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水瓶

ファンタジーや日々のこと

ふしぎな室町時代

2016-06-09 20:46:05 | 雑記
お茶、お花、能、日本庭園。床の間、まんじゅう、ようかん、納豆。
いわゆる日本文化と言われるものが続々と誕生した室町時代なのに、なぜかあまりドラマや映画や小説の舞台になりません。
英雄不在の上に、かつては国体が揺らいだ悪しき時代、乱世の至りとも言われ、あまりスポットが当てられて来なかったらしいです。
(今は、はっきりと日本の国家といえるような確かなものが、その当時すでに成立していたかは疑問視されているようです。)
でも、中公文庫の「下克上の時代」を読んだらとても面白かったので、印象に残ったことをいくつか書きとめておこうと。
もとは神様が夜下りて来る部屋だったらしい床の間は、室町時代には、身分の高い人が訪れた時のための部屋に変わったようです。
身分の高い人と低い人が、それまでにはなかったほど近接した時代だったんですね。下克上だものね。

宮本常一さんの本読んでふしぎに思っていたんですが、江戸時代になっても日本の農業は生産力があまり上がらず、
飢饉にも弱かったのに、文字が読めて学問を納めている、しかも年貢を取り立てる役目の武士階級が、なぜ農業の知識とかを得て、
ぎりぎりで余裕のない状態で働いてる農民に教えるなりして助けなかったんだろうと。
それは鎌倉時代から室町にかけて一揆が沢山起こったために、兵農分離という政策が取られたからのようです。武士と農民を引き離す。
室町時代には、国人とか地侍とか呼ばれる、武装した農民のような、まだ身分がはっきり農民とも武士ともつかない荘園現地に根付いた人たちが、一揆のリーダー的な役割を果たして、荘園領主や有徳の人たち(お金持ち)から借金を棒引きにさせたり年貢を納めなかったり、蔵を焼いたり強奪したりなどして、守護大名や公家や豪商などの財政の基盤であった荘園制度がゆらいだために、たいへん警戒されるようになったようです。

「中世人の感情の起伏は、われわれ近代人には想像のつかぬほど激しいものだ」

上は引用されていたフランスの歴史家の言葉で、これは日本の中世にも通じるとありました。
だから後世秀吉がかなり厳重に刀狩りしたんだな。。

ことほどさように乱世、悪しき時代とも言われた室町時代に、今、日本文化といわれるものの土台が築かれたのもふしぎな話です。
何かといえば能や花見などの贅を尽くした宴を開き、その都度臨時に税を取り立てたり、天候不順で大変な飢饉が起き、日本中が飢え、京の町にも沢山の餓死者が出ているさなかにも豪華な猿楽能の宴を開いたり、将軍家の後継者争いも絡んで勃発して、国土の荒れ果てた応仁の乱の直後に、慈照寺(銀閣寺)の建立を始めたような、悪政ばかりを重ねた第八代将軍足利義政。
実質的な権力を強力な管領細川家に握られていたためか、ただただ女色にふける嬾惰な生活を送っていたようなろくでなしなんですけれど、たった一つ、文化にだけは結果的にしろ大きな貢献をしたのは間違いないようです。
時衆の僧侶には、大変身分が低いと蔑視の対象であったと呼ばれていたような人が多かったそうなんですが、造園家として優れていたり、また唐の文物などに大変目が利いたそうで、そうした人たちを義政は同朋衆としてそばに置いていた。
そうしてあちこちのお寺のすぐれた庭園を同朋衆に見学させたりしてるんですが、お寺の方では、そんな身分の者を寺の中に入れるなんてとんでもないと怒って拒否したりなどもあったそうです。
でも室町時代に、後々までも残る土台となった文化が芽生えたのは、そんな風に身分のかけ離れた人々が近接したせいもあるのかなと。
誰かがこういう文化をつくろう、盛り立てようと運動めいたことをしたわけでもなく、
なにか文化を形づくらせる、大きな波のような力が、思いもよらぬ方へと人を動かしたかのようにさえ思えてしまう。
土台になるような大きな文化って、案外そんな風に生まれて来るものなのかも知れない。
あと文化って、あんまり人道にのっとって生まれて来る性質のものじゃないのかなって気もします。昔の外国の例を見ても。
たぶん、多かれ少なかれ、非・人道的とも言えるような面があるんですよね。
だから義政みたいな、人間的にはろくでなもない人たちのもとでも、すぐれた文化が育つことがある。

室町時代を代表する人物の一人として、浄土真宗中興の祖、蓮如のことが取り上げられていたんですが、
蓮如という人は、万人は平等であると説く一方で、衰退していた教団を、団結力の強い上意下達の組織につくりあげたそうで、
なんか田中角栄さんみたいなイメージが浮かんで来ました。うん、角栄さんは真宗っぽい。
鎌倉時代に親鸞が開いた浄土真宗ですが、有名な悪人正機という話があって、

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。

「善人でさえ救われるのだから、悪人が救われないわけがない」というような意味になるそうで、
え、なんで?逆じゃなくて??と、どうにも腑に落ちなかったんですが、この本の著者は、悪人=民衆とあっさり言っていて、
つまり鎌倉から室町にかけては飢饉や戦の打ち続く乱世で、そうした世情ではほとんど誰もが、年貢をごまかしたり、人を欺いたり、
場合によっては盗みを働いたりなどしなければ、生き延びることができなかった。
戦や、あるいは身を守るためにも、人を殺すことだってあったろう。
だから、ここでいう「善人」とは、そんな世にも関わらず、悪に手を染めずに生きられた、大変恵まれた境遇にあった運のいい人、
ぐらいの意味で、それならば「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と、すんなり飲み込めるように思いました。
平安時代には根付いていた極楽浄土の思想から、悪いことをすれば地獄に堕ちると知っていながら、
悪をなさなければ今を生き延びることができず、来世の報いに怯えながらも悪事に手を染めつつ生きていた庶民をこそ救う教えが、
親鸞の説く悪人正機だったんだろうと。これと似たような話は、新約聖書のルカ伝にもありました。
誰もが悪をなさずには生き延びられないような世の中だったからこそ、悪人=民衆救済が強く訴えられ、それにリアリティがあった。
中世と現代では、バックグラウンドが大きく違うんですね。ここの所は本当に目からうろこでした。

それにしても「下克上の時代」を読み終えて、次の「戦国大名」を読み始めたんですが、義政と日野富子の息子・九代将軍義尚について、
「下克上の時代」では、父親の義政に女性の好みも似てて同じ女性を取り合うろくでなしのように書かれてるのに、
「戦国大名」の巻では、才に恵まれながらも遠征先で夭逝した悲運のイケメン将軍のように書かれてて、
同じシリーズならコンセンサスを取ってくれなければ混乱します。どっちなんだ一体。
いや、でもね、室町侮るべからず、ですぞ。ほんとに。


私とおれと非情な世界

2016-04-27 21:05:03 | 雑記
「湖中の女」「さらば愛しき女よ」「高い窓」「ベイシティブルース」と、たて続けのチャンドラー三昧でした。
会話する時は「おれ」や「ぼく」になったりしますが、語り手マーロウの一人称は「私」。
ハードボイルドの語り手が「おれ」だと、ちょっとワイルドすぎるんですよね。
といって「ぼく」では、青二才や若造っぽくて合わないし、やっぱり「私」しかないなと。
前にレックス・スタウトの美食探偵ネロシリーズで、探偵助手の語り手が、最初読んだ本では「私」で、
後に読んだ本が「ぼく」で、えらくイメージが違ってしまい、戸惑ったおぼえがあります。
(最初に読んだせいかそのシリーズでは「私」の方が私は気に入ったんですが。)
ことほどさように一人称はすんごく大事だと思うんですが、

待てよ、これみんな原作では「 I 」なんだな。。。

それも老若男女問わず。うーん、この生粋の、絶対一人称感覚はどうしてもわからん。。
でもシンプルでうらやましい気もしますね。

読んでて、ハードボイルドがどうして苦手だったか思い出したんですが、
登場人物が、たとえば主人公に好意的なのか、敵意を持ってるのかとかが、わかりにくいんですよね。
言ってることが嫌味なのか、それともほめてんのかとか、そういう対人関係の状況がわかりにくい。
これは外国の本を初めて読み始めた時にも感じて、少しずつ慣れてわかるようになっていったんだけれど、
ハードボイルドはその上に、裏社会的な、アウトサイダー的な人が多く出て来るので、さらにわかりにくいんです。
こういうこと言ったらふつう怒るよね、とか、なんでこんなこと言われて怒らずにむしろまじめに話し出すのかとか、
いまだに感覚的につかめない所が多いです。でも、面白く読める程度にはわかるから、ま、いいか。
案外こういうのが、外国の本を読む醍醐味の一つだったりするのかも知れませんね。
ああ、こういう感覚が違う世界もあるんだなあと。

(基本的に初対面の相手を怒らせるようなことしか言わないように私には思えるのがハードボイルドでの会話です。
だから、なぜあれで怒ってこれで怒らないのか、とか、法則がようわからんのですね。。
でも、その怒らせる会話から、回を重ねるごとに少し違う感じに移行してゆく相手があり、
人情の機微みたいのが感じ取れることがあって、そういう時はなかなかじんときます。びっくりするくらい繊細な部分がある。
「ロング・グッドバイ」のキャンディとか、「高い窓」のエレベーター係のじいさんとか。
逆に、好意を寄せていた(ように見える)相手の裏切りなら、意外性が増しますね。
だから、一見とてもワイルド&ハードな非情の世界において、そういう微妙な人情の機微を読み取ることは、
すごく大事な、面白く読めるポイントになるんじゃないかと思います。
いや、でもこの辺の人情の機微って、実はハードボイルドの要中の要でないのかひょっとして。
そしてそれは小津映画にも通ずるのです。たぶん。



それにしてもチャンドラー、どれも面白くてやめられない止まらないでぶっ続けで読んだんだけれど、

これはこれで気持ちが沈んできた……

まあ、けして愉快な話ではないですし、ハードボイルドだけに拳や銃弾が飛び交う暴力的なシーンも多いですし、
しかもなんか最後はスカッとするというより物哀しかったりするし。大鹿マロイ……。。
でも、非情は無情ではないんだなあと。
私は、チャンドラーと小津映画に、受ける印象が似てる部分がある気がするんですが、
小津映画はハードボイルド・ホームドラマっていうとピッタリ来ませんか?・・・来ないか。

チャンドラーの次のを読み出す前に、いったん休憩して雑草の本を読もうかなと思ってます。
しかし、猫を顔に投げつけて窮地を逃れるって、ちょっとひどくありませんかね?バリバリッて。


「ロング・グッドバイ」レイモンド・チャンドラー

2016-04-20 13:58:29 | 雑記
まだ読んでない古典的名作なんて世の中に山ほどあるんです。
先日実家へ帰るのに、Kindleで電車の時間持たせる本をと思って買った「ロング・グッドバイ」
タイトル通りとても長い小説なんですが、長~い東武線タイムが「え、もうついたの?」となるほど夢中になって、
ようやく読み終えたところです。
推理小説は好きだけどハードボイルドはちょっと・・・と例のごとくの食わず嫌いで今まで読まずに来ましたが

名作中の傑作だよ!

ミステリー系の面白さって、やっぱり犯人は誰かとかトリックとか、意外などんでん返しとかのその辺りにあって、
謎解きの段階へとひっぱる力が強く、その力があんまり強すぎる場合には、
こらえ性のない私は中間の文章をおおざっぱに読み飛ばしてしまったりすることもあるんですが、これが起きず。
読み終わってみれば、ミステリの名作連にも遜色ないほど意外性のある展開の連続で、
ラストにも「うええっ、このうえ?!」的な驚きがあるんですけれど、
そういったミステリでは重要なポイントが大したことじゃないと思えるぐらい文章が面白いんです。
それがどんなに平凡で些細な、本筋に関係のない寄り道のようなエピソードであれ、
語り手マーロウが次々と開けてゆくドアの向こうに見える景色から目がはなせず、先を急ぎたくなくなってしまう。
糸そのものに夢中になって手繰っている内に、いつの間にか迷宮の外に出てたという感じで迎える結末。
話の筋立てより一つ一つの文そのものにこんなに夢中になって読んだ本って、ちょっと他に思い出せません。
チャンドラーは脚本家の仕事をしていたこともあったそうで、そういうのも生きてんのかなあ。にしてもすごいなあ。
タイトルが旧訳は「長いお別れ」、新訳は「ロング・グッドバイ」。つまりこれしかないのだ。

あとがきによれば、マーロウのシリーズ七作中この「ロング・グッドバイ」が抜きん出た名作のようなんですが、
他のも駄作はなく面白いそうなので、よし、これから全部読むぞ。
そうそれに、今週金曜日の午後一時から、BSプレミアムで「さらば愛しき女よ」やるんですよ。
この番組表見て、あ、チャンドラー読んでみようかなあと思いついたんです。でも多分見られない。

録画機能ついたテレビ欲しいなあ……欲しい……あー欲しい。

私は車は全然詳しくないんですが、キャデラックだけは嫌いです。
ダーティ・ハリーでクリント・イーストウッドが乗ってたような、やたら平べったい四角い車。
でも、今の新しい型のキャデラックは大分雰囲気違うみたいですね。いや、作中に出て来たもんで。
ハリウッドがろくでもないやくざな世界で、俳優や業界の人間をいっぱい麻薬中毒者とかにして来たにも関わらず、
あんなに面白くてすばらしい映画をいっぱい生み出して来たっていうのが不思議な、それともそういうもんなのかな。

そういえば、知る人ぞ知る有名なMARLOWEというプリン屋さんが葉山にありまして、
ここのプリンはよほどタフでないと一度に一個食べきれません。でもとってもおいしいよ!

見えない奥行き

2016-04-13 20:25:38 | 雑記
横浜人形の家に展示してあった平田郷陽の人形、「戯れ」。

先日BSの映画で「晩春」に続き「彼岸花」をやってまして、これは小津安二郎監督の初カラー作品だそうです。
しかしー、あー、、、小津安二郎の映画は

なんで面白いのかわからない。。。

・・・いや、面白いんですよ?でも、何がどう面白いのかうまく言えない。。

「彼岸花」の主人公は佐分利信、つまり中年のおじさんでして、しかも「晩春」の笠智衆演じる、ああなんかこういう朴訥なお父さんいいなあみたいな感じもなく、そういえば昔ってこういう無愛想で横柄なおっさん多かったなあとちょっといやな感慨にひたるくらいの感じで、話の内容も有馬稲子演じる長女の恋人(佐田啓二:イケメンという言葉を使うのがはばかられる品のある美好青年。中井貴一のお父さん!)が一流っぽい企業の重役である佐分利信の所へお嬢さんと結婚したいとあいさつに来て、親の知らない間にそんな間柄になっていた男がいたのかー!!と佐分利信が憤慨して結婚に反対するという、現代の感覚からするといったい何が不満かと問い詰めたくなるような内容です。今は、この娘の結婚の自由みたいな表面的なテーマについてはほぼ解決されてる気がしますし(今こういう経緯でもめる家ってあるんだろか・・?)、じゃあ見ても面白くないかというとけっしてそんなことはないんです。ほんとに小津安二郎の映画は、いったい何が面白くて見てしまうのか。

「端午」

ひとつには、前にも書きましたが距離のこと。
小津安二郎は、後のテレビドラマにあふれるホームドラマの原型を作った人とされているようです。
ある一線を越えてしまうと、狭い家での人の関わりっていうのは本当~にしちめんどうなことになって、
それをあからさまに描いたら不愉快なものにしかならないと思うんですけれど、そうはならない。
それは、狭い日本家屋の中で、すごく上手に距離を取らせてるからじゃないかと。

小津安二郎の好んで使った笠智衆や原節子は、大根というかあんまり演技がうまくない役者という不本意なそしりを受けたことがあったようで、
じゃあ一般に「演技が上手」というのはどういうことを言うんだろうと考えたら、
見てる人の感情移入を強く促すような俳優のことを演技が上手いっていう面があるのかもなあと思いました。のめり込ませる。
笠智衆も原節子も、たとえば映画館の観客全員の感情を私が一手に背負いますみたいな感じはなくて、
むしろ感情をのっけようとすると、すっとてのひらを返されるような、そういう雰囲気があります。それが距離をつくる。
でもたぶん、そこがいいんだなあ。。
そういえば宮崎駿監督が、声優にプロの人をあまり使わなかったっていうのも、
一つにはそういう面があるのかも知れないと思いました。
ちょっとよそよそしく感じられるぐらいの方が見てて心地いい。、、、って年齢になって来たって話なのかも知れないけど。
たしかに若い頃は小津安二郎の映画、つまんなかったですから。

そしてまた、ほどよい距離があることは、奥行きを感じさせてくれるんじゃないかとも思います。
その奥行きの部分は見る人の自由にまかされていて、映画に描かれていることがすべてじゃない、と感じさせてくれる。
「彼岸花」に、同窓会の浴衣姿のおっさんらの宴席で、笠智衆がうまいんだか下手なんだかよくわからない詩吟を吟じるというまったく花のないシーンがそこそこ長くあって、
このシーンなんかもなんで見入ってしまうのか本当にわからなかったんですが、(「晩春」にあった能のシーンも同じく)、
もしかしたら、その場面の奥行きの部分を、見る人にゆずってくれているからかなあと。
全部が全部シナリオに書かれてるわけじゃない、おれは観客が書き込める余白をたっぷり残してあるよと。
そんな風に、見る人の自由にさせてくれる余地がつくられているから、時代を経て、
今ではリアリティのなくなってしまったテーマを扱った映画でも、いいと思える。

「花」

しかし佐分利信の妻役田中絹代が、ラジオで浪曲だかをすんごく楽しそうに聞いてる姿を見て、
ああ昔ってほんとに娯楽が少なかったんだなあと思いました。でもほんとに楽しそうに聞いてるのがちょっとうらやましい。

「晩春」「彼岸花」と小津安二郎の映画を見たら、久しぶりに夢に父親が出て来ました。
小津映画に出て来るような父親像とはかけはなれた、でもやっぱり古いタイプの、大ざっぱでだらしないお父さんでしたが、
夢の雰囲気は悪くなかったです。もう少し長生きしてくれてたら、もっと娘らしいこともしてあげられたのにね。




「晩春」と「荒野の決闘」

2016-04-06 08:44:07 | 雑記
ジグザグ気温の日々に体がついていけない四月、そろそろ桜も見納めになりそうですね。

「晩春」とは、名匠と名高い小津安二郎の映画で、月曜日にBSでやっていました。
歳時記的には五月ぐらいのことをいうらしいので、もうちょっと後でしょうか。
小津安二郎監督といえば、映画の本読んでたら黒澤明と並んでそりゃあもう聞く名前で、
一応十代の頃「秋刀魚の味」をテレビでやっていたのでチャレンジしてみましたが、退屈で途中で見るのやめてしまい、
それっきり。が、今見たら、案の定いいんですよこれが…!
たしかに、この映画の良さは、十代の頃の自分が見てもわからなかっただろうと思います。

印象に残ったことを二つ、書きとどめておこうと。
北鎌倉や京都、それに能の舞台など映像がとにかく美しく、ていうかこれどこの国???てなぐらい、
ほとんど異国のように感じられ、ほぼ外人感覚で見ました。
あー、なんか外国の人受けがよかったのがすごくよくわかる………。
前にもちょっと書いたんですが、ダンセイニに「ブウォナ・クブラの最後の夢」という短編があって、
遠いアフリカの地で死んだイギリス人の、望郷の念みたいなものが見せるロンドンの幻のお話なんですが、
それは現実のロンドンとも異なっていて、

「たとえるなら、ある見知らぬ女性の顔を、その恋人の目を通して覗き込んでいるような感じだろうか。」

晩春の背景として描かれる日本は、まさにこんな日本です。どこにもない国、けしてたどり着けない都市。
同時に、「恋人の目」だけでは、こんなに美しい映画はつくれなかっただろうとも思うのです。

もう一つは、あくまで私の感じ方なんですけれど、
原節子演ずるヒロイン紀子を中心に話が回るんですが、ヒロインに強く感情移入するでもなく、
なんとなく全体的に、特定の人物に強く感情移入する所を巧みに避けさせられてるような気がしました。
原節子の、まるで大理石の彫像のような近づきがたい美貌もまた、自然に距離を取らせるんですね。
かといって全然感情移入できないわけではなく、笠智衆演じるヒロインの父親や杉村春子演じる世話好きの叔母さん、
年齢の近い親しい女性、はてはヒロインの結婚式帰りに父親が寄る居酒屋の店主にまで、
薄く、広く、感情移入するような感じで、これが大変心地いいんです。
廊下の奥から部屋を、入口の枠で断ち切られた形になった室内を映すシーンが何度かあって、特徴的に感じたんですが、
ちょうどその廊下分の距離を、映画と観客の間に上手に保っている感じで。
見終わったあとに、月並みな言い方ですが、とてもいやされた感じがしました。



で、晩春を見た次の日には、これまた名匠ジョン・フォードの「荒野の決闘」を見たんですが、
やっぱりすごく面白くて、いいんですよね。。
晩春とはまったく違うタイプだけれど、うーん、さすがハリウッドといおうか。
しかしモノクロ映画って、女優の美しさになめらかな艶の出るうわぐすりをかけるような感じがありますよね。

昔何かで読んだんですが、小津監督が戦時中に映画をつくれず、しかたなしに検閲だか敵性研究だかの名分のもとに外国映画を見まくってたそうで、
その時に、戦時中にも関わらず巨額の費用をつぎ込んで、自由に大作を作っているアメリカ映画を見て、
こんな国に勝てるわけがないと思ったそうです。
「荒野の決闘」の公開が1946年ですから、多分クランクインはまだ戦時中じゃなかったかと思うんだけれど、、、
うーむ、推して知るべし。
もしかしたらその時に感じた憂き目が、とびきり美しい「晩春」や、
最高傑作と呼ばれるのちの「東京物語」につながったのかも知れませんね。まだ見てないけど。



ちなみに「荒野の決闘」は、OK牧場の出典元です。やっとわかったよ石松。。。
Oh My Darling Clementine~♪