株式投資と邪馬台国女王、卑弥呼

"卑弥呼"と"株"。株は49年,古事記は30余年で、邪馬台国=北四国の独自見解です。

宇摩説の状況(裏話)8 宇摩説の始まり5 太鼓台の創始と目的、不思議な出会い

2008-03-19 00:04:58 | 古代史・古事記講座(宇摩説)

  宇摩説の始まり5 青年時代の話(伝承)

 終戦から、1年余り後に小学校に入学した私の時代は、まだ、戦前社会の行事などが、先輩達の経験によって、語り継がれる状況であった。だから、私の年代は、先輩が戦前の行事、伝承を正確に伝えたものが多い。

 先輩の話では、ドンド焼き、虫送りなどの行事の他に、子供達だけが数日籠る行事もあったという。その家は、櫓を組んで、夏に櫓の上で数日の間寝起きする。この時に、古くから言い伝えられた話があり、これを継承していたようだ。

 私が物心つくころには、この籠りは無くなっていたので、そこで伝えられた話をまとめて聞いたわけではない。これまで書いたように、生活の中で、残っていたものを聞いたのだ。今、私の聞いた話を残さないと、消えてしまう話である。

  宇摩の伝承6(鳥は町の様子を報告)

 学校では、「迷信」だと、教えられたから、次第に消えていった。しかし、子供の頃に聞いた話は忘れられないもので、時折、今でも、子供が、「鳥は山に帰って町の様子を報告する」などと言うことがある。

 これは、鳥が山に帰る姿を見て、お爺さんが思い出して孫に言ったものだろう。この「鳥が報告する」と言うのは、先に書いたが、「鳥」が、高天原と国々を繋いだ連絡員だと判るまでは、何の事か判らない伝承である。

 この伝承は、何時ものように、私の背後で子供だ言った。右側を駆け抜けた子供に、「何を報告するのか」と聞いたら、「町の様子だ」という。不思議な話に興味を持った私は、幾つか質問したが内容は、ほとんど忘れてしまった。

 この伝承は、今から十年程度前になるが、私の記憶では、一番新しい伝承の採集であった。そして、この伝承が、古事記の、「鳥」を、解明する鍵となった。自費出版の後だから、著書には出てない。

 このように、宇摩の伝承は、古事記を解き鍵になるのである。

  宇摩の伝承7(太鼓台の四本柱と製作者、目的)

 太鼓台の伝承を知ったのは、先の団長が突然辞任すると言うハプニングで私に舞い込んだ、青年団団長の時だった。それまで、地域の学校と違う学校に通学していたこともあって地域の太鼓台にも近付かないでいた。

 しかし、団長は、地域の太鼓台の組み立てに顔を出すべきだと、何度か忠告されて、それもそうだと、「太鼓倉」に赴いたら、櫓の部分は、出来上がっていた。何から手を出せばよいのか判らず、最上段に積まれた布団を見上げていた。

 中では、「団長が着てくれた」と、ひそひそ声が声が行き交っていたが、ほとんど、話したことの無い人々で、倉の中に入るのを戸惑ってしまった。実を言えば、町の青年団長だから、町で出る数台の組み立てにも行くのが本当だろう。

 しかし、家に近い所でこの調子だから、他の地域に言っても尚更借りてきた猫に寝ることが見えているので、小屋の前に組まれた木製の太鼓台を見上げて居た。

 この時、久しぶりに、またも、背後から、声がかかった。3~4歳上のM先輩だったと思うが、違う気もする。M先輩は私より背が低いが、話した人は高かった記憶があるからだ。もう、50年近くも前の話だから、人物の記憶は薄らいでいる。

 後ろで、「太鼓台の四本の柱は、東西南北の日本を現している」と、言う。なるほどと聞いていると、私の右側に来て、太鼓台の説明を始めた。私は見ていただけで、特別聞いたわけではない。

 続けて、「太鼓台は、女神が国を固めるために作って全国に旅立った」と、居のである。この時は若くて、古代の事をほとんど知らなかったから、「国を固める?」と直ぐに聞き返した。

 彼は、直ぐに、「そうだ、国固めに使われた」と、淀みが無い。そこで、「日本を固めるような偉い女神は、何処に住んでいたのか?」と、質問した。彼が聞いていた伝承に女神の居住地は無かったらしい。

 少し、戸惑ったが、「あの辺だ」と指差したのは、法皇山脈の中腹であった。「タイコバイ」と呼ばれる、太鼓台の補修や新調のために育成されている山林がある。この地域であったと記憶する。

 なお、この詳細な説明は誰に聞いたのかと聞いた時に、「太鼓倉の天井に隠されていた文書で知った」と、目の前の倉を指差したのである。それもあったのだろうが、伝承もあったのだろう。

 これも不思議な経過であった。四月に団長を決める時は、数人従えて取巻きを総動員して、半ば強引に団長になったのに、8月頃に急遽辞退して、後釜にたわしを推薦しておいたと言うのである。

 こうして、いつの間にか団長になった。そして、数人の助言で太鼓台の組み立てを見に行って、そこで、太鼓台の起源や、目的、製作者を聞いたのである。もちろん、団長はその半年余りだけだった。

 この一連の流れを思い出すと、これも何者かによって仕組まれたように思えるし、何時ものように、背後で話が始まり、右側の来て説明するという、何時ものパターンである。不思議という他は無い。

 実は、この太鼓台の伝承に関連するものが他にも残っていた。これは、上に書いた時と10数年も後に知ることになった。

 なお、全国で布団を載せる太鼓台がある地域は、奈良県から長崎県まで広がっているが、創始や目的が伝わる地域は無い。全国的に謎の山車なのだが、全国で唯一、宇摩郡の中心部に位置する地域に残っていた。

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