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あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

アア伝統の松竹映画市川昆監督の「映画俳優」を観る

2007-08-14 09:45:59 | Weblog


降っても照っても第44回

午後からはまたしても紺碧海岸に遊泳し、夕べには古式豊かに御霊の迎え火を執り行ったのであるが、夜寝かれぬままに新藤兼人原作、市川昆監督、吉永小百合主演の「映画俳優」という映画を観るともなく見ていて、成程これは名優田中絹代と溝口健二監督を題材にしたお話であるかと分かったけれど、永遠の大根役者である吉永小百合や溝口を演じるガッツ菅原文太や脇役の森光子、石坂浩二、渡辺徹などが陸続と登場して松竹と日本映画の黄金時代のなつかしき思い出を川の流れのようにとうとうと描き流すその手法はさながら蒲田時代を扱った山田洋次の「キネマの天地」を再現するようなクソリアリズムの再現であり、そういえばこの映画にも生真面目な中井貴一が出演しており、一般的に生真面目が悪いというのではないけれど、日本映画の大道がいぜんとして事実を事実としてありのままに描くことであり、映画製作のありようと観衆への感興伝達の手法としてはそれしかないと頭から決め込んでしまうやり口、猫の本質を描くには猫を映し出しさえsればよいとする手法にはは最初から限界があって、そのことは本作で最後に取り上げられている溝口の「西鶴一代女」の感動的なシーンの再現においても変わることがなく、しかしそこはそれさすがに才人市川昆だけにワンカット、ワンカットの緊張に富んだ日本的「間」を演出することに力を尽くし、最後の最後の突然のカットアウトにおいて全編のクソリアリズムが一種の象徴に化すという離れ業を試み、在来の凡庸なる邦画監督とは鋭い一線を画して只者にあらざる片鱗を示したが時既に遅く、田中vs溝口の男と女のドラマツルギーのつばぜり合いの愛欲と争闘の本質にはたったの一指も触れることなく全編は唐突に終了したのであった。

映画俳優」を観る
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カトリック雪ノ下教会

2007-08-13 12:09:10 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語71回

私の家はキリスト教の新教、いわゆるプロテスタントであった。幼い頃はまじめに日曜学校に通って、ルター以来のピューリタンでストイックな精神に多少の影響を受けたと思う。

そのピューリタンでストイックなところは教会の簡素な造作に現れており、やたら装飾的なカトリックと違って祭壇のしつらえが簡素である点を私なりに評価していた。カトリックの礼拝に出たことはないが、女性がヴェールをかぶったり、キリストの母親を聖母マリアと称してむやみに崇め奉ることに対する抵抗はいまでもある。

生母を聖母と聖別するのは勝手だが、私は処女だのに懐胎した妻に対する自他の疑惑や不審の念にじっと耐え、キリストの生誕を男らしく受け止めた父ヨセフのほうによっぽど共感でしたし、いまもそうである。

などと、結局は無神論者の私が、神をも恐れぬ暴言を吐いてしまったが、このカトリック雪ノ下教会は1958年(昭和33年)に「絶えざるお助けの聖母」を記念して建造された鎌倉最大の教会である。

そして聖堂外側正面の壁画は、この聖母のモザイク画をフューチャーしているのだが、この金色の装飾が私にはなぜかサラセン(イスラム)風に見えてしまうのであった。

この教会の突き当りの左側には、桃山・江戸初期の鎌倉の殉教者を悼む展示がある。いつか紹介する機会があるかもしれないが北鎌倉の光照寺は時宗遊行寺派の寺であるが、山門の欄間には隠れキリシタンゆかりのクルス紋が掲げてある。

おそらくこの光照寺や極楽寺に潜んでいた初期基督者たちが摘発され極刑に処せられたのであろう。
私はこの恐ろしい拷問の図を眺めながら、到底信仰者にはなれないと改めて悟ったのであった。
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旧安保小児科医院

2007-08-12 10:36:21 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語70回

鎌倉には景観重要建築物が28箇所あるが、そのひとつが平成7年まで小児科病院だったこの建物である。

この病院は夏目漱石が亡くなった翌年の1917年(大正6年)に小町で開業したが、関東大震災で倒壊し、この四つ角の地で再建された。御成通りのシンボル的な存在である。

この建物の特徴は3方に設けられた切妻屋根とハーフテンバー様式の壁である。
建物内部は開業当時の医院の姿がそのまま残っており、特に天井のウサギとニンジン、診察室の鶴の漆喰細工は子供の患者に対する医師の優しい心根をあらわしているようだ。

ちなみに御成町、御成通りという名前は1899年(明治32年)に明治天皇が皇女のために建てたご用邸に由来している。天皇や皇族が御成りになったことから「御成町」の町名がつき、商店街も「御成通り商店街」と呼ばれるようになった。

以上、大半を鎌倉シルバーボランティアガイド協会資料から引用しました。

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花火と海水浴

2007-08-11 12:37:22 | Weblog


♪バガテルop25

昨日は恒例の鎌倉花火大会だった。車で駅前まで送ってもらい長男と裁判所前の低い塀に腰掛けてしばらく見物してから豊嶋屋の前の臨時バス停まで歩き、八景行きに乗って帰宅した。今年はあまり観客が多くないのがとても良かった。

一の鳥居と二の鳥居、それに八幡宮前の三の鳥居下が絶好の見物場所である。なぜだか花火はうまく写真写らなかった。

そして今朝は6時半(家人は6時)に起きて、お茶だけ飲んで葉山に行き、7時から芝崎の海にぷかぷか浮かんで9時に駐車場を出発、逗子と材木座と由比ガ浜の海岸沿いに走ってさきほど10時に帰宅した。

つまり海でおむすびを食べにいったわけ。

今日はものすごい干潮で、岩場には魚やカイやウニがたくさんいたが、ここは海洋資源を保護しているのでそれらをみだりに獲ってはいけません。

空青く、海青く、心まできよらかに洗われる楽しい海水浴であった。

♪この夏はウニを獲らずに帰りけり

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網野善彦著作集第13巻「中世都市論」を読む

2007-08-10 13:41:46 | Weblog


降っても照っても第43回

毎日暑い日が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
私の家は冬は隙間風が入って寒いけれど、夏は極めて快適そのもの。エアコンなど1台もないのに、このおんぼろ木造モルタルには冷風がびゅんびゅん吹き込んで、セミたちがが盛夏のオペラを朗々と歌い上げています。

さて閑話休題。

2004年2月27日に惜しまれつつ76歳で亡くなった偉大な歴史家、網野善彦の著作集が、遂に岩波書店から刊行されはじめた。

氏はどんな短い文章にも深く刻まれているそのおおらかな人柄とゆたかなヴィジョンで私たちを力強く抱擁し、見知らぬ未来に向かって羽ばたく力を与えてくれるけざやかな師表のひとつであった。
ついこの間の石井進もそうであったが、わが歴史学会は才能豊かなエースを立て続けに失ってしまった。されど人は死しても著作は残る。せめて遺された全18巻を心ゆくまで味読したいものである。

さて第1回配本は「中世都市論」であるが、読んでわくわくするような論文がたくさん並んでいる。
二番目に置かれた論文「中世都市論」は1976年の初出であるが、この論考はその後の著者の代表作「無縁・公界・楽」を生み出した淵源をなしている労作で読み応えがある。

「公界」とはもともと中国の禅に由来する言葉で、俗縁を断ち切って修行する場をさしていたらしい。それが戦国期の日本で独特な意味を持つようになり、「無縁」と同様既存の権力によるイエ的、私的支配、保護、扶持等の縁と無関係な場や状態を表すようになった。

例えば能楽者や遍歴する陰陽師たちは「公界衆、公界者」と呼ばれ、河原、大道、道路などは「公界」であるがゆえに耕作、売買してはならなかった。「楽」も公界も同義である。

堺、桑名、大湊などと同様、わたしんチの近所の相模の國の江ノ島は室町時代には「公界所」と呼ばれる一種の「自由都市」「アジール」であったが、著者は「楽津」「楽市」「公界」の3点セットこそ戦国期、日本中世の自治都市のキーワードであると主張する。

また巻末におかれた「都市の起源」は静岡県磐田市における一の谷遺跡(結局破壊された)にかかわる講演であるが、まず律令国家の成立にとって重要な役割を果たした国府の置かれた場所が、太古の原日本人にとって「聖なる土地」に置かれていたことを指摘している。恐らくこの指摘が著者の甥である中沢新一による一連の「地霊考古学論考」を生み出したのではないだろうか。

さらに著者は河原、中洲、浦、浜、山の根、境、峠など、聖なる世界と俗界の境界に都市と墓地が派生したと説く。そういえばわが鎌倉は町全体が墓場である。聖なる地に墓ができるのは当然のことだが、ではその同じ地にどうして市が立つのだろう? 

交易するためには物が物として流通する場が必要である。そこでおのずから「市」という場所が必要になってくる。ところが前述したように、当時の人々は河原や中洲は世俗を離れた神仏の支配する聖なる場所と考えていたので、この特別な場に入った人も物も人と人とが濃厚に結びつかないで「さらさらと」ニルアドミラルに交換できる。
交換、交易はそういう物と人とが切れる状態=「無縁」という条件、があってはじめて可能になった、と著者は勝俣鎮夫の見解を紹介しながら説明する。

このようにして神仏と世俗の境界には墓と市が立ち、そこにはさらに津や泊のような港ができ、宿も、関もでき、神社や寺院も建てられる。
そして聖なる市には聖別された人々、たとえば「道々の輩」と呼ばれた芸能民や手工業者、商人、漁労民、廻船など農業以外の生業にかかわる職能民が次々に各地からやってきて徒党を組むようになり、これら無名の民草が、神や天皇に直属し、律令社会の権力者からある程度自立した「神人」や「供御人」となっていわば聖別された特権を与えられるようになったのだが、これこそが中世日本における自治都市の起源であると著者はいう。

実際あの千利休の経済的基盤は、阪和近辺の漁港からの収益であり、その権益があればこそ利休は秀吉の横暴と戦うこともできたのである。(とこれは著者ではなく小生の想像です)

よく知られているように、ヨーロッパの自治都市では(マックス・ウエバーが「プロテスタンチシズムの倫理と資本主義の精神」などで説いたように)、金融・商業・職人制度手工業、さらには初期資本主義の発展をキリスト教が支えた。
わが国の場合にも古くは比叡山延暦寺、時代が下がると鎌倉新仏教がこの自治都市を強力に支援し、真宗、一向宗は寺や道場自体を聖なる都市として囲い込み、世俗の権力者にたいする武装蜂起と下からの革命を実行するに至るのである。

しかしこのようにして列島各地で確立された自由な自治都市郡は、14世紀の南北朝の動乱と織豊政権の成立によって古代の神仏の後ろ盾を喪失し、「道々の輩」たちはその政治的・経済的実権を失っていく。

信長や秀吉や家康は一向宗のみならず禅宗もキリスト教も徹底的に弾圧し、宗教をほとんど絶滅させた段階で江戸幕府が成立した。このように古い神仏の権威が崩壊し、新宗教がすべて殲滅されていく段階で、かつてトレンディな都会人として尊崇されていた、、遊女、傀儡をはじめとする「神人」や「寄人」「供御人」に対する社会全体の蔑視が固定化されるようになり、ここに現代の被差別の淵源があると著者は指摘するのである。

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四方竹

2007-08-09 13:19:09 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語69回

ここは朝比奈の切り通しの入り口である。

右側に高台があって最近まで土建屋が不法に占拠し、石材置き場に使用していたが、市民と市の勧告に従って更地に戻した。それがもしかすると私が平成十三年に意を決して行った市長への陳情の成果だとしたらとてもうれしい。

さてここは、梶原景時によって将棋の最中に討たれた平広常の邸宅跡と伝えられる。

広常は頼朝騎下最大の兵力を誇ったが、その幕府帰参の時期が遅れたことと、その傲慢な態度が頼朝周辺の忌諱に触れて景時に暗殺されたのである。

広常の墓は古来2箇所あるといわれてきたが、その1箇所は杳として知れない。私はもうひとつの場所に心当たりがあるが、それも私の死と共に地上から葬られることになるだろう。歴史上の人物の伝承などまことに儚いものである。

写真はその広常を悼む鎌倉名代の四方竹の群生地。その直下に太刀洗の泉水が流れる。
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青山真治の「サッド・ヴァケイション」を観る

2007-08-08 10:13:24 | Weblog


降っても照っても第42回

30度を超える猛暑の中、私は街頭で死すとも可也の悲壮な決意で東京まで出撃し、青山真治という人の「サッド・ヴァケイション」という映画の最終試写を見た。

この映画は北九州を舞台にした北九州語による北九州映画である。最近奈良での介護をフォーカスした映画がカンヌで栄冠を獲得したように、個別を深くうがつことこそが世界の普遍の地平にいたることを、このクレバーな監督は熟知しているのである。

最近の日本映画が、たとえ地方を主要な舞台としながらも、そのほとんどが本質的に「東京的映画」であることを思えば、このローカルに徹した環境設定が、冒頭に出てくる中国人密入国事件とそれが引き起こす多彩なエピソードを含めて、この映画の独自性を生み出していると思った。

次にキャメラの視点がかなりドキュメンタリー的であることも、この映画の特徴である。とりわけ冒頭の夜の密輸船のざらざらした触感と恣意的なヴィジュアル処理は映画的であるよりはテレビ的で、こういうキャメラで全編を統一していたら、という望蜀の嘆もないではない。

第3に、この映画のプロットは、かなりめちゃめちゃである。未見の観客のためにここで詳しくは書けないが、片腕のない暴力団員が出所後に6人を殺して自殺した男とか、その暴力団員が自殺したからといって、その暴力団員の知的障碍を持つ妹と共に10年間逃走する男(じつはこれが本作品の主人公)とか、バスジャック事件の生き残り家出少女とか、いろいろな訳と陰のある男女が次々に登場し、突然恋をしたり、突然殺人を犯してしまったりする。まるで荒唐無稽である。

しかし作者は(監督、脚本も青山)プロット自体はどうでもよく、そんな荒唐無稽の物語の奥底に流れている現代人の孤独と漂流感覚そのものを慈しみをもってワンカット、ワンカットなめるように描き出そうとしている。

このような手法は、かつてJ.L.ゴダールがもっと徹底的に、もっと即興的に、もっとクールに敢行したものであるが、青山はその道をふたたび歩もうとはしない。その反対に、人生の行き場を失った人たちのために、なんとなんと、新しい家族やアジア的共同体への夢やあこがれを、それがシャボン玉のような幻想であると知りつつ、確信犯的な希望をもって提示するのである。

私は「悲しい休暇」という題名の二時間を超える長大な映画を観ながら、青山真治は武者小路実篤の「新しき村」を、映画で実行しようとしていると思った。

最後に余事を3つ。

その1
この映画は、浅野忠信、石田エリ、宮崎あおい、板谷由香、中村嘉葎雄、オダギリジョーなどの豪華キャストが綺羅星?の如く出演し、それぞれ好演しているが、全員が無名の新人であったほうが原作の趣旨がもっと生きたであろう。

その2
この映画は冒頭のクレジットが、海外受けを狙ったのか日本語でなくなぜか英字の崩した手書きで出るので大変見にくかった。ただしその英語がKINNOSUKE NATUMEではなく、NATUME  KINNOSUKEという順番で正しく並べてあったことに感心した。
御一新以来長い歳月が経ったのに、いまなお盲目的に西欧人の真似をして、パスポートに姓と名をさかしまに書いたりして平気な人は、どこかでアジア人としての自分を見失っている。そういう意味ではあの夏目漱石でさえ文明開化に毒されていた。

その3
これは映画とまったく関係がない感想。昨日私(たち)は、12時30分の試写の開始をきっかり5分間待たされた。試写関係者が超大物映画評論家?のOすぎ氏の到着を待っていたためである。こうした例はときどき他の試写会でも起こるが、たとえ5分間とはいえOすぎひとりのために(その理由も知らされずに)じっと我慢して待っていた数十名の小物評論家?の迷惑も考えてほしいものだ。
5分間待ってもらったお陰でOすぎは大いに助かったわけだが、同じ5分間の遅れで次の試写や新幹線に間に合わなくなった人もいたかもしれない。天才と凡人双方の利害を悪平等的に調和させるには、定時に開始するに限るのである。

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島田雅彦著「カオスの娘」を読む

2007-08-07 08:56:16 | Weblog


降っても照っても第41回

島田雅彦はルックスも良いけれど、頭もとても良い作家なのでいろいろ考えた作品を書く。多彩な現代社会を切り取る多彩なアプローチってやつだが、それがうまくいった例はあまりない。

本作ではいま最新流行のスピリチュアル世界に侵入し、オカルト探偵ナルヒトという雅彦ちゃんを思わせる魅力的なキャラを創造することに成功した。

これに対するヒロインはわが鎌倉の女子高生、亜里沙だ。この美人で清楚で無辜の主人公が父親の因果が子に報いるというかたちで国際的な陰謀に巻きこまれ、拉致、監禁、暴行、強姦、陵辱の地獄に突き落とされてゆくあたりのサドマゾポルノチックな描写は、さすがに巧いものである。

オカルト探偵ナルヒトの生い立ちや祖母との魂の交流、そして平成きっての霊能者に育っていくあたりの描写もなかなか面白い。

しかしながらこの宿命の二人を結びつける雅彦似の反体制大学教授サナダが登場し、余命いくばくもない死病に冒されたサナダが若い殺人者亜里沙の敵に復讐し、彼女の未来を救おうと決死的テロルに乗り出すあたりから、この愛と政治の大乱脈物語はまるでおもちゃの人形劇のように漫画的となり、ついには自公連立政権の愚かな紅い絆のようにびりびりに引き裂かれていき、肝心要の物語の土台自体がかのミネアポリスの虚橋のようにがたがたに崩れ落ちていく。

はじめは処女の如く、終わりは狸と狐が沈没するタイタニックの甲板上で狂ったように走り回る、という哀れな結末とはなりにけり。

なお美輪明宏という気色の悪い人が、訳の分からない賛辞を書いているが、著者にはかえって迷惑ではないだろうか。やめてけれ。

されど、好漢島田雅彦選手の大いなる実験的精神には、絶大な拍手を贈ろうではないか。
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音楽鑑賞メディアは進化したのか?

2007-08-06 14:39:34 | Weblog


♪音楽千夜一夜第24回

世間ではCDが売れなくなり、その代わりにi-tuneなどネットで音楽ソフトを買い、それをi-podなどで聴くというスタイルが主流になったそうでまことに慶賀に耐えない。

しかしmp3などの圧縮法を経由した音楽の音質はかなりひどいもので、私にはまだ昔のウークマンのほうが良い音であったように聞こえる。いまどきの若い人たちは元のソースの情報がかなり薄められた状態の音楽を、なにも弁別できずによろこんで耳にしているのではないだろうか?

げんに私は先日ロンドンで始まった07年PROMSのライブ録音を連日英国BBCのRADIO3で愛聴しているが、ヤマハの三万円のスピーカーを通して聴いてもこれは到底音楽といえるような代物ではない。

たとえば、リヒテルが弾くバッハの「平均律」を聴いてみよう。すると明らかにCDよりはカセット、カセットよりはLPで聴く同一音源の演奏のほうが、音楽的により豊富な情報と情念に満たされているように思える。
そしてもしかすると、そのLPよりも最高級セットで鑑賞するSPレコードのほうがさらに優れた音質かもしれない。


「昔のほうが良かった」というのはかつては年寄りの世迷言であったが、今では年寄り以外の人々もひそかにそう考えており、クラシック音楽の再生音についてもその例外ではないのではなかろうか?

そうしてみると、世の中も、人間も、退化こそすれ、進歩などはないとさえ思えてくる。



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鎌倉ちょっと不思議な物語68回

2007-08-05 13:15:11 | Weblog


ハリス記念鎌倉教会

鎌倉駅の東口を出て右折し、海に向かってどんどん歩く。下馬四つ角を過ぎた右側のちょっと凹んだところに、ゴシック調の美しいこの教会が建っている。市の指定景観重要建築物である。

創建は1897年(明治30年)、当初は木造の聖堂であったが、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊し、現在の聖堂が再建された。

名称の「ハリス」はアメリカのプロテスタント派の宣教師メリマン・ハリス氏の名前にちなんでいるそうで、ハリス氏は隣にある付属幼稚園の設立にも尽力したそうである。

建物の最大の特徴は正面のトレーサリーという装飾を伴った大きな尖塔アーチ窓など初期のゴシック風スタイルにある。

礼拝堂に入ると祭壇上部のステンドグラスが十字架を浮かび上がらせている。家具や調度品のほとんどが創設当時のものだが入口に傍にあるオルガンは比較的最近のものである。(以上鎌倉市シルバーボランティアガイド協会資料による)
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由比ガ浜にて

2007-08-04 12:03:43 | Weblog


♪バガテルop24

 今年2度目の海水浴に行ってきました。

少ない海水浴客を呼び込もうと懸命に声を張り上げる海の家のアルバイトさん、小さなボートに三人の子供を乗せて波打ち際で遊ばせるお父さん、強い風から幼い妹を守るために両手で抱いてやるこれも幼い兄……、風を一杯にはらんで猛烈な勢いで沖を快走するウインドサーフアー……今日も由比ガ浜の海はさまざまな夏の情景が繰り広げられています。

しかし台風5号の影響で海は荒れ模様。監視所がオープンする午前9時と同時に遊泳中止になってしまいました。

天候不順な日に鎌倉・逗子近辺で海水浴する場合は、逗子海岸がお薦めです。ここはまるで湖のような内海なので材木座や由比ガ浜などが遊泳禁止でも大丈夫な場合があります。

現に今日も材木座や由比ガ浜が遊泳禁止なにの遊泳注意の黄色い旗が翻っていました。私たち3人は1時間足らず海岸にいて、おむすびを食べ、逗子池田通りのお気に入りの八百屋さん「うらら」でスイカを買って、いま帰宅したところです。

♪ウララ、ウララ、ウラウララア……
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山吹の里

2007-08-03 13:27:11 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第18回

いづれの御時にか、私は早稲田の裏の裏にある都電に乗って飛鳥山の麓にある滝野川までの存外に長い時間を行き来していた。

その途中には大塚や巣鴨や雑司が谷の墓地などもあったが、帝都の北の滝野川一帯はごちゃごちゃした庶民の町であった。

私が下宿していた家には外語大や東大やその他の学生が地道な学生生活を営んでおり、自堕落に生きているのは私くらいのものだった。この下宿には大家が大事にしているみなこさんという一人娘がいて、私らは毎晩みなこさんの容貌や人となりや彼女の将来の人生行路につい深夜まで大声で語らいあい、一家に迷惑をかけてばかりいた。

いちどそんな真面目と不真面目の学生こぞって近くのバー「黒猫」に行ったことがあるが、それが私の酒席初体験であった。こんな気色の悪い空間にうごめく醜悪な女どもと吐き気のするようなアルコールに、私は大人の世界の饐えた臭いを嗅いだようだが、そこへは二度と足を向けなかった。

週に1度くらいは学校に行ってもみたが格別の事件もなく、私はまたしても持病の原因不明の微熱に悩まされ、退屈きわまりない日常をもてあましていた。その数ヵ月後に熱にうかされたような突然のクー・デタが襲ってくるとは夢にも思わずに、倍賞千恵子の父親が運転するチンチン電車に揺られていたのである。

昨日紹介した亮朝院の北の、神田川にかかる面影橋のあたりは、太田道灌の「山吹の里」の伝説が残されている。
♪みのひとつだになきぞ悲しき、という例の歌だが、太田道灌も世間でちやほやされる割には悲惨な最期をとげたものだ、と思いつつ私は早稲田界隈にながの別れを告げた。


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亮朝院

2007-08-02 11:44:14 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第17回&勝手に建築観光24回

私は早稲田界隈から次第に遠ざかりつつある。
ここは最初に訪れた中原中也の愛の巣から遠からぬ距離にある亮朝院である。江戸時代には有名であったが、この節はほとんど知られていない日蓮宗の古刹である。

創建者の日暉上人は、身延山の奥の院にあたる七面山で荒行を修めた後、現在の戸山町付近に七面尊像をまつり、明暦元年(1655年)には将軍家の祈祷所となったが、寛文11年(1671年)、境内が尾張家の下屋敷となったため現在地に堂塔を移し、文化文政期には「江戸名所図会」に描かれているような大規模な寺となったという。

正面の七面堂は当時のもので、「高田の七面堂」や門の色から「赤門さん」とも呼ばれている。七面堂を護るようにして立つ『金剛力士像』一対(区指定文化財)は、宝暦2年(1752年)作の珍しい石造りで迫力がある。中也と泰子も一緒に眺めたかも知れぬ。

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坪内博士記念演劇博物館とシェークスピア

2007-08-01 09:48:26 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第16回&勝手に建築観光23回


私はずいぶん昔から、このあたりにちょっと気になる時代がかった建築物があることは知っていた。しかし実際にこの場所に足を運び、16世紀イギリスエリザベス朝時代の劇場「フォーチュン座」を模して今井兼次らにより設計されたこの素晴らしい博物館をとっくりと眺めたのははじめてだった。

この演劇博物館は、1928(昭和3)年10月、坪内逍遙博士が古稀の齢(70歳)に達し、その半生を傾倒した「シェークスピヤ全集」全40巻の翻訳が完成したのを記念して、各界有志の協賛により設立されたらしい。

正面舞台にある張り出しは舞台になっており、入り口はその左右にあり、図書閲覧室は楽屋、舞台を囲むようにある両翼は桟敷席になり、建物前の広場は一般席となる。坪内逍遙の発案で、このように演劇博物館の建物自体がひとつの劇場資料となっているということもはじめて知った。

中に入ると床・壁・天井の古い木目がしっとりして好ましく、アールデコ風のランプの照明も胸に迫って懐かしい。館内には小ぶりの演劇図書館もあり、古今東西の演劇関係の展示が所狭しと並べてあり、「古川ロッパとレビュー時代」や佐藤信の黒テントの回顧展、それに坪内逍遙の遺品なども展示してあった。

また入り口に向かって左手には坪内逍遙の銅像の下に
むかしひと こえもほからにたくうちて とかしし於もわみえきたるかも
という八艸道人の歌が刻まれていた。

その坪内逍遙のシェークスピア全集(第三書館から全37作の戯曲を1冊に収めた日英対訳版『ザ・シェークスピア』がたった4200円で出ている!)ほど私を楽しませてくれた翻訳はない。木下、福田、本多、小津、小田島、松岡と数多くの現代語訳が出版されているが、私がいちばん気に入っているのがこの逍遙版である。

最近の翻訳はやたら現代人に媚びるような言い回しをひねり回して巧妙である。しかしその言語生命は手垢にまみれ、すでに壊疽している、死んでいるのである。

ところが当時弟子筋の二葉亭四迷と共に近代のコンテンポラリージャパニーズを国民的に創生中であった逍遥は、その生命力みなぎる黎明期の手作りの言語を実験的に駆使しつつ、史上最大の戯曲家の世界を私たちに口述する。

さうして、その呪術的な言葉の混沌の中から立ち上がる沙翁のブッキッシュな語りが、私たちの疲弊した耳目になんと新鮮に響き渡ることだろう。

例えばあの有名はハムレットの独白、To be,or not to be, that is the questionがある日本人によってわが国ではじめて、「アリマス、アリマセン、アレハナンデスカ」(素晴らしい超訳!)と翻訳されたのは1874年(明治七年)のことである。(「ワーグマン日本素描集」岩波文庫70p)

 1933年、この古今の名文句を逍遥は、
「あるべきか、あるべきでないか、それは疑問だ」 
と訳した。そして私はこの二つの翻訳こそが沙翁の原義にもっとも近しい日本語ではないかと考えるのである。

ところがその同じ逍遥が1949年には、これを
「長らうべきか、死すべきか、それは疑問だ」
という日本語に置き換えた瞬間に、この俗耳になじみやすい現代風の訳語が、
「生か、死か、それが疑問だ」(福田恆存1955年)
「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」(松岡和子2001年)
 などの妙に分かった風の一義的なフレーズに「回収!」され、同時に創世記時代の日本語の創造的混沌も完全に閉塞していったのである。

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