あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

谷崎潤一郎著「谷崎潤一郎全集第9巻」を読んで

2017-03-22 11:15:24 | Weblog


照る日曇る日第956回

谷崎といえば「細雪」と「源氏」の翻訳と相場を決めつけるのでなくて、本巻のような戯曲を読んでみると、その守備範囲の広さに驚かされることになる。

ここでは「愛すればこそ」「永遠の偶像」「彼女の夫」「或る調書の一節」「お国と五平」「愛なき人々」「本牧夜話」「白狐の湯」の8篇を取り上げているが、小説と同様の被虐趣味、愛の種々相、人間の悪魔性と天使性を、存分に味読堪能することが出来るだろう。

堕落した令嬢を死に物狂いで昆虫のように張りあう「愛すればこそ」や「永遠の偶像」の足フェチやマゾ男同士の意気投合も微笑ましい。

不良少女の食い物にされる悦楽を描破し尽くした「彼女の夫」、敵討ちと男女の愛欲が入り混じったモダンな時代劇の快作「お国と五平」、登場人物の大半が外国人という異色残酷物の「本牧夜話」、佐藤春夫への細君譲渡を思わせるの悲惨な結末こそは男女関係の悲愴の極まりと思える「愛なき人々」まで、いまどきのダルな芝居を吹き飛ばしてしまうような、異形のエロスと異様なエネルギーに圧倒される。

大正11(1922)年に執筆されたこれらの戯曲の多くは劇場で上演されたが、中には当局の忌避によって上演中止に追い込まれた作品もあることが、「「永遠の偶像」の上演禁止」などを読むと手に取るように分かる。

「お国と五平」を帝劇で上演した際に、警視庁の検閲係に多くの台詞を削られた谷崎は、「永遠の偶像」をなんとか無事に上演しようと眦を決して、検閲係の林警部、その上司、さらにその上司の保安部長の笹井幸一郎と何度も談判するのだが、部長から「あの脚本は面白くないからお止しになったらどうですか。法律上から禁止する程度のものでもないが」と言われて動揺する。

ネックになっているのは「僕はお前の体ならどんな細かい部分だって眼を瞑っててもハッキリと想い出せるんだ」とか「男って者は年を取ると猶しつっこくなるんだよ」とかの細部であり、それこそ法律上から禁止する程度のものでは断じてない。

けれども最後、「私には禁止する権限はない。警視総監に持って行かねばならない。しかし私の諫告(かんこく)に応じなければその手続きをする」と言われた作家は、要するにこれは字句の修正などの問題ではなく、当局は最初から上演禁止の方針なのだと悟って、「それじゃあいっそ禁止命令を出して下さい」とこの時点でケツを捲ったのである。

小説では出版を許した原作が、芝居になるというので差し止めるのは不可解であるが、要するに検閲の許可も不許可も、官憲の胸先三寸というのが当時の実態であったこと、そして軟体動物のように優柔不断と思われた谷崎が、あにはからんや国家権力と体を張って対峙したことが、この体験記を読めばよく分かる。

ちなみにあの第一次大本襲撃事件は、まさにこの文章が書かれた大正11年の前年に勃発し、3年後の大正14年には治安維持法が制定されている。

おりしも安倍蚤糞内閣が「共謀罪」法案を国会に上程をしようとしている春の朝、この作家の勇猛果敢な「政治的」闘争から学ぶべきことは少なくないだろう。


   生きること働くことと食べること愛し愛され死んでいくこと 蝶人

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする