水瓶

ファンタジーや日々のこと

私とおれと非情な世界

2016-04-27 21:05:03 | 雑記
「湖中の女」「さらば愛しき女よ」「高い窓」「ベイシティブルース」と、たて続けのチャンドラー三昧でした。
会話する時は「おれ」や「ぼく」になったりしますが、語り手マーロウの一人称は「私」。
ハードボイルドの語り手が「おれ」だと、ちょっとワイルドすぎるんですよね。
といって「ぼく」では、青二才や若造っぽくて合わないし、やっぱり「私」しかないなと。
前にレックス・スタウトの美食探偵ネロシリーズで、探偵助手の語り手が、最初読んだ本では「私」で、
後に読んだ本が「ぼく」で、えらくイメージが違ってしまい、戸惑ったおぼえがあります。
(最初に読んだせいかそのシリーズでは「私」の方が私は気に入ったんですが。)
ことほどさように一人称はすんごく大事だと思うんですが、

待てよ、これみんな原作では「 I 」なんだな。。。

それも老若男女問わず。うーん、この生粋の、絶対一人称感覚はどうしてもわからん。。
でもシンプルでうらやましい気もしますね。

読んでて、ハードボイルドがどうして苦手だったか思い出したんですが、
登場人物が、たとえば主人公に好意的なのか、敵意を持ってるのかとかが、わかりにくいんですよね。
言ってることが嫌味なのか、それともほめてんのかとか、そういう対人関係の状況がわかりにくい。
これは外国の本を初めて読み始めた時にも感じて、少しずつ慣れてわかるようになっていったんだけれど、
ハードボイルドはその上に、裏社会的な、アウトサイダー的な人が多く出て来るので、さらにわかりにくいんです。
こういうこと言ったらふつう怒るよね、とか、なんでこんなこと言われて怒らずにむしろまじめに話し出すのかとか、
いまだに感覚的につかめない所が多いです。でも、面白く読める程度にはわかるから、ま、いいか。
案外こういうのが、外国の本を読む醍醐味の一つだったりするのかも知れませんね。
ああ、こういう感覚が違う世界もあるんだなあと。

(基本的に初対面の相手を怒らせるようなことしか言わないように私には思えるのがハードボイルドでの会話です。
だから、なぜあれで怒ってこれで怒らないのか、とか、法則がようわからんのですね。。
でも、その怒らせる会話から、回を重ねるごとに少し違う感じに移行してゆく相手があり、
人情の機微みたいのが感じ取れることがあって、そういう時はなかなかじんときます。びっくりするくらい繊細な部分がある。
「ロング・グッドバイ」のキャンディとか、「高い窓」のエレベーター係のじいさんとか。
逆に、好意を寄せていた(ように見える)相手の裏切りなら、意外性が増しますね。
だから、一見とてもワイルド&ハードな非情の世界において、そういう微妙な人情の機微を読み取ることは、
すごく大事な、面白く読めるポイントになるんじゃないかと思います。
いや、でもこの辺の人情の機微って、実はハードボイルドの要中の要でないのかひょっとして。
そしてそれは小津映画にも通ずるのです。たぶん。



それにしてもチャンドラー、どれも面白くてやめられない止まらないでぶっ続けで読んだんだけれど、

これはこれで気持ちが沈んできた……

まあ、けして愉快な話ではないですし、ハードボイルドだけに拳や銃弾が飛び交う暴力的なシーンも多いですし、
しかもなんか最後はスカッとするというより物哀しかったりするし。大鹿マロイ……。。
でも、非情は無情ではないんだなあと。
私は、チャンドラーと小津映画に、受ける印象が似てる部分がある気がするんですが、
小津映画はハードボイルド・ホームドラマっていうとピッタリ来ませんか?・・・来ないか。

チャンドラーの次のを読み出す前に、いったん休憩して雑草の本を読もうかなと思ってます。
しかし、猫を顔に投げつけて窮地を逃れるって、ちょっとひどくありませんかね?バリバリッて。


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