「あわせとえらび」について取り上げたい。子供の頃から自主性を大切にし、学校教育の中においても、普段の生活を通じて、多くの場面で、自分の意見や判断を求められてきた。
根底には、多数決という物事の決定方法を学ぶのであるが、集団の大多数に意見等が集約されることと、自主性とは、ある部分で相反する。人によって意見が違う現実に直面し、判断力が乏しい段階では、大勢に迎合せざるを得ない。つまり自主性とは、個性を形づける性格や、経験が大いに影響する。
我が国が個人に求めることは、ルールの遵守である。法律や条令などの規則の決定段階では、個人の考えや、行動は、大勢が決めたルールに縛られるため、個人は埋没しやすい状況に置かれている。集団主義は、自由主義を凌駕してきた我が国の歴史は、そう簡単には個人主義を迎合しないであろう。村社会を例に取れば、社会の縮図として、村の長の判断が村全体の最終決定を司る。個人主義は利己主義と混同され、個人への攻撃や、無視が行われてきた。特に農村部では、一人の労働力では村全体の効率化には十分ではないであろう。力を合わせることによる集団的行動が必要であったからである。
そこで、あわせるという行動や、物事の判断過程で生まれてきた。そこには自主性がないようであるが、そうではなく、相手を尊重し、その中で我慢することや、相手との関係、拡大すれば、運命共同体との関係を良好に保つことに繋がる。そこには利己的な個人主義は姿を消し、ウィンウィンの関係を保つことが出来る。別の言葉でいえば、村なり・グループなり・組織の所属には個人主義の蔓延る(はびこる)ことの限界があることが分かる。
一方で、欧米の個人主義は、個々の存在と、考えや行動を認め、人はそれぞれ異なるということから出発している。人種、宗教、家庭環境等総てにわたり異なるが、共通していることもあり、必ずしも異質を総て受け入れるかといえばそうでもないことも多い。あえて傾向をいえばという特徴を指摘しているのである。
えらびは選択肢があり、選んだ選択肢の範囲での責任を全うするということで、その裏にはその行動を担保する神(聖書)の存在がある。つまり、行動は全般的に、常に神との対話があるようで、我が国のあわせとは全く異なるこことなる物である。強いていえば、あわせを担保するには神の存在は意識すらされず、相互の信頼関係が左右して、担保することになると思われる。たぶん、我が国は海に囲まれた島国であり、異民族との接触がほとんどなく、幸か不幸か、個人主義の土壌にはなかったからといえる。
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