就職に関しての示唆に富む話があった。例として一連の主体性についての派生として出た話で、若干の私論も含まれていることをご承知おきいただきたい。最近の就職に関する心構えが自主性や主体性についての認識を異にしているようで、自分にとって好きなことや、自分の思い通りの職場を希望する若者が増えていることは、就職することの実態が分かっていないからであるとされた。そもそも就職して職に就き賃金をもらうという意味を正しく理解できていないから、そのような安易さがまかり通るとされた。
就職は遊びではない、自己の快楽のために就業するのではないのであり、辛く、厳しく、いやなことも経験していかなければならず、新人社員の個人的能力など企業側もはじめから期待していない。困難な任務やベテランでなければ対応できない職務には就かせないのは当たり前の話である。長い勤務経験があって初めて信頼を勝ち得る。決して始めから自己評価が通る世界ではない。
何故にそのようになるのかは明らかなことで、主体性を持たせる教育に多くの問題がある。褒めることによって、積極性が生まれ、多くの可能性があるとしている。そのこと自体はよいことであり、その通りなのであるが、社会人としてのルールすら分からない新人が、何が出来るのであろうか、出る釘は打たれるのである。突然の拒絶は、企業側の悪意ではない。能ある鷹は爪を隠すで、組織のルールを逸脱して自己主張は通らないのである。企業では個人は協調性の中に存在するもので、一人親方ではない世界を十分理解する必要があろう。
いやな作業でも、単純でばからしい作業でも何でもやってみてから考えればよいのであるが、経験もしないうちから、好き嫌いでは仕事は出来ない。そして大事なことは、考え方の日本人的判断である。何事も中庸といわれるとおり、反対の人がいれば賛成の人がいる。その割合は50対50であり、賛成とも反対とも付かない特徴があるとのことであった。反対している者の意見でも本音と建て前があり、考えは反対しても実際の行動は賛成し、逆も行われる。これを持って調和というのかも知れないが、考え方一つにしても様々あるのが人間世界であることも頭の隅に置いておく必要がある。
中根千枝氏が縦型社会の人間関係でいわれていたことに、あわせと選びがあるが、日本人の特徴として選びよりもあわせを重視するといわれていたことを思い出した。この考え方は多くの日本人が持っているといっても良いと思う。そこには自己主張する主体は顔を出さず、相手にあわせる配慮を求めていることを意味している。
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