ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

暴力と無知の関係

2006年03月11日 22時05分01秒 | Weblog

電話、ふぁっくす、洗濯機、冷蔵庫と故障続きだが、1,2、12チャンネルが入らないテレビで、外部入力の音声が聞こえなくなってひさし。

このためテレビの頭部を思い切り叩いたり(暴力の極地)、スイッチをゆっくり入れたり(融和策)、スイッチの右上をスローモーションビデオを見るように軽く押す(融和策のデフォルメ)などしてきた。しかしいずれの「対処療法」は効果がなかった。

いよいよテレビも買い換え時か―と覚悟していたが、テレビの背後にものを落したので体を乗り出してテレビの裏側の「暗黒の空間」に手を入れたところ、なんと「奇跡」がおきた。

これまで「だんまり」を決め込んでいたテレビに音声が戻ってきたではないか。やはり春なのか。

しかし、そんなたいそうなことではなく、要は音声入力のところの差込みが緩んでいたのである。私の腕の一部が差込みジャックに触れて、この偶然の音声入力点検となり、途絶えていた音声が聞こえた。

「どおーってことない」というのが、なお抱く私の感想だが、これまでの角度を変えて差込みを固定すると、新たな世界が見えてきて。半年間悩んできたことが見事解決した。

ここで発見したことは何か。

教訓1 偶然が発見の母であること。

教訓2 求めよ、さらば与えられん。

教訓3 無知は最大の罪。

教訓4 暴力では何も解決しない。

教訓5 継続は力なり(無音声テレビに断を下し、リサイクルショップなどに持って行ったら、この「奇跡」に立ち合えなかった。音声が聞こえないテレビを放り出さず使っていた継続があればこそ。

原因がわからないことから解決に暴力を使うケースが人類の常套であるのだがー下はテレビの音声回復策から上はアメリカの戦争までー、よーく調べねばならない。調べることが理性的行為なのだ。

そこで最後の教訓。

教訓6 諦めてはならない。
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朝日新聞社のコマーシャルメッセージを考える

2006年03月11日 09時03分30秒 | Weblog

「それでも私たちは言葉を信じている。ジャーナリスト宣言」。どこかおかしくないか。3月から盛んに流れている朝日新聞のコマーシャルメッセージだ。
 ジャーナリズムで重要なのは無論、言葉である。ひどい場合は筆禍事件をおこすし、名誉毀損で提訴されることもある。被疑者と加害者をまちがえば大変なことだ。
 政治でもおなじ。民主党の前原代表は「政治が言葉だ」といったが、永田議員の偽メール問題を意識しての言葉。
しかし朝日の「言葉を信じる」というのは、非常に抽象的である。「ことば」=イデアとしてイデアリズムなる概念を生んだのはギリシャ哲学者のプラトンだが、「言葉」だけとりわけ強調することは、どうしても観念論の領域には入ってしまうのではないか。
 ジャーナリズムは観念論の系譜にはない。日々の具体的な事実からより公益性をもつもの、公正さを獲得するものを一歩一歩求めていくことだ。
問題は観念的メッセージ手法からか、なぜか絶望感が漂う。それは絶望感を脱する方法が「言葉」だということのコンテにあるからだ。

受け手側からすれば、「言葉を信じる」という「信じる」という言葉は「イデア信仰」のような表現をどうして綴られるのかわからない。この新聞社は絶望感が支配しているのかと、視聴者にメッセージを送っているようなものだ。どこかおかしいと感じる背景が、コマーシャル前半にもう出ているのである。
 絶望感はあっても、それを打ち破る具体的な提言、あるいは仕事を打ち出すべきではないか。なぜ抽象に脱するのか。なぜ情緒的訴えのナレーションを流すのか。「危機」のいま、ひたすら情緒的なものとしてとらえるのか。「コマーシャルだから情緒的になる」とコマーシャルのせいにするわけにはゆかないだろう。

 情緒的なるものはどこかに流されていことはいた痛いほどわかっているはずだ。そのことをわかりこのコンテのコマーシャルを採用した狙いは何か。
論理的なるものは主語ー述語を明確化して踏ん張る。どこを主語としどういう行動を選択するかという述語がハッキリしておれば、流されない。
 エモーショナルになりどこかへ流れていこうとするのか。よくわからない。混迷の時代の舵取りの一役を担うというのは一時代前のことなのか。そうではないだろう。ネット時代だからこそ新聞の役割は大きいからだ。総合的にものごとを考えさせる知的情報の宝庫だからだ。エモーショナルになっている場合ではないはずだ。
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新聞記者時代にえた財産 2 

2006年03月11日 00時39分32秒 | Weblog
私が27才のころといえば、写真製版の工場勤務を終えて3年目。警察担当記者であった。それでなおかつ地元の在日朝鮮人の歴史を連載し、また当時産声をあげていた夜間中学増設運動の取材に追われていた。このブログで「新聞記者時代に学んだこと」の別の側面、記事におえる第3者性につい深く学んだ時代でもある。

 なぜ在日朝鮮人のテーマに取組み、また非識字運動にひかれたのか。私の生育過程と深くかかわる。私にとって在日朝鮮人問題は自身の出会いを再現し再生することほかならなかった。再生の営みとは歪さを克服する過程であり、再現は以前の私から多くの知識をえて像として刻まれる在日朝鮮人像の再現にほかならなかった。

 非識字問題は自身のパニック障害との葛藤、学歴差別ということがら以上の関心点以外を思い出せない。

 30年をへて思うのは、なお残ったのは何かなのか。それは上澄みをすくうなら間違う。湖底に沈む深層にまでたどり着かねばならない。

 実に抽象的にいえば近代の検証であるが、実はなお変わらぬ横たわるものこそ私個人という体験をへてたどりつく普遍的なものなのだ。それはより強固に築かれた保守的なものというべきか。

 まだ独身である時代と、30年へてそうではない今、もうそろそろ具体的に突き進まないと、苦労をかけて迷惑かけた代償を支払えない。

 しかし10日夜に出会った27歳の記者は、はりきり、謙虚だった。


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