株式投資と邪馬台国女王、卑弥呼

"卑弥呼"と"株"。株は49年,古事記は30余年で、邪馬台国=北四国の独自見解です。

日本人の知るべき事(20) 日本社会のルールー「和」の起源

2007-08-05 00:42:14 | 古代史・古事記講座(宇摩説)

  日本社会のルールと、起源について、

 日本社会には、日本人の常識というルールがあります。
このルールは、「和」の考えが基本にあります。
日本人の全てが、多かれ少なかれ、「和」の心を持っています。

 「和」は、日本独自で、日本の文化、日本人のルールなのです

 この「和」の社会は、聖徳太子が、「和を持って尊しなす」と、17条の憲法に書いた(決めた)からだと、歴史では教えられます。しかし、宇摩説では、卑弥呼の時代が、「和」の国だったと解いています

 憲法に書いたら、全国民がこれを読み、納得して、和の社会になるでしょうか憲法・法律に決めれば(書けば)、全ての親がそれを知り、「すばらしい」、「子供に役立つ」からと、子供に教えるでしょうか?

 古代にどれだけに親が憲法を知っていたでしょう?子供への教えは、親が納得しないと、伝えません。「和」というルールを、国民全員が納得して、子孫に引き継ぐのは、自然発生や、法律とは関係ありません。

 個人主義と違って、「和の社会」は全員が納得して、出来る事で、簡単ことではありません。全員が、「和」の思想が無いと成り立たないからです。親が良いと思うには、長年月間、根気良く人々を導いた、高天原の神々の功績によるのです。

 周囲に気を使う「和の心」は、2000年近くも、日本人に受け継がれています。どうして、こんなに長く、こんなに広く、子供達に教え継承してきたのでしょう。

 先に書いた新渡戸稲造は、西洋人に、宗教が無く、社会ルールが無いのに、日本社会の秩序が好いのは何故かを聞かれて、『武士道』の本を書き、欧米でベストセラーになった話を書きました。

 わたしは、これも、武士道ではない。武士でない人々にも同様の思考があり、これは、卑弥呼時代にあった、「和」の継承だと説明した。この日本独自の「和」の思考は、茶道、華道、舞など(他にも多い)の、芸術を生んだ。

 何故か?、理由は簡単だ、「和」を基礎にした認識、他人へのモテナシ(喜ばせたが生んだ芸術である。モテナシを究極に求めた結果、これを昇華させて、芸術になったのだ。つまり、日本文化の元には、「和」の心がある。

 「和」から生まれた例を挙げると、切りが無い。とにかく、日本は古代から、「和」の心が生み出した文化である。だから、世界の科学者が、「人を喜ばせる心」、これを感得して、日本人や文化を礼賛をするのだ。

 古くは、中国に伝わる、「東海の礼節の国」、「東海の不老長寿国」、と、残っている。まさに、日本は古代中国の夢の理想国家であった。また、「ジパングは黄金の国」と、洋の東西を問わず、時代を問わず、日本は憧れの国だ。

 黄金の国は、「和」が無縁だと思うかもしれない。しかし、これも、「和」の心が働いた結果である。つまり、黄金の引き伸ばし、つまり、箔のに技術が生んだ黄金の家なのだ。技術は「和」の「人を喜ばせる」思想から生まれる。

 皇太子の結婚に,加賀のメーカー(?)が、「黄金の箪笥」を、申し出たが、天皇家は辞退した。これは、日本人が、黄金より、技術を重んじる思考があるからだ。黄金は誰もが手にするとは限らないが、技術は誰でも習得できる。

 この技術の発展を高天原の政策として、「」を、最重要点にした。これは、卑弥呼(天照大神)の時代にあった。卑弥呼の社会は、身分に捉われない実力主義であった。これは、これまでに古事記などから、明かにしている。

 実力主義とは、一つの技術を競うのではない。本当の国民を巻き込んだ実力主義の社会を作るには、社会に必要な、時には不要と思えるものも含めて、国民全員で、人に合った技術を高める必要がある

 単に力が強いだけでも、高天原では重用した。後の記録にある、「力女」、「力士」も、これに励んでいれば、高天原から誘われたのだ。これを詳しき書くと、それだけで、2~3のブログになるので、簡略化する。

 機械が発達した今でも、力のある人重宝である。まして、古代では尚更だ。この人達は、力仕事や、力士、芝居、高天原の力仕事の他、国々との「和解」の交渉や、縁結びにも活躍した。

 つまり、話し合って、相手の意向も汲み取って、なお、最後の踏ん切りが着かない時に、高天原は、スポーツの勝ち負けで決着を図った。弓矢の的当て、相撲、綱引きなど、この勝負で、恨みの残らぬように決着したのだ

 和の社会を作ると言うことは、恨みを買っては出来ない。如何に、相手を知り、譲歩しあうか、この交渉が大切であり、これは、「大国主の国譲り」にも、その例を見ることが出来る(これも、先に説明済み)。

 大国主は、自分の子供(養子を含む)の承諾と、高天原に、天津神と同等の家屋を要求した。高御産巣日神は、これに、今後の生活も考えた、田畑、船も加えている。この上に隠居仕事を与えて、生きがいも与えている。

 これだけの高天原の譲歩があって、「和社会」が作られたのだ。このことは、記紀に詳しいので明確に、説明できるし、先に(「古事記編)説明している。これらの政策があって、和の国になり、人々は高天原を信頼する。

 このような、ことが、天照大神(卑弥呼)の時代にあった。なお、天照大神は、もっと前の、遠い昔と思っている人が居るが、天照大神の父、イザナギは、天津神から、「天沼鉾(あまのぬぼこ)」を、渡されて天降る。

 他にも、鏡や剣が出てくる。これは、国産化されたのは、弥生中期であり、西暦前後である。卑弥呼は、200年頃の人物であり、イザナギと共に、一人とは限らない。つまり、天照大神は、弥生以前には遡らないのだ

 今日はこの辺で終わることにしよう。明日は、戦後の日本を少し欠いておこうと思う。なお、卑弥呼の時代の社会については、イザのサイトの古事記編に書いている。また、倭人伝の解釈にもある。

 卑弥呼の社会として、まとまってないから、見落とした人が多いようだが、卑弥呼を慕う人々など、あちらこちらにこの社会を書いているので、太鼓台の解明などと共に、卑弥呼の生活を、見直して欲しい。

 いずれは、「太鼓台の起源」(卑弥呼の戦略?仮題)を出す時には、卑弥呼の社会を、纏め直したいと思っている。

 なお、各地で自分の様々な能力を鍛え、技術向上に励んだ人々を、高天原が、どのように知留事になったかも、書いているのだが、次回にもう一度書くことにしよう。思い出すにヒントは、これが、「鳥さん」の役目の一つだった。

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