大正6年生まれの女房の母は、現在98歳になる。56歳の時に他界した自分の母と同じ年齢である。自分の母は、若い時分から余り健康ではなかった様で、戦前に結婚後父が台湾へ応酬されて、戦後まで台湾で生活していた。我が家は兄弟が3人であり、自分と2歳違う兄とは台湾で生まれた。兄は基隆(キールン)で自分は高雄である。軍医から取り上げられたと母がいっていた。終戦後引き上げてきて母の実家であった杉並区関根町1-1(現在は地名変更で、井荻という)の祖父・祖母の家である。戦後神奈川県が分譲住宅を建て、その募集に応募し、見事当選した家が、現在自分が住居としている川崎市多摩区の家である。
昭和30年に杉並区関根町から川崎市多摩区の県営住宅に転居した。当時62世帯が入居していた。父親は遠洋航海の仕事であったため、自宅にいるのは年に1~2回、それも長くて1ヶ月であった。無理をしていたせいか昭和32年に病気で他界した。以後、子供男3人を総て大学まで卒業させてくれたのは教育熱心な母親のお陰である。自分が就職して、数年後に台湾で被患したアメーバー赤痢が原因して、大腸腫瘍が見つかり、療養していたが、昭和50年に薬石効果なく他界した。56歳であった。丁度、結婚して2番目の子供が誕生する前であった。
生まれた娘は既に結婚して2児の母となっている。娘の年からするともう40年も前の話である。女房の母と同じ年なので、では40年間義母に何をしてあげたかを、ふと考えてみた。生活の場が違うといっても、それは仕事にかこつけた自分の逃げでしかない。母と義母とを別段区別して接したことはないが、実の母が他界しているとダブってくるのも確かなことである。
自宅にある母の遺影を見る機会はあるが、母は生前から抹香臭いことが嫌いであったこともあり、儀式張ることは殆ど無かったが、そうであっても夢にすら出てこないのはきっと兄弟が社会人としての生活が出来てきたからであろうか?
実は、早くに両親を亡くした遺児の境遇が、不幸であったかといえばそうではない事を申し上げたい。一般的には、確かに、父親が早くに他界した後、女手一つで3人の子供を育てることは経済的にも社会的にも大変ご苦労が多かったことは経験からして間違いない。
幸いなことに、父親の会社から遺児育英資金なるものがあり、また、親戚や知人の援助があってのことであったが、道を間違えることなく現在まで生きてこられたのは、両親の早過ぎる他界によって、学んだことが生きたことだと自認しているが、丁度ユズリハがそうである様に、親がいつまでも長生きして欲しいことは疑う余地はない。
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