りだから」
 恵子が答えた。目標がある人間で安心したよと寛之は笑顔で同意した。
 
「寺のお義父さんとお義母さんは元気なのか?」寛之が聞いた。

「ええ、元気よ」と恵子が答えた。安心したよと寛之はワインを飲んだ。

「捨て子のおれを戸籍に入れたままにしていてくれていることには感謝しているよ。
寺のお義父さんとお義母さんに応えることは、おれがしっかり生きていくことだと思って
いるんだ」

 寛之が話すと恵子は、お父さんもお母さんもわかっているわ、兄さんの様子は手紙で有
留源一郎さんからそのつど知らされてきたから、寛之は一生懸命がんばっているといつも
お父さんにわたし聞かされていたわと寛之に伝えた。

 時刻は日比谷松本楼の閉店、夜の九時に近づいてきた。お客が帰りはじめたので寛之は、
レジで清算をしに立ち上がった。二人は松本楼の店を出て、暗い日比谷公園の森を歩いて
いく。ベンチには熱い恋人たちが溜息を外にだしながら抱擁している。日比谷はすでに恋
人たちの逢瀬の森だった。夜の恋人たちのなかを歩く恵子と寛之はいつかその雰囲気に呑
まれていった。恵子が寛之の手を握り頭を寄せてきた。酔ったみたいと恵子が吐息を出し
た。森は春爛漫、花と若葉の生殖の匂いに包まれている。

 ベンチに座りたかったがすでにそこは恋人たちに占領されていたので、
寛之は恵子の手を握り樹木の中へと入っていった。

 寛之は恵子のからだを抱きながら樹木の幹に押し付け、その唇を奪おうとした。いけない
…と恵子がささやいた。わたしたち兄と妹なのに…そう恵子は顔を横にずらした。

 月明かりに恵子の髪が白い顔にかかっている。髪のあいだから見える紅い唇がふるえてい
る。寛之は恵子のメガネをはずし彼女のコートのポケットの中に入れた。そしてきれいだ
よと恵子の耳にささやいた。

「おれはもう寺に生涯帰ることはない、だからおれと恵子はもう兄妹ではないんだ……」
 寛之は息で恵子の耳に言葉を入れた。
 
「そんな…」と恵子が唇を拒否する身振りをしながら腰を寛之に押し付けてくる。
寛之はついに恵子の唇を奪った。甘い感触、そして恵子のからだから甘い香りが上昇して
くる。

「会いたかった……とても……」
 目を閉じた恵子のまつげが濡れ、涙が頬を伝わった。
 
「恵子…おれもだ」

 寛之は愛しさの海におぼれ恵子を強く抱きしめた。うれしいと恵子が歓喜の息をはいた。
 二人は日比谷の森を抜け、日比谷通りに出た。横断歩道を渡り、有楽町駅への道を手を
つなながら歩いていく。ビル街から春の夜風が恵子のコートを羽ばたかせた。恵子は立ち
止まった。

「寛之兄さん……」

「どうした?」
 寛之が振り向く。
 
「帰りたくない……」
 恵子は決意をこめて寛之に投げかけた。
 
「いいのか?」
 寛之が聞くと恵子はまっすぐ寛之の顔を見てうなづいた。
 
「おれのアパートに泊まればいい、汚いところだけど……」

 寛之は恵子の手を握ると恵子が強く握り返した。有楽町駅の時計の針は十時を刻んでい
た。

「五反田駅で降りるから……」
 寛之は恵子に行き先を告げ、切符を二枚買い、一枚を恵子に渡した。
 二人は有楽町駅から山手線に乗った。
 
「お義父さんとお義母さんは心配しないのか?」
 電車が動き出してから寛之は恵子に質問した。
 
「わたしは宇都宮大近くのアパートに住んでいるの、寺山からは宇都宮に通えないから。
今日は宇都宮に帰るつもりで東京に来たから大丈夫。わたし、もう二十歳よ」
 恵子が笑顔で答えた。そうか……と寛之はあらためて恵子を見た。
 
 二人は五反田駅で山手線を降り、地下鉄の都営浅草線に乗り換えた。行く先は戸越駅だ
った。地下鉄の戸越駅を降りると二人は東急線の戸越公園駅方面に歩いていった。

 戸越公園駅の踏み切りを渡り、商店街から右折し路地に入ると二階建ての木造アパートが
いくつも並んでいた。すこし歩くと桃源という中華料理店があった。その隣の二階建ての
木造アパートに寛之の部屋があった。恵子は寛之の後から階段を登った。ギシギシと音が
した。二階に上がり二つ目の部屋のドアを寛之はカギを回し開けた。部屋の蛍光灯をつけ、
入れよと恵子に云った。

 六畳の部屋には玄関口にちいさな台所があった。そして部屋の中央には電気コタツがあ
った。

「今、湯を沸かす、寒いからコタツをつけてくないか」
 寛之は恵子に云った。恵子は電気コタツのスイッチを探し、スイッチを入れると、本棚
にある本を見渡した。スチールの本棚がふたつあり、ぎっしりと本が並んでいた。電気通
信関係の本が多く、昆虫ゴキブリ生態学という変な本もあった。勉強しているのね、恵子
が云った。

「おれはウィスキーを飲むけど恵子はどうする」
わたしはお茶でいいと恵子は遠慮した。

 外は夜の春風が吹いている。ガラス窓が音を立てていた。寛之は恵子にお茶を出し、自分
はグラスにサントリーウィスキーレッドを入れ、お湯割りにした。恵子は寛之の顔を見て
いる。どうしたと寛之が聞く。恵子が顔をうなだれたとき髪が額から鼻にかかった。美し
いと寛之は思った。

「わたしね、大学を卒業したら結婚するの」恵子がぽつりとつぶやいた。

「寺を守るために、京都の総本山から修行僧をお婿さんとして迎えるの」
 恵子はおのれの定められた未来を語った。
 
「そうか……恵子もたいへんだな」寛之が同情する。

「実は……おれも結婚相手が決まっているんだ。広島の有留源一郎おじさんの長女で真知
子という人なんだけど、おれの年上なんだ。おれは有留の家で中学二年のときから育てら
れ高校も出してもらったから、有留の家に婿に入るようなもんだよ」
 今度は寛之が自分の定められた未来を説明した。
 
 いつ結婚するの? と恵子が聞いた。二年後、おれが二十六になってからだよと寛之が
答えた。

「わたしが結婚する時期と同じ頃に兄さんも結婚するのね」
 恵子は電気コタツのテーブルをうつろに見ながら暗い声で云った。
 
「おれは高原山奥で炭焼きをしていた原住民の捨て子だからな……
本当は中卒で社会に出なくてはならなかったんだけど、工業高校も出してくれて、NEC
にも就職できたしな、寺山修司寺と有留源一郎おじさんのおかげで生きてこられたんだか
らな、おれの結婚はご恩返しみたいなもんだよ、おれが源一郎おじさんの娘と結婚すれば、
寺山のお義父さんもお義母さんも安心してくれると思うしな、定められた運命にまかせる
しかないよな」
 寛之はお湯割りのウィスキーを呑みながら話した。
 
「重い運命……運命を裏切ったらどうなるのかしら……」恵子はお茶を飲みながら云った。
「運命を裏ぎる……考えたこともないよ」寛之はゆっくりとした口調で返した。

 ふたりはやがて無言になり、沈黙の時間に風が止まった。恵子はメガネをはずし電気コ
タツのテーブルに置いた。

「運命はつながらないのね」

  恵子がつぶやいた。ちいさな肩がふるえていた。その肩を寛之は抱きしめた。寛之は恵
子の体をゆっくり押し倒し、両手で恵子の黒髪を撫でながら、恵子の唇に自分の唇を重ねた。
春爛漫の若い女と男の肉体の饗宴の幕が切って落とされた。夜の帳が春の風に波打った。
恵子の選択は、寛之との一生の思い出をつくるためにあった。一夜の契りは情熱の実証と
なった。一夜の思い出を根拠地にして、女は生活者となって生涯を貫いていく。恵子の
覚悟の総量を寛之は理解できなかった。ただ恵子の服のボタンをはずしながら、脱がし、
恵子の甘酸っぱい愛の匂い、恵子の柔らかな弾んだ艶のある白い肉体に夢中となって、快
楽と身体共鳴感覚に酔い、恵子の中心への男根を挿入していった。恵子の透き通った肌に
は紫色の血管が脈を打っていた。

小説  新昆類  (38-2)  【第1回日経小説大賞第1次予選落選】

2006年10月31日 | 小説 新昆類
 ふたりはやがて無言になり、沈黙の時間に風が止まった。恵子はメガネをはずし電気コ
タツのテーブルに置いた。

「運命はつながらないのね」

  恵子がつぶやいた。ちいさな肩がふるえていた。その肩を寛之は抱きしめた。寛之は恵
子の体をゆっくり押し倒し、両手で恵子の黒髪を撫でながら、恵子の唇に自分の唇を重ねた。
春爛漫の若い女と男の肉体の饗宴の幕が切って落とされた。夜の帳が春の風に波打った。
恵子の選択は、寛之との一生の思い出をつくるためにあった。一夜の契りは情熱の実証と
なった。一夜の思い出を根拠地にして、女は生活者となって生涯を貫いていく。恵子の
覚悟の総量を寛之は理解できなかった。ただ恵子の服のボタンをはずしながら、脱がし、
恵子の甘酸っぱい愛の匂い、恵子の柔らかな弾んだ艶のある白い肉体に夢中となって、快
楽と身体共鳴感覚に酔い、恵子の中心への男根を挿入していった。恵子の透き通った肌に
は紫色の血管が脈を打っていた。

 寛之が恵子の乳首を唇と舌で吸ったとき、恵子の生命潮流である動物的本能が覚醒した。
恵子は初めて乳首を他者の唇で吸われた。乳首こそは生物本能の処女地だった。

 恵子の体に熱い血潮が底から上昇する。恵子の肉体は海流となり、海底火山が爆発へと
構え溶岩が火山口から溢れ出ようとしている。熱い溶岩こそ愛液だった。男と女は津軽海
峡だった。沈黙のなか、体は熱く燃えていた。指が曲線の山並みを愛撫していく。




 突然、寛之は「もし、子供が出来てしまったら」という恐怖に襲われた。脳細胞の奥か
ら、明日をシュミレーションする理性と論理思考の声がしてきた。あわてて、寛之は勃起
したきんたまを恵子のおまんこから抜いた。

「できない、おれにはできない、寺山修司寺のお義母さんとお義父さんを裏切ることは、
できない。もし恵子におれの子供ができたら、おれの二の舞だ。苦労を背負う子供にな
る」

 男が女とのセックスによせる恐怖はいつも妊娠への恐怖だった。男の精液と精子は
女の卵へと泳ぐ種だった。おのれの精液を女の子宮へと発射することに恐怖する、あら
かじめ男は見えない子供の誕生におのれの人生と未来が規定されていた。

 ムードをだいなしにして壊した、寛之の豹変に恵子は上半身を起こして怒った。
 
「わたし、帰る」

「こんな夜更けに、もう帰れないよ、恵子」

 恵子は黙っている。
 
「ゴムを買ってくる」
 寛之はパンツとズボンをはき、ジャンパーを着ると、サイフを手に持ち、木製のドアで
ある引き戸を開けた。そして階段を降り、ゴム草履をはくと、戸越公園駅商店街へと走っ
ていった。あの薬屋にコンドームの自動販売機があったはずだ。

 薬屋の自動販売機でゴムを購入した寛之は、急いでアパートの部屋に戻った。恵子はコ
タツに入り、横を向いていた。顔はうつむき、黒髪がかかっていた。黒いコートを羽織っ
ていた。その姿が寛之は美しいと思った。黙ったまま、勃起した男根に寛之はコンドーム
をかぶせると、再度、恵子のふるえる肩を抱き、恵子の紅い唇を吸った。そのままふたり
の上半身は畳の上に、ゆっくりと寝ていく。恵子は目をつぶったままだった。ただ寛之の
抱擁に身を託していた。運命を裏切る夜の儀式だった。かえってその不倫理がふたりを燃
えさせた。内なる肉体の氾濫、恵子は気持ちいい感官の旅に出た。夜の官能の音楽、肌の
調べ。男と女の肌の摩擦は熱帯のリズムとなっていく。ふたりは兄と妹、幼馴染だった。
倫理は肉体の饗宴とともに溶解し、夜の快楽の間口へと遊泳していった。

 恵子の処女膜は開いていった。「ウッ」と叫びながら寛之は、恵子のなかで精液を発射
した。恵子は涙を流していた。その涙の意味を理解することが寛之にはできなかった。い
つも男は女の肉体の前で幼かった。爆発のあとの虚脱を寛之は恵子の上で感じていた。

 寛之の重力を恵子は感じていた。いつか思い出の記憶の重力になるはずだった。寛之が
恵子のおまんこからきんたまを抜いたとき、コンドームの先に恵子が流した血が付着して
いた。

「血だ……」
 寛之は声も出さず言った。処女地が流した血だった。恵子が心配になった。

 寛之はテッシュで紅い血を流した恵子の中心部をテッシュでふきとった。恵子は恥ずか
しさに片手で顔をおおっていた。寛之は男根からコンドームをはずし、テッシュで包み、
ゴミカゴに入れた。恵子は泣いていた。その涙の意味を寛之は理解することができなかっ
た。

 寝よう、そういって、寛之は布団を押入れから出して敷いた。そして寛之は裸になった。
布団は一組しかないので、ふたりで抱き合って寝ることになる。恵子も裸になって布団の
上に座った。恥ずかしさに後ろを向いている。背中から腰に流れる曲線に寛之は魅せられ
ていた。なんという美しい曲線だろう。女の曲線は男を美の感動につつみこんだ。女の裸、
その後ろ姿には自然の曲線美があった。男の本能は女の曲線に敏感だった。女は男の気持
ちたる心を探ろうとする。男は女の外形たる曲線を指で探っていく。男はいつも女の裸に
は関心あるが女の心と感情には無関心だった。男は女の話が聴けない、女の感情を読むこ
とはできない。男は永遠に女が理解できない。日本の女は孤独だった。

 布団に入ってからも恵子は泣いていた。寛之は恵子の黒髪を撫でながら、腕枕をしてや
った。再び会い再び別れる重さが寛之の感情をつまらせた。寛之の目頭から涙が出てきた。
ふたりは泣きながら抱き合っていた。うしろを向いた恵子は、小さい声で、お願い入れて
…といった。

 兄さんのを中で感じたまま眠りたいの…と恵子は哀願した。寛之は半たちのきんたまを、
うしろから恵子のおまんこに挿入してあげた。恵子は背中で寛之の胸の筋肉を感じていた。
恵子の背中と腰、それを後ろから抱く寛之、その熱い血潮の肌と肌の間から高原山の若木
が芽を出す、緑の幻視を恵子は見ていた。エロスの樹木液、そしてそのまま恵子は宇宙銀
河を思い浮かべた。星と星は出合い別れていく。女の夢は液体だった。恵子の脳内から出
た睡眠薬が身体に回り、恵子はすやすやと安心して眠りに没入していった。恵子の睡眠音
その呼吸を聞きながら寛之も睡魔にゆだねていった。

 早朝五時、寛之の意識が起き出す前に、きんたまは意識とは無関係に朝勃起していた。
きんたまの朝立ちだった。恵子もまだ眠っているにかかわらず、クリトルスは勃起しめく
れあがり、おまんこは開いていた。潤滑油である愛液はそんつど奥から配給されていた。
寛之のきんたまは恵子のおまんこの中で固く膨張をはじめドクンドクンと血管から海綿体
にエネルギーが送りだせれていく。ピクンピクンと蠢動している。きんたまの自立起動は
寛之が人間であるまえに生き物、動物である証だった。恵子のおまんこも寛之のきんたま
の固い膨張にあわせ、開いていく。ピクンピクンと律動していく。愛の性器官はそれ自身
が中枢回路を持ち、脳細胞からどんな麻薬もかなわない快楽物質を分泌していた。

 眠っているにもかかわらず寛之と恵子の腰は和太鼓のリズムのように、いつのまにか律
動していた。きんたまが精液を発射する寸前で、寛之は目を覚ました。あわてて寛之は恵
子のおまんこからきんたまを抜いた。そして恵子の白くまるいおしりに精液をぶちまけて
しまった。恵子のおまんこはピクンピクンと律動している。恵子はまだ眠っている。寛之
は、テッシュで恵子のおしりにかかったおのれの精液をふき取った。そしておのれのきん
たまも拭き、その上からコンドームを被せた。出勤前の朝の愛の営みが始まった。恵子も
寛之の唇と愛無で眠りから起きだした。夜よりも激情な朝の真具合、男と女の摩擦は太陽
よりも熱があった。こすれ合いを愛液が満たしていった。寛之のきんたまは恵子のおまん
こに吸引され、寛之は恵子の宇宙のなかを遊泳していった。肉体の結合に壁は溶解してい
った。どこまでも深い愛の海綿体宇宙だった。


 寛之と恵子は一緒にアパートを出た。戸越駅から五反田駅まで地下鉄に乗り、五反田駅
で上野行きの山手線に乗った。通勤電車は混雑していた。離れまいと寛之はしっかりと恵
子の手を握っていた。とうとう電車は、NEC工場がある田町駅に着いてしまった。元気
でな、寛之は恵子を励ましながら手を強く握った。恵子は寛之をしかっり見つめていた。
そして手を離した。ドアが開き朝の戦争、労働者階級が外へ波のように押し出てくる。恵
子の視線は一心に寛之の背中を追いかけていた。

 電車は田町駅を離れ浜松町駅へと滑走していった。さようなら、恵子は心の中で叫んで
いた。わたしは思い出を体のなかに入れ、大人の女になった、何があろうと、運命がつな
がった一夜の思い出を根拠地にして生きていける、そう恵子は強い心で思った。一期一会
という言葉は恵子にとって肉体の思想となった。故郷が思想であるように……寛之に上か
ら抱かれた重力は記憶の物質となった。



 運命……あのとき確か恵子はそう云っていた。重い一九七七年の再会だった。寛之は車
のなかで煙草を吸いながら過去の妹と対話していたが、目の前にそびえる高原山に心が高
揚しおれの出自とおのれの運命を再確認した。おれは高原山の鬼怒一族なのだと……

 関塚茂が運転するトヨタワゴン・カルディナは塩原町との境界付近で山縣有朋記念館へ
の道へと左折した。山縣有朋記念館が広大な山縣農場の中に見えてきた。そこは伊佐野と
呼ばれていた。後ろの席では有留源一郎が眠っていた。高原山に太陽が沈み真夏の夕焼け
が空を燃やしている。

「篠原も畑となる世の伊佐野山  みどりにこもる杉にひのきに」山縣有朋

 山縣農場は明治十九(一八九四)年、山県有朋に明治政府から格安で払い下げられた場
所だった。明治維新政府は全国の山地を収奪し、それを天皇と維新軍閥がおのれの私有地
にしていった。

 平成十七(二〇〇五)年に有留源一郎は栃木県矢板市高原山ふもとにある山縣農場の四
百ヘクタールのうち、百ヘクタールを買収することに成功していた。農場といってもほと
んど山林だった。買収の資金は有留一族が古代から鎌倉寺山の隠し場所に蓄財してきた黄
金色の金だった。

 車は上伊佐野から下伊佐野に抜け、高原山の山林に入った。そこはもう有留源一郎が山
縣農場から買収した土地だった。

「車を止めるのじゃ」と有留源一郎は関塚茂に命令した。

 トヨタワゴン・カルディナは高原山の山林に止まる。
「降りるのじゃ、高原山の猿王トネリがワシらを待っている」有留源一郎が壮言な声で命
令した。三人が車から外へ出ると、猿の群れが山林から姿を現した。前に進み出た老猿は
かつてのトネリだった。

「約束は守られた。よくぞ高原山に帰還した。紹介しよう。我の後を継ぐディアラフォー
だ。我が亡き後はこのディアラフォーが、お前たちを守る」

 トネリは阿頼耶識において有留源一郎の意識化の意識に告げた。
 
 有留源一郎はしっかりとトネリの横にいるディアラフォーの雄姿を見た。猿の戦士の風
格がディアラフォーの頭上にあった。猿の群れを前にした寛之の脳裏に、中学二年になる
前の早春、寺山修司寺を去ったときの記憶の重力が起動した。関塚茂は有留源一郎と寛之
の後ろで呆然と猿の軍団と対峙していた。

 有留源一郎は両手の指で結界をつくり、意味不明の言葉を発した。
 
「ひえだみくりや、ひえだみくりや、でぃあらふぉー、うがんせん」

 疾風のように猿の軍団は消えていた。残響は山林の静寂のみだった。

 高い樹木に囲まれた山道、脇道へ入ると、別荘のような建物があった。車はそこで止ま
った。車から降りた関塚茂と渡辺寛之、そして有留源一郎はゆっくりと建物の中に入って
いった。後からここへ、関塚みどりが運転し泥荒と渡辺真知子を乗せたトラックもやって
くるはずだった。高原山の麓で2015年体制への準備が開始され、静かにもうひとつの
日本が進行していた。建物のなかの一部屋はもちろん新昆類の新世代が蠢いている蚕場で
もあった。新昆類の羽は閉ざされた部屋から新世界に飛び出したくてうずうずしていた。
台所では関塚茂とめぐみの長女、真由美が夕食を作っていた。真由美は神奈川県庁の仕事
を有給休暇で休み、一足先に別荘に来ていた。



【第1回日本経済新聞小説大賞 第1次予選落選】

小説  新昆類  (39) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】

2006年10月31日 | 小説 新昆類
    8

 その年の十二月中旬、日曜日だった。渡辺寛之は朝から別荘の書斎でパソコンのキーボ
ードを打ちながら、「ウィルス・イデオロギー」の続編である「ヒューマノイド経済原論
」を執筆していた。それが完成すればインターネットに流し、自民党・民主党・公明党に
よる連立政権を撹乱させるはずだった。連立政権を裏で支えていたのは、今や日本のマフ
ィア暗黒王となった創価学会のフリーメーソン池田大作だった。池田大作はフリーメーソ
ン中国政府とも通低していた。地球を支配しているイルミナティは日本をアメリカの属国
のまま中国の属国にまで転位させようとしていた。

 真知子は朝、泥荒を矢板駅までワゴン車で乗せていった。帰りも車で迎えに行くからと
真知子は云ったが、いや別荘まで歩いて帰るから大丈夫と泥荒は真知子の申し出を断った。
泥荒の今日の予定は矢板駅からおのれが小学三年まで住んでいた増録をめざし歩いて行き、
増録の現在の外形を体感で探るのことだった。すでにディアラ神社がある増録の山は、矢
板の扇町にある小堀建設産業から真知子が買い取っていた。その山はかつて泥荒の祖父で
ある寛の山であったが、寛が脳卒中で死んで、遺産を相続した寛の長男であるマサシが矢
板の斉藤住宅産業に売ってしまった。斉藤住宅産業は小堀建設産業に転売した。

「神が住む山を売る者は地獄に落ちる」

 そのような昔からの言い伝えが豊田村にあった。
 
 山をまるごと売ったマサシは、やがてマサシの長男の代になって田畑も借金で取られて
しまった。ノブは寛の次男であったが、マサシに寛の山と田畑の遺産が移譲されたとき、
ノブには一銭も分けてもらえなかった。寛が死んだあと、ノブの母トキがやってきてノブ
はトキの要請どおりに黙ってハンコを遺産相続放棄の書類についた。トキはそれから数年
後に亡くなった。

 八十四歳になったマサシは昨年、突然狂乱し、寛が生前使用していた猟銃を押入れの奥
から取り出し、家族を皆殺しにしてしまった。マサシは家族全員を銃殺した後、豊田の家
から増録に続く山に入っていった。そして昔、ノブとテルが開墾した日向山の窪地にやっ
てきた。そこはすでに小堀建設産業の資材置き場となっていた。重機が置いてあった。マ
サシは重機めがけて猟銃を発射した。弾丸は重機の鋼鉄に跳ね返り、マサシの脳天を貫い
た。その事件は全国のニュースとなった。豊田村は謎の家族皆殺し事件の報道現場となっ
た。東京からあふれるほどにテレビ報道クルーが押し寄せてきて、豊田という固有名詞は
毎日テレビで報道された。そしてテレビ報道クルーは一週間で去っていった。それ以降、
豊田はテレビに出ることはなく、テレビの報道と視聴者の関心は名古屋で起きた次の家庭
内殺人事件へと乗り換えていった。

 小堀建設産業は増録の山を、成田村の道路から入れる場所に宅地開発したが二軒しか土
地が売れなかった。増録村沿いには二軒の別荘を建てて売ろうとしたが、そこも売れなか
った。どうするか困っているときに真知子が会社に現れた。山全体を買いたいというので
最初は無理だとていねいに断ったが、真知子が示した買取価格に魅せられ、売ることを承
諾した。なによりも不況で仕事が縮小していたご時世に、運転資金としての現金が欲しか
った。昨年は六本木ヒルズの最上階にかまえる巨大外資のゴールドマンサックスから山全
体をゴルフ場として開発したいという企画が持ち込まれ歓喜していたたのだが、マサシの
家族皆殺し事件によって場所のイメージが落ち、ゴールドマンサックスからは企画が中止
になったとファックスが入り、小堀建設産業は落胆していた。それが今年になって真知子
の話がやってきた。地方は不況で荒廃し、何よりも銭という現金を求めていた。

 小堀建設産業は足利銀行矢板支店が角にある旧国道四号線の交差点からJR東北本線を
渡る陸橋の手前にあった。そこは昔、増録から引っ越してきた泥荒の家族が住んでいた長
屋があった。鉄道を越えた西側につつじで有名な長峰公園があった。貸し長屋の所有者は
旧矢板高校近くに住んでいた地主だった。昭和五十二(一九七七)年、大家さんは貸し長
屋の土地と建物を小堀建設産業に売った。そのとき貸し長屋には四所帯が住んでいた。泥
荒の家族は一番端の西側に住んでいた。長男のトモユキ、次男のヨシヒコ、妹のジュンコ
は矢板を出て東京・神奈川で働いていた。テルもNTTの電話交換機を作っている大興電
器の那須工場で臨時工として働いていたが、そこを突然、解雇されてしまった。

 テルは矢板にいてもしょうがない南に行けば運が開けると横浜市戸塚の笠間町にあった
ちいさな平屋の貸家に住んでいたトモユキとヨシヒコを頼り、そこから住み込みの家政婦
の仕事を見つけた。トモユキは笠間町から新橋にある印刷所に通勤していた。ヨシヒコは
兜町の証券会社に通勤していた。ジュンコは東京大田区蒲田にある病院に住み込みで働い
ていた。

 矢板の貸し長屋に残っていたのは泥荒のみだった。泥荒は矢板小学校前にある塗装店で
働いていた。ノブは箒川野崎橋手前にある佐藤病院の精神病棟に入院していた。貸し長屋
の解体が決定され、小堀建設産業から退去するように貸し長屋に入居しているそれぞれの
家族は通知された。泥荒は居住権があると最後まで抵抗した。建設重機は泥荒が住んでい
た部屋だけ残し無残に屋根から壊した。一ヵ月後、最後まで居座った泥荒は、とうとう長
屋から強制的に追い出され、タンスや家財道具などはすべて重機によって破壊され燃やさ
れてしまった。記憶ある物はすべて消却されてしまった。解体と廃棄の現場には、何故か
矢板警察署からも警官が十人も出動してきた。警官は小堀建設産業が無事、解体工事がで
きるようにと阻止線を張った。やめろやめろと小堀建設産業の人間を争いのとき殴ったの
で泥荒は矢板警察署の留置所に違法占拠と傷害罪容疑でぶちこまれてしまった。社会問題
化を恐れた小堀建設産業は泥荒への告訴を取り下げた。

 泥荒が処分保留で留置所から出てきたとき、かつてあった長屋の記録は完全に消却され、
更地にされ黒いアスファルトが舗装されていた。ちくしょう、今にみていろと泥荒の体に
憎しみの赤い怨念の水が沸騰した。警察沙汰を起こし、下野新聞と栃木新聞に実名で逮捕
された報道が載ってしまったので、塗装店からも解雇されてしまった。

 そして泥荒は矢板を去っていった。横浜戸塚の笠間町に住んでいた兄のところにころが
りこむしかなかった。テルはノブを矢板の佐藤病院から横浜港南区にある日野病院に移す
手続きをした。テルに命じられた泥荒は再び矢板に戻り、佐藤病院からノブを退院させ、
横浜に連れてきた。そしてノブの牢獄は矢板から横浜市港南区の日野病院の精神病棟とな
った。解体され更地となった場所には、三階建ての鉄筋コンクリートによる構造物が建っ
た。新装移転された小堀建設産業の本社だった。

 兄たちのところに居候しながら、泥荒は仕事を探した。横浜市戸塚職業安定所での職探
しの帰り、戸塚駅東口の商店街の路地にあるパチンコ屋でパンチコをしていたら偶然、関
塚茂に出会った。関塚茂は泥荒の事情を聞き、ペンキが塗れるんだからこっちでも塗装の
仕事がいいと戸塚にある前田塗装店に紹介してくれた。

 泥荒を矢板駅で降ろした真知子は、山縣農場の隣にある山林の別荘に戻ってきた。車か
ら降りて、別荘の裏に作った小屋に行くと、新昆類は冬眠中だった。しかし夜、動き出す
新昆類もいるので野菜屑のエサは用意してある。小屋は新昆類が外と中を出入り自由にで
きるようになっている。渡辺寛之のプログラムは新昆類の野生化にグレードアップしてい
た。別荘の部屋から新昆類を山林に放ったのは今年の九月だった。そして新昆類の餌場と
して別荘の裏に小屋を建てたのである。建てたのは泥荒だった。山林に飛んでいった新昆
類は小屋の中で電磁波を発射すると、それに反応して小屋に集まってきた。

 小屋の様子を確認してから真知子は別荘に入り、紅茶を二階の書斎で仕事をしている寛
之のところまで運んでいった。昼の食事を準備するにはまだ時間がある。下に降りてきた
真知子は台所のテーブルに下野新聞を置いて、自分の紅茶を飲んだ。キッチンが真知子の
書斎だった。東窓から十二月の陽光が部屋にそそいでいる。林が風に揺らいでいる。真知
子は静かな別荘の生活に満足していた。父の有留源一郎は広島に帰っている。親戚のめぐ
み夫妻は鵠沼海岸で元気に仕事をしていることだろう。正月には真知子の息子で、有留一
族と鬼怒一族の次期棟梁である史彦も源一郎と一緒にここに帰ってくる。めぐみとその夫
である関塚茂、その娘たち真由美も、沖縄で夏を過ごした亜紀も帰ってくる。真知子は来
週になったら正月用の買出しに行こうと思った。
 
 真知子の運転で車に乗せてきてもらった泥荒は、矢板駅西口で車から降り、鉄橋を渡り
駅の東口に出た。末広町は再開発された街となっていた。昔、ここは日本通運の倉庫があっ
た巨大な敷地だった。矢板の農業や工業の産物はここから鉄道の貨物車によって運び出さ
れていた。しかし物流は鉄道から舗装された道路を走るトラックへと転換されていった。
その昔の面影は全部消却されていた。ただ大きな道路と区画整理された、どこにもあるよ
うな東京郊外の画一化された駅前と街になっていた。土建造成の実験場こそ故郷の壊れた
風景だった。家も土地もない借家住まいの人々は区画整理で追い出されていった。区画整
理に反対する人間は、街の発展を阻害する人間と認知されこの街から追放されていった。
批判とは近代の所産であるが、故郷とは批判を許さない全体主義に彩られた経済のみに唯
一の価値観があった。矢板駅東口、昔の末広町の記憶は壊滅していた。

 泥荒は庶民の生活歴史ある街の営みと空間を区画整理で全面的に東京郊外の画一化され
た風景へと変貌させる造成思想に恐怖した。藤原不比等の造成による律令制度が全面展開
されている冷ややかで非人間的な空気が沈殿している。アメリカに突きつけられた公共事
業による内需拡大、六百四十兆円、九十年代初期から中期に展開された大規模公共事業の
ひとつの風景がここにあった。国と自治体に積みあがったものは千兆円の借金のみである。

 泥荒は駅の東口から造成変貌した新しい街を歩いてみた。泥荒が毎朝毎夕、中学生の頃、
読売新聞を配達をしていたときの昔の末広町は何処を探しても皆無だった。

 矢板駅から百メートル
北方向に矢板の主要商店街と末広町を結ぶ踏切があった。そこから道路は沢から西豊田を
えて佐久山に至る道と、中村を通って成田に出て、増録の山を迂回し矢板市喜連川町の境
にある河戸を通り喜連川に至る道路があった。増録へ行く道こそに末広町の商店街があり
町の幹線道路だった。その道は旧矢板高校に通学する道であり、朝と夕べは高校生たちで
にぎわっていた。踏み切りの近くに理髪店があった。泥荒がある日、夕刊をその理髪店に
配達すると、そこで働いている若い女の人が、いつもごくろうさまと紅いリンゴひとつを
プレゼントしてくれた。泥荒はありがとうございますと云って、その女の人がくれたリン
ゴを夕刊配達が終わって、妹ジュンコと食べたことがある。おいしいリンゴだったがそれ
よりも人の温もりある情が中学生の泥荒はただ嬉しかった。その頃、人間と街と道は人が
歩き活気に満ちていた。いつも夕刊配達すると赤いセーターを着た女の子が出迎えてくれ
る家があった。今はなき秋木工場の前の家だった。夕刊配達のある日、末広町のバス亭に
増録村のマサちゃんとマサちゃんのお母さんが立っていた。増録村に入る停留場の宮田を
通る、「喜連川行き」の東野バスを待っていた。泥荒はなつかしさに胸を躍らせ、二人に
挨拶をした。挨拶してくれたマサちゃんとマサちゃんのお母さん、あの暖かく明るさに満
ちた笑顔を泥荒は生涯忘れいだろう。矢板を去ってからも、泥荒はよく末広町を新聞配達
している夢をよく見た。配達する家を忘れる夢は、俳優が舞台でセリフを忘れてしまう脅
迫観念の夢と同じだった。

 今、末広町は全面的に改造されていた。よそよそしいスタイルとポーズの偽装され捏造さ
れた構造が表層に漂っている。その深層にあるのは空洞である。区画整理というデスワー
クの設計思想はまるで全体社会主義国家のなせる業でもあった。二十一世紀の故郷は、歴
史が消却された間のヒューマノドの街へと変貌している。車が道路を疾走するばかり
で死んだ街になっている。九十年代に区画整理して大変貌した末広町、そして人は誰も道
を歩いていない。歩いているのが泥荒のみだった。もはやここで街を歩く大人は異邦人と
認識されてしまうのかもしれなかった。人が街の道を歩くのは自然であり、そこに店があ
り消費経済が生成する。歩行は経済の原点だった。末広町は車の町となり、そして道には
誰もいなくなった……人間の顔が見えない故郷に変貌していた。都市以上のよそよそしい
冷たさがあった。温もりが消え淋しい孤独な光景は歴史が消却された舗装の装いにあった。

 泥荒は踏み切りを渡り、矢板駅西口方向にある扇町の商店街を歩いてみようと思った。
踏み切りで初めて向こうから歩いてくる人間に出会った。十代の女の子だった。歩いてい
るのが十代の人間のみというのは、商店街の消費者はわずかな中学生か高校生のみではな
いか? と泥荒は思った。大人は家でテレビを見ているだけなのだろう。扇町に出るとこ
ちらの地域は区画整理という大改造がされなかったので昔の面影がそのまま残されている。
しかしいたるところで店は廃業し、看板は壊れたままで放置され店の廃屋がそのままにな
って虚無の匂いがする商店街になっている。ここも壊れた風景だった。大人はいつのまに
か道を歩くことがない慣習が形成され、商店街は廃墟となりゴーストタウンになる。区画
整理され全面的に変貌した末広町と昔のままの扇町は光景落差に歪んでいた。光景の落差
に通低していたのは黒い空洞だった。街は洞窟の墓、祠だった。理念が喪失し空洞のまま
横たわっているのは、故郷が批判する者を壊滅し街から追い出したからではないか? 泥
荒はそう思った。

 泥荒は扇町の商店街から再び踏み切りを渡り、矢板駅東口から駅前添えにある南北に造
られた新しい大きな道路を南へと歩き始めた。歩行者のためのゾーンはあったが車両が往
来するための道路である。大人は誰も歩いていなかった。歩くものは車を私有していない
貧乏人の象徴としてここでは認知されるのだろう。道路を造る土建屋経済の成れの果てだ
と泥荒は区画整理され造成された末広町を歩きながら思った。左手西側に日本たばこ産業
株式会社の倉庫があった。矢板はたばこの葉の生産地でもあった。昔、増録にあった寛の
隠居屋敷の奥に住んでいたとき、寛はたばこの葉を乾かすため、泥荒の家族が住む部屋ま
でタバコの葉をつるした。天井はたばこの葉だらけとなり、その下で飯を食った。寛はた
ばこの他に椎茸も増録の山林で生産していた。そして趣味は鉄砲撃ちだった。山に入り猟
銃による獣狩りだった。日本たばこ産業の倉庫を過ぎると交差点があった。そこを左折す
ると泥荒が卒業した旧矢板高校がある。今の名称は矢板東高校である。その高校へ行く道
は造成された道路から行けるようになっている。全ての環境と風景が捏造されていた。日
本たばこ産業の近くにあり、ベニヤなどを加工していた秋田木材の大きな工場は閉鎖され
て消却されていた。その巨大な敷地には宅地造成され東京郊外の邸宅の街並へと画一化さ
れている。

 泥荒は三十年ぶりに旧矢板高校の校庭を歩いてみた。まだ昔の面影が残っていたので安
堵した。校庭には生徒が誰もいなかったが体育館からはバレーボールを練習する女子生徒
の声が聞こえてきた。泥荒は昔、旧矢板高校に教室の黒板塗りの仕事で来たことがある。
それは緑色の黒板用塗料を下地を紙やすりで滑らかにした後、塗る仕事だった。昭和五十
一(一九七六)年の秋だった。生徒の授業がない土曜の午後から日曜にかけての仕事だっ
た。泥荒は旧矢板高校の校庭を横切り門から外の道路に出た。その道路は三十六年前に誘
致されたシャープ早川電器の工場裏に続く道だった。矢板駅の北側にあった大興電器も工
場閉鎖されその巨大な工場敷地の跡には、中心を貫く道路が造成され光景は変貌した。故
郷では巨大企業の工場しか生き残れなかったのだろうか? 時代の変遷に故郷の思想も生
き残ってきたのであろうか? 故郷の思想とは何なのだろうか? 泥荒は抽象的なことを、
かんがえながら、シャープ早川電器工場裏に至る道路を横断し、東町の住宅街を通り抜け、
新国道四号線を横断した。この道は片岡からのバイパスとしてシャープを工場誘致したと
きに造成された道路だった。それが国道四号線となったのである。矢板の商店街を走って
いた幹線道路は旧国道四号線となった。


 泥荒は誰も歩いていない舗装道路を歩き中村へと入った。道路はやがて東北新幹線の下
をくぐっていく。田園から道は森林に入る。右手南側にゴルフ場アロエースの入り口門が
あった。ゴルフ場へと造成された山は多かった。昔、泥荒は二十代前半の頃、ひとりこの
山にキノコとりに入ったことがある。塗装の仕事が休みの日曜日だった。山はしかしゴル
フ場に造成される工事現場となっていた。それは畑の開墾ではなかった。山肌は重機の鋼
鉄の爪によってかきむしられ、赤土が噴出していた。それは山の赤い血だと泥荒は感じた。
木々がなぎ倒されている。無残な光景だった。無残に山の古よりの自然を壊滅して造成さ
れたのがゴルフ場アロエースだった。泥荒にとってゴルフ場の広大な緑の芝生は、ウソの
緑だった。捏造と欺瞞の緑色を泥荒は憎んだ。そこを通り過ぎると成田だった。増録が近
づいてきた。

 矢板駅から増録への道を歩いてきた泥荒に、昔あった宮田という東野バス停留場が見え
てきた。宮田は三叉路の角に昔あった。矢板から来た道は宮田で右折し矢板と喜連川の境
にある河戸に入る。宮田から左折すれば成田村沿いに行く道路だった。昔、増録村に入る
のは宮田から獣道の山を越え村に入った。山を降りたところに泥荒の祖父である寛の隠居
屋敷があった。増録村の人間は寛の隠居屋敷の庭を横切り、ディアラ神社がある山を越え、
宮田に出て、矢板行のバスに乗った。矢板から帰るときは矢板で喜連川行きのバスに乗り、
宮田で降りて山を越え寛の家の庭を横切り、家に帰っていった。

 寛はマサシに豊田の家と田畑だけ家督を譲ると、増録村に隠居屋敷を建て、よく遊びに
行っていた塩原温泉から、或る芸者をを妾として迎え入れ、その女と一緒に増録で暮らし
た。田畑は長男のマサシに譲ったが山だけは譲らなかった。妻のトキは豊田の家に置かれ
たままだった。豊田の家は百年の年季がある農家だった。調布市の都営住宅から、ノブと
テルは寛の隠居屋敷の奥に居候して増録で暮らし始めた。昭和三十一(一九五六)年だっ
た。寛の弟である廣次の後家に入ったミツ子に預けられていた泥荒も、テルが呼び戻し、
ミツ子に連れられ増録にやってきた。泥荒は初めて増録にミツ子に連れられ来た時のこと
を今でも鮮明に覚えている。

 廣次の家がある豊田から山に入り急な山道を登ると、高い樹木に覆われたなだらかな道
が東へと続いていた。山道から開けたちいさな盆地に出ると、田畑が北から南へと細長く
息をしていた。その西はまた山だった。ちいさな盆地は山に囲まれていた。豊田から開墾
で増録に居をかまえた作蔵さんの家の脇にある農道を西に進むと、山の麓に寛の隠居屋敷
がった。隠居屋敷は瓦屋根が寺のようにひさしが反り返っていた。豊田の地主であった寛
の見栄が主張されていた。隠居屋敷は東から西に作られ、庭を横切ると山に向かっていく。
増録の人間は寛の庭を横切って山を登り、矢板~喜連川の街道に出るのだった。山を降り
た三叉路の角に東野バス宮田停留場があった。そこからはもう成田村の豊かで広い田園地
帯だった。泥荒はミツ子に連れられ寛の隠居屋敷の庭を横切り奥に来た時、テルが喜んで
迎えた。あがれあがれと泥荒は家に上がらせられた。泥荒はすぐさま貧乏という崩壊の匂
いを部屋の暗さから嗅ぎ取った。廣次の家にある秩序がここにはなかった。泥荒の兄であ
る長男のトモユキと次男のヨシヒコがいた。ヨシヒコはノブの実家である豊田のマサシの
家に預けられテルに呼び戻され増録にきたばかりだった。トモユキはテルとともに調布か
ら増録にやってきた。テルがヨシヒコにおもちゃを与えてやれと命じた。ヨシヒコはおも
ちゃを探してきて弟がきたと嬉しそうに泥荒の手におもちゃを差し出す。泥荒をそれを握
ったが、ミツ子の行方が心配だった。いつのまにかミツ子は姿を消していた。泥荒は靴と
云った。泥荒のそばにいたヨシヒコが、おめぇの靴ならちゃんとあるから心配すんなと云
った。泥荒はなんとしても外に出てミツ子の後を追い、自分がいままで生活していた廣次
の家に帰りたかった。ここに置き去りにされることが意味不明だった。四歳の泥荒は新し
い家族の様子と周りを見ながら、ここから脱出する方法のみを考えていた。外でションベ
ン、と泥荒ヨシヒコに云った。泥荒は初めて生き抜くために人をごまかすことに成功した。
ヨシヒコは泥荒を縁側に連れていき、ほらあすこにあると泥荒の靴を指し示した。泥荒は
縁側を降り自分の靴を履いて外に飛び出した。そして泣きながらミツ子の後を追っていっ
た。泥荒の大きな泣き声は増録の盆地に響いた。それを聞いたミツ子は農道のところに立
っていた。ミツ子はしかたがなく泥荒を連れて廣次の家に戻った。廣次の家に戻った泥荒
はそこはもう自分が帰るべき場所ではないことを雰囲気で理解した。数日後、テルが迎え
に来た時、泥荒はおとなしく廣次の家から去った。増録という新しい環境に適応すること
が唯一の生存方法であると、泥荒に動物的本能の呼び声が内部から聞こえていた。

 増録で生活するようになって泥荒の遊び場は平地の田園から、冒険に満ちた山となった。
そして泥荒が五歳になったとき、妹のジュンコが産まれた。テルは矢板の町に日雇いの土
方の仕事に行っていたので、ジュンコのお守りは長男のトモユキがした。トモユキはジュ
ンコを背におぶり、次男のヨシヒコ、三男の泥荒はよく作蔵さんの家に遊びにいった。作
蔵さんの家にはミノちゃんとマサちゃんがいた。ミノちゃんはガキ大将として統率し、増
録の盆地を覆う山に毎日冒険をしに行った。ディアラ神社は増録の子供たちが遊ぶ中心地
となっていた。泥荒が小学三年になった二月、家族は寛の隠居屋敷の奥から矢板の町に引
っ越すことになった。貧しい家財を積んだリヤカーを引き家族は砂利道の街道を矢板へと
歩いていった。
 


【第1回日本経済新聞小説大賞 第1次予選落選】

小説  新昆類  (40-1)  【第1回日経小説大賞第1次予選落選】

2006年10月31日 | 小説 新昆類
  今の矢板~喜連川線の街道はアスファルト道路を乗用車が疾走するばかりで、バス路線
は廃止されている。昔はジャリ道が田園を貫いている道路だった。向こうから犬を連れ赤
い服を着た年配の肥えた婦人がやってきた。小堀建設産業が宅地造成した家の人間だった。
田舎の人間は犬を連れて散歩などしない。都会から移り住んだ女だった。泥荒は犬をなぜ
てやった。犬は喜んで尻尾をふっている。いい犬ですね、と泥荒は犬の主人にほめてやっ
た。年配の女は笑顔になり、今日は天気がいいですね、と無防備な姿で云った。空は群青
の日本晴れだったが、一筋の飛行機雲が見えた。ケムトレイルだと泥荒は判断した。こん
なところにも米軍は日本国民の身体抵抗力を弱めるためインフルエンザ物質を空から散布
している。日本は今もアメリカの占領地だった。西には高原山が雄大にそびえていた。何
をしに来たんですか? と無防備な女が聞いてきたので泥荒は写真を撮りに歩いているん
ですと答えた。女は笑顔だが不審のまなざしを隠さず、犬を連れて田園の舗装道路を歩い
ていった。

 三叉路の宮田から増録に入る山道はもうなかった。泥荒にとって増録の山に入るのは小
学生以来だった。泥荒はしかたがなく造成された家に向かった。家の横に舗装された増録
に入る道路があった。道路から泥荒は十二月の山の中に入っていった。山頂をめざしそこ
から峰伝いに歩いて行けばデイアラ神社があるはずだった。小屋のトタン屋根が見えてき
た。あれだと泥荒は確信した。藪を押しのけ泥荒はそこにたどり着いた。デイアラ神社だ
った。社である小屋の前はちいさな広場で高く広いイチョウの幹が相対で空にそびえてい
た。広場から細い坂道が街道に下りているが何年も誰もおまいりに来た形跡はなかった。
坂道の途中に鳥居があった。そこから古い注連縄が釣られていた。縄は雨風に侵食されそ
うとうに古くなっていた。参拝する細い坂道の両脇には高い杉の木が空に枝をつんざし呼
吸していた。空を仰ぐとき杉の枝に高貴な精神の営みがあった。植物情報体は山の精神を
守っていた。そこに精神史の記憶が現有していた。泥荒は坂道を降り成田村の街道からの
入り口のところにやってきた。入り口は笹で覆われていたが石があった。そこには「安永
九年干支庚子二十三夜供養」という文字が刻まれていた。泥荒は再び参拝の坂道を登り鳥
居の下で膝をおり正座をした。小屋の社殿に向かって頭を地につけ、お参りをした。

「帰ってまりました」

 泥荒の腹から胸にその音声なき言葉が響き渡り、脳波から言葉は社へと波動していった。
相対するイチョウの枝葉が風に踊り音をたてた。杉の枝からひとすじの陽光がそそいでい
る。植物情報体は何も云わなかったがひたすらデイアラ神社を守っていた。その品格ある
記憶の重力に泥荒は感覚の観応によって圧倒されていた。ここに日本があった。古の日本
があった。そして泥荒は鬼怒一族と有留一族の部族であった。その力によってようやくこ
の増録の山を矢板の土建会社から買い戻したのであった。

 泥荒は立ち上がり社殿の小屋の左側から再び山の藪の中に入った。そして先ほどの舗装
してある道に出る。そこを下ると増録のちいさな田畑の盆地が見えてきた。田畑は作蔵さ
んの田んぼだった。その手前に竹の林があり、竹の前には廃残物が落ちていた。泥荒の祖
父である寛の隠居屋敷の跡だった。昔、泥荒もここに住んでいたのだ。しばらく泥荒はお
の原点に立ち尽くしていた。廃墟の匂いは湿っていた。廃残物が四十六年前の記憶を呼び
戻す。泥荒の家族がこの原点から矢板の町に去ったのは、泥荒が小学三年の二月だった。
矢板の町の貸し長屋に引っ越してから一週間ほどたって、泥荒は兄と母に連れられ豊田小
学校に転校の挨拶にいった。級友が鉛筆をプレゼントしてくれた。泥荒はその暖かさが嬉
しかった。冬将軍の二月ほど人の暖かい春の灯火が感じられことを泥荒は始めて学んだ。
豊田小学校でクラスの仲間から学んだことが泥荒の原点となった。優しさである。

 宅地造成された家の方から土建屋の作業服を着た男が歩いてきた。

 小堀建設産業の人間だった。この山はすでに真知子の山として登記されているにもかか
わらずこの山に入っているのは、木を切り出す盗賊に来たのであろうと泥荒は判断した。
大不況のなか地方はすでに盗賊経済に突入していた。農協の倉庫からは大量の米俵が盗ま
れ、農家の倉庫からは農耕機械がまるごと盗まれていた。油断はできないと泥荒は思った。
牧歌的な田園の共同体はすでに崩壊し人心は荒廃していた。誰もが動物のハイエナのごと
く他人の財産を狙っていた。泥荒は小堀建設産業の人間にデジタルカメラを向け、風景を
撮るようにシャッターを切った。デジタルカメラの電子音が耳に響く。小堀建設産業の人
間は舗装された道路を引き返していった。

 田んぼの向こうに見える作蔵さんの家は昔と変わらなかった。作蔵さんの家の年配の女
の人がこちらを不審そうに見ていたので、泥荒は農道をまっすぐに歩き作蔵さんの家のと
ころまでやってきた。

「昔、増録に住んでいた泥荒です」

 泥荒が挨拶すると女の人はああと四十年前を思い出してくれた。彼女は作蔵さんの長男
の嫁さんだった。まもなく作蔵さんの長男であるノリオさんがやってきた。小柄なノリオ
さんはもう七十歳になっていた。作蔵さんとその奥さんはもう亡くなっていた。泥荒が子
供の頃よく遊んだひとつ年が上のマサちゃんは家の裏にある離れのプレハブ小屋に住んで
いた。ノリオさんの奥さんは起きているかどうかわからないと云った。いつも昼ごろ起き
だすとのことだった。マサちゃんの小屋の前に行くとマサちゃんが戸を開け顔をだした。
マサちゃんの顔は作蔵さんに似ていた。増録の子供たちが小学校に行き、まだ入学前でひ
とり増録に残された泥荒を相手にいつも遊んでくれたのが作蔵さんだった。遊び場は作蔵
さんの家の庭だった。マサちゃんはただニコニコなつかしそうに笑っていた。増録のガキ
大将だったマサちゃんの兄であるミノちゃんは、今、矢板の町の市営住宅に住んでいると
のことだった。

 泥荒はマサちゃんと別れ、子供の頃、豊田小学校へ通っていた道を歩いていった。とき
おり山の中に入り、山の状態を調べた。高原山の別荘に帰ったら、渡辺寛之と真知子に報
告しなくてならなかった。しかし山の調査は一日だけでは無理であった。今日は山道のみ
を確認すればいいだろうと泥荒は判断した。渡辺寛之が進めている新昆類のグレードアッ
プ、新昆類の野生化のためには、高原山に大々的に放すことはできない。高原山は観光地
化され、有留源一郎が山縣農場から買収した山地の隣は栃木県が管理する「県民の森」だ
った。そして高原山は矢板市の職員がそのつど管理のために入っている。まだ新昆類が行
政の人間に見つかってはならなかった。そこでこの増録の山が新昆類の野生化のための牧
場として決定されたのである。その新昆類家畜牧場計画の現場責任者こそ泥荒だった。

 泥荒は再び作蔵さんの家に行く東側の脇道まで戻った。そこから豊田にある廣次の家に
行く山道に入る。この山道は泥荒が四歳のときミツ子に連れられ、初めて増録に来た山道
であった。ミツ子と廣次は七十年代初期に亡くなった。真知子が購入した山は増録から成
田への西側の山であり、この増録から豊田への東側の山は他人の山である。その山は豊田
の人間がまだ持っていたが、いずれここも買収できれば、新昆類家畜牧場はより広大に展
開できると泥荒は判断した。静寂でなだらかな細い山道だった。そこから急な坂を下ると
広大な田園風景の豊田が見えてきた。

 泥荒はその昔、四歳まで世話になった廣次の家に寄ってみた。廣次の家に、廣次の娘で
あるトモちゃんの婿に佐久山から入ったカツトシさんがひとり住んでいた。カツトシさん
は泥荒に上がれとすすめ、お茶を出してくれた。廣次の家は寛の長男が継いだマサシの家
を本宅と呼んでいた。その本宅のマサシが一家皆殺し銃殺事件を昨年起こしたのである。

「本宅があんな事件を起こしてしまってなぁ……テレビで豊田も有名になってしまった、
ハハッハ……おら、外にも出ずひっそりと暮らしているだよ。おらもう八十歳だんべ……
女房のトモエも二十年前に死んでしまってなぁ……長男のトシオは十年前にトラックで交
通事故を起こして死んでしまったし…トシオの借金一千万がおらの肩にのしかかってきた
っぺ……おら、やっとこさ、その借金、払い終わったとこだんべ……おらの人生、何もい
いことながったんべよぉ……しかしよぉ、おらぁ、土地だけは意地でも売らなかった。百
姓が田んぼや山を売れば地獄に落ちる……本宅がいい見本だんべ……それにしても本宅の
マサシさんは何であんな事件起こしてしまったんだんべ……」

 カツトシさんは、お茶をすすりながら話した。カツトシさんの楽しみは嫁いだ長女のヨ
リコと次女のキミコが子供を連れて帰って来てくれることだった。泥荒は今来た山道、増
録の西側から豊田にかけての山の所有者を教えてくれと聞こうとしたが、いきなりそれは
まずいと判断し、聞くのをやめた。その代わり、どうも子供の頃はお世話になりましたと
頭を深く下げ感謝の礼をした。カツトシさんは笑顔だったが、何故、泥荒が突然訪問して
きたのか不審の目をしていた。カツトシさんは八十歳には思えぬほど意志力がみなぎり身
体からは垂直の背骨を感じさせた。泥荒はこれからカツトシさんの家族の墓参りをして矢
板に帰りますと云って、玄関を後にした。そしてふと、あの山の一部の所有者にカツトシ
さんもなっているかもしれない思った。

 廣次のあとを継いだカツトシさんの家から泥荒は北へと歩いていった。豊田集落を北から
南へと貫く道路だった。太陽が昇る東側を見ると田園のなかに那須与一を祀った湯泉神社
があった。湯泉神社は那須国の神社だった。新しく建て替えられたばかりだった。泥荒の父
ノブの兄であるマサシの家は没落し壊滅していったが、この集落は金を持ってると泥荒は判
断した。金がなければ神社など新装できない。空を見上げると、米軍によるケムトレイル見
えた。飛行機雲を出しながら高原山の方向に銀色の米軍C135空軍機が飛んでいく。そし
てひとすじの飛行機雲は拡散していく。インフルエンザを引き起こしてしまう物質を散布し
ているのである。明日の朝にはその物質がこの豊田にも落ちてくるだろう。そして人はイン
セルエンザ風邪にかかってしまうのある。まずやられるのは朝、歩いて登校する子供たちだ
った。そしてインフルエンザは子供から親に伝染していく。どんな田舎の空であろうとそこ
は米軍の制空権にあり、米軍は好きなように物質を散布し、好きなように実験しているので
ある。実験対象のモルモットは日本人でった。日本人は日本列島という牧場に飼われた家畜
でもあった。

 三叉路だった。西への道は集落の寺である浄光院への小道だった。三叉路の角には昔、
高い半鐘があったが今はない。北側にある家は泥荒の幼馴染の家だった。豊田小学校から
の帰り、よくこの家に寄り遊んだ記憶がよみがえった。さらにこの家の近くの家に、小学
二年のとき、ノート代にあと五円足りなくて借りに行ったことがある。その朝、泥荒はノ
ートを買う金が足りなくて、増録からミツ子に頼もうと廣次の家にやってきた。ミツ子は
いなかった。ノート代は二十円した。手元には十五円しかなかった。廣次の家にミツ子は
いなかった。しかたがなく泥荒は豊田小学校への道を歩いていった。そのとき向こうに女
の人が見えたのである。その家は三叉路の手前の奥にあった。ちいさい家だった。

「すいません。ノートを買うのにあと五円足りないんです。貸してくれませんか?」

 泥荒は一生懸命に頼んだのである。泥荒はノート代のことしか考えていなかった。やが
てミツ子がやってきた。女の人はほら来たよといってミツ子が向こうから来たことを教え
てくれた。ミツ子は泥荒を廣次の家の近くまで連れていった。風を遮る杉の木が立ってい
た。ミツはここで待っていろと泥荒に云った。ミツ子は廣次の家から戻り二十円を泥荒の
手に渡した。哀れと悲しみのミツ子の表情があった。記憶は重力でもあった。

 泥荒は冷たい人間だった。ミツ子が死んだのは昭和四十九(一九七四)年三月五日だっ
た。そのとき矢板にいてシャープの下請けの電器製造会社に勤めていた泥荒は、母テルと
一緒に廣次の家まで、親戚の人の車に乗せられ通夜に行った。次の日は葬式だった。お茶
を飲んでいるとき、泥荒は廣次に「おまえは冷たい人間だ」と言われたのである。泥荒は
ミツ子が入院しているときに見舞いに行かなかったからである。子供の頃はあんなにもお
まえのめんどうをみたのに、おまえは成長してからミツ子に冷たかった。何の恩返しもし
なかったと、そう廣次は泥荒に言おうとしたのである。泥荒は頭を垂れるしかなかった。
廣次はミツの後を追うようにしてその年の十一月二十五日に亡くなった。

 泥荒は浄光院の門をくぐり、山に隣接した高台にある墓場まで歩いていった。そして廣
次の家の墓を探した。廣次の家の墓はそこにあった。線香を持っていなかったので泥荒は
寺で分けてもらおうと思い、寺の玄関から、すいませんと声をかけた。出てきたのは美し
い二十歳くらいの乙女だった。お参りに来たのですが線香がなくて……すいませんが少し
分けてもらえませんでしょうか? と、ていねいに娘に頼んだ。娘はこころよく線香を持
ってきてくれた。泥荒ていねいに頭を下げ、そして水桶に水を入れ、廣次の家の墓を洗い、
線香を燃やした。いままでこれなくてすいませんでした。お許しくださいと墓の前で手を
合わせた。墓には廣次とミツ子そしてカツトシさんの妻トモエさんとカツトシさんの長男で
あるトシオちゃんの名前が刻まれていた。

 泥荒は水桶を寺の設定場所に戻し、再度、寺の玄関ですいませんと声をかけた。娘が出
てきた。お坊さんにあいさつをして帰りたいのですがと頼むと、娘は部屋の奥におとうさ
んと呼びかけた。寺の裏から住職が普段着で下駄をはいて出てきた。住職は泥荒の兄であ
るトモユキの同級生だった。トモユキちゃんは元気ですかとなつかしく嬉しそうに住職が
聞いてきたので、泥荒は兄は元気にやっていますと答えた。それからありがとうございま
したと住職に礼を言って御辞儀をして浄光院を後にした。

 次に泥荒が向かうところは、マサシの家だった。マサシの家は浄光院入り口の三叉路に
戻りそこから豊田小学校方向の北に歩いていくとそこにマサシの家の入り口の道があった。
家は山を背にした西側である。道の東側は佐久山に行く街道沿いの西豊田まで田んぼが広
大に続いていた。ここは関東平野の最北端でもあった。マサシの家には誰も住んでいなか
った。廃墟である。この家を新築したのはミツ子と廣次が死んだ年だった。以前はもっと
奥にある百年もたったからぶき屋根の古い江戸末期の農家だったが、そこを打ち壊し、西
豊田集落の南北を貫く道路の近くに屋敷をかまえた。庭の中央で泥荒は屋敷を見ながら立
ち尽くしていた。十二月の風が廃墟に舞っていた。山と田畑をすべて売った屋敷には、そ
して誰もいなくなった。

 泥荒は舗装された道路に戻り、すこし北に歩いた四つ角から農道に入り、かつてノブの
実家で、マサシによって取り壊された寛の家の跡地から山に向かったが昔あった道はすで
になかった。寛の家の跡地は小堀建設産業の資材置き場になって重機があった。マサシは
山のみならず平地も小堀建設産業に売ってしまっていたのである。平地と山の境界には不
気味な樹木が白い枯葉をつけていた。真知子が小堀建設産業から買収したのは増録の山の
みであって、ここらは小堀建設産業の私有地のままだった。

 泥荒は道なき山の中に藪をかきわけ入っていった。登っていくと、馬頭観音の石碑があ
るところまで来た。ここから東に降りていけば豊田小学校に向かう道にでる。その道は西
豊田集落を南北に貫いている幹線道路である。太陽が沈む西へ行けばちいさな盆地の増録
の集落に出る。豊田に出る下り坂の北側には祠があった。そして村人の墓場も山にあった。
馬頭観音の石碑は山の頂点にあった。


小説  新昆類  (40ー2)  【第1回日経小説大賞第1次予選落選】

2006年10月31日 | 小説 新昆類
 そこは日向山と呼ばれていた。南にすこし登ると、昔、ノブとテルが畑に開墾した場所
に降りられるがそこはもう畑ではなく、ここも小堀建設産業の資材置き場であの重機が置
いてあった。マサシが死んだ場所である。泥荒はそこに立ち尽くすと右手をかざし念仏を
唱えた。マサシとその家族への鎮魂である。日向山には誰もいなかった。増録への山道を
降りていくと電磁波のうなる音が聞こえてきた。北側の山の中に携帯電話の電波中継鉄塔
があった。電磁波を発している場所が近くにあることは新昆類が山で野生化するのに都合
がよかった。増録の山で電磁波実験が出来るからである。増録の山で電磁波を出しても、
空を管理している米軍は、その電磁波の出所がこの携帯電話の電波中継鉄塔からであると
錯覚してくれるだろう。真知子が買収した山の周辺もよく調査することが泥荒の仕事でも
あった。しかし今日は昔あった山道が現在どうなっているかを調べるのが目的だった。山
道を調査するのも一日だけでは無理だと泥荒は判断した。すでに午後四時になっていた。
泥荒は増録への山道を急いで下っていった。

 「父よ、何故あなたは狂ったのだ」ふと泥荒の脳裏に父ノブの面影がよぎった。父が発
狂したのは調布の都営住宅に住んでいた頃だった。調布飛行場の爆音が、ノブが勤めたい
た大田区大森の軍需工場への米軍B29による空爆、その無惨な工場壊滅の記憶を呼び出
したのだろうか。ノブはそのとき助かったが、一緒に集団就職で野崎尋常小学校から就職
した同級生は死んでしまった。昭和二十(一九四五)年一月にノブのところに陸軍宇都宮
連隊へ入隊しなければならない赤紙がきた。ノブは工場の従業員に送られ郷里へと同級生
より一足先に帰った。そして宇都宮連隊に入隊した。

 その年の四月十五日~十六日、京浜工業地帯へのB29による大空襲があった。それは
米軍第二十一爆撃機集団司令部一九四五年四月十四日付作戦命令第五号による空爆だった。
米軍の攻撃目標のひとつは第九十・十七-三六〇一区(現・大田区大森町・平和島付近)
東京市街第二地域でそこは米軍第七三航空団が担当した。

 その日は川崎も空爆された。軍需産業を数多く抱える京浜地区は米軍の空爆によって壊
滅されてしまった。ノブは宇都宮連隊に入隊していたゆえに、京浜地区への大空襲からま
ぬがれことができた。終戦になりノブは宇都宮連隊の解散によって豊田に帰郷した。そし
てすぐ、大森の軍需工場で死んだ級友の線香をあげにいった。そのとき冷たい視線をノブ
は家族から浴びた。

「おめぇだけぇ生き残りやがって、ちくしょう、このくたばりぞこない野郎」

 鬼の顔でノブに石を投げる老婆がいた。その夏の日からノブは豊田で無口になり、ただ
ニコニコ笑って、自己主張しないごまかす人間になった。ノブにとって戦時中より戦争が
終わってからの方が世間様は地獄だと思った。そしてすぐ占領軍指令による農地解放令が
やってきた。ノブは地主の家から没落の家に住むことになった。ノブの父である寛と母で
あるトキは昔の地主だった頃の繁栄を暗い囲炉裏でなつかしむ人間となった。自ら農作業
をあまりしたことがなく働くことが嫌いな地主階級はひたすら戦後、没落し世の中に遅れ
ていくしかなかった。それでもノブの実家は山を持っていたが、それもマサシが売り、と
うとう田畑まで全部売ってしまったのである。今、ノブが産まれた本宅は廃墟となり、そ
して誰もいなくなった。

 ノブが死んだのは横浜市瀬谷区にある横浜相原病院だった。死因は心室細動、慢性硬膜
下水腫。ノブは横浜市港南区にある日野病院の精神病棟から転送され、横浜相原病院で息
をひきとったのは平成八(一九九六)年六月十六日午後0時三分だった。泥荒はそのとき
イタリアのミラノへ昆虫研究のため渡辺寛之と一緒に行っていたので臨終には会えなかっ
た。兄のトモユキとヨシヒコがノブの最後に立ち会った。ミラノの街で食事をしていたと
き、歯が欠けた。そのとき泥荒はノブが死んだと思った。泥荒がミラノから成田空港に降
りたとき、すでにノブの葬式は終わっていた。おれは冷たい人間だとあらためて泥荒は自
分を認識した。ノブは七十一歳であの世にいった。ノブは人生の半分を精神病院で過ごし
た。発病したのは第二次世界大戦が終戦しやってきた意味不明の戦後だった。精神史の敗
北をノブは人生において受苦し、身体の牢獄から世間様の転移を見てきたのである。発狂
してきたのは精神病棟の外側の世界であったのかもしれない。人はかろうじてバランス感
覚でおのれの精神を保持しているに過ぎない壊れ者としての人間である。おのれを発狂世
界の日常で制御するバランス感覚が失った人間は精神病棟へ送還されていく。これが市民
社会の秘密だった。

 先月の十一月、泥荒は母テルに会いにいった。テルは八十六歳になっていた。テルは埼
玉県比企郡にある森林公園近くの病院に躁うつ病患者として入院していた。入院費は自分
の年金でまかなっていた。テルは矢板にいたとき、南に行けば運が開けるとよく言ってい
た。しかしここも南の海はなかった。父の治之助、母のサヨの故郷である広島からここは
あまりにも遠かった。泥荒が有留一族と鬼怒一族の構成員になったのも、祖母のサヨが広
島市の山である鎌倉寺山、その麓の村である有留で産まれ育ったからもしれないと、泥荒
は血の継承と運命を感じる。

 病院に面会に行くと、車椅子に乗せられたテルは若い看護婦に付き添われ、精神病棟の
面会室までやってきた。看護婦がどの息子さんと聞くとテルは右手の指を三本突き出した。
泥荒が三男の息子であることを指で表示したのである。テルの脳回路はまだ鮮明だったが
言葉は一言も出さなかった。唇は固く結んだままだった。テルは目を見開いて泥荒の顔を
見る。動物的本能の母の臭覚でテルは泥荒の表情と身体から現在の生活状態の情報を感覚
で読もうとしていた。テルは泥荒が何かおそろしいことを企てているのではないかと知覚
した。看護婦は、帰るとき声をかけて下さいと面会室から出て行った。面会は決まりで三
十分間だった。

「母ちゃんがここを出るから、おまえがこの病院に残れ」

 テルは歯が抜け固く閉ざしてきた唇を動かしゆっくりと断固した決意の言葉を発した。
さすがは困難を切り開きながら家族を生存させてきた母の動物的生命力と精神力であると
泥荒はテルを見た。テルはまっすぐなまなざしで泥荒を見定めている。泥荒はニガ笑いを
して話を切り替えた。

「おふくろ、いいか、百歳まで生き抜くんだぞ」

 泥荒は両手十本の指を広げテルに云った。そしてテルの左手を握った。テルが強く握り
返す。今度はテルの右手を握り、あいた手でさすってやった。テルの表情がなごんできた。
母と息子に会話する話題はなかった。泥荒は三年前に妹のジュンコが四十六歳でガンで死
んだことはまだテルに告げられなかった。ジュンコはテルの娘だった。ジュンコが死んだ
ことを動物的本能で知覚したテルは三年前から言葉を忘れたかのように唇を固く閉ざした。
それじゃぁ、また来るから、がんばってねと泥荒はテルのまなざしに何回も別れを告げ、
精神病棟の扉の外に出た。泥荒にできることは二ヵ月に一回、テルに会いに来ることだっ
た。

 泥荒は病院の駐車場に置いてあった自転車に乗った。その自転車は東武東上線の森林公
園駅から乗ってきたレンタル自転車だった。自転車が大きな道路に出ると左右は田園風景
だった。風はそれほど冷たくはなかった。風景に十一月の意味があった。今度は右折して
車が多い道路を疾走していく。左側のちいさな丘に神社があった。次の四つ角を左折する
と右側に骨川中学校が見えてきた。そしてまた自転車で走る。泥荒は汗ばんできた。大き
な道路に出る。そこを横断すると森林公園の入り口がある。そこからは駅までサイクリン
グコースだった。ところどころに平和をモチーフにした家族の像が立っている。そして空
を見上げると、埼玉県森林公園の上空には、米軍無人ヒューマノイド飛行機によるウィル
ス散布、ケムトレイルの飛行機雲が生成していた。泥荒は日本列島の植物にウィルスを蓄
積するのが、あのケムトレイルの目的ではないかと判断した。在日米軍は、米国軍産複合
体と国防省によって開発された新機種を、ケムトレイル実験のために投入し、日本列島上
空を自由自在に飛行させている。日本国民は牧場に飼われた実験動物とされていた。

 日本でガン死亡率がトップなのは、在日米軍機によるウィルス散布であった。それを日
本政府とマスゴミはタバコ喫煙に原因があると日本国民を洗脳している。「喫煙撲滅」を
世界で展開している世界保健機構もイルミナティ機関だった。春の花粉症もスギの花粉に
原因があるのでなく、真犯人は米軍機によるウィルス散布、ケムトレイルだった。日本ば
かりでなく、世界各地でケムトレイルは軍事作戦として展開されていた。

 鳥ウィルスの発生は米国宇宙軍によるケムトレイルが原因だった。すでに米国宇宙軍は
気象兵器、地震兵器を開発成功させ実験していた。フリーメーソンが上部機構に浸透した
フリーメーソン中国政府も、有人宇宙船「神船」を成功させ、2010年までに中国宇宙
軍を創設しようとしている。そして日本を裏で管理コントロールするのは、マフィア暗黒
王となったフリーメーソン池田大作だった。世界は全面展開として2015年体制に向か
っていた。重要なのは一点だった。その一点こそ、「もうひとつの日本」である鬼怒一族
と有留一族の人知れぬ事業の営みだった。一点を防衛できぬ者は、世界管理機構によって
人間牧場で飼育される屠所の群れになるはずだった。飼育された人間は日常に疑問を持た
ない。携帯電話と結合、見えない電磁波の鎖につながれ、飼育された人間こそ、世界牧場
の現代人だった。そして今、縄文以来の日本の野と山、森が米国宇宙軍によるウィルス散
布によって死滅しようとしていた。山岳修験道は防衛として復活するだろうか……

 「ハハの国としての海と山」
 米国宇宙軍と2010年に創設される中国宇宙軍に抵抗できるのは、ただ一点だった。
縄文の思想による昆虫情報体、「新昆類」だと泥荒は確信している。

「野に伏し、山に伏し、我、新昆類とともに在り」

 泥荒は事業成功への強い自覚をもった。



【第1回日本経済新聞小説大賞 第1次予選落選】


小説  新昆類  (41)  【第1回日経小説大賞第1次予選落選】

2006年10月31日 | 小説 新昆類

      エピローグ     



 十二月の山道を歩いていた泥荒はテルのまなざしの意味をかんがえていた。やがて山道は南北に走るちいさな盆地に出た。山に囲まれた増録のちいさな田園風景である。道はここで二手に分かれる。ひとつは西側で今は消却された昔の寛の隠居屋敷への道で、道沿いに誰も使用していない別荘が二軒建っている。小堀建設産業が建設し売りに出した別荘だが買い手はいなかった。もうひとつの道は東側で、亡くなった作蔵さんの長男であるノリオさんの家に至り、喜連川の河戸へと続く道だった。泥荒の原体験こそこの増録の開墾された田んぼとそれを囲む森林だった。田んぼは稲刈りが終わる秋、一面に野草の花が咲いた。その花畑で子供たちは遊んだ。山に入ると植物の豊穣の海だった。台風が過ぎた山は雷によって木が裂かれていた。山のくぼ地には大雨によって湖が出来ていた。人は自然から学習していった。貧しかったが素朴で美しいものがかつての里山にはあった。変貌したのは人間とその環境だった。



 泥荒は東側の道を歩いていった。ノリオさんの家の脇を通るのだが庭にはノリオさんの奥さんがこちらを不審の目で見ている。おそらく泥荒が財産を盗む人間であると判断していることは泥荒にも感じてくる。増録は本宅のマサシが山を売ってから開発業者に荒らされてきた。それで警戒の糸を張り巡らせているのだ。泥荒はお辞儀をしてまっすぐに歩いていった。やがて左側の山沿いに西豊田集落の共同茅場が見えてきた。ここは屋根をふく茅を育てていた場所だったが、いま茅の屋根の農家はほとんど皆無となっている。右側には泥荒の遠い親戚の農家と田んぼがあった。やがて泥荒は三叉路に出た。直線をそのまま行けば喜連川の河戸へと至り、左折すれば西豊田へと至る道だった。泥荒は河戸への道を歩いていく。田園風景の田んぼには東京電力が首都圏に電気を送る送電線の鉄塔が東京に向かって並んで建っている。冬の太陽は沈みかけている。河戸の商店である加藤雑貨店の四つ角に着いたのは午後五時近くになっていた。子供の頃、泥荒は増録からこの加藤雑貨店にテルにいわれ味噌や醤油、塩などの買い物に来たことが何度もあった。加藤雑貨店が今でも店をやっていることに泥荒には感銘した。記憶の店は現有していた。



 そこから泥荒は矢板へ至る道へと右折した。右側の山に加茂神社があった。ここが増録から河戸に至る山並みの南端となる。泥荒はその山を囲む道を歩いてきたことになる。加茂神社は大きな神社だった。石段の前には神社を守る人家の小屋があった。泥荒は石段を登り社殿に参拝してみた。社殿の裏から山の頂へと続く細い山道が残存している。社殿の境内から下がった東側の場所に神輿が奉納されている社があった。しかし戸は風によって壊れ、神輿のところに倒れている。長いこと修復もされていないのは、祭りが途絶えたからであろう。泥荒は加茂神社の石段を降り、人家の小屋に明かりがついているので窓から声をかけてみた。窓から顔を出したのは一人暮らしの老いた男であった。人の良い顔をしていた。この老人とは知合いになっていた方がいいだろうと泥荒は判断した。山のことがいろいろ聞けるからである。



「神社の写真を撮りに来ました。旦那さんもひとつ撮らせてもらっていいですか?」



 老人は愛想よく、うなづいたので泥荒は老人の顔をデジタルカメラで撮った。 「写真コンクールに入賞しましたら、お知らせしますので」



 老人はあぁと云って笑った。また写真を撮りにきますのでと云って泥荒は老人に頭を下げた。これでまたここに来る理由ができた。泥荒は加茂神社の入り口から再び道路に戻り矢板方向に歩き始めた。車のみが道路を疾走している。ここを歩いて行けば再度、昔あったバス停留場の宮田へと至る。道は山を囲み回り込む形だった。その増録に続く山にはちいさな神社の鳥居がいくつ道路から見えた。猿田彦の神社もあった。泥荒はそれらの神社をくまなく時間をかけて観察した。そして社の風景をデジタル写真で撮る。後で分析するためだった。増録から河戸へと南北に伸びるこの山の一帯がいかなる時間の場所であるのかを解析するには、まずいかなる神社が山にあるのか? それを知ることが始まりだった。鬼怒一族と有留一族が手に入れた増録の山の領域を新昆類家畜牧場にするためには、接続する一帯の山並みを六面体から多角的に調査する必要があった。それが泥荒の仕事だった。



 河戸から歩いてきた泥荒は増録に入る三叉路の角にある宮田の近くまで来ると、もはや誰にも見分けがつかないだろう笹に覆われたデイアラ神社の入り口に立った。そして頭を下げ礼をした。この山の一体は神社がたくさんある霊的ゾーンでもあった。ゾーンは絶望する者だけを通すという言葉を泥荒は思い出していた。山の生態系がゾーンなのだと泥荒は確信した。かつて高原山を追われた鬼怒一族が住んでいた場所だったからであろう……高原山と増録の山、その植物情報体は今でも交信していると泥荒は体に感じた。そのとき山の頂の上空にふたつの火の玉が飛んでいるのを泥荒は見た。子供の頃、増録で見た火の玉を泥荒は思い出した。夜、火の玉は作蔵さんの家の上空を飛んでいた。あれは夏休みだった。夜、増録の子供たちが蛍狩りをしていたとき、火の玉は山から田んぼの上空に現れ作蔵さんの家の上空を旋回し、そしてまた山の方向に消えていった。泥荒は声を出して火の玉の行方を追っていた。



 あれも夏だった。寛の隠居屋敷の奥にある泥荒の貧しい家族の部屋で寝ていると、開けてあった雨戸から、ちいさなふたつの火の玉が入ってきた。泥荒は恐怖に震え、ふとんを頭からかけ、すこしだけ顔を出し、その火の玉の動きをおそるおそる見ていた。泥荒の他は家族のみんながいびきをかき寝ていた。ふたつの火の玉はやがて雨戸の外に出て行った。それから泥荒は眠ってしまった。朝、目覚めるとそこは山の中だった。泥荒は自分が何故ここに寝ているのか理解不能だった。おそらく兄たちがいたずらをして泥荒が寝ているとき、ここまで部屋からかついできて、置き去りにしたのだろうと泥荒は思った。そこは寛の隠居屋敷の奥からまっすぐに伸びた細い山道沿いの場所だった。泥荒は朝もやのなかを家族が寝ている家まで歩いて帰った。裸足だった。寛の隠居屋敷その奥に住む家族の部屋の雨戸は開けてあった。そこから泥荒は中に入ると自分の寝床に入りまた眠ったのである。それは意味不明の体験だった。泥荒は火の玉の導くまま連れてこられ、山の中で鬼怒一族の記憶装置を体の中にインプットされたのかもしれなかった。それから泥荒は山の中で眠るのが好きになった。泥荒は豊田小学校に入学しても一年生からよく学校をずる休みして昼間は山の中で過ごした。学校は山だった。山をひとり歩き山のゆるやかな草の上でひとり眠るのだった。泥荒は間違いなく山に憑依された子供だった。そして泥荒は山の神の声が動物的本能で聞こえる人間となった。



 もう一度だけ、もう一度だけデイアラ神社にお参りをしていこうと、泥荒は夜の帳が下りる奥の細道を登った。木で造られた鳥居をくぐり社の前で拍手をひとつ打った。音は増録の山に浸透していく。礼をして下を振り返ると成田の田園風景が夕暮れの濃紺に染まり、人家のちいさい灯りが見えた。時間は午後六時になっていた。泥荒は今日の調査はここまでだと判断した。次回はここから北の成田へと接続している山の領域を調査する必要があった。山道を確認しそして神社を確認する、デイアラ神社から山の頂にそって南側の河戸方向の山中も調査しなくてならない。今日の歩きは外形をなぞったに過ぎなかった。時間はたっぷりとあると泥荒は山から三叉路の宮田まで降りていき、アスファルト道路から成田の田園地帯を見回した。前方の矢板方向の山はゴルフ場になっている。泥荒は矢板の町の方向、太陽が沈んだ西へと歩き出した。車が何台もスピードを上げて疾走していた。泥荒にとって調査とは歩行だった。乗用車に依存した文明は没落すると泥荒は確信していた。



 泥荒の歩行は2015年体制への準備だった。新昆類は増録の山で野生化し、やがて日本列島の山中に棲息していくだろう。弥生人に復讐する縄文人の荒魂は新昆類に託された昆虫情報体の羽根にあった。羽根は世界を昆虫の交通関係として構築していくエネルギーだった。羽根は植物情報体の豊饒の海で育っていく。それが山の中身だった。鬼怒一族と有留一族が進行させている新昆類の事業こそは、もうひとつの日本でもあった。二十一世紀に縄文の血を継承し、山岳修験道の鬼怒一族と有留一族が、今なお生存していることにひとつの奇蹟があった。泥荒はひたすら高原山をめざし夜の中を夜に溶けて夜を歩いていった。2015年に実修実証の朝はやってくるはずだった。



 欺瞞を強権によって貫徹した大室寅之祐明治天皇王朝のラストエンペラーは……2015年体制へのオリエンテーションこそ新昆類だった。



 新しい朝は、明治より古い朝の継承でもあった。



「さあ、行くべ」



 ミツ子の声が泥荒を不安に満ちた未来への歩行へと励ました。



 


 平成十八年、十二月二十九日、有留源一郎と史彦は鎌倉寺山を出発した。鎌倉寺山の森
林からラフォーと猿の群れが見送っていた。史彦は高原山でディアラフォーと対面するは
ずだった。史彦の阿頼耶識はラフォーによって訓練されていた。意識下の意識、そこにも
うひとつの日本があった。高原山で史彦が「でぃあらふぉー」と叫ぶとき、間違いなく、2
015年体制は記憶の重力となって、猿人類の地球マトリックス、その母体が船となって
WINDOWSから見える異史は記述されていく。そして寺山の修司は現在進行形だった。


                                    (了)



四百字詰換算 458枚



【第1回日本経済新聞小説大賞(2006年度)第1次予選落選】



41回に分割しアップロードさせていただくことになりました。



2007年度秋、応募投稿締め切りの第2回日本経済新聞小説大賞への応募投稿めざして、新作を構想中であります。



日本文芸界の創造的破壊を試みるのは、第1回日経小説大賞応募者の圧倒的多数であった50歳代~60歳代の男性です。



第1回敗退から再び、第2回応募へと挑戦し、1千万円を奪い取りましょう。いつまでも女どもに負けてはいられません……



日本文芸界の創造的破壊に挑戦できるのは、われわれ50歳代~60歳代の野生化した動物化した男たちです。



おのれのきんたまを握りながら、書いていきましょう。孤独のなか、文が出てくるまで、耐えがたき耐え、偲びがたきを偲び、持久戦争として構え、一文一行へと進んでまいりましょう。



「出来る 出来る やる気があれば 必ず出来る」「この小説をラストシーンまでもって走り続け、必ず、エピローグのピリオドを打つ」



刻苦奮闘の精神で書いていきましょう。



机の前で考え込みうなってばかりいると、体が肥満になり健康を害しますので、散歩へ行き、体操をしましょう。



書いていると胸を圧迫し、呼吸が浅くなってしまいます。三十分間に1回は外に出て、新鮮な空気を吸い、深呼吸しましょう。



酸素を取り入れなければ、思考が働きません。小説はほんとんど時間をかけた思考労働の産物であります。



気合を入れて、1時間に1回は大声を出しましょう。



とにかく書いていきましょう。がんばりましょう。



読んでいただき、ありがとうございました。



この小説を、2006年3月21日、朝方、スーパーマーケットの駐車場で亡くなった【新じねん】おーるさんに捧げます。



【新じねん】http://csx.jp/~gabana/index.html



【新じねん保存サイト】http://oriharu.net/gabana_n/



-----------------------------------------阿修羅より転載



大室寅之祐近代国民言語に抗する「実践と場所」--マルクス主義の日本的土着化http://www.asyura2.com/0610/bd46/msg/369.html投稿者 竹中半兵衛 日時 2006 年 10 月 29 日 11:04:20:



(回答先: イギリス大帝国の傀儡、日本帝国の現人神、大室寅之祐近代国民言語に抗する「実践と場所」 投稿者 愚民党 日時 2006 年 10 月 28 日 18:21:17)



>日本文芸界の創造的破壊に挑戦できるのは、われわれ50歳代~60歳代の野生化した動物化した男たちです。



いやあ立派な決意だす。その意気で日本の文芸界さ新風ば送りこむべす。芸術家が文化理論戦線の一部ば構成して、しかも理論的には退廃の一途だ。何たる脱イデオロギー。



団塊世代がたくらむのは、革命めざして立ち上がったにもかかわらず、70年安保で挫折すたおのれとの苦しい戦いさ終止符ば打つこと。サラリーマンさなってもう卒業だかんね。人生の卒業ではねぐて疎外労働とのお別れだ。そのごに待ってる地獄のような年金生活。サラリーマンやってたぐらいまだ生きるんだよ、まだ。年金は反比例のスライドだべ。蛇の生殺しだべ。モーレツに働いたごほうびがこれだ。やっぱすい、こんだけ大量の世代がいつまでも生き残るってことは、こりゃなんかあるぜ、おっしゃるとおりだ、愚民党さあ。大量の読者が待ってるぜ。



みながみな日和ったわけではねえはずだす。優秀な活動家が一級公務員さなったすい、大企業の重役までなってるだが、それでもおらみてな乞食と会うし、むがすに戻ってパンツずらすてきんたまにぎりあって喜び合う。んで腹ばようぐ見るんだ、黒くなってねえか。んで、黒くねえかわりに膨らんでる。みな腹さ一物もってっるってわけだ。みなおらより読書家だ。



町内のそこいらじゅうさ年寄りが佃煮のごとく溢れる。なぜか政治づいてる。楽しみだにゃ。



読者が待ってるのは愚民党さんの意気込みの入った小説だべ。



「実践と場所」はクロカンの代表作だなす。マルクス主義哲学ば日本的土壌さどのように定着さすべきかば示す名作だべ。んだから、日本の「民俗」ばようく研究してるし、その研究態度・方法は本署の底に唯物史観が貫かれてる、いわば唯物論的民俗学だな。おらもクロカンが死んでから買ったんだ。読みたくてもカネがねぐて、そのうちよむべって思ってたら、死んだって聞いたもんで、大慌てで買ってきたんだ。



その前に「社会の弁証法」ば買って読み直してる最中だすよ。これはむがすのシャタン(社・探、「社会観の探求」)の改版なんだども、何十年かぶりに読み直してるわけだす。



サラリーマン時代で哲学書はストップすてたもんで、老人パワーの原点ば再確立(あるいは新たにスタート)するために、今度はていねいに読んでる。「実践と場所」はまさすく哲学の「場」でありそれは「現在」だと思う。つまりおらの生きている社会だべす。愚民党さんが現在小説の中さ対象化すようとすてる現実だべな。



ただすい、小説ば書くときは、社会ば分析した上で小説ば書くっつうのは手法上は間違いだな。んだらばそれは社会科学の領域であり、論文とすての産物だ。すると、小説の中味は論文の例証に終わる。作者も例証さこれ勤めるために、登場人物が動かねぐなるんだべ。んで、分析できねげればそれで小説は終わりとなる、あとが書けねぐなんのよ。フィクションであれ、作家の直感が大事だ。その上で描かれた内容が活き活きとすた人間や社会が描かれているならば、すぐれた作品となんだべつ。これは「社会の弁証法」さ書かれてる。



だとすても、この国家独占資本主義のもとで疎外された人間の社会ばリアルに描き出す小説ができあがることば期待すてっかんね、おらは。



あえて言わせてもらえば、実践とは哲学実的践も含んでいるがんね。この苦闘の伝わらねえ作品なんて、読んだだけ時間の無駄だ。「蟹工船」「夜明け前」ば超えた小説ば望む。



忠告だすが、おらのこの欲望さしばられねえように、まい進してけろ。基本はあくまで言語表現だ。丸山健二だよ。校正校正校正、改稿改稿改稿。忘れねで。



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【安倍戦争内閣スキャンダル】安倍実兄企業に155億円落札 

2006年10月28日 | 安倍戦争内閣
阿修羅より転載


安倍総理誕生で江島市政暴走  下関の自殺者10年間で500人 
http://www.asyura2.com/0610/senkyo27/msg/967.html

投稿者 愚民党 日時 2006 年 10 月 28 日 18:45:04:

【長周新聞】

安倍総理誕生で江島市政暴走

下関の自殺者10年間で500人

              安倍実兄企業に155億円落札   2006年10月25日付


 安倍内閣は “対米屈従の戦争をはじめる内閣” という性格をあらわしている。内政ではどんなことをするのか。そのモデルとなり、もっともわかりやすく示しているのは、安倍氏の地元である下関の江島代理市政である。江島市政は安倍総理が誕生すると、天下を取ったような気になって恥知らずな暴走を始めている。江島氏の選挙本部をつとめた人物や安倍氏の叔父関連のみずほ銀行がかかわるあるかぽーと開発の強行をはかるとともに、155億円の血税を投じる社会教育複合施設を地元業者を排除して安倍氏の実兄が中国支社長をする三菱商事に決めた。このような市政運営をしたのでは、食えなくなる市民が増え、自殺する市民が増え、下関が荒廃しきったものになるのはわかり切ったことである。人が死ぬことがわかっていることをやる政治は殺人政治である。安倍代理市政が支配する下関では、まさに「死の商人」のような市民殺し政治が横行するにいたっている。これを改めさせるのは市民の死活要求であるが、それだけではなく全国への下関市民の責任である。

 実態は土地投機の利権・あるかぽーと計画等

 安倍総理誕生後にあわただしく動いたのは、既設の文化会館、婦人会館、中央公民館を取り壊してつくるという社会教育複合施設(20年間で総事業費155億円)である。初めから三菱商事が取ることに決まっていると語られていたが、今月中旬、地元の原弘産グループを排除して、安倍首相の兄・安倍寛信氏が中国支社長をやる三菱商事グループに落札させた。安倍首相の実兄がからむと、ふつうの神経では遠慮するところ、逆に縁故優先をやるというのであるから、相当の独裁者ぶりである。

 ピンハネするだけで丸投げするほかない商事会社に建築事業をやらせることも異常だが、入札額は地元勢が10億円も安いのに、江島市長は高い方を選んだ。地元企業グループは公文書公開と法的手段も辞さないとしているが、江島市長は落札金額や審査内容を伏せ続けている。

 155億円の社会教育複合施設の建設計画は、今年に入って突如として浮上したもので、解体される文化会館は数1000万円で外壁を補修したばかりだった。これは昨年9月に新博物館建設(105億円)が白紙撤回に追い込まれたあと、何でもいいから相当額の事業をやれという調子で決まったものである。しかも設計から建設、管理運営すべてを1企業体に丸投げする。新博物館も今度の複合施設も、落札した企業体のコンサルタントに佐藤総合計画が入って、あらたに外資のジェイコムが加わり、始めからできレースとなったことも似通っていた。

 江島市長が安倍総理誕生に勢いづいて躍起になり始めたのが、関門海峡に面した下関の1等地あるかぽーとを自分の選挙の会計責任者をした人物が社長をやる実態の乏しい会社に、二束三文で売り飛ばし、貸し出して、デタラメな326万人という広島から福岡まで買い物に来ると想定した大型商業施設をつくらせようとしていることである。

 安倍総理確実との報道が強まるなかで、反対する自治会長に、市の顧問弁護士が業者の代理人となって脅迫文書を送り、市民の反対集会に集まったのが200人と聞くと、イベント会社を雇い利害がかかわる関係業者を集め、サクラの学生に発言させ、「500人の地元住民の賛成集会」と偽って、議会が色めき立つというインチキを始めた。

 最近では、中央地区自治連合会の自治会長宅に港湾局が「いく」と連絡して、ドアを開けたら江島市長本人がいたという、各自治会長の切り崩しに江島市長が直接に回り始めるという熱の入れようである。そして暴露されたのは、商工会議所に提出している店舗面積は通路などをのぞいた売り場面積だけという偽造計算書であった。うさんくさい詐欺まがいのことを江島市長がセールスマンになって推進しているのである。

 この計画にも、安倍首相の叔父である西村正雄氏(8月に死去)が持ち株会社の会長をつとめたみずほ銀行がメインバンクとして関係しており、総事業費135億円をかけ延床面積4万平方㍍の複合型商業施設をつくろうというのである。そして江島市政は、2万5000平方㍍のうち、8000平方㍍は1平方㍍当り6・5万円の郊外宅地並みのたたき売りをして、残り1万5000平方㍍は周辺施設と比べて半額の1平方㍍当り月額3500円で貸そうというのである。予定地は景観の美しい関門海峡沿いであり、実態は土地投機の利権だと見られている。

 市庁舎やJR駅建設計画も・終わらぬ利権事業

 こうしたインチキな利権事業は、いま始まったことではない。し尿処理場建設は、橋梁談合事件に次ぐ談合事件として全国的に摘発されたが、肝心の下関の官製談合は闇に葬られた。安倍氏が官房長官になり総理候補となると、警察も税務署もだまり込みを決めるのだ。し尿処理計画は初め60数億円、その後42億円、最後の落札価格は28億円となったが、排除された業者は20億円以下でできるといっていた。できるだけ高値を江島市長が選ぼうとするのである。

 奥山清掃工場やリサイクルプラザでは安倍氏の出身企業である神戸製鋼が独り占めをした。安倍氏が82年まで在職していた神戸製鋼所九州支社には、105億円の奥山工場ゴミ焼却炉(2000年)、60億円の、リサイクルプラザ(2001年)に加えて、毎年の管理運営や、オーバーホールなど含め、約200億円を受注させてきた。ごみ処理施設にしては不当に豪華で高価すぎるもので、しかもリサイクルプラザは橋梁談合を上回る落札率100%だった。神戸製鋼には土木・建設の技術はなく下請に丸投げしピンハネをするばかりで、現場に入った業者はさんざんに買いたたかれたうえ、だまされて倒産する業者も出るなどすさまじい状態となった。

 そしてこのような事業はこれで終わらない。200億円もかける市庁舎建設をもくろんでおり、JRの駅を連続して市が建設する計画もある。

 潰されていく下関 深刻な建設業・地元業者絞め殺す

 こんなことをさせていたら下関はつぶれてしまうというのが市民の切実な声となっている。

 まず深刻になっているのが建設業者である。10月には、老舗建築会社の栢野建設が、12億円の負債をかかえて山口地裁下関支部に民事再生法適用を申請した。経営者が蒸発した河久電工や蔦工務店(アクアテック)に続くもので、年末にかけて連鎖倒産などまだ拍車がかかると深刻に受け止められている。下関の代表的な中小企業であった中野書店も大型店の圧力でつぶれた。

 下関市の公共事業発注は、2000年ごろは1500件前後あったが、5年間で4割減となった。2002年8月から全国2番目で導入された電子入札によるダンピング入札政策で、地元業者はたたき合いに放りこまれた。首つりや夜逃げが起きると、わかっていて導入した殺人制度である。昨年4月から9月まで発注された公共事業178件(総額87億4000万円)のうち、地元中小業者が受注する500万円以上から2000万円以下の工事100件(総額は約9億円)の平均落札率は83・6%で、70%以下が25件にのぼり、なかには51・5%の工事まで出た。

 下関では仕事がないのだ。地元の企業が仕事がなく、働くものが食えない状態にあるのに、市政は下関の血税を使って市外の大手企業にばかり大型事業を回し、その資金も市内に還流させない政策をとっているのである。地元の業者は絞め殺しのダンピング政策で、自分らの関係する企業は親方日の丸のつかみ取り政策である。安倍・江島市政の競争原理、市場原理というのは大インチキなのだ。

 生活保護や離婚増える一方・食潰される市民生活

 このような大型利権事業の横行は、市民を搾り取り、さんざんに疲弊させることによって成り立っている。「百姓とゴマの油は絞れば絞るほど出るものなり」という徳川幕府の上をいくやり方で、要するに市民を絞るだけ絞った上に、利権をむさぼっているのである。

 地元企業はつぎつぎになぎ倒されて、労働者は職がなくてさまよい、仕事があっても食っていけない。工事現場で1日汗水流して働いても1万円に満たず、それも毎日あるわけではなく、代行タクシーや製造業などかけもちで働いて生活を成り立たせる状態である。

 下関市はすでに普通会計の公債費が1425億円で市民1人当りで毎年4万9000円の借金返済をしている。人口30万~40万人の類似都市と比べて、1人当りで1万1895円も多く負担している。財政の弾力性を示す経常収支比率は、04年、05年と90%で赤信号が灯っており、財政破たんのがけっぷちに立たされている。市財政の破たんは市民に押しかぶせられる。年寄りからも税金を上げ、ゴミ袋は有料化し、医療も介護も受けられないようにし、学校は用紙代からトイレットペーパー代まで父母から徴収し、壁ははがれ落ち、トイレは壊れたままの老朽校舎を放置。

 下関市内で経済的や病気などを理由に自殺した人は、10年間で500人をこえた。2004年は63人で、働きざかりの50代の男性が11人で2割近くを占めた。自殺者は、96年の39人から、10年で1・6倍増えている。交通事故の死者が22人だからその3倍の自殺者が出ている。心疾患の死亡率が全国平均より四割高いことも、隠れた自殺者といわれている。

 下関市の2004年度の生活保護は、人口1000人当りの保護人員が19・4人で、全国平均10人の2倍だった。この10年間で増え続けており、世帯数でも過去3年間は3000世帯をこえている。離婚は2004年で610件にのぼり、人口1000人当りの数を示す離婚率は2・49で、全国平均2・15、県内平均1・98から2割前後も多く、10年間で急増している。同年の婚姻届は1286件であり、その半数が離婚していることになる。旧市内で1年間に生まれた赤ちゃんの数は、人口25万人(2003年調べ)でわずか1912人に落ち込んだ。出生率7・7人は全国平均8・8人を下回り、山口県の48市町村の平均8・1にも満たなかった。就学援助の受給率は33・2%(2004年度)で、3人に1人の子どもが援助を受け、全国平均の2・5倍となっている。市民生活がさんざんに食いつぶされているのである。

 安倍晋三氏はすべての人の予想を超えて総理大臣になったが、そのために下関は死体累累の「万骨の山」になっている。総裁になる資金づくりのために、下関の利権事業で抜き取りをやってきたのではないか、の疑問は市民のだれもが持つようになっている。

 外資誘致まで企む・意識的な殺人政治 下関を特区に選定

 来年度予算編成の会合の席上で12日、江島市長は「外国企業の誘致等に前向きに取り組む自治体に対する地方交付税の支援措置等が検討されていることには注視していく必要がある」とのべた。市内の地元業者をなぎ倒すのが、外資に下関を売り飛ばすためなのだ。地元はさんざんにつぶされて、大いばりの外国人に市民がひざまずく状態が目標とされていると見るならいまのやり方も納得できる。

 米大使館の2003年対日投資イニシアティブでは、積極的に外資誘致につとめる自治体5地域を定め、大阪、広島などと合わせ北九州・下関を選定した。①外国企業のスピーディーな進出を求めて、行政手続きの見直し。②外国企業が日本国内で合併するさい、子会社をつうじて完全子会社化することを可能とする。教育および医療サービスの外国投資など、公共サービス分野への民間参入拡大。③雇用・生活環境をかえることで、「日本においてより柔軟な労働市場を形成することが、外国からの投資を誘致する重要な鍵になる」と主張。働くものが食えない状態にするのは、外資に気に入られるためである。

 市内でもゴルフ場が米投資会社のゴールドマンサックスに買収されて騒がせたが、今度は、公共施設の社会教育複合施設にも外資のジェイコムが入り、大量株所有するモルガン・スタンレーやリーマン・ブラザーズなど欧米投資会社が、ハゲタカ軍団として郷土を食いつぶすことになる。神戸製鋼所や三菱商事はその露払いとして、地元業者をのきなみつぶす役割と見られるのである。

 安倍政府は自治体倒産法制の整備をおこなっており、水道事業や保育園、病院事業などを民間に切り売りさせる計画が進められている。いわば中南米のアルゼンチンやチリのように、外資や民間企業が水道事業を買収したため、水道料がつり上げられて、市民はまともに使えなくなったり、イギリスで起こった公立学校や病院の民営化で、子どもや患者の追い出しがやられたことを覚悟しなければいけない。

 江島市政が最近やった特徴的なことは、大型店乱立政策で困っている唐戸やグリーンモールなどの商店街に対して、駐車違反取り締まりの特別地域に指定したうえに、その地域にある市営駐車場を30分無料を廃止し有料化したことである。商店街はわざとでもつぶすという意図で市政を運営しているのである。

 こんな市政をやっていたら、市民の自殺者が増えることははっきりしていることである。借金まみれになった中小業者がそうであり、生活できなくなった年寄りが餓死したり自殺したりするのが増えるのも明らかである。若い世代も結婚もできないが、結婚しても崩壊し悲しい事件が増えることも予想される。はっきりしていることは、安倍代理の江島下関市政は、そんなことをやっていったら市民が死ぬのをわかっていてやっていることであり、それは意識的な殺人政治である。

 市民徹底して抑圧 デタラメ横行構図・安倍事務所が頂点

 どうしてこんなデタラメな市政がやられているのか。それは選挙をやっても、市民に嫌われても安倍事務所に認められれば当選するという構造ができているからである。下関には民主主義などは格好の上でもなくなってしまっており、あるのは安倍事務所の独裁、市民制裁の専制政治である。北朝鮮のことなどいっている場合ではないのだ。

 江島市長の初当選は詐欺であった。反自民を装って人人を結集し、裏では安倍事務所と連携して、当選したら、反自民の協力者を切って捨てた。2度目は、亀田氏と古賀氏の3者対抗となったが、安倍事務所は古賀氏を誹謗中傷するビラを配らせたりした。それをやった暴力団側が対価を払わない安倍氏に対して安倍氏の自宅、事務所を放火する事件が起きたほどであった。古賀陣営は警察からも出入りをマークされ、落選後は、母体の日東建設が前年に40数件あった市の受注をゼロにされ、倒産に追い込まれた。民主党で安倍氏の対抗者になると見なしたら力でつぶしてしまうのだ。そして、1期の選挙で協力し裏切られた業者が対抗馬を推すと、それらの業者を入札から排除し絞め殺すという異常な攻撃となった。

 昨年の市長選では、市民は対抗した中尾氏を推したが、安倍事務所は連合の松原氏を出して批判票を分散させるなどの手を使った。それで旧市内では中尾氏より少なく、合併したばかりで事情がわからない郡部を安倍、林派が動員してかろうじて当選させた。下関の選挙では、謀略じみた仕かけが働き、安倍支配が重くのしかかっているのである。

 選挙で対抗馬が出るのは、相当のたたきつぶし攻撃を乗り越える力を要する。そして、もう一方の林芳正参院議員の側がサンデン企業の利権に預かるためにすっかり隷属下に入って対抗要素にもならない。大きな公共施設やし尿処理場などが建つと、管理運営や空調設備のガス化などの利権のおすそわけにあずかっている。

 下関では公明党が中央で与党になるはるか前から安倍派で行動してきた。また三菱などの組合である連合がいつも安倍支持で動く関係になってきた。自民党の地元は郷土つぶしの政治に怒るがこれらの、公明、連合などが安倍氏陣営の子飼いとなって動く関係ができている。

 そして市議会は、暴走を続ける江島市政にたいしてチェックする機能はとうになくなっている。サンデンの利権で飼われている小浜氏が10数年も議長をやり、議会支配をやっている。そして議員は、市民を代表するものというものの考え方はとうの昔になくなってしまい、年収1000万円プラスアルファーをあてがわれた議員生活者、働かずに遊んで暮らせて、その上に威張っておれる社会の寄生虫、遊民と化している。

 制裁をされているのは市民・全国典型の下関

 安倍首相は朝鮮に対して制裁をやり戦争を始める内閣になろうとしている。下関は佐世保港とともに臨検をする港に指定されている。江島市長が熱心なのが、米軍艦が入港すれば花束を持って歓迎に行き、テロ訓練は全国率先して実施する。北朝鮮の核実験に際しては、休日に部長連中を緊急招集して有事即応の会議をさせる。その場でやりようもない「情報収集」をせよとハッパをかけるという全国トップの戦争体制づくりのパフォーマンスをやる状態である。そして内政は「死の商人」的なつかみ取り商法の奨励である。

 こうして下関は安倍事務所を頂点とする市民抑圧の構造ができている。それをはねのけなければ市民の活路はない関係になっている。そして安倍代理市政は、市民を搾って自殺者が出てもかまわぬという殺人政治をやり、対抗するものはたたきつぶすという専制政治である。さんざんに制裁されているのは市民の方なのだ。このような野蛮な政治を国政の場でやることになる。このような下関市政のありようを変えることは全国への責任である。市民は黙って絞め殺されるわけにはいかない。この抑圧構造をうち破るのは市民大衆の行動しかない。来年2月に予定される市議選は、安倍・江島市政の飼い犬ではなく、その横暴とたたかって郷土と市民の利益を守る市民の力を強める機会となる。


http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/abesouritannjoudeezimasiseibousou.htm


 耐震偽造、ライブドア事件の黒幕、安倍晋三「安晋会」の闇 【新じねん・日々雑感】

2006年10月22日 | 安倍戦争内閣
【安倍戦争内閣スキャンダル】 耐震偽造、ライブドア事件の黒幕、安倍晋三「安晋会」の闇 【新じねん・日々雑感】



最終図解

http://csx.jp/~gabana/Zaakan/hibi0603/hibi-niisi-060317.htm#安晋会を核とするライブドア浸透相関図

06/03/17 (金)


参考】
<記事紹介>『安倍晋三氏 怪異な人脈」(『アエラ』)---ストレイ・ドッグより


2006.03.13


<記事紹介>『安倍晋三氏 怪異な人脈」(『アエラ』)


  いま発売中の『アエラ』(3・20増大号。朝日新聞社)が6ページ使って安倍晋三官房長官の特集をやっている。
 タイトルの「怪異な人脈」が何を指しているかといえば、謎の後援会「安晋会」、安倍氏も信者と見られる「慧光塾」(ただし、記事では「E塾」となっている)という神かがり的な経営コンサルタント、それにエイチ・アイ・エスの澤田秀雄氏が理事長を務める「日本ビジネス協会」(本紙では別の団体・日本ベンチャー協議会を指摘)を指している。
 本紙でもこうした関係についてこれまで触れて来たが、この記事には初めて知った事実がいくつもあった。
①ホテル・マンショングループ「アパ」の元谷外志雄社長は「安晋会」副会長である。
②エイチ・アイ・エスの澤田氏も「安晋会」のメンバーである(ただし、『週刊ポスト』が以前、自殺したとされる野口英昭エイチ・エス証券元副社長が「安晋会」幹事だったと指摘)。
③「安晋会」を実際、運営しているのは「ゴールネット」(記事中はG社)の杉山敏隆社長(同S氏)で、同社を本年中に上場させるつもり。その際の主幹事証券は、澤田氏が社長で、野口氏が副社長だったエイチ・エス証券である。


http://straydog.way-nifty.com/yamaokashunsuke/2006/03/post_d81c.html


2006.01.31


安倍官房長官と、渦中の「安晋会」代表が同席したワインの会の写真


 情報提供があり、本紙が注目する安倍晋三官房長官と、「安晋会」代表の杉山敏隆氏が同じ「日本を語るワインの会」なるものに出席し、その掲載誌が存在することが判明した。
 この会を主宰しているのは、全国でホテルやマンション経営を行っている「アパグループ」(東京都港区)を率いる元谷外志雄代表夫婦の模様。
 この掲載誌が出た会は、05年10月に開催されたから、つい最近のことだ。
 アパグループは月刊で広報誌を出しており、そのなかに収録されている。


http://straydog.way-nifty.com/yamaokashunsuke/2006/01/post_909a_1.html


情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ)

【私的めもらんだむ】


○11時
冷たい雨が降ってます・・・私の心にも雨が・・・冷たい雨が降ってます・・・猫がにゃあにゃあ鳴いてます・・・私の心も鳴いてます・・・にゃあにゃあ私が鳴いてます・・・云うべき言葉を失った・・・にゃあにゃあ私が泣いてます・・・私は猫になりました・・・人間の言葉が理解できない・・・猫になりました・・・

って、そんなわけない散文詩でした。元気・・・出さなくっちゃ・・・

○13時半
冷たい風が吹いてます・・・元請社長がベースを引き取っていきました・・・私の愛しいベースちゃん・・・みんなに可愛がってもらうんだよ・・・さようなら・・・もう二度と会えないんだね・・・初めて来たときは顔面凸凹だらけの、おまえだった・・・それを丹念に化粧して、肌はスベスベのピ~カビカに仕上げたんだ・・・こんなに綺麗にしてくれて、ありがとうって・・・云ってるみたいで嬉しかったよ・・・嫁ぎ先は訊かない・・・ただ、冷たい風の吹く中を、運ばれていくおまえを、いつまでもいつまでも見守っていた私のことを・・・どうか忘れないで欲しい。

風よ、風・・・どうしてそんなに荒れ狂う・・・心の中まで冷たい風を吹き込んでくれるな・・・俺には今やさしい心、あったかい心だけが必要なんだ・・・それでないと、死んでしまいそうになるんだ・・・お願いだから風よ、風・・・今度は春を伴って、俺の凍える心を溶かしてほしい・・・

○15時半
午後あたりから太陽が顔を覗かせてきた。暗雲一転して快晴・・・今日の天気のように人の心も変われるものならどんなにいいだろう。陰鬱な苦悩も一瞬にして吹き払われ、何処までも青く澄んだ大空が展開する・・・そして太陽の光は虹色に分散して、キラキラ輝きながら頭上に降り注ぐんだ。その中を泳ぐようにして人の魂が昇華していく。ここでオーケストラ・・・荘厳にして魂に浸透していくような旋律、それに呼応共鳴する幾多の楽器の音色・・・人の心の多様性そのままに彩られ・・・集合と分散を繰り返し・・・流れていく・・・そして光の中へ・・・それは決して眼を傷めないやさしい光だ・・・いや、もはや人は光と融合し、、光そのものとなって発光する。全ての制約から解き放たれる無数の魂・・・その歓喜は一瞬にして個々の魂を貫き波動拡散していく・・・そんな世界のことを夢想している。

「終わらないメリーゴーランド」 作・風のウイン(windy・way)


・・・かくして空腹が現実を呼び戻す。即席ラーメン、有ったかな?

○20時半
責任の持てない書き込み・・・酔っ払ってま~す。しがない零細企業の愚痴・・・軽んじられてるのは承知でくこれを書いている。云わば虫けらの主張だ。って云いながら書く内容を忘れている・・・どうしようもねぇなあ・・・俺みてぃに干されている連中に・・・一言・・・少なくとも生きていようや・・・巨悪を追求することすら権利がないヘタレだと・・・言われてもだな・・・生まれてこの方世の中ワナだらけってこと・・・

↑なに云ってんだか自分でも分からぬ書き込み・・・いま翌日の5時。
この書き込み、記念に残そう。
さっきソーメン食べた。
麺が細いのですぐ食べられる。
貧乏同志諸君にオススメ・・・
昨夜は片っ端から同業者に電話した。
仕事ないか?と・・・結果、全滅・・・不景気は不滅だ。


http://csx.jp/~gabana/Zaakan/hibi0603/hibi-niisi-060317.htm#安晋会を核とするライブドア浸透相関図


【新じねん】




http://csx.jp/~gabana/index.html


【安倍戦争内閣スキャンダル】 野口英昭氏暗殺と安倍晋三「安晋会」の闇 【新じねん・日々雑感】

2006年10月21日 | 共謀罪
安倍内閣1

図解まとめ、慧光塾を接点としたライブドアとヒューザーを結ぶ線

昨日← 06/01/31 (火) →翌日
一時小雨
【トピック】


★安倍官房長官とライブドア事件を繋ぐ「安晋会」の闇


情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ)

●謎の自殺を遂げたエイチ・エス証券・野口副社長は「安晋会」理事だった


 今週発売の『週刊ポスト』はライブドア事件の特集記事のなかで、安倍晋三官房長官の私的後援会組織「安晋会」の理事に、自殺したエイチ・エス証券の野口英昭副社長が就いていたことをスクープしている。
 本紙では、すでに1月18日、「ヒューザー・小嶋社長証人喚問、ライブドア疑惑のどちらでも名前が出る安倍晋三官房長官の不徳」なるタイトル記事を報じている。
  もちろん、これは単なる偶然ではないのだ。
 『週刊ポスト』はさらに同記事において、ヒューザーの小嶋進社長と野口元副社長も接点があったことを暴いている。
 では、いったい、何を介在してこの2つの人脈は繋がるのか。
 『週刊ポスト』はS氏とイニシャルに留めているが、それはやはり本紙が何度も報じて来た「安晋会」代表・杉山敏隆氏の仲介によると思われる。


●注目される「日本ベンチャー協議会」と「慧光塾」


 同じく、『週刊ポスト』は「安晋会」は父・安倍晋太郎元外相以来の人脈と、安倍官房長官を囲むベンチャー経営者の人脈の2つがクロスオーバーしていると指摘。ただし、特定の組織名は避けている。
 だが、本紙が得た情報によれば、前者は穴吹工務店やダイナシティなど多くの不動産企業も所属していた新興宗教まがいの経営コンサルタント会社「慧光塾」、そして後者は故・新井将敬代議士の個人的な会の流れを酌む「日本ベンチャー協議会」の人脈と重なると考える。
「日本ベンチャー協議会」には、ライブドアと親しい関係にある「インデックス」、「アイ・シー・エフ」、「サイバーエイジェント」の他、「光通信」、「USEN」、「楽天」、「サイバード」などいま注目のIT系企業がズラリ登場する。そして、「慧光塾」の結婚式出席者のメンバーはこちら。
 そして、さらに注目すべきなのは、阪神電鉄株買い占めの渦中にあった05年10月、ライブドアも含めたこれらIT系企業の兄貴分的存在の村上ファンド率いる村上世彰氏(ライブドアオート株買い占めでは、「テクノベンチャー」の鮎川純太氏がダミー役として登場。その鮎川氏は「慧光塾」“教祖”息子の結婚式に出ていたのは本紙既報の通り) が安倍官房長官の地元・山口県下関市に出向いて(8日、林芳正参議院議員の後援会セミナーに出席。現在、林参議院議員は実質、安倍代議士の庇護の下にある)、地元の有力者回りをしている。
 このことは、本紙・山岡の知り合いの会社社長も直に村上氏と会っているのだから間違いない。


●IT系企業持ち合いで高騰したライブドア株が、事前に複数の政治家へバラ撒かれていた?


 では、こうした関わり合いは何のためのものなのか?
「特捜部は、マネーライフなど疑惑の企業買収でライブドア株が高騰した際、同じく、ライブドア証券や堀江氏個人の資金が南野建設など仕手化した上場企業の第3者割当増資を引き受けた際にも、これらベンチャー企業が引き受け手となって協力、一方、政治家には投資事業組合等を通じて秘密裏に株を買わせて儲けさせていたのではないかと見ています。その仲介の一部は、武部幹事長が次男と堀江氏との関係からやった可能性もあります」(事情通)
 こうして見て来ると、「安晋会」の闇は安倍幹事長だけでなく、多くの自民党政治家、さらには民主党政治家にも波及する可能性を秘めている。
 ただ、ここまで切り込むためには、大手マスコミがこうした問題提起をし、世論を喚起することが必要不可欠だが、政治家とベッタリの政治部主導で、社会部は薄々わかっていても未だ記事化出来てていないのが現状だ。
 こうしたなか、今回の『週刊ポスト』の報道は、記者クラブに属さない雑誌ジャーナリズムの面目躍如といえそう。追加報道に期待したい。


【私的めもらんだむ】


○9時半
寝過ごしてしまった。夜遅く図解を手直ししていたせいもあるが、猫たちの喧嘩の音が凄まじく、眠れなかったのだ。ぎゃぎゃぎゃぎゃ、ふぃーっ、ぎゃあんんん、がちゃん・・・といった具合だ。それが延々と続く。自分の癇癪もちな性癖を治すチャンスだと思い込もうとしても、やっぱり無理・・・てめえら、もう許しちゃおけねえ、みんなぶっ殺してやるうぅぅぅぅ・・・というわけで、安眠妨害は私より隣から苦情となって、私が責められるというわけだ。昨日は12匹の猫の鳴き声でノイローゼになりかかった。というよりノイローゼになってしまっているのかも知れない。それでも猫たちは可愛い、と思ってしまう自分が分からない。メス猫「パーコ」は「ラブラブ」と名前を変えた。そのラブラブは寝ている私の顎を噛む癖がある。これがすこぶる痛い。私が悲鳴をあげるのが面白いらしい。困ったものだ。

今日は月末とあって忙しくなる。さてと、まずは猫に餌を与えなければ・・・どっこいしょ。

○12時半
面倒だと思ってはならない。百里の道も一歩から、ローマは一日にして成らず、コツコツと日常的にこなし、そして生きていく・・・その繰り返しだ。いま妹に会計全般のあらましを聞いている。今日は金属元請けの監督が先月売掛の小切手をもってくる日なのだ。5万余、うち地代4万5000支払えば生活は成り立たない。成り立たない生活をどう成り立たせるか・・・どうするの?あんちゃん・・・とうするのって云われてもどうもならん。今月分10万余の売掛を担保に借金するしかないだろう。借金といってもまた身内からでしょ・・・あたりまえだ、民間金融から借りたら利息でそれこそ成り立たなくなる・・・私んとこもギリギリやってんだからね・・・分かってる・・・分かってないから云ってるんでしょ・・・それも分かってる・・・ばかみたい。ばかじゃみたいじゃねえ、正真正銘のオレはバカなんだ。オレだって好き好んで貧乏してるわけじゃあない。車両元請けにバッサリ切られたばっかりに貧乏を余儀なくされたんじゃねえか。あの社長は元ヤクザの幹部、というか現役のゴロツキだ。みんな陰では人殺しって噂してる。少なくともムショ暮らしをしてたのは確かだ。それが今じゃ地元の名士だ。警察の車両一手に引き受けて仕事してらぁ。商工会利用し3000万引き出して、自分の会社に融資する悪賢い悪党だ。S連合の幹部というウラの顔を念頭におかないと・・・あれ?妹がいなくなっちゃった。弁当買いに行ったらしい。もう昼か・・・ちなみに、私の会社はかつて建築関連も手がけていたが、これもワケあって手離した。つまり、建築と車両分野を無くして、金属処理だけを細々と一人でやってるというわけだ。3万という最悪の月もある。それでも私は幸運なほうだ。私は会社運営諦めて貧乏を選んだ。何とか会社を維持しようと今も頑張ってる会社の殆どは、毎月の累積赤字で首が回らなくなってる。夜逃げ自殺も珍しくなくなった。驚かなくなった。なあMよ、おまえさぞ苦しかったろう。でもなんで自殺する前におれんとこ相談しに来なかったんだ。オレ、今でもおまえのこと思い出して泣いてるんだぞ。悔しいぜ、ホントによ。銀行に裏切られたって云ってたなぁ・・・オレ、ばかだから、わざとおまえの会社に電話することがあるんだ。すると「前の社長はすでにお亡くなりになりました」って云われる。そうでもしないと自己確認できないだろ。そんなことはない、それは嘘だって・・・何かの間違いだって、何もかも否定したくなるんだ。なぁMよ、オレの気持ち分かるだろ?ああ、それだ。その笑顔だ。クラス随一の貴公子、女子生徒にきゃあきゃあ騒がれてた青春時代・・・そのままの笑顔だ。オレは今、インターネットで闘ってる・・・つもりだ。あの世で見守っていてくれ。いずれそっちに行ったらゆっくり酒飲みながら話そうぜ。ところでそっちに、あの世にも酒があるのか?

○14時
野口氏死因疑惑について・・・

「駆けつけた当時、男性は血だらけで手足をバタつかせ、その後グッタリした。カプセル内のベッドは血だらけで、当初見た限り出血部分の判別が困難だった。男性は備え付けのガウンとトランクスを着て、ベッドに仰向けになっていた。ガウンはだけていて、ために腹部の裂傷だけは即座に確認できた。傷は、頸部二箇所に各5センチ、左手首に5センチ、腹部7センチ及び深さ8センチの計4箇所あり、腹部からは腸が飛び出していた。いずれも鋭利な刃物で刺したうえに引いており、傷口がパックリ開いている状態。魚をさばいたような感じで、深さ1~2センチの本格的な傷だった。ためらい傷というようなものではない」・・・救急隊員の証言

警察が自殺と断定した根拠に対する疑問点。

①左手首、首にためらい傷あり
---救急隊員の証言からも警察のいう「ためらい傷」は全くのところ認められない。
②カプセルは1畳ほどの狭さ、ホテル内では人通りもあって他殺は困難
---1畳ほどの狭さはカプセル内のベッドのスペースだけで、野口氏が宿泊したのは室内にカプセルのあるデラックスタイプ。しかも室内には二畳分のフロアがあって、大人二人はゆうに入れる。
③部屋には内鍵がかかっており、外部からの侵入はなかった。
---部屋の鍵はオートロック、部屋を出れば自動的に鍵がかかる。したがって外部からの侵入者でも内鍵はかけられる。ホテル内の構造を大まかに把握した者なら、フロントを通らずにフロアの非常階段を使えば侵入可能。当時も今も、非常階段の扉は開いたままになっている。

・・・と、妹が外で何か云ってる。白い猫が外に飛び出したって・・・あちゃ~、前の旧国道に飛び出せば即座に猫の挽肉の出来上がりだ。一瞬見たところ自宅にいたメス猫イチコらしい。寄ると素早く逃げ去った。追う、追われるのパターンを崩さなければならない。したがって追わない、逆に誘導する。玄関を開けて、さあどうぞ、だ。やがてイチコが警戒しながら姿を現す。私を見ている。私は後ろ向きになって離れる。入った・・・で玄関を閉める。やれやれ・・・と、思ったら今度は別の隙間から・・・逃げた。もう勝手にしろ。このへんが限界だ。やってられねぇや。

○16時
イチコが今、私の傍らにいる。外で呼んだらイチコの方が寄ってきたのを捕まえたのだ。今日は猫に振り回されっぱなしで、時間を盗られてしまった。イチコは時間泥棒だ。

私の図解は少しずつではあるが利用されていっているらしい。それこそ私が望んでいたことであって、ための一切の著作権は最初から放棄宣言している。役に立ってこその図解作成である。それを効果的に使うためには図のあるページURLをターゲット取得することだが、その場での右クリック→表示最下部プロパティでの左クリック→でURL表示部分をコピーすれば済む。ぜひ試されたい。留意すべきは他の映像のないページ空白部分でのクリックぐらいだろう。これをリンクを嵌めれば目的のページに飛ぶことが出来る。いずれもっと使い勝手の良い図解にしたいと思っている。時間が制限されている中での作成作業、誤字脱字ミス諸々、指摘されたい。




http://csx.jp/~gabana/Zaakan/hibi0601/hibi-niisi060131.htm

【新じねん】


http://csx.jp/~gabana/index.html





安倍戦争内閣の「共謀罪」その兇暴が視えないか

2006年10月21日 | 共謀罪

安倍戦争内閣2
zaimu





島川 雅史

アメリカ東アジア軍事戦略と日米安保体制―付・国防総省第四次東アジア戦略報告




島川 雅史

アメリカ東アジア軍事戦略と日米安保体制―付・国防総省第四次東アジア戦略報告/日米同盟・未来へ向けての再編成と再調整




本山 美彦

売られるアジア―国際金融複合体の戦略




鮫島 敬治, 日本経済研究センター

中国の世紀 日本の戦略―米中緊密化の狭間で




原 洋之介

東アジア経済戦略 文明の中の経済という視点から




中村 勝範

運命共同体としての日米そして台湾―二十一世紀の国家戦略




丸谷 吉男

ラテンアメリカの経済開発と産業政策―累積債務危機下の戦略産業




佐々木 隆爾

世界史の中のアジアと日本―アメリカの世界戦略と日本戦後史の視座