対岸にカラス等へえさをやる御仁がいて、加工食品のようなものをトンビが横取り、カラス2~3羽が追いかけます。
数日前に寒中見舞い状が届いた。そういえば年賀状は毎年元旦にいただいていたが、今年は届いていなかった。訃報についてはどなたからも知らせはなかった。昨年の5月に九十歳で永眠されたようである。学部は異なっていたが、大学校時代から存じ上げていて、本部の教材課に勤務していた時には同じ島におられ、親しくしていただいた。仕事のことも多くを学び、飄々とした性格は、敵を作らず、腰が低かった思い出がある。博識であり、時計の修理にかけてはプロ顔負けで、自分とは20歳も違っていたとは、知らずにお付き合いをしていただいた。
退職後はゴルフに興じていて、健康のために続けておられた。東北大学の冶金学部を卒業され、大学校の教授を続けておられた。当時大学校には、鋳造と鍛造の専攻コースがあり、先生の母校在学時から鋳造ににに関する特許を取得されていて、その数は計り知れない。連続鋳造に関する著作物も多いと聞いていた。教材課での仕事は、鋳造と鍛造のコースが廃止となったための人事上の措置であったようである。
大学校の卒業生の話によると、評価が二分していた。従来から我が国の教育訓練は、指導者側が懇切丁寧に教えることが優先され、どちらかといえば、押しつけ教育が中心であった。しかし、先生は、放任というか、学生の自主性を重んじる方で、質問には答えてくれたが、従来の指導方法には懐疑的であった。その意味において、職人気質があり、先進的な教育指導を行っていたのかもしれない。
自分自身は、教材課の中でのリベラル派としてみていたが、組織からはみ出た点については許せなかった先輩等もいたようである。職業訓練の指導法や、教材は、当時、見本や手本となるべき固定的な概念が定着していたわけではなく、流動的な、寧ろ試行錯誤的な分野であった。したがって、集団指導が主流であることは現在に至るまで変わっていない。
とはいえ、大学校は文部省が手掛けていなかった部分での独自性を打ち出す機会が多くあり、異質な教授陣の中で培われた世界感は、現代でも十分通じる要素を多く含んでいた。
亡くなられた先生を含め、当時、技術革新が急速に起こった時代でもあり、教材作成業務を通じて、仕事の進め方や、独自の概念形成には多くを学ばせてもらい、自分も、定年を無事に迎えることができた。すでに退職して10年近くなるが、当時のことが沸々とよみがえってくる。ご冥福を祈りたい。
一昨日の午前8時半から翌朝にかけて国税庁のHPが閲覧できない状況となっていたが、メールの機能は正常であったため、メールで閲覧できない旨の通知がなされていた。数日前にやはりメールで、先般提出した(1月25日)確定申告の還付金決定がなされた事を知らせるものあった。事務手続きの関係で、指定した振り込み先の口座には4~5日掛かるという内容であった。
原因は特定されず、調査中であるとのことであったが、最近、厚生労働省のHPも何者かが大量にデータを送りつけたか、閲覧回数がMaxを超えたアクセスがあったようで、サーバー等を外部からの不正操作を行い、ハッキングか、機能不全に陥るような攻撃を仕掛けたものであった。この他にも政府関係の団体等にも被害が及んでいるとの報道があったばかりである。
確定申告をパソコンを使って行うE-taxは、今が最盛期の時であり、多くの利用者が不便さを感じる事態となった。私もその一人である。既に申請は終えていたが、メッセージは国税庁のHPにあるため、HPがダウンしてしまえばメッセージを見ることも出来なくなる。幸い、修復は翌朝までには終わったようで、ホッとしている。
このような顔を見せない情報操作による嫌がらせや、ハッキング等は犯罪であり、中には、かつて情報犯罪に手を染めた者をハッカー(クラッカー)集団を特定し、駆除する側に入って捜査等に協力しているとの話もあるが、何とも許し難い行為であることは間違いない。既に同類の行為を行っている事については、中国政府が関与しているとの話が米国オバマ大統領の弁で伝わっている。これは軍事機密を盗もうとする試みであり、中国政府も同様なことの被害者だとの立場を崩していない。
個人情報についても、そのデータベースを持っている機関や組織からの情報流出は頻繁に発生していて、止まるところを知らない状況にあり、政府が力を入れている今のマイナンバー制度においても同様で、電子情報の形を取れば、流出の可能性を否定できない。このことは、先般、市民アカデミーで、受講したコースの講師であった慶応大学の教授である狼先生も指摘していたところである。
身近なところで発生した今回の出来事が他山の石となり、電子情報の危うさについては平素からご注意され、肝に銘じられるよう願っている。
普段の生活において、当たり前のことの理由がわからないでいるのは、どうも落ち着かない。人に聞いても分からないとか、質問自体の理由を問われる。相手も分かっていないのだなと思いながらいるが、その中で、1年は365日であり、4年に1回366日になるうるう年(閏年)がある。日数からすると4年に1度どこかの月で1日を加えればよいだけであるが、地球が太陽を1周する周期に誤差があるためで、その調整日としてうるう月があり、その月を含む年がうるう年となるのは誰でも知っていることである。
ではなぜ2月だけが28日で、あるのかということである。閏年は28日に1日加え、29日にするが、これでは答えにならない。その理由はローマ時代にさかのぼることになる。紀元前8世紀ごろにローマで使われていたロムルス暦では1年は10月分しかなく、3月から始まり12月で終わっていた。3月は31日、4月は30日、これが交互に繰り返される。しかし、9月は8月に続けて30日であり12月の30日であった。1年に日付は304日と冬の期間であった。冬の期間は月がなく農作業中心の社会は休眠期で日付は必要なかった。
その後ローマの王で、マヌ・ポンピリウスは冬に期間に月を3か月間加えるヌマ暦を制定する。30日や28日は偶数日であるが、偶数が不吉であるとの迷信があり、31日と29日に改められた。トータルすると355日で、どうでもよい2月は28日であった。残る10日は2年に一度うるう月を設け、うるう月の調整には2月が用いられていて、23日や24日となっていたようである。
その後(紀元前45年)、ジュリアス・シーザ(ユリウス・カイサル)が現在使われているユリウス暦を制定した。そして始まりの月は1月(ジャヌアリ)となり、31日と30日の暦ができた。この時も古くからの習慣となった2月での調整が行われ、閏月は2月で調整されたため、28日と29日がある。8月(オーガスト)は、古くは29日であったが、アウグスタス(カエサルの後継者)が勝手に彼の誕生月を自分の名前にし、併せて31日と決めたようで、7月・8月が31日となったといわれている。現在はこのシリウス暦が世界標準となっていて、平年は365日であり、うるう年は4年に1回2月が29日になっている。
ローマ時代とはいえ、為政者が暦を制定する仕事とともに自分の名前を月の呼び名にし、日数を変えるなどすごいことを行ったのには恐れ入る。2月が名前もなく、調整に使われていたため、うるう月に使われたことが分かった。現在では秒単位での修正が行われていて、今までに何度か経験している。うるう秒である。
日頃からチョコレートやココア飲料等を摂取することは珍しいことではなくなった。我が国では栽培に適しているとはいえないが、国内で栽培し、製品化することが試みられているようである。ほとんどは熱帯や亜熱帯地域に属する外国からの輸入品であり、製菓会社等が原料のカカオ豆を加工している。カカオ豆は植物の果実から種を取り出し、発酵や焙煎を経て製品化される。粉末にしたものがココアであり、板状に成形したものがチョコレートであることまでは知っているが、詳しくはよくわからなかった。
日本チョコレート・ココア協会がホームページを持っているので詳細や疑問点がある方はアクセスされるとよい。チョコレートやココア飲料には、ポリフェノールが多く含まれていて、昨今の健康志向には代表的な食品としてよく登場する。食品といっても主食ではなく、どちらかといえば嗜好品に近い。一粒千円もする高級なチョコレートも販売されている。バレンタインチョコなどの宣伝は、製菓メーカーの策略との話もあり、お祭り騒ぎをするほどのものではないが、子供から大人まで他愛のない恋愛ごっこに興じるのも悪くはないのかもしれない。
カカオの栽培はたいへん古く、アステカのインディオが栽培し、飲料や薬品として利用していたとの裏付けは発掘品で証明されている。種の焙煎による抽出法も古くからあるようで、貴族社会の高級な飲料であったようで、大衆に広まるのは後世からであり、わが国では近世になってからである。現在でも口にする機会は多いとまではいえないが、ミント入りのチョコレートは食後に口に入れるとさっぱりとした清涼感が味わえる。
習慣性があるのかもしれないが、中毒になったとの話は耳にしない。砂糖を大量に混入していれば、カカオバターの栄養価は高いし、虫歯や肥満の引き金になる可能性が高い。繊維質が多いため、通じがよくなるとか、ポリフェノールの効果で、抗酸化作用があることは、古くは医薬品でもあったとの用途は頷ける。
ビターという砂糖があまり入っていない方がチョコレートらしいが、余り苦くても好き嫌いに分かれる。最近はポリフェノールの含有量の多いものが好まれているようで、%での表示がされているものも市販されている。飲料の方も、昔はよく飲んだ。冬場には温かいココアはコーヒーと異なり、身体を温める効果があったように思う。消費量は海外と比べると少ないようで、潜在的な需要の掘り起こしには特定日を利用するのも一つの手段であり、消費量も増えているようである。
2016年の春節は2月7日から13日までが連休となっているようで、中国本土や華僑が住む近隣諸国から、連休を利用して我が国に買い物や観光に押し寄せることが続いている。買い物の対象は、家電製品、化粧品、衛生用品等があり、爆買いと称されている。
中国経済の低迷で今後どのようになるか不透明であるが、一時的にせよ、商売人にとっては好況となり利益をもたらす。同様な製品が当該国でも販売されていると思うが、入国ビザの緩和や、富裕層においては、観光も兼ねてのことであろう。それとも品質の高さにほれ込んでいるのか、爆買いの目的はよくわからない。
その意味においては隣国やアジア圏の人々が、わが国の風俗習慣に触れるよい機会となり、異文化交流が深まれば、また、庶民レベルの誤解や脅威が薄まることに通じればこの騒ぎもプラスの側面が功を奏したことになる。しかしながら、金で物事のすべてが解決するなどと方向が変われば、積極性は消極性に変わり、単なる通過儀礼に終わってしまうであろう。
中国製品が、市場にあふれ、どの観光地でも今や、中国語やタガログ語等を大声で話す集団と出会う。マナーも決して良いとはいえないし、衛生感覚の違いも明らかになりつつある。しかし、犯罪発生件数が来日した外国人に多いという統計もないし、門戸を開いているといっても難民や、労働ビザの取得は厳しい規制がある。海に囲まれているという地勢学上の面はあるが、わが国では人の往来は厳しいといってもよいであろう。
我が国が戦後の高度成長期を経て、経済大国となったのも、近隣諸国を含めた経済関係があったからに他ならない。その意味では相手国あっての経済活動がなされ、相手国が拒絶すれば、物を作っても売れないことになる。先進国から学び、先進国の風俗習慣に触れて、今の我が国があることを決して忘れてはならないと思う。
天皇と皇后様が、戦争で迷惑をかけた近隣国の多くの戦死者に対し、その鎮魂の旅をつづけられていることに深く頭が下がる。春節の行事の華やかさの裏には、こうした近隣国への思いが来日する動機の一つになっていると推察されるのであるが、いかがであろうか。
消すことができない過去の傷は心のどこかに残して置くことの大切さを改めて思い、それにふさわしい態度を示す機会となれば、春節の爆買いも許せるような気がしてくる。謙虚に物事を見る目を失ってしまっては来日した外国の方々には、傲慢な日本人と映るであろう。ときには違和感を感じても、そこを強調することの愚かさは慎むべきと思われる。
正規においては確かに情報の進展等による仕事内容が単純化してきた面は賃金低下への方向へ向かうが、一方では、企業の仕事内容は新たの製品開発や、販路拡大にさらされ、より困難な課題解決に向かわざるを得ない。長時間労働が減らない理由でもある。正規の仕事内容が転換期にあるのも事実で、正規の中でも格差拡大傾向は相変わらず存在する。
手を付けなければならない点は、企業利益が拡大していれば、その利潤も多きくなるわけで、これを一定規模で賃金へ回すことの方が、格差について云々するよりもよりも、問題を解決させることに近づくのではないかということである。共産主義でない以上、同一労働、同一賃金は、自由主義の競争社会にはなじまない。それでも、経営者と雇用されたものとの格差は、先進国に比べ、差が少ない我が国であり、その意味では社会主義や共産主義の諸国に近いといえよう。
何度もこのブログで、紹介したところであるが、スキルをテクニカルスキル、ヒューマンスキル、コンセプチュアルスキル3つに分けて、年数と職域とを図式化したロバート・カッツがいる。これは管理職に必要なスキルを示したもので、拡張すれば、一般社員にも適用できる。もちろん非正規社員においても項目だけは利用できると思う。
テクニカルスキルは担当職務に関する固有の能力で、ヒューマンスキルは、対人関係を円滑に処理する能力であり、交渉力、折衝力といった資質である。コンセプチュアルスキルは管理能力、中でも問題解決力のことである。この他に、人物面では、勤勉、センス、ソーシャルマナー、フレキシビリティ、達成意欲、体力、人柄、生活態度等の総合評価がある。どこに注目するかは、業種や、地域、構成メンバー等によって異なるため、同じ仕事といっても人間の違いは歴然とあることを考慮されるべきであろう。(このシリーズ最終回です)
今日の朝刊第一面に取り上げられた政府は秋の臨時国会に現行法の改正案を提出予定である。そのポイントは非正規と正規社員との賃金格差を設けている企業に対し、熟練度を非正規社員に設けるというものである。
現行法制に無い熟練度は業務に対する習熟度、技能、勤続年数というファクターを考慮することになるが、今まででは一律で決められていた非正規社員の賃金が、制度によってより細分化されるため、非正規の中での格付けが行われることになり、格差が生じ、より年功序列制に近づくという逆転現象が起こり得るのである。そうなれば、本来、目指す格差の解消とは逆行することにならないであろうか心配である。
正規においても従来から熟練度や資格、貢献度等をファクターにすることは、賃金決定のプロセスを複雑化しているることにつながっていた。これを非正規まで拡大すれば、納得がいく相対的な指標作りが、新たな判断基準として作られなければならなくなる。
在職当時、賞与の決定の中に、勤勉手当なるものがあった。組織の末端では中央から各施設ごとの原資が職員数掛ける単価の総額で計算され、一括配分される。職員は年次有給休暇以外に早退・遅刻、欠勤、病欠等で職務に従事できない日もあるため、勤務時間が異なってくる。そこで差額が生じ、差額の処理は、安易とはいわないまでも、貢献度で職員へ配分される。一定期間ごとの貢献度とは何によるかというと、貢献度の指標として、出勤率が関係してくる。職員に納得がいく、納得しないまでも他の具体的な使用は見つからないため、大多数の職員の合意が得られやすい指標が、取り入れられたもので、事務方にも計算しやすとされていた。
今回の同一労働・同一賃金の裏には、賃金に回される金額が一定(パイが変わらない)ならば、正規・非正規に配分する基準をどのように差がないようにするかという問題に発展する。つまり、正規が得ている賃金に手を付けなければならないが、正規の納得は難しいだろう。そこで登場した熟練度なるものが曲者である。前述した、納得性と関係してくる。わざわざ判断指標が複雑化する熟練度を導入したとしても、当然ながら、格差の縮小にはつながらず、寧ろ格差が拡大する。(次回へ続きます)