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邪馬台国関連のYouTube動画が数多く出てきますので、気づいたところでコメントしています。今回の動画はかなり人気の羽賀ヒカルさんの神社チャンネルです。刮目天の読者の皆様はまたか!と飽きられているかも知れませんが、広報が大事だと思いますので、ご興味のあるご友人・知人に拙ブログをぜひご紹介ください。よろしくお願いいたします。よろしければ、またおつきあいください(;^ω^)
多くの皆さんはほとんど気づいていませんが、魏志倭人伝は政治的に作られた文書だったので、書かれたことがすべて事実ではありません(詳細は「権力者の歴史書は政治文書だよ!」「あ、「躓き石先生」どうもありがとうございます!」参照)。
ですから事実(考古学などの成果)に基づかない文献からの想像は科学的ではないので、空想・妄想のレベルなのですよ。
三世紀初頭に突然造成された纏向遺跡はヤマト王権が始まった重要な遺跡であるのは間違いないですが、卑弥呼が纏向遺跡に居た痕跡がありません。箸墓も四世紀築造のもので卑弥呼の墓ではありません。
纏向遺跡の外来土器に倭国の玄関口の糸島市伊都国を含めて九州やその周辺(中国西部・四国西部)の土器がないことから分かります。210年頃築造された纏向遺跡の最初の前方後円墳石塚古墳で重要な祭祀が行われているにもかかわらず、これらの地域の人々が参加していないので、纏向遺跡の勢力の傘下ではなかったことが分かるのです。さらにこれらの地域以外の東海・山陰・北陸・畿内の人々、しかも首長レベルが集まっているのですから、北部九州の倭国と纏向遺跡の勢力は敵対していたと分かります。四国東部(讃岐・阿波)や紀州の人々は最初は纏向遺跡に出かけていましたが、三世紀半ばには来ていませんので、交易が盛んにおこなわれるようになった倭国側についたと考えられます。
魏志倭人伝には邪馬台国の南に、女王に敵対する狗奴国の官狗古智卑狗が居たと記されているので、狗奴国は熊本県菊池市辺りにあったと想像する人が多いですが、これは倭国大乱期(二世紀末ころ)のことで、三世紀初頭の卑弥呼の登場によって倭国大乱が収束すると菊池の勢力も倭国の傘下になったということなのです。
247年の卑弥呼の死の直前には狗奴国との紛争があったと記されているので、以上のことから狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコの誤記)の王都は纏向遺跡にあったと分かります(詳細は「狗奴国の場所から邪馬台国が分かる!」参照)。
これらのことは弥生後期後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて倭国大乱の痕跡が北部九州にあった倭国の領域と狗奴国側の山鹿市方保田東原遺跡などで発見されています。この遺跡には山陰や畿内の外来土器が見られますので狗奴国側の兵士が集まっていたと分かります。詳しくは「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」をご参照ください。
(今年の夏行ってきました(;^ω^)、クリックでGoogleMapにジャンプします)
このような科学的な手法によって邪馬台国の場所も日本最大の直径約150mの円墳である卑弥呼の墓「三柱山古墳」も発見し、さらにはヤマト王権の成立過程も解明していますので、詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」などをご参照ください。失礼しました(#^.^#)
【古代史問題の科学的解決手法】
【刮目天の古代史】古代史を推理する
邪馬台国探究のための哲学と方法は?(その1) (その2)
鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有
このページからMyMapにジャンプできますので、お楽しみください(#^.^#)
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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247年の卑弥呼の死の直前には狗奴国との紛争があったと記されているので、以上のことから狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコの誤記)の王都は纏向遺跡にあったと分かります(詳細は「狗奴国の場所から邪馬台国が分かる!」参照)。
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