ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

「こんばんわ」を交わす世界

2007年04月22日 01時19分46秒 | Weblog
21日は4・3事件の集会が大阪の生野区であり、懇親会後に友人に会うため猪飼野周辺を歩いていた。すると……。

「こんばんわ」

ついぞ聞かない言葉だ。

「いまの子はおはようございます」を言わないということで、お歴々が小言を若者に向かってよく言うようだが、ところが「こんばんわ」を言わないから世も末とは言わない。そうした小言を聞いたことはない。

しかし「こんばんわ」ほど大事な言葉はない。逆説的に聞こえるかもしれないが、別に言わずともいいからだ。別にそういう言葉を出さなくても通り過ぎることができる。それがわざわざ言うのだから、相当お互いが知り合いであり、認め合わないと言えない言葉とも言える。

しかし私が団地に住んでいて、この言葉を交わした記憶がない。階段が違えば、誰が住んでいるかわからないし、家路に急ぐ人をわざわざ「呼び止める」言葉をかけずとも生活でトラブルにもならないし、暗闇に消える人はその人の生活があるのだから、つまりいろいろ事情があるから、言葉も交わさずともいいと判断してしまう。

「おはようございます」とは大分違うのが「こんばんわ」。「おはようございます」はこれから仕事にでかけようとするから、条件は多くは同じだ。フラットな状態で挨拶が出る。

ところが「こんばんわ」はそうではなくなる。というより、夜は個人的なうごめきの場となっており(よりプラベート面が強く)、そこで公的な挨拶である「こんばんわ」がわれわれの生活から消えていったのではないか。

それが猪飼野で聞いたのだ。驚いた。ここには公的空間が息づいていると。

それと不思議と省略語がないのだ。「おはようございます」は「おはよう」があるが、「こんばんわ」は「こんばん」ではダメだ。より私的言語の慎(つつし)みを迫る。公的な確認が強いし、その空間がある。公的空間とは共に生きているという自覚だ。

町では今日も人々は沈黙ですれ違い、闇に消えていく。

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